忙しい、時間がないという人ほど、無計画、記録もつけていないんだよ。
そんなに、忙しいのなら、仕事を整理しようと言うと、そんな暇はないという。
「じゃあ明日の予定を言ってごらん。」と言っても応えられない。
なぜなら、計画を立てていないのだから。
計画もなく、優先順位もわからないで、思いつきで仕事をしていたら、そりゃあ、時間がいくらあったて足りない。
仕事を食い散らかして、収拾がつかなくなる。
なぜ、頭の中を整理しなければならないのか。
頭の中を整理しておかないと、目先の作業を処理する事に囚われる。
作業は、それ自体単独で存在するわけではなく。
復数の作業が組み合わさって成立している。
作業には前後、左右、上下の作業があるから、その脈略を捉え、順序良く処理しないと行き詰まる。
また一つの作業が片付いても、次の作業が派生するから、作業は、限りなく湧いて出る。
終了点が不明瞭だと際限がなくなる。
また、前後左右上下の関係がわからないと複雑に絡み合い、もつれ合って、収拾ができなくなる。
底なし沼のようになる。
最初に整理し、優先順位や手順を確認する必要がある。
整理するためには知っておく必要がある事がある。
入力と出力は、同時にできない。
出力したことはは忘れる。
記憶には限界がある。
自分の限界は超えられない。
自分の事は、自分一人では分からない。
問題を解決するためには、間違った箇所まで遡る必要がある。
だから、アメリカの会計基準は、追跡可能にする事。
自分の頭の中は、外に出さないとわからない。
頭の中を整理するためには、自分の頭の中にある事を全て外に出す、それも書き出す(目に見えるようにする)、必要がある。
一旦、頭にある事を書き出し、分類、あるいは、編集して、再度、頭に戻す。
この繰り返しが学習。
相手がわからないことがわからない。
だから、相手が理解していない事に気がつかない。
やらせてみないとわからない。教える事もできない。
他人の事はよく見えるけど自分の事はよく見えない。
仕事を離れて見れば分かるのに、仕事をしている時は、何も見えなかったなんて。
頭の中を整理する時間はないが同僚と雑談する時間はある。
これらの事を考えると頭の中を整理するのは独りでは難しい。
またあえて一人でやる根拠がない。
自分が注意された時に仕返しをしようなんて思うのは浅はかだ。
注意するのは自分を気遣ってである。
仕返しで注意するのは自分の感情、私情。
それではせっかく注意されても自分のものにならない。活かせない。
学べない。
自分が注意されるのと、他人を注意する事は別。そう考えないと、仕事に私情が入り込む。
克己復礼。
年下の人間の注意はなかなか聞けない。
仕事ができないのは自分が思いあがっているか劣等感に負けているかのどちらかだ。
ビジネスは、ビジネスなのである。
事務的に処理できることは、事務的に処理するようにする。
簡単に声をかければ済むことは声をかけてすませればいい。
挨拶みたいなもの。
挨拶できないと、基本的な人間関係ができない。
挨拶するだけでなく返事をすることも大切で。
返事をできないと人間関係の基礎ができない。
だから、親は子に挨拶を真っ先に躾ける。
挨拶されたら返事をしなければならない。
これを面倒くさいと怠ると後で厄介な問題を引き起こし、かえって面倒くさい事になる。
たかが挨拶と言うけれど、三十過ぎて挨拶しできないと、誰も注意してくれなくなる。
四十過ぎて挨拶ができないと怒られる。
五十過ぎて挨拶ができないと馬鹿にされる。
六十過ぎて挨拶ができないと相手にされない。孤立する。
挨拶で互いにその日の声の状態で、察しする。
返事をすることで応答する。
これってとても大切な事。
でも挨拶は挨拶。至極簡単なことでしかない。
挨拶は、誰にでもできる事。
簡単な事だから、簡単な事だと馬鹿にする。
至極簡単だから、いろいろなことを伝えられる。
挨拶は、犬だって、猫だって、虎や狼、猿でもする。
挨拶は誰にでもできて簡単な事なのに、挨拶のできない人が結構いる。
朝、その日の予定を確認し、変更が必要な事の気がついたら、速やかに作業を組み替えて、関係者に通告する。
これを怠ると事務的に処理すべきことに感情が入り込む。
変更は、わかった時点で必要な人に伝える。
早ければ。事務的に処理できるが、遅いと、遅い事が問題にされる。
遅くなった、理由も聞かれる。
遅くなった理由は言い訳にしかならない。
だから面倒なことになる。
要は信用を失ったのだ。
信用を失えば言い訳しても信じてもらえなくなる。
信じてもらえないから、詮索される。
その為にロス時間が生じる。
ビジネスライクに済まさなければならない事はビジネスライクに処理する。
感情的にならない。
相手の感情を逆なでしない。
言い訳をしない。
ミスは認めて謝る。
余計なことは言わない。
口答えはしない。
迅速に手を打つ。
これは躾、行儀。
協力する気がない人とは、一緒に仕事はできない。
困っている仲間がいても助けようともしない。
リーダーを困らせてばかり。
仕事に私情は持ち込まない。
