欲望というのは厄介なもの。
年を取ると欲も枯れてくる。
かといって、欲のない人生なんて面白くもない。
年をとると役が枯れてはくるが、反面、抑制心も衰えてくる。
いい年してという事件が新聞を賑わせたりする。
欲というのは、最も人間的な事なのかもしれない。
五十、六十にもなって痴漢なぞの破廉恥罪で捕まったりしたら、目も当てられない。
定年後に女に騙されて、全てを失ったり。
欲に負けて晩節を汚す者は後を絶たない。
きれいに年をとる事が何と難しい事か。
人生の終盤に近付いたというのに欲ボケをして老醜をさらす人が数多いる。
結局、人生の最終局面で問われるのも、自分の欲とどう向き合うのか。
年をとると堪え性がなくなる。
老いてからの欲は、自分の生き様をあからさまにする。
欲の裏腹に、志の問題が潜んでいる。
欲に負けて無様に生き恥を晒せば、これまで、お前の言ってきた事は、なんなのかと糾されてしまう。
昔、親父は、三%で商売が成り立つのは、東京だけだと言っていた。
一千万人の三%は、三十万人、ちょとした地方都市並みの人口だ。
そうなると、オタクを対象とした市場が成り立つ。
それが、SNSだと、結局、異常な世界でも。
欲望は、進化し、分化し、過激化する。
欲というのは闇の世界に通じ、裏社会にも通じる。
明るみに出せない。表に出せない。隠しておかなければならない、人に言えない、秘め事。
つまりは、淫靡で、いかがわしく、背徳な、悪徳なにおいが漂うのである。
清純とは対極にある妖艶さである。
清純ではないが妖艶なのである。妖しいのである。
自制心が衰えるに従って恥ずかしいという感情も衰えるものらしい。
欲に溺れて身を滅ぼすのは愚かだけれど、欲を無くせば虚しくなる。
誠に人生は難しい。
欲は志に通じる。
大欲は、大志を生む。
年寄りの強欲は、醜悪だと蔑まれる。
しかし年をとってからの欲は、若い頃の欲とは違う。
欲は、若さや命の象徴でもある。
年寄りの欲は若さや命への妄執のようなもの。
無欲というのと、禁欲とは違う。
年を取ると欲がなくなるのか。無欲になっていくのか。
一番、性欲が盛んなのは若い時。
年をとっての性欲は、若さに対する郷愁なのかもしれない。
権力欲は、老いても盛んと見え。アメリカでは八十近い老人が大統領の座を争う。
中国でも、ロシアでも、還暦を過ぎた老人が権力の座にとどまる。
どんな欲だって、人生を狂わせるだけの魔力を持つ。
食欲も、物欲も、人間の生き方そのもの変えてしまうだけの力を秘めている。
猫に小判、豚に真珠というけれど。
猫は小判の為に、殺したりはしないし。
豚は、真珠の為に仲間を売ったりはしない。
小判の為の殺したり、仲間を売るのは、人の欲の性。
欲は、人生を狂わせる。
欲の中でも、性欲は、特に、度し難い。
性欲は抑えがたく、暴力的で、破壊的だ。
荒々しく、猛々しい。
性欲は、闘争心を生む。
争い、諍いの種。
性欲を顕わにすのは、いやらしいことで、下品、悪徳とされながら。
性の強さを誇示したくもなる。
だから、性に関わる話は、猥褻なのだ。
どうも、犯罪の影には欲があるようで。
要は、飲む、打つ、買うで、飲むは、酒、うつは博打、要は金。買うは女。
いずれにしても、根本にあるのは欲。
欲は快楽を伴う。
だから、修道者は禁欲する。
禁欲すれば、欲から逃れられるのかというとそうでもない。
禁欲しているはずの聖職者が欲におぼれることがままある。
また、聖職者のほうが、欲深い事がある。
欲は生きていく上で不可欠な力である。
故に欲は快楽を生む。快楽によって欲は発揮される。
しかし、欲が強くなりすぎると自分のみならず、周囲の人間も破滅させてしまう。
だから、自制心が求められる。
欲をかくのは悪い事ではないが、自制心を失い、我を忘れるのはいけない事。
食欲は生きていく為には不可欠な欲だけれど。
今の日本人の食欲は、生きる為というより、道楽で。
飽食の時代と言われてから久しい。
テレビ番組を見ると浅ましいほど、グルメ番組が氾濫している。
食欲は食べる為というより、食べる快楽のためにと言ったほうがいいのかも。
こうなると食欲も業になる。
餓鬼である。
足らざるは貧なり。
満ち足るを知る事だ。
しかし、容易に満足できないのが人。
抑制心は、人間だけがあるわけではない。動物にだってある。
むしろ、動物のほうが人間より強いくらいだ。
人は、知恵を知恵をつけた。
知恵によって、自分で、選択する自由を得た、その代わりに、道徳や法によって、行動を抑制する事を覚えた。
人は動物の事を欲望だけで生きる獣というけれど。
よほど、動物のほうが自制心がある。
自制心をなくせば、野生動物は生きていけないのだから。
むしろ、人が自制心を失って何をやっても許されると勘違いした時、真の危機が現実となる。
見境がなくなってしまうからだ。
人間が一番、欲深い生き物だ。
理性があって、欲があるのではなくて。
欲があるから理性が働く。必要になる。
