確かに、現代の経済は、「お金」に、支配されている。しかし、「お金」が全てだと言い切れるだろうか。
経済というのは、生きるための活動を言う。つまり、生きる事が目的なのである。
「お金」は、生きるために必要な物を手に入れるための手段である。目的ではない。
現代の「お金」は、紙幣が中心である。その紙幣の歴史はたかだか百五十年足らず。
あることが当たり前な円も、1871年(明治4年)に明治政府は新貨条例を制定し、貨幣の基本単位に円を用いることを決定したことから始まっている。
100年後の1971年、現在の貨幣制度は、ニクソンショックによって金本位制が、瓦解し、1973年、変動相場制に移行した事からははじまったといていい。
現代の「お金」の歴史なんてその程度の歴史しかない。言い換えれば、何が起こってもおかしくないのである。
1923年にドイツで空前のハイパーインフレーションが 、起こったと言っても、たかだか百年前の出来事に過ぎない。
現在の貨幣価値は、国家が作り出した価値である。 人工的価値である。
貨幣は自然界に存在するものではない。自然に生(な)る物でもない。
国が必要に応じて作り出したものである。
貨幣そのものに実体的価値があるわけではなく。
貨幣価値は、名目的価値である。
所詮、「お金」は、人間が生み出したものに過ぎない。自分が生み出した、幻影に、振り回されているだけである。
ただ、欲望を抑えきれなくなると「お金」に囚われてしまうのである。
我々に求められているのは、「お金」を正しく活用する事である。「お金」を正しく活用できないと、人は「お金」に支配される。
今は生きるために金儲けをする。だから、金儲けする事は恥じることはない。ただ、金儲けのために魂を売ったら話は別だ。
なぜなら、魂を売ったら生きられなくなるからだ。
孤独になると人は、自分のよって立つところを求める。なぜ。なぜ、何のために。誰のためにと。
自己存在の根源を求める。なぜなら、人は、間接的認識対象だからである。
自己存在の存在意義の根源を求めるなら、普遍的な存在。自己を超越した存在であるべきである。
会社や家族といたものに求めても、会社は辞めてしまえば、失われるし。家族も崩壊する事がある。
だから、多くの人は、神や国と言った普遍的なものに救いを求める。
「お金」は、普遍的なものではない。心の支えにならない。「お金」に救いを求めても虚しい。
経済は生きるための活動である。
自然状態で、動物が生きるための活動は、食料を得ること、テリトリーを守ること、繁殖の三つである。
これが経済にの基本である。
現代社会で生活を成り立たせるためには、個人的には、生きていく為に必要な財を市場から購入できるだけの収入を絶えず維持していく事。社会全体では、全ての人が、生きていく為に必要な(必要とする財を、必要とする人に、必要とする時に、必要なだけ)資源を適切に分配する事を意味する。
一人の所得で何人を養わなければならないのか。また、所得は、どのよう分散し、そのような偏りがあるか。それが経済を考える時の課題である。
つまり、所得と物価と家計の関係が根本となる。
経済は生きるための活動であるから、その対極にあるのは死。
即ち、飢餓、災い、外敵であり。根本は食料の確保と外敵から身を守ること、そして、子孫を残す事。
経済の第一は、国民の生命・財産を保障し、子孫の繁栄をはかる事にある。
経済の働きは、前提条件が変われば、変化する。相対的な事である。
個々の部分の適合性にっよて全体は形作られていく。適合性は、部分の均衡と全体の均衡を保つように制御されている。
部分と全体地の整合性が失われると、経済は制御不能に陥る。
経済には、階層的場がある。例えば、フローとストックが作り出す場である。
おくって 「お金」の問題ではなく日本人は、物質的には恵まれた生活をおくっているのか。その点を検証する必要がある。
物質的なに不自由のない生活を送っているかは、家計調査を見ればわかる。
私が明らかにしたいのは、
物や人には物理的な制約があるが、「お金」は、物理的な制約がない。
それでも、金本位制度の時は、金と結び付けられることで物理的制約があたが、菅為替制度になってからは、物理的な制約がなくなった。
現代の経済は、生産と分配、消費の三つの局面から成り立っている。
分配は、生産活動に対する働きに応じって「お金」分配し、生活に必要な資源を市場から獲得するという二段階で行われる。
重要なのは、市場経済が成り立つためには、すべての消費者に、必要なだけのお金が配布されていなければいなければならない。
現在の経済の仕組みは、「お金」を還流する過程で、生活に必要な財を、消費者、全てに分配する仕組みなのである。
財を生産し、消費者に配分する、そのためには、まず、「お金」を、すべての国民に、あまねく、いきわたらせておく必要がある。
どの様にして、どのような基準で、「お金」を分配するか。それが、現代経済の一番の課題である。
近代の経済体制の基礎を形成する要素は、
是非はともかく、近代経済の成立に戦争や、軍の近代化は、避けて通れない事実である。
太平洋戦争後の日本人は、戦争や軍事を他所事、他人事のように目を逸らしてきた。
しかし、先に挙げた七つの事全てに、軍事は関わっている。
例えば、軍事の組織化によって一定の割合の賃金労働者を創出した事が、近代の貨幣制度や雇用制度、税制の礎となったのは紛れもない事実である。
物納から金納への転換する事で、紙幣の信任を確立し、貨幣制度の基盤を構築すると同時に、政府と家計との資金の還流を生み出した。
戦争と国債は切っても切れない関係にある。
国家財政は、軍事によて育まれ、そして、危機に堕ちいった。
軍と税は、現代経済の基礎を構築した。この事は、軍事や税が経済に深く関わる契機ともなっている。
アメリカ独立戦争やフランス革命の例を引くまでもなく税の改革が、革命や内乱の引き金を引く事は、歴史的な事実である。
軍事や、税制を確立する過程で戸籍等の社会のインフラストラクチャーも形成されていったのである。
これらの事は否定する事もできないし、否定するわけにもいかない。
近代経済は、どっぷりと戦争に嵌り込んでいるもである。
この事実から、目を逸らしたら、近代経済の本質も見えてこないし。恒久的な平和も築けないのである。
近代経済は、戦争の上に築かれているのである。
経済学は、近代以前の医学や漢方のように思えてならない。
経済も病気にかかる事が時々ある。経済の病気を癒すためには、経済の仕組みを明らかにする必要がある。
対処療法的なやり方では、一時的に快方に向かっても、根治させる事は難しい。
「お金」の流れだけ見ていれば、経済の実態が見えるというのは、漢方的な発想である。
経済の仕組みを、よく理解しなければ、経済の病気の病巣を、明らかにすることはできない。
近代の異常ともいえる経済成長の裏には、エネルギー革命が隠されている事を見落としてはならない。
その担い手は、電気と石油、ガスである。
産業革命と言ってもむしろ、電気、石油、石炭、ガスの裏付けがあったから、急速に拡大したのであって。
単に技術革新だけで成し遂げられたわけではない。
まず、この点が鍵である。
経済を単に貨幣的現象ととらえるのではなく。
経済の働きが経済に仕組みに及ぼす影響という観点からとらえることも意義がある。
なぜ、経済を分析するのか。それは、経済の消長を見極め。景気や、物価を予測して、市場を制御する事にある。
それを知るためには、何が、経済変動の要因かを明らかにするのが第一歩である。
景気の変動を見極めるのなら。物価に影響を与える要因はなにか。所得は、何によて動くかを明らかにする必要がある。
景気の変動は、物価と所得に集約されるからである。
国民経済計算では、経済の成果は、付加価値として測られる。
要は付加価値をなによって生み出されるかである。
経済とは、人が生きていくための活動を言う。すなわち、経済の仕組みとは、人々の日々の生活を成り立たせている仕組みである。
経済の仕組みは分配を目的としている。
つまり、経済の仕組みは、生産と消費を均衡させる事を目的としている。生産と消費を媒介する手段が貨幣である。
生産と消費を均衡させる仕組みは、国内の均衡と対外的均衡の二つの部分からなる。
資金の働きには、長期的働きをする部のと短期的働きをする部分のがある。
長期的働き、短期的働き、いずれも均衡させる必要がある。
長期的資金は、貸借を通じて、支払いを準備すると同時に、生産手段や経済基盤(インフラストラクチャー)を形成する。
短期的資金は、損益取引を通じて市場に資金を流通させ、分配を実現する。
長期的資金はストックを、短期的資金は、フローを構成する。
ストックは一方的に拡大し続けているのに対し、フローは一定の幅、範囲内で増大と縮小を繰り返している。
経済の目的は、人々が生きていく上に必要な物を生産し、必要としている人に、必要な時に、必要なだけ分配する事である。
経済の仕組みは、経済を実現する為の手段である。
つまり、生きていくために必要な物を生産し、全ての人に、生きていく為に必要な物を配分するのが、必要最低限の必要要件である。
生きていく為に必要な要件には、どのような事があるか。
まず、第一に、飲食である。人間は、生き物である。食料と水が、なければ生きていけない。経済の第一の目的は、食べ物と水の確保である。
第二に、外敵から、身を守る事である。生存闘争は、本能である。弱肉強食は、自然界の掟。野生状態では、一瞬でも油断すると捕食されてしまう。
第三に、環境の変化から身を守る事である。
経済の仕組みは、この三点を、核にして形成されていく。翻って言えば、この三つが経済の肝なのである。
消費に合わせて生産を調整する。 いかに、生産と消費を釣り合わせるか。それが、経済の仕組みの第一義の目的である。
「お金」は、生産と消費を結びつけるための手段に過ぎない。
経済の基本は、人である。この点を間違ってはいけない。
この点を見まちがうと、生産効率を高める為に、人の生活を犠牲にするなどという事が、起こるのである。
経済の究極的な、目的は、人を生かす事。人々の日々の営み、生活を成り立たせることである。
「お金」を儲けたり、事業をするのは、副次的な事に過ぎない。経済の、中核は、人々を生かす事にある。その延長線上に、人々を豊かにすることがある。
経済の仕組みは、人々の生活を成り立たせる事を最終的の目的としている。
その上で、経済の仕組みを動かしているのは、「お金」の循環だという認識しておく必要がある。
重要なのは、すべての消費者に、必要なだけのお金が配布されていなければいなければならない。
全ての人が自分の力で所得を獲得できるわけでない。
そこで、人口構成が鍵となる。
経済の根本は、人である。故に、経済の仕組み(経済体制)の根本は、人々の生活を成り立たせることである。
人が生きていくためには、食事を切らすことはできない。
つまり、人は、食料と水を継続的に消費し続ける。経済の仕組みは、絶え間なく、一定量の食料と水を補給し続けることが求められる。
これが、経済の仕組みの目的の第一義なのである。
経済の仕組みの目的は、人々の生活を成り立たせる。国民の生命と財産を守る事である。
経済の最小単位は、個人である。
個人は、生産者であり、消費者であり、分配者である。
個人が、生産、分配、消費を一体的に兼ねることで、生産と分配、消費、そして、人、物、金、各々独立した場を関連付けることが可能となる。
個人は、一人ひとりは違う。また、個人、一人ひとりには差がある。
すなわち、個人は個性的存在である。
個人の働きは、主体的に表れる。主体とは、そのもの自体が持つ固有の働きである。
第一に、個人は、消費主体である。個人は、最終消費者である。
第二に、個人は、生産主体である。個人は、働き手である。
第三に、個人は、分配主体である。個人は、所得を得ることで、分配の権利を獲得する。
個人は、集まって集団、組織、機関といった、経済要素、経済主体を形成する。
集団、組織、機関は、一つの主体として力を発揮する。
経済の仕組みは、主体間の「お金」の出・入りの力によって動いている。
経済活動は、単独ではできない。必ず、相手がいる相対(あいたい)行為である。
任意の主体の収入は、必ず、他の主体の支出となり、 任意の主体の支出は、必ず、他の主体の収入となる。
故に、主体間の取引の総和は、常にゼロに均衡する。
経済関係は、鏡像関係、対象関係が成り立っている。
経済主体は、働きによって、生産主体、分配主体、消費主体、金融主体、公的主体、海外主体に分類される。
個人は、局面によっていくつかの主体に属する事で効用を発揮する。
生産量、消費量、人口、所得、物価、通貨量、税金、これらは無関係に成り立っているわけではない。
人を生かすために、物的な仕組みがあり。物を、必要としている部分に配分するために「お金」の構造がある。
物が肉体を構成している部分だとすると、「お金」は、血液なような物である。
血液を調べれば、ある程度は病気を知ることができる。しかし、血液が全てなのではない。
経済の病の原因を明らかにするためには、物的な仕組みや構造も、知る必要がある。
個人は、生産的活動を通じて「お金」を獲得し、生きていく為に必要な資源を市場から購入する。
この一連の活動によって「お金」を社会に還流している。
物は、実質的価値を形成し、「お金」は、名目的価値を形成する。
重要なのは、名目的価値と実質的価値が非対称だという点である。
名目的価値は、金融価値に転化し、実質的価値は、物質的価値に転化する。
名目的価値と実質的価値の非対称は、金融価値と物的価値の不均衡の原因となっている。
それは、総資産と総資本の関係に反映される。
現在の経済の仕組みは、生産、分配、消費の三つの局面に分割できる。
経済の仕組みは、生産と分配と消費を調和させることで成り立っている。
生産、分配、消費の局面を結び付けてているのは、「お金」である。
「お金」は、世の中を、循環する事で生産、分配、消費を関連づけているのである。
経済は、生きる事の活動で、最終的目的は、生活を成り立たせることにある。
生活というのは、消費である。つまり、経済の最終的到達点は、消費である。
単位消費量というのではなく、消費の質が問題なのである。
例えば、食べ物である。食べ物は、餌ではない。
量だけの問題ではない。まず、味である。見掛けも、最近では、健康。中国には古来、医食同源という言葉がある。美容も重要になったきた。
それに食べる場所である。誰が、調理するかも経済の問題。
根底にあるのは食欲である。
食べ物だけでなく。着る物も、住む家も質が重視されてきた。
事ほど、近年では、消費の質が経済を決するようになっていた。
この点が唯物論者や原理主義者との違いでもある。
豊かさとは何か。それは、消費の質を高める事を意味する。
人は、生活にゆとりができると、消費の質を高めたいという欲求が生じるのである。それが豊かさへの願望である。
自給自足を基礎とし時代は、生産、分配、消費は、未分化である。
分業が進化し、生産の場と消費の場が分裂するにしたがって分配の場が形成されたのである。
人間は、生きるためには、必要な物を生産し、消費しなければならない。
つまり、経済の基本は生産と消費である。
消費に合わせて生産を調整する。
いかに、生産と消費を釣り合わせるか。
それが、経済の仕組みの根本である。その根本を担っているのが分配の仕組みである。
生きるためには、生きていく上で最低限必要な資源を確保する事が最優先される。
故に、経済発展の初期の段階では、生産が重視される。
必要最低限の資源が保証されるようになると、消費の質が重視されるようになる。
注意しなければならないのは、必要最低限の定義が時代や環境によって変化するという点である。
食べるのがやっとという時代と、飽食と言われる時代とでは基準が変わってくる。
分配は、資本主義的手段だけではない。
資本主義では、分配は、基本的に、所得という形式で支払われる。所得以外には、給付という形式がある。給付というのは、年金や生活保護などの名目で労働などの対価、反対給付とは、関係なく一般政府などから支給される「お金」である。
今日、ベーシックインカムなど、対価性や反対給付とは、切り離して、「お金」を配布することも検討されているが、これは、生産と消費との関係を希薄にさせ、同時に「お金」の働きを変えてしまう危険性がある。
資本主義の体制そのものを変えること意味する。つまり、社会主義化である。
経済の最終の目標は、生活にある。生活は消費によて支えられ。消費は、市場経済では、支出によって実現する。
消費は、所得と物価、蓄えの関係で定まる。
蓄えには、正の蓄えと負の蓄えがある。
負の蓄えは、負債を指す。正の蓄えには名目的資産と物的資産がある。
ここで、注目すべきなのは、所得と消費の関係、言い換えると、所得と支出の関係が、余剰価値、つまり、ストックを恒常的に生み出しているという点である。もう一度強調しておくのは、「お金」は、分配の手段だという事である。
自然状態では、水の確保と食べることが、第一義だった。
最初から、食料を生産したわけではない。原始時代は、食べ物は、自然に生る(なる)物をが主だった。
食料を生産するというのは、農耕や牧畜の技術が確立する過程で形成された。
最初は、生産と消費の場は一体だった。社会分業が進化する過程で、生産と消費が分裂し、それに伴って、分配の場である市場が形成された。
現在の経済は、生産の場、分配の場、消費の場の三つの場からなると考えていい。
今日では、経済の仕組みの中核を担うのは、分配の仕組みだと言っていい。
分業は生産の局面だけにあるわけだはなく。分配の局面、消費の局面にもある。
分配は、第一段階として「お金」を働きに応じて組織的に分配する。