守れない規則、法は悪である。
足を止めるなとも教えられた。
水鳥は、急流で、止まって見えても、水面下でも足を搔いている。
例えば、会議打ち合わせの日を延長しても、仕事が止まるわけではない。
一週間延長したら、一週間分の作業の追加分が加わるし。
一週間、最初の設定より洗練され、成熟されなければならない。
また、鮮度が求められる資料、情報も、更新しなければならない。
また分析も制度をためる必要がある。
時間を止める事は許されない。
時間が経てばたつほどいろいろな含みも出てくる。
ただ、打合せや会議を、独立したものと考える人は、打合せや会議を凍結してしまう。
一週間たっても同じ構成、同じネタでくる。
一週間前のネタを出してはならない。
一週間前は新鮮なネタでも、一週間たてば腐る。
だから、仕事のできる人は先延ばしを嫌がる。
仕事は継続しているので、止められない。
仕事のできない人は、先延ばしされた事を言い訳にして、仕事を凍結してしまう。
その瞬間、仕事に急ブレーキがかかる。
目の前に示された作業を鷲掴みすると痛い目に合うよ。
できる人,自信のある人は、黙てやるよ。
ああだ、こうだの言う人間はできないか、自信がないか、やる気がない人間。
できる人間、自信のある人間は、黙ってやるさ。
やると決めたら余計なこと言っても意味ない事、知っているから。
だから、「やると決まったんだ黙ってやれ」と。
一番困るのは、やると言ってやらない奴。
あるいは、なんだ、かんだいってはっきりしない奴。
決めなければ、やらなくて済むと思っているか。
先延ばししてやらなければいいと思っている。
「わかりました」と言いて何も決めない。
決めなくてもやらなければ、時が解決してくれるとか。
誰かがやってくれると思っている。
要は、「ママ~」だな。
俺たちは、
「いい年をしてとか。」
「男らしくしろ」と一喝された。
今は、禁句だけど。
決められない奴は感情で行動する。
泣いたり、わめいたり。
とにかく、できない奴、自信のない奴は、なるべく、自分がやらずに済むようにしようとする。
放っておけば、時間が解決すると思っている。
自分がやらなくてもだれかがやってくれると。
チームワークはそいうい訳にはいかない。
一人の怠慢は全体の仕事をとん挫させる。全員に責任があるのである。
俺一人くらいという訳にはならない。
困れば困った人がやってくれるだろう。
困っているのは、困らせている人間以外全員だと気がついていない。
だから、甘ったれるなと。
やって駄目なら、結論が出る。結果がハッキリするから。
少なくとも結果に対して対処できるから。
決めない、やらない。わかっていてやらないというのが一番、たちが悪い。
結果が出るまで何もできなくなるから。
できないって、わからないって、口が裂けても言えない。
それでだれにも相談できない。
子供が注意されるような事を、注意されると烈火のごとく怒るけど。
できないのだから仕方ないじゃない。
そこは素直になろうよ。
七十になったって変わらないよ。
違うのは七十になると年上の人が少なくなって。
年下の注意が聞けなくなるという事かな。頑固になる(笑)
チームはチームなのである。
できない理由は単純にできないからとは、限らない。
できない理由はいろいろあり多岐にわたる。
その一つひとつを潰しておかないといつまでたってもできない。
言い訳に種になる。
間違ってはいけない。誰に対する言い訳か。言い訳の本質は自分に対する言い訳である。
例えば一人ではできない。
一人でできない。当たり前じゃないか。
会社で一人でできる仕事なんて一つもない。
誰も、一人でやれなんて言ってない。
それを一人でできない仕事を俺に強制していると勝手に決めつけ。
それを理由にしてやらない。
何ができないのか、それは聞けない事だ。それを他の人の性にしている。
他の人の性にする前に口にきき方を覚えろ。
人に指図ができない。
何から手を付けたらいいかわからない。
誰に聞いたらわからない。
やったことがない。
資格がない。
事情が分からない。
情報がない等など。
でも突き詰めると挨拶ができない、返事ができない。
質問できない。説明できない。注意できない。
口の利き方がわからない。
つまらない些細な事。
つまらない些細なことが原因でできない、決められない。
親が、三歳の子に躾けるような事を、大の大人に注意しなければならない。
それが深刻な問題の根っこにある。
それで引きこもりになって。
ニートになって。
一生独身で。
自分の怠慢は人の性にするな。
克己復礼。
簡単な、作法ができないから笑いものになる。
それをね、俺たちは落語や講釈、浪花節から学んだんだよ。
与太郎話で。
そこって、それが社会学校なんだ。
なぜ、相手の教えを受け入れられないのか。
この人のいう事は正しい、わかったと思うと、その人に従わなければならない。
だから、偉大な教えに接すると人は恐れるのである。
しかし、正しい教えなら従うのではなく、自分のものにすればいいのです。
だって、納得して受け入れるのですから。恐れる事は何もないのです。