人間に対しいかなる期待も幻想も抱いてはいけない。善人もいれば、悪人もいるのである。いい人も悪い人も全てを受け入れる。それが民主主義である。だから、民主主義の根本は、愛なのである。博愛主義や人道主義は、民主主義を縁の下で支えている。このことを忘れては、民主主義の本質は理解できない。
個人の内部で何が起こっているかを正確に知る事ができない。
法に違反しなければ正しい、何をやっても許される。それが民主主義だという間違った認識が横行している。基本は、あくまでも、その人のモラルなのである。法は、外的圧力にすぎない。
個人の行動を制御するのは、個々人の意識モラルである。
法は、心を映す鏡。
自分が定めた基準で裁かれる。
殺せば、殺され。欺けば、欺かれる。盗めば、盗まれる。
民主主義は、人民を直接的な暴力によって支配しようとするのではなく。法や制度によって間接的に統治しようとする思想である。
民主主義の法や制度は、個人の働きかけによって形成される。そのために、個人の自由を保証するのである。この様に真の民主主義は、個人主義と自由主義に基づいている。
民主主義の根本は、個人の自由の保証である。故に、民主主義の土台は、個人主義、自由主義なのである。民主主義の根本を支えているのは、理性と道徳と自制と主体性である。なぜなら、民主主義の土台が個人主義であり、自由主義だからである。個人主義と自由主義を土台とすることによって、民主主義は、必然的に、法治主義になるのである。
個人を基礎として体制である民主主義は、必然的に個人主義を土台にして、成立している。個人主義を土台にしているという事は、国家、体制の最終的な判断を個人に委ねている。また、個人を基礎単位とする事によって直接的に個人の意志を支配する事は出来ないという事を前提としている。故に、基本的に個人の最終的な判断や行動を決定するのは個人の意志であり、社会や国家に要求される機能は、法や制度によって個人間の問題を制御し、調整する事に限定されている。それが、民主主義の基本理念である。
個人主義を土台にした民主主義社会から個人の属性を除くと人間関係しか残らない。民主主義制度は、勢い、人間関係に収斂する。
人間関係から派生するトラブルに対処するために作られたのが法である。
しかも、個人の行動は、自己善に依拠している以上、予測する事や強制する事が、不可能である。また、理念的にも許されない。つまり、個人の行動は、予測不可能であることを前提として民主主義は成り立っている。故に、外的な力によって、個人の行動を、抑止、規制する以外に手段はないのである。しかし、これは、あくまでも手段の問題である。
全ての個人は、違う価値観で行動している。これは、民主主義の大前提なのである。つまり、ある人間とって正しいことでも、他の人間にとって間違いである場合が多く存在する事を意味する。ここで、問題なのは、善良なのか、悪党なのかではない。価値観が違うと言う事である。この価値観の相違を認め、前提として、民主主義社会は成り立っている。故に、民主主義社会において裁くのは、善か悪かではなく。社会的に、許されるか否かである。なぜなら、善か悪かの判断は、個人の手に委ねられており、それを検証する手段を社会は持たないからである。
故に、民主主義の法は、自白と物的証拠に依存せざるをえないのである。
民主主義における法は、極悪、凶悪を基準に作られるものである。つまり、合意に基づく最低限の境界線を明らかにし、社会の許容範囲を定めたものなのである。それは、民主主義が、個人主義を基礎とした思想だからである。
法のみによって人の行動を律することはできない。法は、消極的な動機によって人の行動を抑止する働きしかない。人の行動を積極的に律するのは、自己善である。
個人の自由な意志を前提としている為に、民主主義は、ここの価値観に直接触れる事なく、個人と個人の関係、人間関係を規制する事によって成り立っている。故に、民主主義は、法治を第一義とし、高度に制度的な体制なのである。
つまり、民主主義とは、一人一人の行動や価値観を直接支配するのではなく、個々人の価値観を尊重しつつ、法や制度をもって、人間関係から派生するもめ事を、抑止しようとする思想なのである。
この様な前提の下に、民主主義とは、個人の自由な意志に基づいた合意を基礎に国家を建設し、運営していこうとする思想である。
法のみでは、人間の行動を規制することはできない。それが、民主主義の大前提である。法は、魂のない肉体のような物である。それに、人民の意志という魂が、吹き込まれて、はじめて民主主義は、生きる。法や制度は、人間が、健康を保ち、生きるために肉体を、鍛えるのと同じように、大切にすべきだが、民主主義の命とは、別の存在である事を忘れてはならない。
法学者の多くが、法を理解する事と、法の条文を解釈する事とを混同している。民主主義における法源とは、法の背後にある人民の意志と現実である。条文を解釈することは二義的な問題である。法の背後にある真実、現実、事実が大切なのである。