自己の内的規律と自己制御によって、外的な制約と自己の行動とを、調和させるそれが、自由を実現した状況である。外的な制約を事前に認識、それに、内的な規律と自己制御によって自己の行動を適合させる事ができれば、自己の行動は、外的な制約から受ける影響を最小限にすることができる。そのためには、外部の制約が、一定の法則を明らかにしておくか、法によって予め定められている必要がある。法則を明らかにしようとするのが、科学であり、法によって自由を保証実現しようとするのが民主主義である。必然的に民主主義は、法治主義となるのである。同時に、個人主義者の信条は、自己の自由を保証しているかぎり遵法である。
言論人が自制心を失えば、言論を規制しようと知る動きが表面化する。エゴのために、言論の自由を標榜することは、言論の自由の名の下に言論の自由を否定する行為である。それは、個人主義者が最も嫌う自殺行為、自己否定である。個人主義とは相容れない考え方である。しかし、本当に自己から発したものか、自我から発したものかを見極めるのは難しい。そこに、立法は、主権者の基本的合意という民主主義の原理が働くのである。
個人主義社会においては、神も善も自己に帰属する。必然的に、個人主義社会は、神と善との葛藤の場となる。それを調整するのは、合意に基づく法しかない。結果、民主主義社会は、契約に基づく法による支配に依拠するのである。しかし、根本は、個人の神であり、善である。
葛藤の場と言うより、修羅場といった方がいいかも知れない。つまり、個人主義社会は阿修羅道なのである。だから、法が重要な役割を果たす。個人主義世界は、決して平和な世界ではない。故に、個人主義者が重視しなければならないのは、理性と自制心でなのである。個人主義世界から理性と自制心が失われれば、たちまち修羅場と化す。もともと、個人主義者は、この世を戦い、競い合う場である事を前提としているからである。それが、近代民主主義であり、自由主義の本質である。
故に、強い志である意志と相手を許す愛の二つの力が、必要となるのである。故に、個人主義の本質は、意志と愛なのである。
神も信仰も、個人に帰属する。神は、自己の内にいます。内なる神に対する信仰は、自己に帰属します。個人は、自己の化身であるから、必然的に神も信仰も自己に帰属します。
思想も信条も、個人に帰属する。思想、信条は、自己の属性です。個人は、自己の化身であるから、必然的に、思想、信条は、個人の属性であり、個人に帰属します。
道徳も礼節も、個人に帰属する。善は、自己善です。
意志も愛も、個人に帰属する。意志も愛も自己の属性です。個人は、自己の化身です。故に、意志も愛も個人の属性であり、個人に帰属します。
法は、最低限度の取り決め。
道徳や礼節は、個人に帰属するものであるから、これを法をもって規制することができない。
自己の内的規律を尊重し、直接、触れられないからであり、最初から、礼儀や道徳、神を否定しているわけではない。むしろ、個人主義は、個人の理性や自制を前提としているのであり、これらに対する信頼が失われたら個人主義は成り立たない。
故に、個人主義は、勝手気儘とか、我が儘とか、身勝手、放縦という考え方の対極にある。個人主義者は、心身を鍛練し、礼節を尊び、義を重んじ、情に篤く、常に、清潔である事が、求められる。しかも、自由は、鍛え抜かれた肉体と精神がもたらすのである。
信念や信条がなくなると、つきあいとか、配慮といった人間関係上の問題だけが残る。そうすると、気配りとか、迷惑といった基準がモラルにとって代わるのである。しかし、そのような基準は、自己の主体性から出たのではなく、人間関係から生じた基準である。そのような基準に準拠すれば、自己の主体性は失われる。処世術の危険性がそこに潜んでいる。処世術は、所詮、処世術である。根本に自己の信念があって意味がある。信念もないのに、処世術ばかり覚えれば、自己は失われる。
個人主義者の結婚は、愛によって成り立つ。婚姻制度によって成り立っているわけではない。婚姻制度を成立させている、主な要因は、経済的、社会的な都合や必要性である。つまり、結婚生活は、愛だけで成り立っているわけではなく。生活を伴にする事や、子供を産み育てるという実利的な問題から、婚姻制度は発生しているのである。特に、育児は、婚姻制度を成立させている最大の要因である。しかし、このような経済的、社会的な要因も、個人主義社会においては、結婚生活を継続させるための絶対的な条件ではない。愛があれば、法や制度に縛られることなく、実質的な結婚生活を営むことが可能なのである。