第二段階で、獲得した「お金」で必要な生産財を購入するという二段階で完了する。
第一段階で支払準備として配分される「お金」が、所得を形成する。
所得は、単に、配ればいいというわけではない。所得で問題となるのは、所得の幅、平均、分散、標準である。
それは、所得が、分配の手段だからである。
分配が問題となるのは、消費が、一定、固定的なのに対して、生産が、不確実、変動的だからである。
消費が一定、固定的であるのに対し、生産が、変動的であることにより、在庫、貯蔵が生まれる。
「お金」で言えば、支出が固定的なのに、収入が不確実。それが、フローとストックを成立させる一因となる。
経済は、産業と市場と生活の三つの局面の効率から捉える必要がある。
産業は、生産の場であり、市場は、分配の場であり、生活は、消費の場である。
経済は、生産と分配と消費の調和がとれた時、正常に機能する。
現在の経済は、生産効率に偏りすぎている。
経済の効率には、生産効率だけでなく、分配効率、消費効率があり。経済の効率は、生産効率だけで成り立っているわけではない。
生産効率も、単独で成り立っているわけではない。生産効率は、分配と消費との釣り合いの上に成り立っている。
生産効率、分配効率、消費効率を均衡させる事が重要なのである。
分配が成立するためには、最低限の収入が保証されている。常に必要なだけの「お金」が補給されている。
「お金」と人と物、各々総量の釣り合いが取れている事である。
生産効率、分配効率、消費効率の不均衡は、フローとストックの不均衡を生み出す。
大量生産、大量消費、大量廃棄が常態となった。壮大な無駄、非効率であることは明らかである。
経済主体は、各々の役割を果たすために経済的手段を構成する。
経済手段の私的所有権をどの程度、認めるかで経済体制は分かれる。
経済の仕組みを動かす動力がお金である。
経済手段とは、経済活動を実現するための手段、すなわち、道具や、装置、設備、仕組み、土地、構造物、建物、原材料、権利等を言う。
経済手段は、性格や役割に応じって働きに差がある。
生産主体と消費主体の関係が、経済に決定的な影響を及ぼす。
経済的手段には、生産手段、分配手段、消費手段がある。
経済手段の私的所有権をどの程度、認めるかで経済体制は分かれる。
経済活動は、経済手段に対する投資から始まる。
投資するためには、支払準備としての資金を用意する必要がある。つまり資金調達である。
資金調達の手段には、借入と資本的手段がある。資金調達は、金融手段を形成する。
借入金にも資本金にも負の働きがある事を留意しておく必要がある。
借入金は、借りた時点から、約定に従い一定の金額の返済(支出)が、義務づけられる。
借入金は名目的価値を構成する。
借入金は、固定的支出を前提としている。
借金の返済の原資を何に求めるかである。
借入金も資本金も収入だという点を忘れてわならない。
経済主体にとって収入を得る手段は、他に、収益的手段、所得、徴税的手段、金融的手段(金利)、配当がある。
つまり、借入金や、資本金を収益や所得、税に置き換えることで市場経済は成立していると言える。
借入金や、資本は、ストックを構成し、収益や所得、税、金利はフローを構成する。
「お金」は、「お金」単体では、成り立たない。「お金」の単位が指し示す対象と対になって貨幣価値を実体化する。
「お金」は、名目的価値を構成する。名目的価値は、債務(負債・資本)である。
資金を調達するためには、対となって債務を担保する対象を必要とする。債務と対になる対象は債権(資産)を構成する。
物のストックで重要な要素は、資産である。資産は、経済的手段である。
資産は、実質的価値を構成する。
貸借による資金の流れは、損益上には、計上されない。故に、貸借による資金の流れは、市場経済において補足されない。
名目的価値と実質的価値は、非対称であり。経済的手段(生産手段、分配手段、実質的手段)に名目的価値と実質的価値の二つの価値を形成する。
名目的価値と実質的価値は非対称だから、総資産と総資本との間に歪を生み、それが資本を形成する。
職場と住居が分裂する過程で市場が形成された。
職場は生産の場。住居は、生活、消費の場であり。市場は、分配の場である。
すなわち、職場と住居の分裂は、生産と消費と分配の場が独立し形成されることを意味する。
経済は、本来、生活の場、消費の場を設計するところから始まる。
生活の場から、分配の場を設計し。分配の場に基づいて、生産の場を構築する。
その証拠に、生産者は、全ての人口を意味しているのではないのに対し、消費者は、全ての人口を意味する。
本来、生活の場を土台として経済の仕組みは、構築されるべきなのである。
現代社会は、それが逆転している。つまり、生産から消費を規制している。必要な物を生産するのではなく。生産した物を消費するのである。
必要という概念が欠落している。欲しがるから作るのである。
分配の成否は、いかに効率よく「お金」を分配するかにかかっている。
生産量と消費量と結びついていない通貨は、効用を発揮しない。
市場経済では、価格の維持が要なので、廉価ではない。
現代経済の特徴は、大量生産、大量消費。何でも、過剰にしておけばいいという思想である。
これは思想である。故に、余剰、余剰。何もかも、余剰である。
適正な配分という考え方は、生まれてこない。あっても、一律に配分すればいいという事である。
一律、同等は平等ではない。なぜなら、前提となる条件が違うからである。
経済は、生産だけではない。むしろ、分配にこそ、経済の核心はある。
現代の経済は、生産のみにかたより、分配が軽んじられている可能性がある。しかし、経済を動かしているのは、分配の機能である場合が多い。
生産に偏るから、大量生産になり、生産に合わせて分配や、消費の体制が作られている。
それが、乱開発や無駄、飽食などの現象が、起こるのである。
分配の効率を考えずに、生産の効率ばかり計られるから、経済の本質が見失われる。経済の目的は人を生かす事にあるのに、生産の効率ばかり地球するから、人を殺してしまう。経済が原因で争いがおこり、戦争になる。
大きな倉庫のような店舗で働く人も少ない。確かに、それで、安い価格を実現できたとしても、町は、失業者に満ち、商品を買う「お金」もない非婚者ばかりになったら、何の意味もない。
豊かさとは、生活、消費の中に求めるべきであり。生産に求めるべきではない。豊かになるために働くのであって、いくらはたらいても豊かになれないのなら意味がない。ならば、豊かさとはないにか、それを、まず考えるべきなのである。
分配の役割は生産と消費を結びつける事。
分配は生産と消費を調節する。
働きを評価し、分配に結び付ける。
分配は、生産を促す。
分配は、生活(消費)を成り立たせる。
支払準備としての「お金」を満遍なく、必要なだけ、配布する事は、分配の前提となる。
分配は、「お金」を介して人と物とを結び付ける行為。
分配は、「お金」と物の流れを作る。
分敗は、「お金」を循環させる。
分配は、価値を形成する。
生産の場と消費の場が乖離するに伴って、分配の場として市場が形成される。
市場は、分配の手段の一部である。
市場の重要な働きの一つが生産と消費を結び付けている事である。
経済的な働きに応じて、所得を分配し、市場から財を購入する。
経済の仕組みは、「お金」を循環させることで、生活に必要な財を、生産、あるいは、調達し。消費者に、分配する機関といえる。
経済の仕組みは、「お金」が循環する事で成り立っている。
故に、どのような力や働き、仕組みにとって、「お金」は、循環しているかが、経済の仕組みの鍵を握っている。
経済は、何によって動かされいるかである。それを知る事は、経済を制御し、経済の目的を達成するための近道である。
経済を拡大するにせよ、縮小するにせよ、経済変動に影響するのは付加価値である。
付加価値の何が経済に影響を与えるのか、そこが肝心なのである。
付加価値は時間価値である。
付加価値には、所得、利益、金利、償却費、地代家賃等がある
経済を動かしているのは、差を是正しようとする力である。
差には、定量的な差と定性的な差がある。
何を基準となるかによって差の力は、違ってくる。基準は相対的である。早い話、経済的価値は、測る事でないたっており。測る事は、対象と対象を比較事だからである。
基準には、前年とか、平均とか、水準などがある。
差が意味を持たなくなると、差の力は、働かなくなる。
差は余剰を生む。生産から消費を引いた差、所得から支出を引いた差、総人口から生産年齢人口を引いた差。差が余剰となる。
余剰資金、余剰生産、余剰設備、余剰負債を派生させる。
差が表しているのは変化(時間)と形であり。
差は、力と方向を示している。つまり、差は、位置と運動と関係を明らかにするための鍵である。
変化は、時系列で表される。
形が、表すのは、対象の構成、構造、分布、分散、偏り、歪、密度などである。
経済は、突き詰めてみると、生産量と人口に行きつく。それを、つないでいるのが所得である。
働いて所得を得られる人口と生産された物を消費する人口は違う。この点が鍵なのである。
「お金」の流れを生むのは、「お金」の過不足と入出金である。
経済の働きは、増減、上下、入出、拡大縮小、過不足によって表される。
経済を動かす要因は、最終的には所得と支出、貯えに帰結する。
貯えには、正の貯えと負の貯えがある。貯えは、ストックを構成する。
貨幣的貯えは、金融資産を構成する。
市場を制御する為に重要な要因は、物価の動向である。
物価は、市場の需要と供給で決まる。需要は消費を根拠とする。供給は、生産を根拠とする。
物価は、所得、生産、通貨量の関係で決まる。
物価の基礎的要件は、人口と消費量であるが、人口と消費量は、戦争や災害の様なものがない限り、急速に変化するわけではない。それに対して、所得や生産、通貨量は、変動的だからである。
物価上昇の物的要因の一つが、供給制約である。
経済の歪は、どこに生じるか。その一つは、フローとストックの関係にある。
1980年から2020年までのデータを見ると、ストックは一方的に拡大し続けているのに対し、フローは一定の幅、範囲内で増大と縮小を繰り返している。この点が、重要な鍵を握っている。ストックとフローの関係は、時間とともに変質している事を伺わせいる。
フローとストックは、密接な関係があり、切り離して考えるべきではない。
フローの帳尻を合わせるために、ストックが見放されているようにも見える。
特に、コロナ対策では、目先の対策を優先する事で、国の負債を度外視して、バラマキ政策がとられている。
これなど、フローとストックの関係を切り離して考えている証拠である。
対処療法的な政策をとられている限り、抜本的な解決は望めない。
金利は、元本の部分と利息の部分からなり。利息は、元本に利率を掛けた積である。
元本は、負債(貸借)に計上され、利息は、費用(損益)に計上される。
負債はストックを構成し、利息は、フローとなる。
貸借は、資金移動を意味し、損益は、取引の実現、決済を意味する。
元本と利息部分は、切り離すことはできない。
重要なのは、フローとストックは根幹的な部分で結び知ており、相互に影響を及ぼしあっているという点である。
フローは、売り買いによって、ストックは、貸し借りによって形成される。売り買いは、「お金」だけで成立するわけではない。
売り買いは、物のフローやストックを生み出す。
分配の過程で、流れ(フロー)と貯蓄(ストック)が生じる。
経済を、動かすのは、人・物・金の持続的流れである。
持続的な流れを維持するためには、人・物・「お金」各々に適度なストックが必要となる。
今の経済は、バランスを欠いている。
今の経済が、正常に働くの阻害している要因は、
余剰成果物、余剰収入をどう分配するかが、すなわち、必要以上の余剰が問題なのである。必要以上の余剰は無駄である。
現代は、何でも余剰にすればいいと考える傾向がある。そのために、何でもかんでも過剰である。
バブルも、過剰投資、過剰負債、過剰雇用が原因とされる。要は、人・物・「お金」の過剰なのである。
過当競争になって経費が圧縮されれば、総所得が減少する。生産効率ばかり追求すると、分配効率が悪くなる。
大切なのは、生産効率と分配効率、消費効率。フローとストックのの近郊である。
売り買いがフローを貸し借りがストックを形成する。
売り買いは、取引を実現し、貸し借りは、取引を準備する。
損益上では、売り買いは、収益と費用として現れ。
貸し借りは、資産と負債、純資産を構成する。
売りは立場を裏返せば買いであり。買いは、売りである。
同様に、貸しを裏返せば、借りとなり、借りは貸しとなる。
売り買い、貸し借りは表裏の関係になるから。取引の総和はゼロとなる。
収支と残高の総和は、ゼロで均衡する。
つまり、部門間の過不足を合計するとゼロとなる。
経済主体は、「お金」の入りと出によて働く。すなわち、収入と支出によって経済主体は機能している。
収入の働きは、売りと借金、支出の働きは、買いと貸付金によって表される。
貸し借りで支払いを準備し、売り買いで働きを発揮する。
常に一定の支払いを準備しておく必要がある。
投資された資金は、収益によって回収する事で生産と消費の均衡を保つのが市場経済の原則である。
収益の中から借金の返済をするのが原則。収益によって社金の返済ができなくなると借金を重ねて返済資金を捻出する事になる。そうなると、負債の抑制ができなくなり。収益の働きが薄れ、費用対効果が測れなくなる。
市場が機能しなくなり、価格を調整できなくなる。
また、金利などのフローが圧迫され、時間価値が消滅する。
物は生産の側から、消費の側に流れる。
物のフローは物流として現れる。
物流を阻害する要因の一つに供給制約がある。
飢饉の要因の一つは物流にあったとされる。この問題は現代でも変わらない。生産量だけでなく、物流も経済を阻害する要因になる事に注意する必要がある。生産地の偏りは、事故や戦争、政治問題などを原因にして重大な経済不安を引き起こす事がある。
物のストックは、資産を形成する。
物的ストックは、生産と消費、需要と供給の時間的ズレが原因で起こる。
物のストックが形成される原因には。
お米などの収穫時期と消費時期にズレがある。特に、収穫時期には、季節性がある。季節変動を平準化する過程でお米の在庫(ストック)が生じる。
また、商品には、流行り廃りがあり売れ残り商品を生じさせる。売れ残りがストックの原因になる。
経済は、人を本としている。故に、フローとストックの根源も人である。
人の、欲求が、物と「お金」の流れを生むのである。
今日、人が自分の欲求を満たすためには、「お金」が必要である。
「お金」を売るためには、所得を得る必要がある。
働ける年齢に達し、働ける条件を満たしていても、仕事に就けないで、就労を準備している。失業中の人口は、人的ストックである。
人的ストックは、人口を基礎として形成される。
どのようにして、「お金」のストックは形成されるのか。
つまり、「お金」のストックが形成される要因は、ストックの働きの源となる「お金」の働きである。
ストックは、生産手段や消費手段、分配手段である。この様な、経済的手段は、物的、金銭的資産となる。
生産手段とは、生産設備や土地等、消費設備は、住宅や道路、土地等。分配手段は、債券や株、固定性預金などを言う。
ストックは、長期的資金の働きの根拠であり。長期的効用によって形成される。
ストックを構成する要素には、
支払いの準備することもストックを形成する。
需要と供給は一致しているわけではない。生産と消費も一体ではない。
過剰に生産されることもあるし、生産が需要に追いつかず、商品が不足する事もある。
生鮮食料品の収穫は、天候に左右されるし、季節変動もある。生活必需品は欠かすことができない。故に、いくばくかの在庫を抱えておく必要がある。
また、生産設備の働きは、長期なわたるのが一般である。このように効用が長期にわたって発揮される資産もストックとなる。
ストックを構成する要因の一つは、余剰。つまり、預金。もう一つは、借金である。
余剰は資産を形成し、借金は、負債と純資産を構成する。
製造設備などの生産手段や、住宅のような消費手段に対する投資もストックを形成する。
経済計算は、加法的減算主義に基づく残高主義で、経済計算は、残高を基礎とする。残高は、利益や支出を平準化しようとすることを旨とする。
また、不測の時に備えて、余剰を貯めようとする動機が生じる。
ストックは、余りと残高主義によって生じるともいえる。要するに、残高は、集積される傾向があるのである。
ストックは、「お金」が寝ていて、まったく動きがないと経済学ではとらえている。しかし、実際は表面に現れるフロー以上に激しい動きをしている。そして、注意すべきなのは、経済主体の生死を握っているのは、実は、このストックが起こす流れなのである。
フローの流れは、実体的取引を裏付けにしているが、ストックによる流れは、信用という名目的な働きを裏付けとしているからである。
現代経済が抱える不確実性は、主として、債務の無原則な拡大に起因している。
経済を構成する要素は、食べる事だけではない。外敵や環境の変化から身を守る事も、重要な働きである。
食以外の重要な要素である、衣と住を生み出すのである。
この様に、生きていく為に必要最低限の資源を確保する事が出来たら。次に求められるのは、自己実現の手段だある。
自己実現の手段は、文化を生み出す種となり。人間らしさを追求する事はとつながる。
外敵から身を守る事は、自然状態では、必然的な事である。
今の日本人は、自分の力で自分を守る事を、罪悪のように思い込んでいるが、自然状態では、小鳥だって、蝶のような虫ですら外敵から身を守る為に、いろいろと工夫している。自然状態は、自分の身を守れなければ、生きていく事はできないのである。
