個人主義者にとって自己否定は、最も忌むべき行為である。故に、いかなる理由によっても自殺は、許されない。ただ、医学的に見て主体的な意志を喪失している場合は、死に体と見なすべきである。むやみに延命をするのは、意味がない。重要なことは、主体的な意志である。

個人主義者は、どのようなり事由でも、死を、目的化してはならない。死は、結果であって、それ自体が目的となることはない。
自由か、しからずんば、死かという岐路に人は立たされることがある。その場合でも、目的は、自由である。自ら、死を望んではならない。
殉教は、信仰の自由を貫いた結果であり、死によって救済されることを目的としたら、その瞬間からその意義は失われる。殉教の名に価するのは、信仰の自由によるものだけだ。

個人主義とは、ありていにいえば、個人の幸せを追求する事だ。個人の幸せとは、自己の幸せを指す。自己の幸せとは、自己善を追及することによって、自己実現を成就することである。
よく、自己中心というと、自己の欲求を、最優先する考え方とだ錯覚している人がいる。そういう人達は、自己中心的という考え方に否定的にならざるを得ない。つまり、自己中心と言う事は、自分さえよければ、他人なんてどうなってもいいと言う考え方に要約されると思いこんでいる。そう考えている人達にとって、自由とは、ただ自分のやりたいことを、誰にも、なにものにも、邪魔をされずに、やりたい放題、やることだと言う事になる。自分の欲望に忠実に、他人が傷つこうが、迷惑しようが、我、関せず。そういう身勝手な行為や生き方が、自由だと考えている。衝動的な欲望に身を委ね、刹那的な快楽に、溺れるそういう生き方が、自由なのだと思いこんでいる。世の中の常識やモラルなど自由の妨げにしかならない。ありとあらゆる規制から解放されることが、自由なのだと、主張する。言論の自由とは、何を言っても許すことだと彼等の多くは訴える。しかし、そのような姿勢こそが、言論の自由を、危機に、陥れることになる事を、彼等は、気が、ついていない。
誰にも遠慮せず、自分のやりたいことを、やりたいようにできれば、本当にそれで、自己の幸せは、実現できるであろうか。幸せになれると考える者がいるとしたら、彼等は、自己の存在と他との関わりを無視するか、認識できないと言う前提の上に成り立っていることを忘れている。自己と他との関係を無視したり、認識できない事は、自己と他とを区別できない事を意味する。自己と他とを、区別できないという事、自己を認識できないことでもある。自分を理解できない者が、どうやって自己の幸せを追求することができるであろう。自由といいながら、結局、不自由を招いているに過ぎない。
人は、生かされている。自分は、生かされているのである。自分を生かすものを知らなければ、自分が生きる意義を知ることはできない。