民主主義を成立させているのは、権利と義務である。そして、権利と義務は、制度によって支えられている。それは、義務教育制度を考えると解る。

義務教育を考える時、なぜ、義務教育が必要なのかを理解しなければならない。

民主主義が個人主義を基礎としていて、生後一定期間、個人として認めていない事に起因している。ならば、民主主義教育の目的は、自立した個人を育てる事にあるのである。この教育の目的は、義務教育制度の根幹であり、根拠である。そして、教育は、義務であると同時に権利でもあるのである。

個人主義者にとって法より礼、礼より善が優先される。なぜなら、個人主義者が根源は、自己の内面だからである。民主主義者は、法によって礼、礼によって善を規制しようとする。なぜなら、民主主義が、個人の自由を重んじるからである。ところが、この事によって民主主義は、あたかも、個人の善より法を重んじているように捉える傾向が出る。法さえ守っていれば、何をしても許される。それが自由なのだという発想である。しかし、この様な発想の根源は、利己主義であり、自由主義の根幹を破壊し、ひいては、民主主義を内部から崩壊してしまう。あくまでも、民主主義の核は、個人の道徳なのである。だからこそ、道徳教育こそ民主主義教育の本質なのである。このことは、義務教育の本質を現している。民主主義教育は、民主主義的道徳を核にしなければ成立しない。そのためには、民主主義的道徳を確立していかなければならないのである。

民主主義社会では、個人は、ある一定の要件を満たしたらに達したら、自分の力で生きていくことが義務づけられている。翻って言えば、個人は、要件を満たしたら自分の力で生きていく権利がある。

そして、その要件とは、日本では二十歳という年齢である。二十歳をすぎると、日本人は、権利と義務が発生し、国家の一員として認められる。また、国によっては段階的に義務と権利が発生するような制度にしているところもある。

正式に国家の一員として認めるまでの間だ、国家は、その個人を扶養し、教育する義務が生じる。それが義務教育の根拠である。この様に、義務が制度を産み、制度が権利を育み、民主主義国は、制度によって支えられているである。

社会は、人間が、個人として自立できるまでの間、養育する義務がある。翻って言えば、人間は、生後一定期間、何らかの庇護がなければ生存できない存在だと言う事を前提としている。民主主義を考える時、この事は、決定的な要因となる。つまり、民主主義社会においては、人間は、生まれながらに個人としての権利や義務を有しているのではないという事である。また、民主主義は、自由は、生得のものではなく、後から与えられるものだと言う事である。

個人は、人間としての属性を持つ。人間は、生まれた直後は、他者に依存しなければ、生存できない生き物である。だから、人間は、必然的に社会的動物となるのである。つまり、人間は、生きている限り、迷惑をかける事を前提とした存在なのである。

このことから見ても迷惑さえかけなければ、何をしても良いという論理は、個人主義社会においては、成り立たないのである。

教育は文化である。社会の中で生きていく為には、人間関係に関わる基本的な知識や技術を身につけなければならない。民主主義国の教育の根幹は、民主主義社会の中で生きていく為に必要な、技術や知識を習得させることである。そして、その知識や技術は、絶対的なものではなく、その社会固有のものである。故に、教育は、文化である。

なぜ、学校なのか。民主教育の現場は、学校だけではないはず。

実際、教育の現場で問題になるのは、子供の問題より、親や大人、過程や社会の問題の方が大きいのだ。教育の現場を混乱させ体のは、学校ではない。子供達の置かれている環境や社会である。混乱させている現況が、責任を学校だけに押し付けて、自分達は責める側に回っている。泥棒が、盗まれるのは、油断をしたおまえが悪いと被害者を責めているようなものだ。

当然、民主主義教育は、教育は、学校というかぎられた空間だけで行うものではなく、社会全体でやるものである。世話や面倒を見る世話役が果たす役割が大きい。その世話役の一つの形態が、学校の教師である。しかし、学校の教師のあり方というのは、一つの形態にすぎない。民主主義国の教育は、社会全体で行うものである。

なぜ、競争や争いを否定するのか。民主主義国では、競争や争いを前提としているのだ。そして、競争や争いの治め方、ルールの決め方を教えるのが、教育の場である。さもないと、服従と隷属による支配しか、集団の秩序は保てなくなる。

規律や統制を隷属や服従の象徴としてとらえ、闇雲に、否定する者がいるが、規律や統制を好む者もいる。それを、民主的でないと決めつけるのは、民主的でない。

規律は、強制された時、はじめて、自由と対立する。故に、民主主義においては、契約が、最初に、必要になるのである。

皆、違うという事を前提としているという事だ。子供は、皆同じとか、結局、人間は、皆、同じなんだよなと言う考え方は、民主的ではないという事である。一般化や標準化、平均化というのは、管理する為の資料として有効かも知れませんが、民主主義の基準からは、ずれています。規律や統制の為に一般化や標準化が用いられれば、それは、民主主義教育に反する。

しかし、子供達の社会には、自ずとルールや規律があります。規律やルールがなければ集団で遊べないからです。子供達に、遊びのルールを自分達に決めさせても規律は保たれる。大人の基準で子供達を管理しようとするから、強制しようとするのです。その時、教育者は、暴君となり、服従と隷属を教え込むことになる。

一方で、子供の自主性、意志を重んじてと言っておきながら、もう一方で、服従と隷属を求める。それでは、子供の主体性なんて育つはずがない。

子供達の社会には、子供達の掟や規律がある。ただ、子供達というよりも未成年者達は、その権利や義務に制限が加えられている。制限が加えられているという事は、未成年者の掟や規律を無条件に社会が受け入れるのではなく。何らかの監視下で制限を加えると言う事を意味している。ただ、一方的に大人達の取り決めた掟や規律を押し付ける事は、民主的ではない。

未成年者にたいし、現在の民主主義国は、その権利と義務を制限している。基本的には、彼等の権利と義務は、彼等の保護者との契約を介して履行されている。

民主主義教育の教育の本質は、未成年者に集団活動を通じて経験的に民主主義的手続きを覚えさせることにある。この点を誤解すると義務教育の本質を見失うことになる。

生まれた直後の赤ん坊に、権利や義務を百パーセントあたえるであろうか。生後まもなくの赤ん坊に権利や義務に制限を加えるのは、あたりまえである。成人に達するまでの間、何らかの形で権利や義務に制限がされる。それ故に、彼等には、権利や義務に代わる何らかの強制力が働く。しかし、その強制力は、服従や隷属を強いる目的で働くのではない。ただ、権利や義務の力が働かないからである。

何でもかんでも、子供の自主性に任せることを自由教育だと、はき違えている者が居る。自主性というのは、自己が、確立されていて言えることだ。生後一定期間、自己が確立されていないことを前提に義務教育があるのだ。その前提を無視して、自主性、自主性というのは、無責任である。

教育の力は、この強制力である。つまり、教育の目的は、自立させるためにあるのであり、服従や隷属を目的としたものではない。教育期間中は、いわば仮免中みたいな者である。その間に、集団のルールを教え込むのである。

子供達の社会は、いわば原始社会である。そのままでは、現代社会に通用しない。だから、それを上手く導くのが、教育である。その過程で強制力が働くのは、当然である。しかし、それは、服従を教え込むための、いわば、調教のような強制であってはならない。

まだ自己が確立されていない人間に主体性を求めるのは、かえって残酷である。だからといって無条件な服従を求めるのは、民主主義の本旨からはずれる。

義務教育の目的は、自立した、つまり、自由な個人の確立である。