経済の一端は、常に、外敵から身を守ることに割かれている。
環境から身を守る事から、衣と住は、発展したと言える。
環境から身を守るというのは、生きていく上で絶対的な要素とは言えない。その証拠に、人間以外の動物は、衣服をまとているわけではないし。巣を持ったない動物も、多く見られる。
ただ、こと人間にとって衣服と住居は、生きるために欠くことのできない経済的要素の一つである。
衣食住は、経済の基礎となる。
個人は、集まって組織や機関を形成する。
近代経済は、国家を形成する過程で、生産、分配、消費等の局面で、働きに応じていくつかの部門を形成するようになる。
生産という局面において民間法人企業と家計。一般政府も生産主体ではあるが、営業余剰は存在しないとされる。
分配という局面で、非金融法人企業、家計、一般政府、金曜機関、海外部門、対家計民間非営利団体。
消費という局面で、家計と一般政府、金融機関、対家計民間非営利団体。
収入と支出は一体であり。市場の取引の総和は、ゼロに均衡する。この事を前提とすると、経済主体間の取引の総和もゼロになる。
消費主体である家計が、資金余剰主体となって、生産主体(主として非金融法人企業)が資金不足主体となることで、資金を循環させる。
なぜならば、営利団体である非金融法人企業は、収益の中から借入金の返済ができるからである。
収益によって、借入金の返済をすることで拡大再生産が図れる。
全体の均衡を保つ働きをする機関が金融と一般政府。金融が名目部分、般政府が実質部分の均衡を担っている。
お金は、代替(為替、手形)、交換(預り証、借用書)、不足の補填、信用、納税、支払いといった機能から発展し、それが価値の創造、決済、尺度、保存という働きに昇華した。
この点は、お金の働きを知るうえで重要な要素となる。
「お金」の働きや性格は、局面によって変わる。
第一に、「お金」は交換(購入、支払)の手段である。「お金」は、譲渡できる。「お金」は、物を購入する為の手段である。
第二に、「お金」は、生産(投資)の手段である。
第三に、「お金」は、分配の手段である。
第四に、「お金」は、支出(消費)の手段である。
第五に、「お金」は、貯蓄・価値保存(支払準備)の手段である。「お金」は、保有、所有できる。
第六に、「お金」は、決済の手段である。決済とは、取引を終了させることを意味する。
第七に、「お金」は、評価の手段である。「お金」は、働きを評価する手段である。
第八に、「お金」は、価値を測る手段(基準、尺度)である。
第九に、「お金」は、計算手段。
「お金」は、価値を数値化する働きがある。貨幣価値は、離散数であり。自然数である。
貨幣価値の計算は、加法的減産を基本とし、余り算を基本とし、残高主義である。
「お金」は、価値を一元化する働きがある。
第十に、「お金」は、貸し借りの手段である。
第十一に、「お金」は、匿名性がある。
「お金」は、拾っても、盗んでも、奪った金でも見分けはつかない。
「お金」は、匿名性をもつ。
第十二に、「お金」は、移動が可能だという事である。
現在の経済は、「お金」を社会に循環させることで成り立っている。
経済の仕組みは、「お金」を循環する事で、生産を促し、分配を実現させる。
故に、経済の仕組みの要は、「お金」を循環させることである。
いかにして。何によて、「お金」を循環させるのか。それを、解き明かすことが、経済を知ることにつながる。
「お金」は、循環することで力を発揮する。基本的に貨幣的現象は、回転運動である。
「お金」は、不可逆的に一方向に流れていては、効力を発揮する事はできない。
「お金」は、血液のように、社会をくまなく、絶え間なく、循環する事で、その力を発揮する。
「お金」が回らなくなったれば、経済は破綻するし。流れない部分が生じれば、その部分は、経済的に壊死する。
経済を維持するためには、「お金」を全体に、常に、満遍なく、循環させ続けなければならない。
「お金」を循環させるためには、「お金」の流れを作る必要がある。
この様な、体制を維持するためには、予め、全ての人に必要なだけの「お金」が満遍なくいきわたっていることが必要条件となる。
「お金」を循環させるうえで、税金の働きをどう考えるかが、重要な鍵となる。
経済の最終も目的は、消費にある。故に、買う事で経済は実現する。
経済の目的は、豊かな消費を実現する事で。そのために「お金」を稼いで、物を生産する。
金儲けは、手段であっても目的ではない。
そして、経済の主役は消費主体であるから。消費主体の支払いを準備する所得と消費支出が、肝心要となるのである。
分配は、経済的働きに応じて支払準備である「お金」を配り。
経済的働きによって得た報酬を支払て必要な資源を市場から調達するという二段階で実現する。
報酬は、生産活動に結びつくから意義がある。
また、労働は、生産活動と報酬を結びつけるから意味がある。
「お金」を配って、支払いを準備し、市場で、必要な物を買う。
「お金」は、支払いを準備し、効用を発揮する。
収益や貸し借り、税、所得、贈与は、支払いで準備し、買いで効用は発揮する。
支払いを準備する中で所得だけで費用に計上される。
市場取引は価格を構成する。価格は、需要と供給と通貨量によて定まる。
買いは、「お金」の効用、交換価値を発揮する。
収益や貸し借り、税、所得、贈与は、支払いで準備し、
売りとは、生産の促し、支払いを準備する。
借りは、支払いを準備し、債務と金利を生成する。貸しは、支払いを準備し、債権と金利を生成する。
債権と債務が「お金」を派生させるのか。「お金」の流れが債権と債務をうむのか。
債権と債務が「お金」を派生させるのか。「お金」の流れが債権と債務を生むのか。
「お金」の流れには、市場の表面で「お金」の効用を発揮させる流れと市場の水面下で支払いを準備する流れの、二つの流れがある。
損益上には、表面の流れしか補足できないが、現実には、水面下の流れを正しく補足していないと、「お金」の流れは、循環しなくなる。
「お金」の働きは、「お金」の出と入り、すなわち、入金と出金によって発揮される。
入金とは、収入を意味し、出金とは、支出を意味する。つまり、経済の仕組みは、収支によって動いっている。
この点を間違えてはいけない。損益は、「お金」の働きを示す指標であって、実際に、経済の仕組みを動かしている訳ではない。
実際に、経済を動かしているのは、現金収支である。
そして、注意しなければならないのは、損益は、現金収支の総ての流れを補足しているわけではないという点である。
「お金」は、経済を構成する要素を出たり、入ったりしながら、循環し、経済の仕組みを動かしている。
経済を構成する要素は、各々、「お金」を循環させるための役割がある。
「お金」の効力は、「お金」を使う事で発揮される。
「お金」は、使わないと役に立たない。「お金」は、使えばなくなる。
なくなるから、現金は、新たな入金がなければ、不足状態に落ちる。
この現金の過不足が、「お金」の流れを生み出すのである。
「お金」は、使われることで、なくなる。それ故に、「お金」は、絶え間なく補給され続けなければならない。
「お金」を補給、すなわち、得るための手段や、行為が、生産に結び付くことで生産が促され、経済の仕組みが活動するのである。
「お金」は、価値を一元化する。人や物の単位に、貨幣単位を掛け合わせる事と経済的価値は一元化される。
「お金」は、価値を数値化する。
貨幣制度が成立するための初期設定が必要となる。
いかに、紙幣の貨幣価値を国民に認めさせるかがカギとなる。
貨幣価値は、交換価値であり、紙幣そのものには実体がない。
紙幣を生成、供給し、回収と言う過程を経る事によって、市場に循環し始める。
経済的価値を数値化し、一元化する事で、経済的価値を演算化することができるようになる。
これが、「お金」の効用である。
労働と物の経済的価値を足したり、引いたり、比較したりすることが可能になる。
電気や通信といった目に見えない物の経済的価値を計測する事もできる。
今日、我々は、何の疑問も持たずに価格を計算しているのである。
現在の貨幣制度は、硬貨と紙幣から成り立っているが、市場経済の主たる働きを担っているのは、紙幣である。
ここでは、紙幣を基礎として以後論理を進める。
「お金」を機能させるための機構。
紙幣を生産するためには紙幣とは何かを明らかにする必要がある。
以上のような貨幣の特性が、紙幣を生産させる機構を制約する。
経済を主となって動かすのは、所得である。
所得は、収入の一種である。経済の働きは支出によって発揮される。
費用というのは突き詰めると人件費の塊である。つまり所得である。
例えば、光熱費は、電力会社やガス会社の売り上げであり。その中には人件費が含まれている。
電力会社の人件費を除いた経費も取引相手の売り上げで、同じように人件費がある。
そのようにして突き詰めると費用というのは人件費の塊なのである。そして、費用は所得である。
この点を間違うと、ただ費用は、削減すればいいと、錯覚するのである。
所得と支出の関係は、物価として現れる。
経済は、所得と物価、そして、貯えの関係に集約される。
貯えには、正と負があり、貯えは、ストックを形成する。
ストックは長期的資金の働きに還元される。
長期的資金は始終の裏で支払い準備として働く。
貯えは、経済手段に対する投資に還元される。
経済手段に対する投資は一方で収益を生み出し、もう片方で負債を生む。
また、負債は債権と債務を派生させる。
投資は、物的資産と金融資産を構成する。
資産には、家などの物的資産と、預金等の金融資産がある。
経済手段には、付加価値を生み出す生産手段と社会資本を構成する消費手段、支払いを準備する分配手段がある。
長期的資金の動きは、市場の裏で働き。表面に現れる景気に左右されない。
表面に現れる景気は短期的働きによって起こされるからである。
しかし、貸し借りは経済主体の死命を制する。
長期的資金は余剰資金から形成されている点に注目する必要がある。
担保するのは、将来の収益と含み益である。
市場が成熟すると収益が見込めなくなり、資産価値も伸びないと借金の返済に回す資金に滞る。
経費を削減し、過去の資産を食い潰すしかなくなる。
金利だけが問題なのではない。
市場の表面に現れない元本の返済が売買と同じくらい、場合のよってはそれ以上に経済に影響を及ぼしているのである。
一般に、負債というと金利ばかりが注目される傾向があるが、実際は損益上に現れない元本の返済が死命を制する。
市場の表面に現れる景気は短期的資金によって動かされ。
市場の裏で働く資金移動は、長期的資金によって動かされる。
長期的資金は余剰資金によって貯えられ、支払いを準備する。
家計は、所得、支出、貯え(蓄え)からなる。貯えは余剰資金である。
貯えは、金融資産と負債によって構成されている。
支出には、固定的な支出と変動的な支出からなる。
固定的支出は管理可能な支出と管理不能な支出がある。
所得では、可処分所得が鍵を握っている。
可処分所得とは総所得から管理不能な固定的支出を差し引いた値である。
所得の問題で見逃せられないのは、人口の問題です。
問題の根っこにあるのは、収入力がある人口とない人口が混在している点である。
これは、雇用問題であり、年齢構成の問題でもsる。
税を収める人口と収めない人口の人口構成は、生産と消費、所得の水準を考える上で鍵を握っている。
経済は、「お金」の出、入りで動いている。「お金」の出、入りには、どの様な働きがあるか。箇条書きにしたい。
「お金」の出、入りは、支出と収入、すなわち、収支を意味する。
「お金」の力によって経済の仕組みが動いている今日、収入と支出の構成が鍵となる。
家計の収入は、所得と借金と貯えの取り崩しであり、支出は、消費支出と借金の返済、貯金(保険を含む)、そして、税や社会保険等である。
民間企業は、売り上げによる収入と借入金と資産の処分による収入、資本。支出は、費用に関わる費用と借入金の返済、資産の購入、配当と税である。
問題は家計で言えば所得と消費支出の構成と関係である。
注目すべきことは、所得を獲得する人口と消費人口は一致してない、つまり、違うという事である。この点が重要なのである。
一人の所得で養う人の数が豊かさの基準となる。
消費高齢化が進むと消費人口、すなわち総人口にたいし生産労働人口が減少する。その分、実質的な所得が増えないと、一人当たりの消費に実質的な所得は減るのである。
生産性が上がらない限り、少子高齢化は実質的生活水準の低下を招く。
これは、貨幣経済の本質の一面を表している。
消費が所得を拡大し、所得が消費を制約する。
消費は価格の低下によて拡大し、所得は、収益の拡大によて増加する。
価格は、生産性の向上によって低下し。利益は、価格の上昇によって拡大する。
経済は、収入と支出、所得と消費支出、価格と生産性の均衡の上に成り立っている。
経済で重要なのは釣り合いであって、どちらか一方が良ければいいと言った短絡的の事はない。
例えば値段は安ければいいというわけではない。
要は、質と量と密度の関係である。
収支の働きを制約するのは時間である。
収支には、以下のような性格がある。
支出は、硬直的で固定的。
収入は、流動的で変動的。
ある部門、主体の収入は、他の部門、主体の支出であり。ある部門、主体の支出は、他の部門、主体の収入を意味する。
部門間、主体間の「お金」のやり取り、過不足をよくみる観察する事である。
注意すべきなのは、借入は、支出ではなく、収入だという点である。
借入金は、約定に従って、一定の返済、支出が義務付けられる。
返済は、フローを基礎にしてされる。
家計の主たる収入は、所得で、民間企業の収入源は、売上、金融機関は、金利差、一般政府は、税収。
家計と企業の負債は、借金で金融機関の負債は、預金、政府は国債。
収入で重要なのは、資金源。誰から、何を根拠として「お金」を受け取るかである。
注意すべきなのは、収入と収益とは違う。収入と所得とも違う。
収益は、売上である。しかし、売り上げに、必ず、現金収入が伴っているわけではない。また、収入の中には借入金によるものも含まれる。
収益は損益に基づく概念であるのに対して収支は入出金に基づき概念である。
所得とは何か。
所得というのは、収入を得るために必要とされた経費を差し引いた金額を言う。
要は、所得というのは、自分が、消費の為に必要な支出をいう。
特に、可処分所得が重要なのである。
所得は、購買力を決定づけるからである。
借金は悪いとか、返すとか、返さないとか。訳のわからない議論が横行している。
借金も収入を得るための手段に一つでである。いいとか、悪いとかを問題とする以前に、その働きに注目すべきなのである。
借金とは、支払い準備のための資金移動である。
市場取引は、対価、何らかの反対給付を前提として成り立っている。
市場取引は、単独ではなりたない。必ず、売り手と買い手が一対になって成り立っている。
故に、市場取引は売りと買いの均衡の上に成り立っている。それが、需要と供給の関係の下となっている。
収入の手段は、
注意して欲しいのは一部解釈の仕方によって重複する要素がある点である。
支出の働きで重要なのは、「お金」の使い道。何に対して、何を目的として「お金」を使うのかである。
例えば、生鮮食品のように生きていく為に不可欠な物に支出するのか、公共投資のような、社会資本に対する支出なのか、商品を製造するために必要な原材料に対する支出なのか。
使い道、対象によって支出の性格や働きは変わってくる。
支出は、
注意して欲しいのは一部解釈の仕方によって重複する要素がある点である。
「お金」の働きを計測する基準として、期間損益と現金主義がある。
期間損益に基づくのが非金融法人企業と金融機関である。
一般政府と家計は、現金主義である。
損益はお金の働き。実際に経済を動かしているのはお金の流れである。
期間損益は、複式簿記に基づいている。複式簿記は、借方と貸方によって構成されている。
借方は実物的流れ。貸方はお金の流れを 表している。
現在の経済で予算は、重要な働きをしている。
その割に予算の働きは軽視されている。
予算の働きを、経済の変動の一部に組み込んでいる経済学は少ない。
予算は、予測と予定(計画)の二面性がある。
つまり、収入を予測し、支出を計画、予定する。どちらに重点を置くかで予算の働きや性格、役割が違ってくる。
それは、支出は予定が立てやすいのに対して、収入は、予定が立てにくい事に起因する。
これは、経済の在り方を象徴している。
支出は、固定的で確実なのに対して、収入は変動的で、不確実である。
変動的で不確実な収入をいかに安定させるかが、支出を状況の変化にどのようにして適合させるか。それが、経済の第一の課題である。
日本の財政は、法で定められた予算に則って施行される。
ここでいう予算は、民間企業でいう予算と性格を異にする。財政予算は、単年度で均衡する事を原則とされ、しかも、法による制約を受ける。
財政の原則は以下のとおりである。
財政は、景気の動向に関わりなく先決めであり。それが、財政を硬直化する要因の一つである。
また、財政は、現金主義で損益に基づく会計とは違う原則で測られている。
市場経済は、「お金」の働きによって成り立っている。
「お金」の働きには長期的な周期を持た働きと、短期的な周期の働きがある。
長期的な周期の働きはストックを形成し、短期的な周期の働きは、フローを形成する。
長期的資金の働きと、短期的な周期の働きは、収支構造を形成する。
長期的周期の「お金」の流れは、一時的に巨額の支出をし、それを長期間かけて回収する投資によって成立する。
短期的周期の資金の流れは、単位期間の資金決済に用いられ、「お金」の効用、市場価格を確定する。
