個人主義者の前提は、個人の善と理性と自制心である。個人主義国では、自立した自己を持たない者に権利は与えない。なぜならば、主体的な意志を前提とするからである。これが確立されていない者を、自立した個人としては認めない。故に、一定の要件を満たさない限り権利を認めないのである。
自己が確立できない者は、自己に代替えとして仮想的自己を作り出す。この仮想的自己が自我である。
自己の主体性を保持しつつ、自己を客体化する為には、自己に対する認識を一度、外部の対象に投影し、それを再度内部に還元する必要がある。その過程で、仮想的自我が入り込むと利己主義が派生する。鏡に写った自分を自分の本体だと思いこむ。その鏡に写った自分の姿が自我である。
そして、この自我に対し自己と同じように振る舞う。その為に、自己の属性は、そのまま、自我の属性となる。
自我には、実体がない。つまり、虚である。虚であるから、むなしい。故に、利己主義者は、自己よりも、地位や名誉、権力、名声、富、欲望といった自己の属性に価値を見いだす。虚栄心である。その結果、属性によって本体が、乗っ取られたり、消されてしまう。
この様な、虚である擬似的な自己によるかぎり、自己の主体性も価値観も保てない。結果、自制心を失い、自分を制御できなくなり、感情や欲望によって暴走することになる。これが、利己主義の実態である。
結果、同じ行為でも、そのよって立つ所で、正反対の評価が下される様な現象が起こるのである。
近代的な合理主義は、自己の主体性を前提としながら、全てを客観視する事を要求する。それが、自己矛盾を引き起こすことになる。これが、近代合理主義の自己矛盾の原因である。
本来、個人主義的合理主義とは、個人の主体性を前提としつつ、客観性を実現することにある。科学的合理精神がその典型である。科学者の主体性を前提としつつ、科学的合理精神を実現する為に、全ての命題を仮説とするのである。そして、全ての認識を相対化したのである。それによって合理主義のもたらす誤謬を防いだのである。
科学ですら、全ての命題や法則を仮説とすることにより、主体性を前提とつつ、法則や命題を客体化しているのである。つまり、仮説とすることによって自己の主体性を前提としつつ客体化しているのである。