自由ほど、曖昧な概念は、あるまい。それでいて、自由ほど、人気のある思想もあるまい。何でもかんでも、自由といえばいいと、思っている。そのくせ、自由とは、何か、誰もわかっていない。
自由とは何か、自由を考えるならば、スポーツを思い浮かべてみればいい。仮に、野球のようなスポーツを自由自在にしたいと思う。では、思い通りのプレーをするためには、どうしたらいいのか。ルールに精通し、技を磨き、体を鍛えその上でスポーツマンシップとか、精神の鍛錬が要求される。
自由は、自己の内面の問題だけで終わらず、外的な世界の問題でもある。それが、自由主義と個人主義との違いである。そして、この時、問題なるのが、自己は、認識主体であると同時に間接的認識対象だと言う事である。そして、もう一つ、重要な点は、自己の意識は、相対的だという点である。
自己が間接的認識対象だと言う事は、自己は、外部への働きかけによって自己を認識する。逆に言えば、自己は、外部へ働きかけないと自己を認識することができない事を意味する。
また、認識主体であり、間接的認識対象だと言う事は、認識の作用は、自己の内面と外界に同時に作用する事を意味する。
自己は、自己の肉体を媒体として自己の内面の世界と外面の世界に、同時に、自己の行為によって働きかける。この様に、自己と内面の世界と外面の世界への働きかけを、認識の作用反作用という。この時、自己の内面の世界と外面の世界を媒介するのが、自己の肉体である。つまり、自己は肉体を通して内的な世界と外的な世界が結びついているのである。
この世が一元的か、二元的かでもめることがある。この場合、この世が一元的であるか、二元的であるかが、本質的な問題なのではない。ただ、人間の意識は、認識の作用反作用によって、二元的にならざるを得ないのである。
また、唯一の体現体と言う事は、自己の肉体を通じてしか外的世界に働きかけることができない事を意味する。
自己は、行動を通してこの世に自己を実現する。そして、実現された自己によって自己の内面の世界と外的世界、双方に働きかけ自己の善を実現させていくのである。自己の行動が内的な世界にも外部の世界にも矛盾しなくなった時、自己の阻害要因がのぞかれ自由は、実現する。自由主義者にとって自己を表現できるのは、自己の行為以外にない。
故に、自由主義者は、行動が全てである。むろん、行動の中には言動も含まれている。行動なき自由主義者は、それ自体で自己矛盾を起こしている。