正の働きとは、市場取引の表面、すなわち、損益上に現れる働きを言い。負の働きとは、市場の裏側で働き、損益上に現れない働き、貸借上の働きを言う。
正の働きは、市場の表面で取引を成立させ、負の働きは、市場の裏で支払いを準備する。
市場には、正の働きと負の働きが均衡させようとする力が働いている。
「お金」は、基本的に負の働きをしている。「お金」の本質は、負債なのである。
「お金」の本質は、借金である。借金だから「お金」は、循環するのである。
現在の貨幣経済は、借金経済と言える。借金というの負のイメージを持たれている。実際、負債は負の働きをしている。しかし、市場経済は、負の働きがあるから成り立っている事を忘れてはならない。
社金が成立しなくなる事態が危険なのである。例えば、収入が安定しているから借金が成り立つので、正規雇用が成り立たなくなると、借金も成立しなくなる。雇用の質も経済にとって重要な要素である。
問題は、「お金」は、何によて動くかである。
経済を予測したり、政策を立てたり、対策を立てる上での肝は、何が「お金」を動かしているか、すなわち、「お金」を動かしている力を明らかにすることである。
「お金」は、なぜ、動くのか。それは、失われるからである。つまり、消費されるからである。消費されば不足する。
物は消費すればなくなる。「お金」は使えばなくなる。なくなれば不足する。不足すれば、物も「お金」も補充する必要がある。
不足しても困らない物は、補充する必要はない。不足すると困る物だから補充するのである。
物や「お金」の過不足が、「お金」を動かす原因を作るのである。
「お金」を動かす力は人的的要素は、消費により。
物的要素は、生産に、「お金」の要素は、分配によって生じる。
「お金」を動かす力の源は、人である。
根本で「お金」を動かしているのは、人の欲求、欲である。
「お金」を動かす力は、物の過不足からも生じる。
「お金」を動かす力には、「お金」自身の持つ力もある。
「お金」を動かす力は
「お金」を動かす力は、何を起因として力を発揮するのか。それが明らかになれば、経済を制御する事が可能となる。
人の欲には、生存欲がある。つまり、生きたいという欲である。次に、物欲である。そして、性欲。自己顕示欲(名誉欲)。食欲等がある。
この様な欲が、「お金」を動かし。経済を動かしているのである。
人の力は、「お金」の使い道に働く。要するに、支出に現れる。人の力には、人々の欲求が根底にある。
人が「お金」を動かす手段は、現金収支である。
現金収支の手段が労働と所得である。基本は、働くなどの経済活動を通じて得た、所得が、支払い原資となるのである。
所得は、支払う側から見ると人件費である。また、受け取る側からすると生活費の原資となる。生活費こそ経済の基幹である。
「お金」のはたきは、入出金によて発揮される。
消費主体の中心は、家計である。家計の、収入は、所得である。所得を獲得する手段が経済を考える上で、鍵となる。
税制では
の十に区分されている。
現金収支による「お金」を動かす人の力の要因を整理すると以下のようになる。
少子高齢化は、人口構成の問題である。人口構成に影響を与える要因には以下の事がある。
「お金」を動かす物の力は、需要と供給がある。需給は物価に反映する。
在庫には、需給を調節する働きがある。
在庫は、過剰生産から生じることがある。
設備投資は、長期資金の流れを生み出す。
「お金」の流れは、売り買いの流れと貸し借りの流れがある。
売り買いは、フローを、貸し借りは、ストックを各々構成する。
「お金」が、「お金」を動かす力は、売り買い、貸し借り、各々に働く。
「お金」を動かす要因の一つに金利がある。
金利は、元本と利息と利率によって構成される。
これは、ストックとフローの働きの根拠となる。
金利以外に「お金」を動かす力に利益がある。
利益は、収益と費用の差額である。
利益は、収益と費用と利益率によって構成される。
通常、消費主体が資金余剰主体で、生産主体が資金不足主体である。
なぜならば、生産主体は、付加価値を生み出すこと資金を回収することが可能だからである。
ところが、今は、生産主体である、非金融法人が資金余剰主体だと言うこと。
「お金」は、分配の手段である。
市場経済では、まず、「お金」を分配し、分配された「お金」を使って、生活に必要な財を市場から手に入れるという、二段階の工程を経ることで分配は実現する。
一般に、分配というと市場ばかりに目を向けがちだが、実際の、分配は、第一段階の「お金」の分配に負うところが大きい。
そして、第一段階の「お金」の分配は、組織的に行われるところが、大きい。
「お金」をどのような基準、制度、根拠で分配するかが、本来、経済で最も重視されるべき部分なのである。
人を怪しくするのは、分配の段階においてである。
「お金」は分配の手段であり。分配の根本は、生産と消費を関連付ける事である。
「お金」には、生産を促す働きと、消費生活を成り立たせる働きが求められる。
それを、両立するのが分配の仕組みであり、その手段が「お金」である。
市場が追求するのは廉価ではない。追求すべきなのは適正な価格。なぜならば、市場は、分配の場だからである。
分配を定めるのは、費用。故に、適正な費用であり。費用対効果である。
費用の基となる収益の確保である。
問題となるのは、損失と過剰な収益、利益である。
適正な費用が維持できないと分配に支障をきたす。
競争を市場の原理と誤解する者がいるが 、競争は、手段であって絶対的な事ではない。
市場経済は、生産活動を収益に変換し、消費活動を費用に転換する事で生産と消費を結び付け、経済か都度全体を制御してきた。
そのために、損益取引と貸借取引を明確に区分してきたのである。
損益取引と貸借取引の区分がなくなり、直接生産活動に関わらない資金を消費支出に使用すると、消費によって生産に対する働き制御する事が出来なくなる。それは、「お金」の働きを根底から覆す事に繋がるのである。
市場では、市場の状態が経済に決定的な影響を及ぼす。発展中の市場と飽和状態の市場とでは、取るべき政策が違う。
高度成長は、市場が飽和状態になると収束する。
市場経済は、人、物、「お金」、各々が、固有の場を持っている。
人や物は、有限数で、「お金」は、上に開いている。人と物は有限だが、お金は無限。
物は、連続数、人と「お金」は、離散数。
また、貨幣価値は、自然数であり。余り算、加法的減算である。余り算だから、残高主義である。
残高は、ストックとして蓄積される。
経済の働きは、前提条件によって制約を受ける。
人や物の働きが正の働きだとすると、「お金」は、負の働きである。
人や財は、「お金」と掛け合わされることで、価値が一元化され、演算が可能となる。
人・物・「お金」各々、独自のフローとストックを持つ。
市場では、物の流れと在庫、「お金」の流れと貯蓄がある。
物の流れと「お金」の流れは、逆方向に対称的に流れている。
物が流れる場と「お金」の流れる場は、個々独立していて、取引によって結び付けられている。
労働と所得によって人と「お金」が結びつき。
売りと買いによって物と「お金」が結びつき。
生産と消費によって物と人が結びついいている。
これらの関係を仲介しているのが需要と供給である。
「お金」の力は、金利や資産価値の変動のような形で現れる。
人の力は、消費として現れる。
物の力は、生産として現れ、消耗、劣化、不足として計測される。
生産主体は、生産財を生産する為に、個人が集合して形成された組織である。
生産主体には、非金融企業法人と家計がある。
生産主体は、生産手段である生産設備に原材料などを投入して、何らかの製品を製造、販売し、収益を得る主体である。
生産主体の働きを箇条書きにすると。
「お金」の流れには、損益の流れと貸借の流れの二つの流れがある。
生産主体の「お金」の流れは、以下の通りになる。
生産主体の収入の手段は
支出としては、
生産主体は生産手段に投資し、原材料などの中間投入物を投入する事で、財を生産し、生産した財を販売して、収益を得る。
投資は、事業の初期設定の一部である。
生産主体の投資は、生産手段(設備)への投資が主となる。
設備投資のキャッシュフローには、初期投資と運転資金の流れがある。
また、設備投資を物的に見ると固定資産の形成と償却の流れである。
設備投資が、借入金でまかなわれた場合は、借入金の返済の流れも見なければならない。
ここで注意しなければ、必要なければならないのは、借入金の流れと減価償却の流れは、一致していない。
もっと言えば、会計処理と現金の流れは違うという点である。
働きは損益として表されるが、実際に、経済の仕組みを動かしているのは、現金の流れだという事である。
消費の根本は、生病老死である。消費を考える事は、人生を考える事である。
消費の基底は、人生設計と生活設計であり。
人生設計とは、長期資金の働きの基となり、水平方向に働くのに対し、生活設計は、短期的資金の働きを規制し、垂直方向に働く。
消費の基礎は、家計簿にあると言える。
つまり、消費の実体は家を基本とする。家は、共に生活をすること目的とした個人の集合である。
消費というのは、無数の人生設計と生活設計が積み重なった結果である。
個人は集まって消費単位を形成する。最小の消費単位は、独身である。
消費者は、所得を獲得して、生きていく為に必要な財を市場から、購入し、余った資金を投資(預金も含む)に回す。
消費主体は、消費者によて構成される集団で、最終的には個人に還元される。
消費主体の中核となる家計は、基本的に資金余剰主体である。
消費主体には、家計と一般政府、対家計民間非営利団体がある。
消費主体は、生活を実現する場である。消費は、経済の最終目的である。
消費主体は、消費の場で働く。消費経済の中核である。
現在の経済体制は、消費と生産が両輪であるが、どちらかというと消費経済は、軽んじられる傾向がある。
消費は最終的目標であり。また、文化の担い手である。
消費を前提として経済は成り立っているのに、生産側の都合が優先され、消費経済が確立されていないのが実情である。
消費主体は、現金主義を基本としている。
市場経済では、消費者は、支払いを準備し、市場から生活に必要な財を購入して、生活を成り立たせている。
消費主体は、支払いを準備する事から始まる。
支払いを準備する手段としては、第一に、所得を得る。第二に、貯えを取り崩す。第三に、借金をする。第四に、贈与を受ける事の四つがある。
支払いを準備する主たる手段は、所得である。
消費主体の働きは、所得と支出を基本とする。
収支には、支出は、固定的で確実なのに、収入は、不確かで、不安定という性格がある。
故に、いかに収入を安定させるかが重要となる。
収入には、給与、家賃のような一定した収入と、売上のような不安定で一定していない収入、退職金や遺産、土地の販売収入のような一時的、臨時的収入などがある。
消費主体の働きを箇条書きすると。
消費主体の働きは、現金収支として現れる。収入は所得である。
消費主体にとって、死活問題となるのは定収入を確保できるかどうかである。
故に、失業は経済にとって最大の課題の一つとなるのである。
消費主体は、「お金」を支出する事で生活に必要な資源を得る。
消費は基本的に支出である。
消費には、短期的な資金と長期的な資金の働きの働きがある。
短期的資金の働きには、必需品、贅沢品の別がある。すなわち、経常的消費に対する支出によって、短期的資金を形成する。短期的資金は、主として生活費に充てられる。
長期的な資金の働きは、住宅投資、出産・育児、教育、結婚、老後等がある。
長期的資金は、貯えと借金から構成され、物的資産と金融資産からなる。
長期的な資金の働きは、消費投資を生む。
消費主体は消費手段に投資する。
代表的、消費手段は、住宅である。
消費主体は、人生設計や生活設計に基づいて消費手段に投資する。あるいは、支払準備を貯える。
投資の対象には、住宅、教育、耐久消費財、老後、結婚、出産育児、事故、病気などがある。
貨幣経済を成立させるための鍵は、全ての消費者に、一人ひとりが必要とするだけの「お金」所得を満遍なく事前にどのように配布するかにある。
しかも、一度、配布するだけでなく、絶え間なく、配布し続けなければならない。
分配は、支払い手段として、「お金」を予め分配しておく必要がある。
支払い手段としての「お金」の分配は、直接、市場に働きかける手段と組織的に配分する手段がある。
分配主体には、個人事業、法人企業、公的機関がある。
分配主体は、生産主体と一体となって「お金」を組織的に分配する機関である。
ただし、生産主体の性格によって分配の仕方に違いがある。要は、収入源の違いである。
公的機関の収入源は、税であり。非金融法人企業は、収益であり。個人事業は、事業収入。金融法人は、金利差。家計は、所得である。
分配は、基本的に、所得に行き着く。
所得には、利子所得、配当所得、不動産所得、事業所得、給与所得、退職所得、山林所得、譲渡所得、一時所得、雑所得があり。
更に、一般政府の税収が加わる。
分配主体の役割は、経済的効用を測定し、所得、分配に還元するにある。
分配主体というのは、働きに応じて生産財の分配を受けるための権利を分配する機関、組織である。
分配の権利は、「お金」で支払われる。
それが、分配主体の役割。
分配主体の働きは、収入を整流し、平準化する事がある。
分配を受ける権利とは、一般に報酬を指す。すなわち、対極に生産主体を有する。
分配主体は、生産主体と一体である場合が多い。
分配主体の働きを箇条書きにすると。
分配手段は、企業法人(金融機関も含む)であり、個人であり、一般政府である。
金融の分配手段には、「お金」と株や債券等の「金融資産」がある。すなわち、分配手段の本質は、資本である。
公的主体とは、国家機関を言う。一般に、一般政府と地方自治体からなる。
一般政府は、生産主体。ただし付加価値は産まない。また、消費主体でもある。
一般政府は、「お金」を市場に供給する働きの一端を担っている。
歳入は
歳入の柱は、租税である。租税の次に多いのは、公債金、すなわち、借金である。租税と公債金は性格が違う。一番の違いは、公債金は、借金であり、一定の期間が来たら約定に従って返済しなければならないという点である。
それに対し、租税は、景気に左右され、不確実で不安定だという事である。
歳出は、
歳入、歳出には、各々に性格があり、その性格に応じた対応が求められる。歳入と歳出の決定的な差は、歳入の柱になる税収は、不確実で不安定であるのに対し、歳出は確定的、硬直的だという事である。
たとえば、税金である。
消費税は、消費に比例する。所得税は、所得に比例する。
歳出の中で一番大きのは、社会保障費で、特に、日本では、年金の締める割合が大きい。
年金は、年齢構成に大きく依存している。総人口と生産労働人口の比率が重要な意味を持ってくる。
少子高齢化時代になると税収に対して支出の増加は、避けられない。一人当たりの所得で扶養しなければならない人口が拡大するのである。
つまり、自分の力で、所得を得られる人口が減少し、国の補助金で生活する人口が増加するのである。
この点を考慮しなければ、財政を健全に保つことはできなくなる。
公的主体は、一般政府と地方自治体からなる。
公的主体の役割は、公共財産の管理、インフラストラクチャー(道路、港湾、ダム、防波堤等)の整備、公共サービス(行政、国防、防災、治安の維持、義務教育等)、所得の再配分、国家制度の改廃、また、通貨の供給と制御などである。
公的主体は、「お金」の源であり、終点である。
公的主体は、「お金」を生産し、清算する。
「お金」は、一般政府が借金をすることで供給される。
すなわち、「お金」を供給する事は、全体の負債、債権債務を増やすことになる。
税で吸い上げ、公共投資と行政費で循環させ、給付で整える。
一般政府は、「お金」の供給と循環に決定的な役割を担っているのみならず。
「お金」の生成に深く関わっている。
所得の再分配は、入口と出口で執行される。入口で執行する手段が、税である。出口が給付である。
税金は、国民の義務とされ、納税は、当たり前な事のように見える。しかし、通貨の発行権を持つ国家なら、必要なだけ通貨を発行すればいいと考えても不思議ではないし。近年、そのような経済理論も生まれている。最も、まだまだ異端とされてはいるが。
しかし、これは、経済を考える上で本質的な問題である。
税の働きを知るためには、なぜ、税を納めなければならないのかを明らかにしておく必要がある。
なぜ、税は、必要なのか。
注意しなければならないのは、税と税金は違う。税は、もともと、「お金」で支払われていたわけではない。
金納以前の支払いは、お金ではなく物なのである。城を建てるにしても、道を作るにしても労働の報酬も、財源も物である。
貸し借りも物が中心だった。
物の貸し借りには、限界がある。まず、そもそも貸し借りに適さない物がある。
「お金」と違って貯蔵する為の設備や土地が必要。また、固有の性格に左右されるし。
ファッションに流行り廃りがあるよに価値が劣化、陳腐化する物もある。
日本で税が金納に統一されのは、明治維新以後である。それまでは、物納が基本である。
物納から金納に移行するに従って、物的制約から解放された。同時に、財政は常に借金に頼るようになるのである。
だから、闇雲に貨幣を増やすと分配の仕組みを狂わせてしまうのである。
報酬をお金、賃金で支払われることを意味し、金納は、同時に、人的制約からも解き放たれる。
税を金納するという事は報酬をお金、賃金で支払われることを意味し、金納は、同時に、人的制約からも解き放たれる。
税金が物納から金納になったらどこが違うのか。要するに、一番の違いは、借金が可能となった事である。
