我々の住む世界は、意識が創り出した世界である。故に、意識を変えなければ、世界は変わらないのである。
自己の内的世界とは、意識、観念の世界である。それに対し、外的世界とは、物質的世界である。この二つの世界を結びつけているのが、自己の肉体である。言い換えると内的世界は、意識が創り出す場であり、外的世界は、物質が生み出す場である。この二つの場は、それぞれ独立していて、お互いに直接作用を及ぼすことはない。独立した場であるという事は、肉体に及ぼす法則も全く独立しているという事である。この二つの場に、作用するのは、自己の肉体の運動である。そして、自己の運動の自由を実現するためには、二つの場の作用が相反しないように場に働きかける事である。故に、自由主義者の行動は、常に、自己の内的な世界、外的な世界、双方に働きかけるものでなければならない。
また、物質的な場は、物理的な場と人為的な場の二つがある。物理的な場の作用は、人間の力で変える事ができない。それに対し、人為的な場は、人間の意志が作り上げた場である。問題は、この人為的な場なのである。
人為的場は、意識が生み出す場である。人為的場は、自己が内的な世界を肉体や行動を通して、外的な世界に表現することによって生じる。人為的世界は、自己実現の過程で意識の働きによって造られる世界である。言い換えれば、人為的場は、個人の行動が創り出す場である。つまり、人為的場は、個人の意志の働きによって意識的に造られる場である。そして、人為的場は、物質的な場に属しながら、意識が生み出すという特異な性格を持っているのである。
自己の価値基準というのは、基本的に、自己の位置と運動と関係から成り立っている。それは、自己と他者との距離と行為と働きに還元される。働きとは、作用であり、そして、働きは、力によって測られる。さらにこれらは、質と量と密度によって分析される。この位置と運動と関係が自己の内部に取り込まれた時、意識は形成されるのである。
相対的だという事は、比較対照によって意識は成り立っているという事である。つまり、何らかの比較する対象がなければ、意識は、成立しないことを意味する。このことによって、意識は、自己と他との関係によって生じる事がわかる。
この様にして形成された意識が、外的世界へ肉体や行動を通じて表出し、他者と関わり合いを持った結果、人為的な場が形成される。必然的に、この様な人為的な場を支配しているのは、他者との力関係となるのである。このことを見てもわかるように、自由を実現するためには、他と自己との関係が重要なのである。
人為的な場の働きと意識の働きが相反していると人間は、自由を阻害されたと感じる。人為的な場も意識も個人の力で変えられる。ただ、意識は、自分が変われば、変わるが、人為的場は、自己以外の他者を変えなければ変わらない。それ故に、自己は、他者に働きかけて人為的場を変化させようとするのである。
個人は、他から独立した存在だが、自由は、他との関係から成り立っている。そこが個人主義と自由主義の違いだ。つまり、個人主義は、自己の自立に重きをおくが、自由主義は、自己と他との関係が重要となるのである。
自由主義で最も重視するのは、均衡である。
善は、絶対的な基準ではない。善という価値観は、意識である。また、善という価値観は、意識が産み出す。つまり、善は、一つの基準であると同時に、何らかの比較対照すべき対象が、あって成立するのである。善は、絶対的な基準ではなく、相対的な基準である。
相対的な価値観を絶対的なものに置き換えた時、自己は、拘束され、自由は失われる。しかし、価値観は、自己の主体性の要、座標軸である。価値観が揺らげば、主体性も揺らぐ。融通の利かない価値観では、頑なになり、さりとて、信念がなければ、自分を保てない。故に、自由になるためには、絶え間なく、内省し、自己の価値観の不備を正していかなければならない。それと同時、常に社会に働きかけ、社会の変革を促す必要がある。その二つの働きが均衡したところに自由主義の理念がある。