民主主義国において国家理念は、制度によって現す。中でも、議会は、民主主義の根幹をなす制度である。
民主主義においては、制度の中でも、会議が重要な役割を果たしているのである。民主主義国では、人民を個人の集合体として見なし、統治力は、個人の主体的意志の凝集されたものとするからである。
個人の自由な意志というのは、個人固有の価値観に基づいた主体的な志である。この様な、個人の意志を反映し、調整する場所が会議である。
反権力、反体制であれば、何でも許されると考えている自称知識人がいるが、民主主義国においては、意味のない反体制派は、民主主義に敵対していると見なされる。体制に対する対立は、結果である。最初から、対立を求めたら、話にならない。話し合いが成立しなければ、民主主義は成立しない。対立は、自己主張の結果、生じるものである。それは、あくまでも前提である。しかし、一旦、結論が出れば、それに従うのも、民主主義の原則である。
合意を形成し、契約を結ぶ場が議会である。民主主義国は、契約社会である。故に、民主主義において会議は、中心的役割を果たす。つまり、民主主義において会議は、全ての始源なのである。
民主主義においては、最初は、そこに出席する者の全員一致が必要である。最初の全員一致といっても、最初は、一致しない者は、排除されるから結果的に全員一致となる。また、この最初の全員一致は、暗黙の全員一致である場合が多い。あくまでも、全員一致が必要とされるのは、最初である。二度も以降は、最初の取り決めによって決められていく。また、二回目からは、新たに参加する者は、参加する事で、追認する形によって一致を求められるので、改めて全員一致を求める必要はない。
最初の全員一致とは何か。それは、物事の決め方である。決め方を、最初に決める。最初に決め方が定まれば、次からは、先例に従う。決め方が定まらないと、何も決められない。だから、最初に決め方を定めなければならない。そして、最初に定める決め方は、全員一致でなければならない。
民主主義は、最初に合議制という形で始まる。それは、人民の意志を基本とする意志の現れである。合議制をとることによって直接民意を反映する意思表示をするのである。選挙制度を民主主義の根幹だとする者が居るが、これは、間違いである。選挙制度は、民主主義制度の一形態にすぎない。民主主義にとって選挙制度が絶対に必要だというわけではない。選挙を経ずに直接民主主義という形態をとる事ができる。しかし、合議制は、不可欠な制度である。
皆の意見が違っても良いといっているのではない。違っているのが当然であり、前提としているというだけである。最終的には、一つの意見にまとまるのが理想である。対立は結果であり、原因ではない。対立は可能ならば避けるべきだが、かといって怖れるべきではない。違う意見を一つにまとめ、調整する機関が議会である。望んで対立すべきではない。
民主主義社会は、合意の基づく社会である。合意とは、最低限の一致である。人間関係をまとめるのに必要な、最低限合意である。この合意の取り方、とる場所が重要なのである。
合意とは、人間関係を治める為の最低限の合意である。合意は、思想信条や価値観、私的所有権を侵害する内容を含むものであってはならない。故に、守るべき最低限の合意である。それ以上は、どうでも良いのではなく。尊重するが故に、個人の責任に帰しているのである。これを間違ってはならない。法は、守らなければならない最高元のものではなく最低限のものなのである。法に定められていないから、許されるというわけではない。社会が許したからといってあなたの良心は許せるのか。絶えず、それを自問自答しなければならない。
最低限の合意に基づいて、民主主義国の礎を築き上げるのが議会である。
最低限の合意から、合意を積み上げていくのが、民主主義国である。故に、民主主義国の法は、積み上げなのである。法の上にさらに、個々の契約によって規則が積み上げられる。
日本人は、何かというと規制云々と言うが、民主主義の根本は、合意に基づく法なのである。それ故に、契約や手続きが特別な意味を持ち。議会が、重要なのである。
合意による法を積み上げていく場が議会なのである。