税は、本来、生産財の再配分という働きを基礎としていた。
税は、生産と消費の不均衡が、分配の仕組みが生み出していると言える。つまり、税は、余剰生産によって賄われた。
余剰の生産物がなくなれば、税は成り立たなくなる。
税を考える時、大前提となるのは、一般政府、言い換えると権力装置は、非生産的機関だという事である。悪く言えば、簒奪機関。だから、権力を蛇蝎の如く嫌う人間も出るのである。
税は、生産部門から非生産部門への富の移転を意味する。
故に、どうしても簒奪という見方がされる。正当的な理由がなければ、納税者を納得させることはできない。
共同で、組織的に生産していたからである。家や村落のような生活共同体で共同で生産した物をわかちあう。個として生きていく事は許されなかった。この点を理解しないと税をなぜ納めるのかが理解できない。もともと個としての収入というのは存在しなかった。 税を納めるのではなく。全体から、仕分けられた、分け前を与えらていたのである。
江戸時代は個としての概念がなく、家や一族という概念である。
現代社会は、全体より個が前提になる。つまり、個人があって、全体が成り立っているのであり。全体の為に個があるとは考えない。 それに対し近代的個人主義が確立される以前は、全体があってその部分として個人がある。全体の為に個人は生かされているとされた。
これが税の前提である。
獲物や収穫、富をどのように分配するか、その延長線上に税はある。
経済的価値は、絶対的価値ではなくて、相対的価値である。
個人にとって所得は、分け前であり、稼ぎであり、儲けであり、報酬である。
しかし、見方を変えれば、人件費であり、対価であり、反対給付である。この違いが重要なのだ。
つまり、部分と働きは、全体との釣り合いによって成り立っている。この点を、留意しておく必要がある。
「お金」は、足りなければ、必要なだけ刷ればいいというものではない。
大体、「お金」は、生産と消費、需要と供給の釣り合いの上になりったている。
「お金」を裏付けもなく発行しても「お金」の価値は付与されない。
税は、何に対して課税するかによって働きが決まる。主たる税には、所得税、消費税、相続・贈与税、関税、資産税などがあり。
どの局面で課税するかによって直接税と間接税の別が生じる。
また、誰が、誰に対して、どのような目的で課税するのかも重要となる。すなわち、課税権の根拠が重要なのである。
国家は、観念ではない、現実である。いくら、理想だと言っても、人々の生活が成り立たないようでは意味がない。
いつも元気で健康でいたいと思っても、不摂生な生活をしていたら、健康は維持できない。平和は、祈るだけでは実現しない。健康も平和も現実であって、病気や戦争という気実を受け入れない限り実現できない。
税は、生活共同体の中で収穫や獲物を分配する過程で生じたともいえる。
つまり、社会全体の中で生産されたものを、どのように配分するかが、根本的な事なのである。
全ての人に生きていく上で、必要な資源がいきわたらなくなったら、国家は成立しなくなる。例外なく。
誰が、国家の経費、更に言えば、公的負債を負担するのかが問題なのである。
突き詰めると、分け前の問題であって、自分の働きに対して自分の取り分が、少ないと感じるかどうか。自分で、財を生産している者は、生産財に対する対価として報酬、所得を受け取るが、営利を目的とした仕事に従事していない者は、自分の働きを直接的に評価する手段がない。
社会的効用に対して、個々の部門にとって、どの程度の取り分が適当なのかが問題なのである。
中でも非生産的な仕事に従事している者(特に、公職者)に対する配分をどうするのかが、切実な問題なのである。
税の起源は、公職者の働きに対する対価である。だからこそ、税で問われるのは、国家の役割であり、働きである。
そういう意味では、税があるのは、一般政府機関を成り立たせるためである。税は、権力である。
だからこそ、公職者は、公僕と呼ばれる事さえある。
一般政府機関の働きを成り立たせる為、税はあるのだとしたら、一般政府の働きの経済性を測る基準が税制だと言っていい。
物納から、金納に変わった時、税が対象としている物も変わった。つまり、働きが生産物から、「お金」に変わり。働きの評価の基準も物から「お金」に変わったのである。
生産した物の1割と所得の1割は、本質が違う。税は、物納か金納かで、働きが根本的に違ってきたのである。
税の目的は歴史の変遷、時代や、体制の変化によって変質してきている。
国家の働きとは何かを、明確にしないと、税の働きは理解されない。
税は、財政手段である、財政は、税だけで成り立っているわけではない。 税は歳入の手段であって、対極に歳出、つまり、使い道があって成り立っている。
税の性格は、対極にある使い道によって制約を受ける。税は、本来合目的的なものである。
税だけの働きで決まるのではない。
国民国家が成立した当初は「財源調達手段」が主たる目的だったが、時代がたつにつれて「所得の再配分」や、「政策手段」といった役割が重要になってきた。また、国民国家の成立時点では、「戦費」の調達が大きかったことも忘れてはならない。
税は、財源調達手段、政策手段である。問題は、その使い道にある。
使い道には、行政費、社会資本、所得の再配分、厚生、国防等の財源である。
政策手段として景気対策、金融政策(資金の供給と循環)を司っており。
国際金融の手段でもある。
なぜ、そんなに「お金」が必要なのか。なにに、「お金」がかかるのか。それが、問題なのである。
税が、生産部分から非生産部分への資金の移転、再配分の一環として見れるなら、何を国家に期待しているかが、税の本質規定していると言える。
それが、国民国家の存在意義、成立基盤である。
税は財政の一側面である。税が入り口であれば歳出は出口である。
近年は、景気対策のように、その時その時の政策に左右されがちだが、本来は、国家構想、建国の理念に基づく建設的なものでなければならない。
当初、国家に期待されていたのは、外敵から、国民の生命財産を守る事であった。
その意味では、現代の日本人の意識には、重大な欠落がある。それは、国防に対する認識である。
国防を無視する事は、国家の存立を危うくする。
国防一辺倒になるのも危険だが、国防を蔑ろにするのは、同じくらい危険な事である。
税は、戦争や大地震などで生じた被害を全ての国民が応分に負担するための仕組みでもある
しかし、太平洋戦争はこの考えを根底から覆した。
かつての日本のように、過大に軍に期待し過ぎれば、財政は均衡を失い、却って国を危うくする。
現代日本の特異性は、過大な国防負担がないはずなのに国家財政が危機的状況に置かれている事である。
それは、戦後の国家の役割が富の再配分に置かれたことによる。
問題は、何らかの国家構想に基づいてなされたかである。この点が判然としない。
それが、今日の日本の病巣と言えるかもしれない。
意図せず実現した高度成長の果実を無計画に貪ったつけが今日の日本に重くのしかかっているように思える。
戦争や災害による財政の悪化は一時的な出費によるが、それだけに、後世、禍根を残す。
それに対し、福祉政策による財政悪化は、構造的なものであり、景気対策は市場環境による。
国家が、富の再配分を目的とした場合、将来の人口構成の変化を前提としなければ、財政の持続性は保障できない。元来、経済は、社会的富の配分のための仕組みであることを思い出してほしい。それは、世代間の配分をも意味している。
時代の変化に柔軟に適応できなければ、財政が破綻するのは時間の問題である。
この点が、財政の危うさである。
一時的な支出も、構造的な問題も、債務を累積させる要因である。
戦争だけでなく、過去には、明暦の大火や関東大震災などが後々の財政危機の火種になったと言われている。
年金問題のような、所得の再配分の仕組みに問題がある場合は、背景に、人口構成の歪が、隠されていたりして、社会の仕組み、国家体制そのものを破壊してしまう危険性がある。
納税者から見れば、税は納めるものでしかない。
しかし、社会全体の効用からすると税は、所得の再分配であり。
富の偏りをなくすこと。
生み出された付加価値を、どう家計と一般政府が配分するかの問題。
また、短期と長期でどう配分するか。それは、生産財と生産手段の配分を意味する。
原資(物的、資金的)が足りなくなれば、それを補填しなければならなくなる。
それが、経済の根本的課題。
個人的に見れば、格差でも、全体から見ると偏り。
短期的な偏りも問題だが、それが、恒常的になり、長期的に偏りが累積し、流れが一方向的になると、経済構造が維持できなくなる。
歪、偏りが大きくなるから格差が拡大し。それが憎悪となって革命や戦争に発展する。
戦争や争いをなくしたければ、偏りをなくすことだ。
平等が成り立つための前提は、人ひとりの違いを認める事。同等と平等は違う。多様性と個性を前提とすることでしか平等は実現できない。
最大の問題は、国家ビジョン、構想が曖昧で、目先の方策に囚われている事である。どんな国にしたいのか。それが根本である。
「お金」は、天下の周りもの、「お金」は、循環しないと機能しない。「お金」が回転しないと景気は活性化しない。
「お金」が循環しないと景気は活性化しない。
勘違いしてはならないのは、税は、「お金」を循環させるために不可欠に手段であることは忘れてはならない。
税があるから循環する。
税も分配の手段であり。金納される以前は、生産物を直接、納めさせていたのである。
一番の違いは、営利事業は、損益勘定と貸借勘定を分けて考えているのに対し、財政は、一体的にとらえているという点である。
営利j業が負債を長期的資金の働きとし、その返済を長期にわたって分割的に処理するのに対し、財政は単年度均衡を前提としている。この点が決定的に違うのである。
収益というのは、総収入から貸借に関わる部分を指し引いた上で、単位期間の売買取引の働きに特化したものである。
また、個としての立場に立てば考えれば、私的な経済活動は、収入であり、支出であり、借金に集約できる。
一私人の立場で見れば、借金は借金である。
しかし、視点を変ええみた時、借金の意味合いも違ってくる。 たとえば、国の借金も、個人の借金と同じだと割り切れるのかである。 国の役割と個人の役割の違う。この点を見落としてはいけない。
だからと言って、国の借金と個人の借金は違うとも言い切れない。
個人の借金は返済しなければならないけど、国の借金は、返さなくていいなんて言いきれるのだろうか。
それ以前に、国の借金と個人の借金は違う、更に、民間企業の借金は違うとしたら、借金とは何かという定義そのものがおかしくなる。
借金そのもの性格や働きは、民間企業であろうと家計であろうと、一般政府であろうと変わらない。
借金の定義を曖昧としている事が、財政問題をわかりにくくしているのである。
借金は支払いを準備することで、基本的に資金移動である。
故に、長期的資金の働き(ストック)を構成する。そして、金利が付加される。
金利は、付加価値や時間価値を生み出す。この点を正しく抑えておく必要がある。
家計、企業、一般政府、金融の役割の差が、個々の部門に対する借金の働きを違ったものにしているのである。
要は、各部門間の釣り合いがとれたものにする必要がある。
「お金」は、「お金」だけで成り立っているわけではない。「お金」を使う人と使い道が肝心なのである。
売り手がいれば買い手もいる。買い手がいれば、売り手もいる。貸し手がいれば借り手がいる。借り手がいれば貸し手がいる。
「お金」の働きは、一方的なはたらきでなく、双方向のはたらきのである。必ず、相手と対象があて成り立つのである。
第一に税金は損益上の概念ではないという点である。税は、現金主義に基づいている。
税には対価ではない、反対給付がない。
税は、収益に関わらない。
税は、利益がない。
税は、損益でも貸借でもない。
損益上に現れない。
どの局面、あるいは、何を対象に課税するか。どの局面、何に対し課税するかによって税の性格、働きは、制約される。
税金には、所得の再配分の働きがある。
税の働きは、課税対象によって定まる。
所得税、消費税、何に比例するか。何を反映しているか。
財政単体で考えていると財政破綻の原因は見えてこないかもしれない。
財政問題の本質は、資金の配分の問題である。
部門間の働きと役割を見ないと見えてこない。
なぜなら、一般政府の借金は、部門間の貸し借りに根差しているからである。
どの部門からどの部門が借りているか、あるいは、貸しているか、それによって、問題の本質は変わってしまう。
財が破綻する原因は、多分に一般政府の性格に基づいている。
なぜ、財政は、悪化するのか。なぜ、借金地獄に陥るのか。その一つの要因は一般政府が消費主体だという点にある。
なぜ、財政は、破綻するのか。それは、公共事業が非営利的事業、非市場取引だという点である。
非市場取引というのは、市場取引を通さなで直接、生産と消費を結び付けるような取引を言う。
非営利事業、非市場取引の弊害は、利益という概念を否定していることにある。
経済、特に、営利活動を、一段、低くみる価値観が災いしている。
非営利事業、非市場取引は、生産や市場と結びつていない事が、一番の問題なのである。
つまり、生産と分配、消費の関連性がとれておらず、均衡が保たれない。
営利事業は、借金をしても、収益の中から返済する事が可能であるが、非営利団体は、収益によって借金を返済する事が出来ない。その分、ストックが拡大する要素を持っている。
同時に、フローとストックの関係でもある。つまり、短期的資金と長期的資金との配分の問題である。
結局、財政規模は、社会全体の中で、フローとストック、両面で、一般政府の効用がどの程度見込めるかによっているのである。
公共事業が付加価値を生まない以上、単年度で市場全体が生み出す付加価値を一般政府が生み出す付加価値が上回れば、財政は、支出超過に陥る。
債務に関わる収支を抜いた、収支が均衡しなく成りと、債務の拡大は抑制できなくなる。結局、通貨の価値を大幅に引き下げるしかなくなる。インフレーションである。
税も公共投資も資金移動に過ぎない。つまり、付加価値を生まないのである。付加価値を生まないから、経済成長に結びつかない。
公共投資は、拡大再生産に結びつかない。
公共投資が、民間投資を上回ってくると、市場は縮小再生産、いわゆる、クラウディング・アウト状態の陥る。。
非営利的事業、非市場取引は、生産と市場を消費と関連付けられず。「お金」を環流させらず、一方向の資金の流れを生み出す。
財政は、本来、経常的な働きである。戦争や大地震といった突発的、一時的、出費が嵩むと均衡が保たれなくなるのである。
もう一つ、重要なのは、経常収支である。
自国民が生きていく為に必要な資源、物を、調達できなくなり、経常収支が慢性的に赤字になると財政は維持できなくなる。
それは、分配は、需要と供給が均衡していることが前提となるからである。
つまり、生産側の、経済的価値の総量と消費側の経済的価値の総量が釣り合わなくなり、その歪が、財政を圧迫するからである。
「お金」を循環させるための心臓部にあたるのが、金融機関である。
金融を担っているのは、金融機関だけではない。
金融は、生産主体である。
金融機関は、「お金」を資金余剰主体から、預かり。資金不足主体へ貸し付ける。
金融機関は、資金余剰主体から資金不足主体へ資金を融通することによって市場に資金を循環させる役割を担っている。
気をつけなければならないのは、預金や貸付金の元本は資金移動であって、金融機関の損益には関わらない。
金融機関の損益に関係するのは、金利部分。即ち、金利差が金融機関の収益となる。
金利と元本の関係は、フローとストックの関係を形作っている。
今日の経済は、一国で成り立っているわけではない。日本は長い間鎖国をしていたが、まったく、海外と交易をしていなかったわけではない。
一国ですべてを自給自足できる時代ではない。
しかも、それぞれの国は、地理的な条件や歴史、宗教、資源の有無などによって一律な前提条件で成り立っているわけではない。
海外との交易は、国力を反映したものになる。
海外との交易状態は、国際関係の前提となる。
海外の状況は、国内の経済に重大な影響を及ぼし、時には、国家の存亡をも左右する大事である。
自由貿易体制が確立された今日、国内経済は、海外の影響を妨げられない。勢い、国家は他国の政治状況や経済状況の影響を受け受けざるを得ない。
だからこそ、戦争も、各々の国の経済や政治状況の延長線上にとらえる必要があるのである。もはや、一国の経済は、その国単体では成り立たず。国際協力や国際分業の上に成り立たざるを得ない。この点を正しく認識する必要がある。
どこの国の経済も歪(いびつ)なのである。均衡がとれているわけではない。
これは、大前提である。それが、富む国と貧しい国の格差が生じる要因である。
国家間の紛争の原因は、この歪な関係にある。
余った物を輸出して、足らない物を輸入する。不足する資源を補うに足りる余剰な資源を生産できるか。
不足を補うだけの余剰な資源を生産できなければ、一方的に、支出が収入を上回り続ける。経常収支の赤字が慢性化、恒久化する事を意味する。
それが、恒常化すると徴税権、ひいては、国家の独立や主権を危うくする原因となる。
中東の産油国のように、極端に、石油収入に依存せざるを得ない国もあれば、産業基盤がないのに人口爆発起こしている国もある。
また、市場が成熟して国内の市場だけでは、生産財を消化しきれず、輸出に依存する国もある。
貿易収支も、恒久的に輸入超過せざるを得ない。つまり、自給自足できない国と、輸出超過を続ける国との間に主従関係が形成される傾向がある。
この様な、国家間に潜む経済収支の歪みが国際紛争を引き起こす一番の原因である。
