家のドアを開けて入り。居間のソファーに深々と座る。確かに、世間はコロナ騒動で右往左往している。しかし、自分たちの生活が貧しくなったといわれても、どれほどの実感が持てるだろう。
テレビは、連日、コロナの話を繰り返している。飲食業や観光業が壊滅的な打撃を受け、GOTOトラベルやGOTOイートの話題で持ちきり。失業も増えていると騒いでいるが、物価が著しく上昇するわけでもなく、物不足になっているわけでもない。外出、外食を控え、海外旅行ができないといった事を除けば、生活に何ら支障があるわけではない。
だから、非常事態を解除するというと、観光地は、途端に人で溢れ出す。
この実感のなさ、自覚のなさが、怖いのである。かつての日本人は、自分たちは、貧しい国だ、小さな国だという自覚があった。
司馬遼太郎は、坂の上の雲の冒頭「まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。
小さなといえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。
産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の間、読書階級であった旧士族しかなかった。
明治維新によって、日本人ははじめて近代的な「国家」というものをもった。誰もが「国民」になった。」と述べている。
我々が子供の頃には、敗戦の記憶も生々しく、日本は、貧しくて小さな国だという自覚があった。
それが今の日本人にはない。バブルの頃からか、日本人は豊かな国だという、大国意識を持ち始めてしまった。そして、周辺国を見下すような傲慢な国になってしまった。
しかし、日本は、本当に豊かになったのだろうか。
日本は、高度成長、否、明治維新から欧米列強を追い付け追い越せとひたすら走ってきた。その過程で、敗戦を経験し、それから復興し、経済力において世界で一定の地位を築く事が出来た。しかし、それもバブルが弾けると泡と消えてしまったのである。
バブルも一夜の夢。いい加減、目を醒まさないと日本人は、日本人であることも忘れてしまう。
バブル時代。日本人が見たのは、それは、為替が生み出した幻想にすぎない。
日本人の心を蝕んだのは、バブルである。金が生み出した実体のない繁栄だった。「根拠なき熱狂」。
バブルが弾けって三十年も経とうというのに、日本は、豊かな大国だという意識を引き摺っていて、自分たちの貧しさに気が付かない。いや、気が付こうとしていない。認めようとしていない。それが事態をますます深刻としている。
我々は、貧しい。その貧しさを認めないで、ただ、気位ばかり高く振舞うから、世界の物笑いになるのである。
日本は、貧しい事を自覚していた。だから、なりふり構わず、ひたむきに努力し、研鑚した。貧しい事を自覚してはいたが日本人としての誇りは失わなかった。そのひたむきさと誇りが、日本を向上させてきたのだ。
何が日本を貧しくしているのか。それは、日本人の心だ。いわれなき自信、思い上がりである。
貧しい事を恥じたりはしない。実力もないのに傲慢な態度でいる事を恥じるのである。
ジワリ、ジワリと実感もないままに日本は貧しくなっている。見せかけの繁栄が日本を弱らせているのである。
怖いのは、国難に立ち向かっていこうという気概や誇りを日本人が失いつつあることだ。美辞麗句で自分達を納得させられるうちはいい。
しかし、貧しさが染み透った時、自分をすら納得させる事もできなくなった時。
日本人は、日本人としての誇りを失い。
ただ、大国の憐憫に縋るしか生きられなくなるのではないのか。私は、それを怖れるのだ。
貧しくとも、自分の力で自分達が生きる道を切り拓く。その気概だけは失わないでほしい。
それが私の切なる願いだ。