民主主義国にとって手続きは、重要である。
言論の自由は、強い自制が求められる。犯罪を誘発したり、反社会的な言動を野放しにすることではない。もともと、自由主義社会は個人主義社会であり、契約社会である。つまり、最低限の合意に基づく社会である。公共の秩序や法は、合意において成立している。いかなる思想も何の規制も受けないと言うのではない。幼児を性の対象にしたり、犯罪を誘発したり、援護するような思想は、規制されてしかるべきである。重要なことは、社会的な合意があるか否かである。
そのために、手続きが必要なのである。
契約社会では、契約によって作られた人為的な空間に、一定の手続きに従って定められた法による力で場が形成される。それが、契約社会である。
契約は手続きである。というより、契約は、手続きによって守られている。
手続きを無意味なものと考える者達が居る。しかし、意味のない手続きは存在しない。仮に、意味のない、また、意味を失った手続きがあれば、それは、不要な手続きであり、廃棄されるべきものである。本来、どのような手続きにも意味がある。
もし問題があるとしたら、現に行われている手続きの形である。
手続きは、形式である。故に、民主主義の本質は、形式主義である。形式がこれほど重要なのであるから、形式の悪い手続きは、最悪である。
意味のない形式は、骸である。骸のような手続きが増えれば、手続きを支える体系が崩壊する。民主主義の危機は、以外にもこの様なところにも潜んでいる。官僚制度や民主制度が機能しなくなるのは、手続きが煩雑になる反面に意味を失っていくからである。
この様な手続きを整理していくのも議会の重要な機能の一つである。煩雑になって手続きを放置しておく事は、議会最大の怠慢である。
官僚仕事、お役所仕事で手続きが煩雑になり、手続き無用論が出るのは、議会と官僚機構の敗北を意味する。なぜなら、自分達を守っているのが、手続きなのに、その手続きを理由にして自分達を否定されてしまうからである。
民主主義では、開始の手続きが重要である。
手続きの中で重要なのは、開始の手続きと中断の手続き、そして、終了の手続きである。これらの手続きの上に、招集、解散の手続き。提案、申請の手続き。決定の手続き。審議、検討の手続き。回覧・承認の手続き。公開・周知の手続き。執行の手続き。廃止、廃棄の手続き。修正、変更の手続き。更新・追加の手続き。省略、停止の手続きなどがある。
開始の手続きが重要かというと全員一致を旨とするからである。つまり、最初の全員一致を核にして民主主義は、始まる。一種のビックバンみたいなものである。ちなみに最初の一致は、二人でも言い。ただ、最初の合意がなければ始まらない。そして、最初の合意を契約に置き換えたところから民主主義は始まる。
こうして結ばれた契約は、神への誓約によって力を発揮する。なぜなら、その契約を守るのは、自分であり、契約者に証明しなければならないからである。民主主義国において裁判や任命式の時、宣誓を要求される根拠がそこにある。
誰もが、自分の信じる神にかけて誓約をするのは、ただ単なる儀式なのではない。契約は、相手に対してだけでなく、自らに対してもなされるからだ。
この様な手続きは、決して欧米や民主主義に限ったものではない。三国志に出てくる劉備、関羽、張飛の桃園の誓いも同様な開始の手続きである。
そして、民主主義は、最初の権力者が権力を制度に委譲する手続きから始まる。
そして、民主主義社会は、法によって守られている。法は、手続きです。故に、民主主義社会は、手続きによって守られている。
手続きは、論理です。法の整合性は、論理によって検証される。故に、法の無謬性は、手続きによって証明されなければならない。つまり、手続き的裏付けのない法は、無効である。
また、個人の権利は、手続きによって守られている。民主主義国においては、手続きは、全てといっても過言ではない。
このように、民主主義は、手続きによって支えられているのである。