これは、国家の主権、独立、内政にかかわる問題である。
国家の主権、独立が、宿命的条件である地理的条件や資源の有無に左右するとしたら由々しき問題なのである。
持てる国と持たざる国、石油のような資源に恵まれている国と資源に恵まれない国は、初期条件だけで格差が生じる。
この様な歪をどのように解消するか。初期条件によて生じる、歪こそ、経済の病理を象徴している。
どの国に生まれたかだけで、経済的な制約を受けているのである。
海外部門というのは、通貨圏の外にある経済主体によって構成される部門である。
海外部門で、「お金」を動かす要因と考えられるのは、為替である。
海外部門の働きを箇条書きにすると。
所得の水準が、その国の競争力を測る基準となる。ただ、この場合、所得は、人件費を意味し、水準というのは、平均値だけでなく。格差、すなわち、最高額と最低額の幅、分散、標準などを複合的に見る必要がある。
労働には付加価値の低い労働と付加価値の高い労働に二極分割される。
結局、付加価値の高い仕事に見ている者は、少数なのである。圧倒的多数を占める付加価値が低い低賃金労働者の就労率がその国の国力を左右する。
先進国と言っても国内に植民地のような低賃金労働者層を抱え込んでいる、二重構造を持つ国もある。
それは、国家間では、南北問題、国内では、外国人労働者や移民問題と複雑に絡み合っている。
また、ユーロダラーや、オイルマネーといった、巨額な余剰資金の存在である。
経済数学と自然数学は、本質が違う。
自然数学は、測る数学であるのに対して、経済数学は数える数学である。故に、数論から組み立てる必要がある。
運動の時間の働きを陰に作用させると方向になる。
経済的価値、貨幣価値は、離散数であり、貨幣は、数える事で、貨幣価値を測定する手段である。
経済を表す数字は、自然数であり。演算は、余り算である。
変数には、説明変数と目的変数がある。
経済を予測する場合、何を定数とするか。何を、説明変数とするか。何を目的変数とするかが重要となる。
何を、定数とするか。何を説明変数とするか。何を目的変数とするかは、何を、予測するかによって変わる。
人為的に操作可能な数か、人為的には操作不可能な値かが、分岐点となる。
人為的に操作できる。金利、税率、国債、公共投資。 固定的なのは、人口、投資、長期借入金。 不確実なのは、収益、農産物の生産量。
経済に線型変換を活用する。
経済に線型変換を活用するためには、経済を構成知る要素を明らかにし、個々の要素の働きを数値化する必要がある。
経済を構成する要素を人、物、金に分類する。
物体の運動を空間の歪みという視点から捉え、直線運動に変換する手段が線型変換で。
その為には、空間の歪みを可視化することが有効である。
また、一旦線形変換した上で、時間の働きを陰に作用させる事で、位置と運動と関係が特定できる。
変数は、時間の関数だから、時間を陰に作用させるための操作させる際、微分、即ち、極限の概念を活用する。
微分を活用する事で位置と運動と力(エネルギー)の関係が明らかになる。
回帰分析は、線型に通じるところがある。この点は、十分に留意する必要がある。
経済の動きは、短期的には、単利。長期的には複利で動く。
経済は、短期的に見れば線形関数で表せる。
故に、経済の動きは、内積の和としてあらわすことができる。
貨幣価値は、単価と数量と人数の積として表せる。この事は貨幣価値は、「お金」の値と、物の量、人の数から成り立っている事を意味している。
更に、経済価値は、時間の関数でもある。
変数とは、変化する数である。つまり、時間の関数を意味する。
時間価値は、付加価値を生む。時間価値には、金利、利益、所得や物価、資産価値の上昇率などがある。
幾何は、点、線、面と展開し。積分は位置、運動、エネルギーと展開する。
期間損益は恣意性が入るからキャッシュフローを基本にすべきだと考える。
経済は、創造と破壊である。この両面を理解しないと経済の実態は見えてこない。
創造は、常に破壊を前提とする。創造を伴わない破壊は、破滅的な結果を招く。
作用反作用の関係が成り立つから、経済は均衡するのである。
経済は、一定ではない。経済は、絶え間なく変化し続けている。その変化にも、一定の法則があるわけではない。
だからこそ、変化の先を予測し、制御するのが難しいのである。
経済的な変化の兆しには、資産価値の変動、金利の変化(金融政策)、所得、収益、物価、為替、財政状態、災害、在庫、生産量の変化、景気の動向等がある。
何が経済の変化をもたらすのか。
経済を変化させる原因を明らかにし、変化の兆しを察知する事ができれば、経済を制御する事が可能となる。
経済の変化の要因を考える時、何の変化を基礎と考えるかが、重要となる。
飛行機の飛行した軌跡を変化との基本としてみるか、飛行機の操縦を変化の基本とみるかによって飛行機を動かす原理に対する解釈の仕方が、百八十度変わってしまう。現代の経済は飛行機の操縦に基づかないで、飛行の軌跡ばかりを追っかけているようなものである。
人の欲望で第一なのは、生存本能で、生存本能が何よりも強い。
経済を動かしている要因こそ、変化を引き起こしている原因ともいえる。
時間が陰に働いている状態が形である。
変化の兆しは形(相)と時系列に現れる。
経済を変化させる要素には
規制がいいとか、悪いとか。権力がいいとか、悪いとか。法がいいとか、悪いとか。軍隊がいいとか、悪いとか。
何でも一律に良し悪しを決めてかかる人が多い。
しかし、そのような考え方は、余りに短絡的であり、問題の本質を見誤り。重大な間違いをする恐れが高い。
何でも規制緩和、規制緩和。規制緩和を万能役のように考えている人もいれば、何かと規則、規則と、規制を強化する事ばかり考えている人もいる。
規制そのものが悪いのではない。時代や環境の変化に適合できなくなった、規制が悪いのである。
重要なのは、どのような前提、環境の下で、なぜ、どのような目的で、どのような効果を期待して、定められた規制かであり。
その結果、どのような効果、副作用があったかは、データに基づいて評価すべきなのである。
将来を予測するためには、いち早く、変化の兆し、徴候を察知する必要がある。
変化の兆しを捉えるためには、変化の要因を明らかにする必要がある。
変化は、目の前に現れた現象を追っているだけでは解明できない。
重要なのは、前提となる条件である。全て条件が変われば、同じ現象でも、変化の先は変わる。また、違って見える現象も、根っこにある要因が要因である場合がある。
発熱したとか、頭痛がすると言っても、いつ、どのような状況、他の症状などの条件を検証しないと、正確な診断はできない。それと同じである。
どんな現象も、複数の要因が複雑に絡み合っているものである。一つひとつの要因を解きほぐし経済の実像に近づいていくのである。
短期的な兆候は、トリプル、すなわち、株式、債券、外国為替市場に現れるという。特に、トリプル高、トリプル安は、要注意とされる。
また、物的な指標としては、在庫等に現れる。
この様な兆候も前提条件によって意味が変わっていく。
例えば、市場が拡大し、経済も成長している場合と、市場が縮小し、経済が停滞している場合とでは、意味が違ってくる。
市場が拡大し始める時は、投資資金が市場側に流れる、市場が一定程度拡大すると返済資金が増加する。
つまり、投資の時とは、逆方向に流れる資金が強くなるのである。
所得や収益の流れより返済の流れのほうが強くなると消費支出は圧迫される。
所得や収益は不安定であり、一度、所得や収益が低下、あるいは停滞すると相対的に返済圧力は強くなる。
売上を増加させ続けるどころか売上を恒久的に維持させ続けるのは難しい。
故に、表に現れた現象を分析する際は、前提となる条件や設定を確認する必要がある。
長期的な変化は、雇用、設備投資、地価、固定負債に現れる。
バブルの背後には、実需と名目的価格との乖離が隠されている。
所得が伸び悩むと所得に占める借金の返済の比率が相対的に高くなる。
将来の収益を担保して投資を行うのだが、高度成長が終焉すると、将来の収益を担保する事が困難となった。
長期的変化は、短期的変化の前提となる。なぜなら、長期的変化は、場に働く力の方向と強さ、関係性に影響するからである。
また、長期的変化は、ストックに根拠を置き、短期的変化は、フローに根拠を置いている。
物的資産は、有限で物理的に制約されるのに対し、金融資産は制約がない。
金融資産を担保すると抑制が効かなくなる。
景気動向指数は、先行指数と一致指数、遅行指数からなる。
先行指数は、1.最終需要財在庫率指数。(逆サイクル)2.鉱工業用生産財在庫率指数。(逆サイクル)3.新規求人数(除学卒)。4.実質機械受注(製造業)。5.新設住宅着工床面積。6.消費者態度指数 ※二人以上世帯・季節調整値。理由:季節要因による変動を取り除くため。7.日経商品指数(42種総合)。8.マネーストック(M2)(前年同月比)。 9.東証株価指数。10.投資環境指数(製造業)。11.中小企業売上げ見通しDI
一致指数は、1.生産指数(鉱工業)。 2.鉱工業用生産財出荷指数。 3.耐久消費財出荷指数。4.労働投入量指数(調査産業計)理由:企業の雇用・労働時間調整の動きをより総体的に捉えるため。5.投資財出荷指数(除輸送機械)。6.商業販売額(小売業、前年同月比)。7.商業販売額(卸売業、前年同月比)。8.営業利益(全産業)。9.有効求人倍率(除学卒) 10.輸出数量指数。
遅行指数は、1.第3次産業活動指数(対事業所サービス業)。2.常用雇用指数(調査産業計、前年同月比)。3.実質法人企業設備投資(全産業)。4.家計消費支出(勤労者世帯、名目、前年同月比)。5.法人税収入。6.完全失業率(逆サイクル)。7.きまって支給する給与(製造業、名目)。8.消費者物価指数(生鮮食品を除く総合、前年同月比)。9.最終需要財在庫指数
「逆サイクル」は、指数の上昇・下降が景気の動きと反対になる指標であることを指す。
経済の構造的問題は、変化の前提となる。
人口のような社会の根底にあって経済に決定的な影響を及ぼすのが、構造的要因である
所得の再配分による資金移動が、鍵を握る。年齢構成の変化が重要なのである。
総所得を稼ぎ出す人口と総支出の基なる人口は一致していない。
総人口と生産労働人口と一致しておらず。その構成が決定的の意味を持つというのに、経済学は、扶養家族の存在を考えていない傾向がある。
一人の所得でどの程度の人を養わなければならないのか、総所得と総支出を考える場合、決定的な要素となるのである
人口の動向や構成は、経済の基礎構造を構築する。
経済の基礎となる構造は、経済の長期的変動、傾向を作る。
注目すべきなのは、フローとストックの関係で、ストックは、社会資本、インストストラクチャーを形成する。
社会資本には、物的、人的、金銭的なものがある。
土地神話は、バブルの原因の前提となり、土地神話の崩壊はバブル崩壊後の日本経済の前提となっている。
バブルの背景には名目的価値と実質価値の乖離がある。
バブルとはストックインフレである。
経済学者の中には、長期的な変化と短期的変化の因果関係、相関関係、結びつきを認めない人もいるみたいだが。
長期的変化、すなわち、ストックと短期的変化、すなわち、フローとは、密接な関係がある。
貧困、経済格差は、構造的に経済に影響を与えている。
税制度や社会福利制度、医療保険制度、法制度といった制度は、「お金」の流れを規制している。
窮まれば変ず。変ずれば通ず。通ずれば久し。
経済の先行きを知るためには、何が、経済を動かしているかを明らかにする必要がある。
何が、経済の原動力かである。
物価の動きや付加価値の働きを予測する場合、使えるお金、可処分の量が問題なのである。
特に、可処分所得が、総収入、総所得に占める割合が重要となる。
気を付けなければならないのは、総収入と総所得は、同じではではないという事である。
経済の働きは、短期的変化に影響する。
金利や物価、所得等の動向は、経済の方向性を規制する。
基本的に経済を動かす要因は、過不足であり、時間価値である。
時間価値を生み出すのは、金利や利益である。金利が働かなくなるとお金の動きも鈍くなる。
逆に、経済の動きを妨げるのは、偏りである。偏りは、「お金」が流れる道の幅を狭くしたり、断絶して、「お金」の流れを阻害する。
また、物価や所得、金利の均衡がとれなくなると景気は不安定になる。
戦後の日本経済は、アメリカの政策に大きく依存してきた。むしろ、日本経済はアメリカ経済と鏡像関係にあったと言っても過言ではない。
戦後直後に朝鮮特需で日本経済は息を吹き返したと言っていい。
70年代、高度成長の終焉の背景には、ニクソンショック、二度の石油危機があった。
70年代のアメリカは、長引くインフレーション、スタッフレーションと高金利にあえいでいた。
国家間は交易を通じて深く結びついていたのである。
国際金融の世界では、
国際金融の裏では、経常収支、失業、物価といった各国の国内経済の事情が色濃く影響を及ぼしていたのである。
経済を予測したり、政策を立ってる際、何が、直接的な原因となるかが、鍵となる。
よく言われるのが、最後の石かである。満杯になった船を沈めたのは、最後に乗せた石が原因なのか、それとも、それ以前の問題かである。
いずれにしても、何が、引き金を引いくのか。契機(きっかけ)となっるのか、それを明らかにできれば、対策の立てようもある。
経済に直接影響を与えるのは、
経済の病が深刻なのは、国民生活を破綻させ、究極には戦争や革命を引き起こすからである。
国家を死に至らしめる事にもなりかねない。
だからこそ、経済の病は早期に発見して対策を講じる必要がある。
ところが、経済の病は、ひそやかに忍び寄り。気が付いた時には、手遅れになる場合が多い。
何が、経済を破綻させるのか。
経済が破綻するとするとしたら。
経済体制を変革せざるを得ない、一番の、理由は、財政破綻である。
財政が、たちいかなくなるから、体制を変革せざるをえなくなるのである。
財政破綻の原因の一番の原因は、戦争である。
しかし、日本は、太平洋戦争から、2020年現在、70年以上も戦争に関わっていないのに、財政は危機的状況に陥っている。
何が、財政を破綻させるのか。その原因こそ、現代経済の病巣である。
何が、経済を発展させ、変化してきたか。その点が重要なのである。
そして、経済を考える時、戦争や革命、内乱から目を背けることはできない。
多くの場合、経済の分岐点、発展、変化の引き金を引くのは、戦争、革命、内乱である。
戦争や、革命、内乱が、結果であるか、原因であるか。終わりを意味するのか、始まりを意味するのか。 それは定かではない。
ただ、結果であるにせよ。原因であるにせよ。戦争や革命、内乱が、経済体制に深くかかわっているという事実は、見逃せない。
また、それが古い体制を清算するか、遺産をそのまま引き継いでいくか。
過去の遺産が、新しい体制の始まりにどうかかわっていくのかは、その後のその国の運命を左右してきたのである。
戦争によってでしか、経済の歪が是正できなくなることが問題なのである。
戦争に変わる平和的手段 を確立することが求められている。
戦争の何がそれ程、経済に影響を与え。何が、戦争によって変わったのか。
戦争の原因も根底に経済があるとしたら。
それを明確にしない限り、戦争は防げない。戦争という現実から目を背けたら、経済の問題を、解明する事も、解決する事もかなわないのである。
近代の経済体制の基礎を形成する要素は、
これらの制度が成立するのに戦争が深く関わっている。
戦争があるたびに国債が発行され、それが後々、財政を圧迫する。国債を清算する目的で紙幣が生まれたと言ってもいい。
戦争は、税制に決定的な影響を与えている。
その典型が、所得税である。多くの場合、戦費を調達する理由によって所得税は、導入されている。
ある意味で、戦争によって作られた経済と言える。
この流れを断ち切らない限り恒久的平和は訪れない。
為政者、政治家の多くは、戦争や政策を実行としようとする時、経済的問題を二義的な事と捉えがちだが、結局、経済的動機による場合が多く。
経済的制約によって戦況、局面は動かされているのである。
軍事と戦争抜きに経済は語れない。
だからこそ、国防の意義と経済とのかかわりを明確にすべきなのである。
命がけで国を守っているという自負によって、軍人、武人は、経済を蔑視する傾向がある。経済を軽視する傾向は官僚にもある。
しかし、軍人、武人が経済を解さなくなった時、戦争は、悲惨さを増し。国家経済は破綻する。
官僚が、経済を軽んじるようになると財政は破綻し、市場は制御できなくなる。
戦争は、経済活動の一種である。経済活動の延長線上に戦争はある。
経済は、生きるための活動である。生活に困窮すると、人は、攻撃的になる。いよいよ、生きられないとなると人は、戦う事しか考えられなくなる。その果てが戦争である。
故に、平和を維持したいと思ったら、経済を成り立たせることを考えるべきである。無論、理不尽な要求には毅然と対応しなければならない。政治的に行き詰まっても戦争を仕掛けてくることがあるからである。
戦争によってでしか経済問題を解決できなくなったら戦争になる。
これは、冷然とした事実であり。この点を無視したら戦争を抜本的に解決する事はできない。
経済が生きるための活動だとしたら、戦争は、対極にある。
経済を生だとしたら、戦争は、死である。
死を考える事は、生を考える事である。
戦争だって生きんがための行為である。それが、結局、死を招く。生きんとして、生きられなくなる。
戦争とは、大いなる矛盾であり。だからこそ、経済に決定的な影響を及ぼすのである。
戦争は生存の為に戦わなければならない理由がある。
