民主主義は、万能であるような、神話がある。民主化すれば、全ての問題は片づく。そして、この様な発想が、民主主義を、自分にとって都合良く解釈する風潮を生み出している。民主主義や自由といえば、何をやっても許されると思いこんでいる。民主化という言葉で、全てが正当化される。他民族への支配も、侵略も、民主化の名の下には、虐げられた者への解放という大義に変わる。

その一方において、民主主義ほど曖昧な思想もない。主義主張として確立している事さえ怪しい。曖昧な思想を、自分達の大義として自分達の行動を、正当化する事ほど危険なことはない。

現代人は、思想として確立さえしていない曖昧さを土台にして、強力な国家や世界を築き上げようとしている。現代社会は、砂上の楼閣なのではないだろうか。

民主主義の曖昧さは、土台としている思想の曖昧さにある。

第一に、民主主義の土台は、個人主義と自由主義である。つまり、民主主義の曖昧さは、即ち、個人主義と自由主義の曖昧さなのである。個人主義と自由主義の曖昧さの原因は、自己概念の欠如による。このことは先に述べたので、ここでは詳しくは述べない。ただ、個人主義と自由主義の曖昧さは、民主主義にいろいろな偏見や誤解を生じさせている。それは、民主主義に利己主義や快楽主義、刹那主義が混入することである。

第二に、民主主義は形式主義である。形式主義を非難する人達がいる。彼等の多くは、形式主義本来の意味を知らずに、非難しているのである。形式主義というのは、形式を基礎にして物事を組み立てる考え方を意味する。それは、形式のみで物事を処理しようと言う意味ではなく。形式を土台にして考えることを意味している。形式主義を非難する人達が言うのは、決まって形式ばかりが重要なのではないという事だが、形式主義者は、何も形式のみが、重要だなどといっているのではない。特に、民主主義は、基本として、形式を考えるが、それ以上に形式の背後にある魂や意識、精神、観念をより重要視している。

第三に、民主主義は、無政府主義ではない。

個人主義や自由主義と反体制、反権威主義と結びつけて考える人間がいる。特に、マスコミにこういう手合いが多い。そしてそのために、個人主義と自由主義を土台にしている民主主義が無政府主義的なものに変質してしまっている。

個人主義と反権力主義、反権威主義が結びつくと無政府主義になる。しかし、民主主義と無政府主義とは違う。

戦前、戦中を通じて、多くの言論人が、体制を擁護し、それが、結果的に軍部の暴走を増長させた。その反省から、多くの言論人や知識人は、反体制や反権威を標榜している。しかも、その多くの人間が、同時に、自由主義を表看板にしている。しかし、それは、戦後の言論人の保身にすぎない。

結果、反権威主義、反権力主義と自由主義が結びつき無政府主義的な、風潮が横行している。しかも、たちが悪い事に、知識人や言論人が、本来、アナアキーなものを無自覚に、自由、民主の名の下に風潮するために民主主義と無政府主義の見境がつかなくなってしまった。

ここで、もう一度強調しておくが、民主主義は、無政府主義ではない。組織や政治権力、体制を否定するものではない。
国家や全体と個人は、対立関係にあるわけではない。

全体と部分の問題であり、部分が全体に対立したら、まとまりがなくなり、分解してしまう。

それから、個人は、人間であるから、民主主義は、人権主義、民権主義、人道主義を下地としている。

また、民主主義は、機能主義的、法治主義的である。構造主義である。

民主主義社会を確立するためには、まず、確固とした民主主義理念を確立する必要がある。理念が確立した時、民主主義は、本当の意味で、その力を発揮するのである。