だから、経済問題の延長線上に捉える必要があるのである。
本当に、平和な世の中を望むのなら、戦争から、目を背けてはならない。
戦前は、統帥権干犯、戦後は、平和憲法によって、国防問題は、不可侵な問題とされてきた。まともに議論する事も許されていない。
どちらにしても、タブー視されていることが問題なのである。
冷静に、経済に戦争が与える影響を分析できなければ、恒久的平和など絵にかいた餅になる。
戦争自体は無法な話。無法者の話であり。非日常的出来事である。なぜ、戦争のような、無法な話が妨げられないのか。
それは、その根底に経済問題が働いているからである。戦争は、経済の延長でもある。
ただ人は、それを認めないだけである。
戦争の原因は、「お金」ではない。戦争の勝敗は、「お金」では、片付かない。そう思いたいだけである。
しかし、戦争の要因の多くは、経済の問題である。「お金」で片付くなら、戦争を、防ぐ手立てがあるはずである。
戦争は、無駄な話である。戦争は、壮大な無駄である。
問題は、無駄な事が経済に決定的な影響を及ぼす事にある。
経済が、戦争による壮大な無駄を必要としている限り、戦争は、なくならない。
戦争は、暴力的で、破壊的である。そして、戦争につきまとうのは死である。
死の対極にあるのは、生で。経済が生きるための活動だからこそ、死に影が付きまとうのである。
戦争は、口減らし。 つまり、人口を減少させる手段だという事である。これは冷徹な現実である。もともと、戦争は、非人道的な事である。
戦争は、非人道的な事であるが、現実である。だからこそ、目を背けてはならないのである。目を逸らしたからと言って、戦争はなくならないし。見ないふりしてもなかった事には、できないのである。現実を直視ない限り、戦争は防げない。
戦争反対。暴力反対と叫ぶだけでは、平和な世は実現できない。平和を維持するためには代償がいるのである。
戦争は、無制限な消費と破壊である。
恒常的になると戦争は産業となる。
戦争の原因を突き詰めてみると、経済の問題に行きつく。
クラウゼヴィッツは、戦争は政治の延長ととらえたが、それ以前に経済の問題である。
経済的問題だから、経済的問題を片付けないと戦争は、防げないのである。
今の経済は、戦争を必要としているのか。戦争を必要としているとしたら。
なぜ、今の経済は、戦争を必要とするのか。その点が、本質的問題なのである。
この問題を解決しない限り、戦争はなくならない。
貨幣経済が成立するためには、国民の間に十分な「お金」が。予め配分されている必要があり。戦争が、その契機になる事が往々にしてある。
これは、先に述べた戦争の持つ性格による。
ただ、戦争にとって一度に大量の「お金」が市場に出回ることになり、過剰流動性の原因ともなる。
財政政策で、最も「お金」が、かかるのは、公共事業と社会福祉、そして、戦争である。
戦争も公共投資も真の要因は、景気対策であることがある。無論、あからさまにはできない。
あからさまにはできないけれど、実際は、そういう側面がある事は、否定できない事実である。
戦争や公共事業には、なぜ、お金がかかるのか。お金が必要なのか。
明治維新によって、新しい貨幣制度が導入され。
西南戦争によって税制度が、日清戦争によって、中央銀行や信用制度の基礎が、日露戦争によって、国債をはじめ金融制度の礎が作られた。
海外では、南北戦争がアメリカの紙幣制度の基礎を作った。
国防、軍事、戦争が経済、特に、近代経済の枠組みが作られてきた事は、紛れもない事実であり。
この事実を認め、平和的な手段によって、経済の枠組みが可能となるようにしないと、軍事や戦争に依存しないで済む経済体制は、構築できない。
この事実は、経済の病理を解明する上で避けて通れない課題である。
戦争や革命、内乱の何が経済と関わっているのか。
戦争や革命、内乱によって経済の、何が、どのように変わったかを知る事は、経済体制の核心部分をあらわにすることなのである。
政治や戦争等の歴史的な事象を語る時、経済的要因が無視されている。
戦争は往々に、経済が爛熟し、行きづまった時に起こる。
終戦直後のように、社会資本が何もない時には、戦争は、起こしようがないのである。
生産手段を、フル回転、フル操業する事で生産効率を上げる。
戦争は、過剰な部分と不足している部分の不均衡によって引き起こされる。
つまり、富の偏在、不公平な分配、絶対量の不足が戦争の原因である。
だから、高度に経済的なのである。
お金が無駄にかかる。つまり、直接生活のための生産や消費に拘らない出費が生じる。
そのことで、生産活動に従事しない者にもお金を渡せる。ある意味で戦争は、大規模な失業対策なのである。
戦争は、利益がない。非営利事業である事が大いに役立つ。
戦争の弊害は、生産の大幅な減少と生産手段の破壊。
そして、多額の残債の蓄積されることである。
戦争は、国家財政や人口、生産設備に深刻なダメージを与える。
それは戦時が終わった後の平時にも後遺症を残す。
なぜ、戦争には、そんなにお金がかかった。必要とされたのか。また、なぜ、お金なのか。
戦争や、公共投資は、経常的支出を上回る支出がされる。
何故、戦争が市場経済を促進したか。
戦争は、無駄だからである。つまり、拡大再生産を伴わない、消費だからである。
そのために一方的に資金が広範囲にいきわたる。
貨幣を市場に定着させるためには、「お金」を世の中に強制的に循環させる必要がる。
経済の基礎を形作ている要因の多くが戦争によって大きな影響を受けている。
戦争と大きく関わっている要因を、箇条書きにすると、
紙幣を生成、供給し、回収と言う過程によって、市場に循環し始める。
紙幣をいかに生成し、それを、供給し、そして回収するか。
供給は、「お金」を分配する事で実現する。
そこで、働くのが軍のような組織である。
そして、紙幣で税金を納めるようにする仕組みによって、紙幣を、社会に浸透させたうえで回収する。
戦争は、勝っても、負けても、巨額な財政支出を招く。それは、国家の経常的歳入、歳出を大幅に上回る。
戦争によって生じる歳入不足は、国債によって補われる。多くの国債は、戦争を原因として発行される。
戦争は、財政破綻と裏腹の関係にある。
戦争は、多くの国の財政を破綻させてきた。それは、国の借金である国債によって賄われ、国債は、紙幣に置き換わってきたのである。
そして、借金を紙幣に変じる機関として中央銀行が成立してきた。
財政負担は、税制に反映する。それが、革命の原因ともなる。つまり、国家体制の変革につながる。
この様に、貨幣制度は、戦争を梃にして発展、浸透する事で核となる部分が形成されてきた。
更に、軍用技術が触媒となって産業の基盤や、技術革新も行われてきた。
経済の目的が貧困をなくすことだとしたら。貧困とはなにかを定義する必要がある。
貧困には、絶対的貧困と相対的貧困がある。
絶対的貧困は、生きていくのも難しい状態を指すのに対し相対的貧困というのは、その国の生活水準に比べて低い水準を言う。
相対的貧困は、分配の偏りが最大の問題なのである。
相対的貧困の対極にあるのは、豊かさである。日本人は、本当に豊かになったのか、それが問題なのである。
豊かさというのは、主観的問題である。
自己満足度の問題である。いくら、「お金」があっても、物が溢れていても、それだけで、豊になったとは言えない。
絶対的貧困は、避けなければならない。一人でも生活が成り立たない者が出たら、経済は成り立たないからである。
貧困には、物的貧困と、金銭的貧困、人的(心理的)貧困がある。
物的貧困は生産的局面に現れ、金銭的貧困は、分配の局面に現れ、人的貧困は消費の局面に現れる。
すなわち、貧困の原因は、生産は物、分配は、「お金」、消費は、人にあると考えることができる。
物的貧困は絶対的貧困、金銭的貧困と人的貧困は、相対的貧困と言える。
今の日本人は、物不足という経験がない。多くの若者は、生まれてから、今まで、物が溢れている世界で育ってきた。しかし、我々が子供の頃は、何もかも不足していた。住む家もない人や、その日の食事に事欠くこともあったのである。
物不足は、ここの出来事ではなく、現実なのである。
金銭的貧困は、分配に問題があるからである。
今日、貧困問題というのは、金銭的な貧困を指す場合が多い。
貧困は、要は、満足度の問題である。江戸時代、戦前、終戦直後、バブル時代、今では、豊かさに対する認識が違う。
また、日本、アメリカ、バングラデシュ、ミャンマー、北朝鮮、インド、ドイツ、イラン、ブラジル、ロシアといった住む国によっても豊かさに対する認識は違う。
生活水準によっても、国力の差や地域によっても、最低生活に対する認識が違うのである。また、国家体制によっても差が生じる。
生活水準は、消費の在り様によって異なる。つまり、人的な貧困というのは、消費の問題なのである。
気持ちの問題と言っても、今日の日本のように、欲し物がなんでも手に入るのが普通だと思ている人間が、ある日突然物不足に落ちったら、耐えられない。簡単にパニックに落ちる危険性がある。気持ちの問題だとしても侮れないのである。
物の不足を言うのか、所得の不均衡によるのか、人々の嗜好、生活水準の問題なのかによて貧困に対する捉え方に違いが生じる。
住宅が好例である。
少子高齢化が、問題とされていながら、一方で、高層マンションが乱立している。
七十年前、終戦直後は、一面の焼け野原で、住む家すらなかった。
終戦直後の貧困の原因は、物不足である。
それが、高度成長をすぎると過剰気味になり、住宅が投機の対象となってバブルを引き起こす。
高度成長後の貧困の原因は、分配の不均衡である。
バブルの時は、消費者が買えないくらいに投機資金によって不動産価格が暴騰し、バブルが破裂すると暴落し、経済の停滞を招いた。
空き家が増える、片方で、ホームレスの増加が社会問題化している。
貧しさに対極にあるのが、豊かさである。豊かさというのは、基本的に主観的なもので満足度が基準となる。
絶対量が不足しているのか、それとも、分配に偏りが生じているのか、人々の生活水準やライフスタイルが変化したのか。
この点を見極めないと抜本的解決はできない。
俗に言う、お金持ちには、資産家と高所得者の二種類がある。
バブル時代には資産家の貧乏人というのがかなりいた。これは、経済を考える上で示唆に富んでいる。
一番の問題は、貧しさも豊かさも、明確な定義がされていない事である。
経済の病気とは、恐慌、戦争、ハイパーインフレ、貧困等、何らかの障害によって人々の生活が成り立たなくなることである。
経済の病気の行き着く先は、生活が成り立たなくなることである。
経済の病気の原因の多くは、「お金」だとしても、根本的、最終的には、生活の問題なのである。
ただし、市場経済で経済が成り立たなくなる決定的な要因は、「お金」が機能不全、役割を果たせなくなることである。
「お金」が機能不全に、なぜ陥るのか。機能不全に陥るとどのような現象が起こるのかを徹底的に検証解明する必要がある。
生産主体が資金不足主体で、消費主体が資金余剰主体になるように、そして、金融、財政、海外は、均衡するように調整する。
なぜなら、生産活動を通じて、支払い手段である「お金」を分配し、生活(消費)に必要な財を市場から調達するのが、市場経済の仕組みだからである。
生産活動に応じて如何に公平な支払手段を分配するか。
その鍵を握るのは雇用である。また、偏りをなくすかが公平な分配の鍵である。
市場経済の基盤は、生産と消費の関係にある。それを補完する部門が金融と一般政府と海外部門である。
まず、全ての国民が生きていく為に必要な資源を生産・調達しなければならない。その上で、全ての国民に必要とする者を、必要なだけ配分する。そのための仕組みが自由主義経済体制なのである。
つまり、健全な経済とは、全ての国民が、生きていく上で必要な資源を必要とする時に必要とするだけ、手に入れられる状態を言う。
そのためには、生産活動を偏りなく、促すように、しかも、生活に必要なだけ所得を配分する事が求められる。
留意しなければならないのは、一般政府は収益力を持たないという点である。
つまり生産活動から生まれる付加価値によって債務を返済する能力がないのである。
だからこそ、企業法人部門が、家計部門が生み出す余剰資金を活用することで、収益を上げ、所得を配分する。それが、健全な姿なのである。
財政負担が増加し、資金を国債に頼るようになるとクラウディングアウト状態になり、民間企業は市場から資金を調達するのが難しくなる。
成長段階や市場の状態、収益構造の変化、為替の動向によって収益条件や資金の調達条件も変化する。
必然的にとるべき経済政策、金融政策も変わる。
経済が成熟した今日、高度成長と同じような経済政策、金融政策は効力を発揮しない。
拡大している市場と過飽和に陥り縮小している市場とでは条件が違う。当然、取るべき政策にも差が出る。期待すべき効果が違うからである。
規制緩和や金融緩和が、万能であるかのごとき短絡的なとらえ方は、百害あって一利ない。
市場や資産水準をよく見て、その時その時の状況にあった政策をとるべきなのである。
教条主義的な当局な在り方も病巣となる。
一番の問題は、企業法人部門が資産価値と収益力の低下で資金調達力を失ったことにある。このような時に、競争を煽る、規制緩和策は、デフレ政策になる事を忘れてはならない。規制が是か非かではなく。どのような規制が適切かが、問題なのである。
経済の病とは、経済の仕組みが正常に機能しなくなることである。
経済に求められるのは、生産と消費が釣り合うように分配がされことである。逆に言うと生産と消費が釣り合うように分配がされていない事。
経済は、生産、分配、消費の局面があり、各々の局面に病巣は、潜んでいる。
根本的な問題は、経済が目指すべきところを明確にできない事だ。つまり、目標もはっきりさせずに闇雲に前進している。
どんな生活、生活区間を構築しようとしているのかも、わからないで、ひたすら、金儲けに勤しんでいる。その結果、際限のない争いを繰り返している。
経済的な意義などそっちのけで。
人口問題が典型である。人口爆発が、危惧されたかと思えば、今度は少子高齢化が問題視されている。どちらに向かって走っていいのか見当もつかない。
結局、経済は、結果でしかない。そして、それが、悲惨な結果を招く原因でもある。
途上国では、食料価格の高騰、干ばつ、人口爆発が飢餓の原因となる。これは、経済の病理を象徴している。
経済の病気は、異常値として現れる。つまり、異常値をいかに早く察知するかが鍵なのである。
問題となるのは、何を異常値と設定するかにある。異常値を定義するためには、正常値の範囲を特定する必要がある。そのためには、最大値、最小値を検出し、その上で限界値を割り出すことである。
健全な経済状態から見て、現在の日本経済が不健全なのは、本来、資金不足主体であるべき、民間企業が、フロー上、資金余剰になり、その分を均衡していなければならない、一般政府が、資金不足に落ちている事であり。
その結果、金利が圧迫されて、金融機関が、収益の確保が難しくなり、機能不全に落ちりつつあることである。
その原因は、民間企業の資金の調達力(資産価値と収益力)の低下にある。
資産価値と収益力の低下は、フローとストックの均衡を著しく歪めている。
気を付けなければならないのは、需要は一定していないという事であり、個々の商品によって差があるという事である。そのために、一定の所得を生産に結び付ける事が出来ない点にある。
需給は、市場や産業の発展段階にも左右される。市場が過飽和状態に落ちれば生産は、抑制される。
需給の不均衡は、個々の経済主体の収益や雇用に反映し、経済状態を不安定にする。この点を改善しない限り、経済は安定しない。
総収益が圧縮されれば、所得も減少する。所得が減少すれば支出も縮小する。市場が縮むからである。収益を改善させる政策をとらない限り、景気は向上しない。市場が荒廃しているのである。
日本の停滞、衰退は、日本の繁栄に起因する。
日本の繁栄は、見せかけに過ぎない。
為替は、1941年4月から、1ドル、360円に固定されていた。
それが、1971年のニクソンショック以来、上昇し続け1995年4月には1ドル=79円75銭という史上最高値をつけた。
実に、4.5倍以上にも達した。
為替の変動に合わせて、所得や資産の対外比率は上昇した。しかし内実は、どうだただろうか。目に見えて、国見生活は向上したか。 それは、人と物の関係である。確かに、輸入品は安くなったかもしれないが、バブル期には以上に地価が上昇し、庶民から見れば、都心に家を持つなんて夢のまた夢になった。
所得は、横ばい。派遣が増えて、雇用も安定していない。財政は破綻し、税負担も増して、国民生活は、かえって苦しくなった。
要は、海外から見た見かけ上の円の価値は、4.5倍以上、上昇したかの如く見えた。それが、日本経済の実態を見誤らせたのである。
肝心なのは、国内経済であり、本当に国民、一人ひとりは豊かになったかである。
重要なのは、国民生活に、どのような影響を与えたか。あるいは、どのような、影響を与えるかである。
円の上昇は、輸入物価は下落を招く。
反対に対外的に見て人件費の上昇、設備投資、債務の上昇を招く。その結果、競争力の急速に下落した。
確かに、円の上昇は、日本人の購買力、消費力を上げたかもしれない。問題は、消費の質である。
消費の質は、生活水準、豊かさに直結している。つまり国民の生活は、豊かになったか、消費支出に結び付いたかである。
コロナ対策でとられた経済政策が象徴している。コロナ対策として、真っ先にとられたのは、補助金の給付とゴーツートラベルとイート、つまり。観光とサービス業向けである。しかも、財政が危機だというのにである。
経済効率が、生産効率を意味するようになり。例えば、市場でも生産効率が求められるようになった。
個人商店は。スーパーに比べって、生産効率が悪く、スーパーは、大型化し、やがて、ショッピングモールに、ショッピングモールは、ネットショップに駆逐されつつある。その結果、近場の商店街がシャッター街に衰退し、地域のコミュニティが、崩壊し。買い物難民を生み出している。
大きな倉庫のような店舗の周りを失業者の群れが取り囲む、そんな経済を我々は、目指しているというのか。
現代経済の病理は、その辺に潜んでいると言える。構想が描けないのだ。
だから、政策も、計画も、予算も立てられない。
人が病気になるように経済も病気になる。
病気には、病気になる要因があり、その要因を正しく理解していないと適切な処方は描けない。
経済は、生産、分配、消費から成り立ており。経済の仕組みの目的は、全ての国民(消費者)が生きていく為に比喩必要としてる資源を生産・調達し、漏れなく、万遍に配分する事にある。
この目的の障害となるのは、歪や偏りである。
故に、経済の仕組みの働きを阻害する要因は何か。何が、正常で、何が異常なのかを見分ける必要がある。何に対して、歪、偏向しているのか。それを明らかにしなければ、経済の仕組みのどの部分が、問題なのかを明らかにすることはできない。
経済の病気とは何か。それは、経済の仕組みが正常に作動してないこと意味する。故に、経済の病理は、経済の仕組みを正常に作動させない要因を明らかにすることで解明できる。
病気の要因には、物的要因、人的要因、「お金」の要因がある。
人口も生産も無限に拡大するわけにはいかない。この事は、経済の基礎的制約条件を形成している。
つまり、経済は、人的要因を基礎として、物的要因に制約されている。
経済の実態は物と人との関係にある。「お金」は、名目である。
表に現れる現象に囚われずに根本を正しく理解しないと経済に実体は見えてこない。
経済は、最終的に人々に必要とする物を必要なだけ配布できるかにかかっている。つまり、過不足なく人々に材を生産し分配する仕組みが経済の機構である。言い換えると、財に過不足が生じたり、分配に偏りが生じるのが経済の病気なのである。
現代の経済は、常に、余剰にすることで経済を成り立たせようとしている。つまり、大量生産、大量消費である。それが、環境汚染、温暖化、浪費の原因なのである。物の余剰とお金の余剰は、性格も働きも異にしている。
物は、貨幣と掛け合わされることで貨幣価値を付加されるという性格を持つ。
経済の病理の究極は、物の要因にある。だから、物価に集約されるのである。
物的要因を考える時、物の性格、働きに着目する必要がある。
物は、「お金」と違って保存できるものとできない物がある。物によって陳腐化したり、腐敗したり、劣化したりする。
また、価値も一定していない。
物は、物が持つ特性によって制約を受ける。
重要なのは、物には、保存できる物とできない物がある。
例えば、石油や石炭は、貯蔵ができるが、同じエネルギーでも電力は貯蔵ができない。保存できるとしても石油は液体で、石炭は、個体である。保存する場所や設備に差が出る。このような事が、経済に決定的な影響をもたらす。
また、生鮮食糧費のように鮮度が問題となる財や、流行り廃りのある財、陳腐化する財がある。償却期間のある設備もある。
いかに物の価値を保存するか。物の貯蔵技術の発達は経済に決定的な影響を及ぼしている。
保存というのは、金銭的に見ると貯金、預金を意味する。物的な保存は、金銭的の預金と違い、価値の保存状態に差がある。それが、経済的価値に微妙な影響を与えているのである。
「お金」その物には、価値がない。物の結びつことのよって貨幣価値は成立する。故に、本来、貨幣価値は、物の性格に依存している。問題は金融資産である。金融資産は、金融の働きに依存しているのである。
ただ、経済価値は、物的な価値を基礎としている点に変わりはない。決定的なのは、物の過不足である。
土地の用途には、一つは居住用、次に、生産用、もう一つは、公用(社会資本)の三つで活用できる土地は限られている。
例えば、居住用地には、限りがある。 いかに、すべての国民に土地を分配するかの問題なのである。 そして、所得の中からどれくらいの費用を住居費に割けるかの問題なのである。
住居費は、投資,消費のための投資という働きを持ている。
土地は、長期的資金の働きを生み出す。住居には、持ち家という手段と賃貸という手段がある。ただ、いずれにしても長期的資金の働きに関与している。
今の日本人は、余程の事がない限り、必要な財は、「お金」さえ出せば、手に入ると錯覚しているように思はれる。しかし、現実の世界は、いくらお金を出したところで生きていく上に必要な物が手に入らない。あるいは、それ以前に「お金」がない。そういう時代の方が、長かったのである。第一、日本の国力が衰えれば国民が生きていく上で必要な資源すら手に入らなくなる。日本は、資源が乏しく、自給率が低いのである。
国民の生活を維持する事が困難だから、戦争だってせざるを得なかったのである。
物の最大の要因は、生きるために必要な資源が、必要なだけ、必要な人に配分できない事であり、物の不足だけでなく、物流の問題でもある。
また、どれだけ必要なのかが、予測できない。つまり、費用は、予測できても売上は、予測できない。収益と費用、収入と支出の非対称である。
かつて、飢饉の原因は、旱魃や冷害等による物不足であることは間違いないが、それ以上に、備蓄や交通などの物流のインフラストラクチャーが整備されていない事も決定的な要因の一つである。
分配の仕組みの不備も決定的な要因の一つである。
収益と費用、収入と支出の非対称性とは、裏返すと生産と消費、需要と供給の非対称性でもある。
在庫も需要と供給の非対称性が問題なのである。
経済は、最終的に人々の生活を成り立たせることである。
しかし、時々、この本質が、蔑ろにされる。その結果、生産に偏りすぎて、人々の生活が忘れられる。
投機目的で住む人のいない高層マンションが乱立している。その脇で住む家のない人があふれている。一方で余っていて、他方で不足しているのに融通できない。この様な状態は、既に、経済が破綻していると言える。
人々の生活が成り立たない状態を、放置していることが、経済本来の目的を逸脱しているのである。
経済の最終的指標は、生活であって、物価ではない。
生活は、所得と物価、消費支出との関係から求められ。所得から、消費支出を差し引いた部分は余剰となり、ストックを形成する。ストックは投資に回され、資産となる。
人的問題には、
人的要因は、基本的には人口問題に行きつく。
人口問題は、規模の問題と構成の問題がある。
重要なのは、潜在扶養指数で、潜在扶養指数とは、生産年齢人口(15歳以上65歳未満の人口)を従属人口(15歳未満65歳以上の人口)で割った値。
これは、所得の働きと規模を規制する。
一人の所得で何人、養う必要があるかを表している。
今の経済では、実際には、分配の問題が多くを占めている。 分配の問題の根っこ「お金」が絡んでいる。
何故、財政は破綻するのか。財政破綻は、経済の宿痾の湯な者である。なぜか、財政は破綻する。
貨幣の発行権を国が握っているなら、財政は破綻しないように思える。それなのになぜ、財政は破綻するのか、それは、経済の本質は、貨幣に依拠していない証左である。
財政が破綻する要因の一つは、「お金」が分配の手段だから。
経済の仕組みには、全体と部分がある。ここで注意しなければならないのは、「お金」は、分配の手段だという事である。
「お金」、全体の均衡を保つように働く。全体の均衡が保てなくなると制御不能に陥る。要は壊れてしまうのである。
生産と消費を調節するのは、物価と所得である。財政は、市場の機能を補完するような働きがある。
市場は、常に、飽和状態を求める性質がある。
市場は、飽和状態になると限界に達し成長を止める。定常状態に入る。定常状態は異常な状態ではなく。変化の一段階、位相に過ぎない。ただ、定常状態になったら、それまでの前提や条件が変化する。
市場は、拡大と収縮を繰り返す。それに対し財政は、硬直的である。予算を作成してから執行するまだに時間差が生じる。一度拡大した財政を収縮させるのは、政治的に難しい。また、営利事業ではないので、予算や歳入は、使い切る事を原則とする。繰越金は認められない。そのために、慢性的に支出が過剰気味になり、負の資産が累積する傾向が生じる。
もともと期間損益を基準としていないために、一定期間内の資金の働きを分析できない。債務が一定の限界を超えてしまうと抑制が困難になる。 また、所得の再配分という役割を担っているために、人口構成の変化による歳出構造の変化に対応しきれない。
財政でも、家計でも、企業でも、破綻する原因の最たるものは、収入と支出の均衡がとれなくなることである。
定常状態に移行しているのに、成長段階と同じ全て条件で経済政策を続けると加熱するか、失速して経済は、破綻する。市場のおかれている前提条件の確認が真っ先に求められる。
成功より、失敗の方が残って積み上がっていく。
金融活動が過剰になると、実体経済と名目経済は乖離し、放置すれば制御不能、機能不全に陥る。
財政が破綻する要因の一つは、一般政府が消費主体だという点にある。非営利機関で、付加価値を生まない。
この事が意味するのは、「お金」は、分配の手段であり、生産と消費と無関係ではいられない事を意味する。
市場は、需要と供給、生産と消費を反映する事でなりったている事を意味している。生産や消費と無関係でいられるなら、無制限に紙幣を発行すればいい。税もいらなくなる。国債も恐れる必要はない。しかし、残念ながら、「お金」は、生産と消費を仲立ち、取り持っている事で成り立っている。だから、生産と消費の釣り合いを無視するわけにはいかないのである。
注目すべきなのは、日本でも、ヨーロッパでも、中世、金融の担い手は宗教団体だったということである。これは、市場経済を読み解く鍵である。
宗教的行為は非生産的行為であり、実業に関わっていない事である。経済的に見ると寄生しているのである。
経済は、際限なく拡大し続ける事はできない。なぜなら、人も物も有限だからである。無限に拡大する事を前提としている限り、市場経済は自ずと限界に達する。また、財政は破綻する。
経済の変調は、どのようなところに現れるか。部門別にみてみると、
経済を、正常に機能させない阻害要因は、大きく分けて二つある。
第一に、「お金」の循環にかかわる阻害要因。
もう一つは、「お金」の働きに関わる阻害要因であり。
循環にかかわる要因は主として、構造的、静的要因であり、働きに関わる要因は、流動的、動的要因である。
この点は分けて考える必要がある。
貨幣経済は、発展段階や環境、状況等の前提条件によって、生起する現象が異なったくる。
それ故に、経済では、歴史が重大な意味を持つ。
貨幣経済は、「お金」が、循環する事で成り立ている。
経済の病気の多くは、「お金」が、円滑に循環しなくなることに起因すると考えられる。
また、「お金」の循環が原因で生じる病気には、「お金」が過剰に流れたり。流れが悪くなったり。停滞したり。流れに偏りが生じたり。
流れが悪い部分や流れない部分が生じる事等である。
「お金」の流れの偏りは、社会を分裂させてしまう事もある。
問題は、「お金」の循環を阻害する要因は何か。
その要因の何が、どのような条件によって、どこで、「お金」の循環を阻害するのかを明らかとする必要がある。
「お金」を循環させる仕組みや、力を明らかにする必要がある。
「お金」を循環させる仕組みのどこが問題なのか。
「お金」の循環を制御する手段には、金融政策(通貨の流通量と金利の調節等)、財政政策(公共投資、税政等)がある。
経済の仕組みは、個々の要素が複雑に関係しあい、また、局面が結びつている。故に、経済的障害は、連鎖的に引き起こされる。
どこで、何によて連鎖を断ち切るかがカギを握っている。
個々の要件のそれが原因なのか、それと結果なのかを見極める必要があるが、多くの場合、結果であり、同時に原因でもある事が多く。それが、事態を複雑にしてしまっている。
戦争や貧困はその典型と言える。
収入の持つ意味である。収入とは支払いを準備する事である。「お金」の効用を発揮するのは、支出である。この点を間違えてはならない。 また、収入というのは基本的に入金、すなわち、「お金」の授受を意味する。
収入とは、現金の授受である。授受とは受け取る、言い換えれば、入金を意味する。
現金を受け取る事は、決済を意味する。
厳密に言うと現金、および同等物を受け取る事である。
支払準備としての「お金」を何らかの手段によて獲得し、その「お金」を支払う形で生きていく為に必要な資源を市場から獲得する。このような、経済体制を市場経済という。
収入と所得や収益は同じことではない。
ところが、それを、あいまいにしたまま都合よく使い分けている。
まず、収入とは何かを明確にしていく必要がある。
収入とは、入金全般を意味する。用途は問題とされない。借入金も収入とされる。
それに対し消費を前提として生産活動を通じて獲得する「お金」を所得とする。
返済のための支出が、昂じて、消費のための支出を圧迫し、所得の範囲を超えた時、経済は破綻する。あるいは、物価の上昇による消費支出が所得の範囲を超えた時、所得が圧縮されて支出を賄えきれなくなった時、経済は立ちいかなくなる。
人は、手持ちの支払い準備の範囲内で支出をする。手持ち資金が不足すると必要な資源を市場から調達できなくなり、生活は破綻する。
「お金」の働きは、付加価値や時間価値の生成に関わる事である。
「お金」の働きに障害が生じると「お金」が、正常に働かなくなる。
「お金」の働きには、
「お金」は、支払いを準備する働きがあるが、「お金」が不足すると、支払いに支障が生じる。
必要な資源を市場から調達できなくなり、生産や生活が成り立たなくなる。
貨幣価値が不安定になり、インフレーションやデフレーションの原因となる。
働きは、何らかの、力によって引き起こされる。
「お金」の働きに影響するのは、フローとストックの関係である。
経済の仕組みを実質的に動かしているのは、「お金」の流れである。
「お金」の働きは、「お金」の流れによって引き起こされているのであり。
経済を制御する為には、「お金」の流れを制御する必要がある。
「お金」を無制限にただばら撒けばいいというわけではない 。
「お金」は分配の手段だということを忘れてはならない。
生産量には限りがある。調達できる量は、有限である。また、必要量も限りがある。
人が消費できる量には限りがあるというのに、人の欲望は際限がない。
報酬は、生産活動に結びつくから意義がある。
また、労働は、生産活動と報酬を結びつけるから意味がある。
生産量、消費量、人口、所得、物価、通貨量、税金、これらは無関係に成り立っているわけではない。
生産段階における人的要因は、雇用である。
分配段階における人的要因は、所得であり、消費段階では、生活である。
昔、労働は、苦役だと考えられた。より正確に言うと、苦役と苦役でない仕事があった。苦役とされる労働は、単純反復、肉体労働を指す場合が多い。 この様な労働は、劣悪な労働条件、過酷な環境、低い報酬で働かされるような労働を指す。
この様な労働を苦役とする考え方は、今でも変わらない。故に、労働を担う者は、奴隷か、或いは、奴隷に近い身分の者とされた。
しかし、技術革新による機械化や、合理化は、この苦役と言われるような労働の負担をかなり軽減した。
苦役とされる中には、女性を主とした家事労働も含まれる。今日、最も、機械化、効率化された労働の一つが家事労働である。
労働は、分配の主たる基準のであることに変わりはない。労働の総てを苦役だととらえ、労働を蔑視するのは明らかに行きすぎである。
生産の効率化が、人員削減に結び付き。雇用の削減、失業者の増加、所得の減少を招いたら、分配の効率化違反する結果を招く。
経済は、生産性だけでとらえるべきではない。
日本人は、自分たちが必要としている資源が、必要なだけ手に入れる事が出来ると思い込んでいる。
それは、これまで、日本の国力があったからである。日本以外の多くの国が、必要としている資源を手に入れる事が出来なくて飢餓に苦しんでいる。
日本も国力を失えば早晩飢餓に苦しめられるようになる。
コロナで問題となるのは、借金が増える事である。
フローとストックは相互に影響しあっている。その点を、無視して、無原則にストックを拡大し続けていることが最大の問題である。
市場の表面に現れる現象ばかり追って、市場の表面に現れてこない「お金」の動きが見えてこないと。経済の実態はとらえきれない。
お金の働きを正しく理解していない人が増えてきた。お金は湧いて出るわけで、降ってくるわけでもない。
コロナ対策と銘打てば、何でも、許されると思っている政治家が多すぎる。
基本的にコロナ対策というのは、資金不足部門(一般政府)から資金余剰部門(家計)への資金移転であることを忘れてはならない。
慎重にやらないと財政を破綻させ、格差を広げただけで終わる。
コロナ以前の状況の課題がどこかえ消えてなくなってしまったようである。
あれほど、財政規律を問題としていた政府が、コロナ対策と称して、無原則につかの供給量を増やし続けている。財政再建なんて意味のない戯言のようにすらい思える。
EBITDA有利子負債倍率は、フローとストックの関係を表す指標である。
EBITDA(利払い、税引き、償却前利益)で、実質有利子負債(借金から手元の現金を引いた値。)を割る。
2021年10月24日の日経新聞にEBITDA有利子負債倍率3月末に4.9倍リーマンショックの5.2倍に近づいたと掲載されている。
資本金1億円以上の大企業は4.7倍にとどまるも、1000万円未満の企業は14倍近いとされる。