欲は、暴虐だ。欲の荒々しさを抑えるのは、愛なのか、理性なのか。
欲には、常に、死の影が付きまとう。
それは、欲こそ生々しい命に対する活力だから。
仏教では、欲は三つある言う。。
一つは、物欲であり。
二つ目は、生きたいという欲であり。
三つ目は、死にたいという欲。
欲が生に関わる事を意味してる。
欲は生と死の間で揺れている。
不思議なことに、年をとるとかえって死が怖くなり、生への執着心が強くなる。
死への恐怖は、死ぬときの苦しみによるのか。
死後の世界に対する恐れの為なのか。
自分の犯した罪に対する恐れなのか。
確かに、宗教にせよ、哲学にせよ、最も、深い部分にある問いなのかもしない。
死後の世界をどう設定するのか、人間いかに生きるべきかの、大前提になる部分だから。
ところが、そこが曖昧模糊として、漠然としている。
だから、自分が決めたことを信じる以外なくなる(笑)
そいつが、いろいろな神を生み出す原因にもなるし。
信仰上の争いの本にもなる。
神は罪作りなとも言いたくもなる。
じゃ、その答えはいらないと、それも困る。悩ましい事である。
性欲は煩悩の極み。
平安な生活も、一瞬にして修羅場に化す。
欲望に従って、このよの決まりも、道徳も、ことごとく無視しても、死後の罰せられることがないのか。
それとも地獄に堕ちるのか。
因果応報となるのか、この世の行いは関係ないのか。
この世の不条理な差別も、残虐な仕打ちも、どこかで報いがあるのか。
結局、神のみぞ知るなのか。
ならば、自分にとって幸せを追い求め、欲に負けずに生きていくしかない。
なぜなら、自制心を失う事は、罪作りだと思うから。
欲は、罪に直結している。
罪の本源は、欲にある。
それは、神によるのか、人によるのか。
少なくとも神のせいにしたところで、何も解決できない。
欲は己から発する事。私欲なので。
私利私欲なのである。だから、忌み嫌われる。
つまりは、欲の本源は。神でも、公でもなく。
私なので、負うべき責めは、わたくしに帰す。
確かに、しかし欲を人に与え合たのは、私ではない。
欲がなければ、人は生きられないようにしたのは、誰なのか。
貪欲、強欲は罪だ。貪欲、強欲こそ罪だ。
悪いと知りつつ。抑えられない事を罪とする。
悪の根底に欲がある。
猥褻とは歪められた意志と言える。
故に、欲は、罪悪感の源にもなる。
だから自分の欲が顕われた時、罪悪感に囚われ恥ずかしいと感じる。
欲望を抑えられずに、自制できない事を罪と捉えるから。
快楽の誘惑に負けて自制できない事に罪を見る。
また、醜いとも感じる。
特に性欲は。
だから、古来、性欲には、多くのタブーや禁忌、制約がある。
人間一人ひとり、差も違いもある。
人は皆違う。
差や違いがあるから不平等なのだと言うのではない。
むしろ、差や違いを受け入れるから平等になれる。
性欲にも個人差がある。個人差を認め受け入れるから、平等は成立するので。
個人差を受け入れなければ同性愛も受け入れられなくなる。
個人の差や違いを認めなければ平等は実現できない。
そうなると、どこまでが許容範囲かの問題だ。
どこまでなら、許されるかが、問題なのだ。
ジャニー喜多川のやった事は、重罪だ。
小児愛。
近親相姦。
売春。
獣姦は、許されまい。
性欲は相手がいるからだ。
欲の中で性欲が他の欲と違うのは、性欲は人と人の関係の上に成り立っている事だ。
自分の欲望を暴力的に相手に押し付ける事は許されない。
強姦は罪深い。
それは己の欲望を抑えられずに、欲望のはけ口を、弱所に押付け、相手の人生や魂まで汚し、めちゃくちゃにするからだ。
相手の人生の深い傷を残してしまう。
制と愛は、不可分の問題だ。
強姦程、傲慢な行為はない。
それなのに、強姦はなくならない。
こうなると、人間の業なのかもしれない。
男と女では、欲のあり方に違いがある。
それが、様々な、世の中の歪を生む要因なのかもしれない。
それは、互いの差や違いを認めようてせず。
自分の価値観を強引に、暴力的に相手に押し付けようとするからだ。
男は雄である。
雄は、人間以外の動物だって暴力的に争い、或いは競い、奪い合う。
欲望をむき出しにする。
それが生殖本能で、子孫を残す事につながる。
年と共に欲は衰え、穏やかになるはずだが。
現実はそうともいかない。
衰えた欲を補うように、薬を開発したり。
衰えていく欲に執着するようになる。
知人が癌で余命がいくばくかになった時、好物の寿司か食べられなくなった。
寿司が食べられなくなったらお終いですねと寂しそうにつぶやいた。
それから、しばらくして彼は逝った。
食欲がうせたら、生きる気力もなくなったのだろう。
生きているうちは、無欲にはなれない。
老いてからの欲は、微かな快楽に対する執着心、未練から。
老いてからの性欲は、生に対する執着。
残飯を漁るようような事。
だから、見苦しくなる。
きれいの年をとるのは難しい。
年寄と若者の性欲も違う。
若い頃の欲望は、抑えきれない。
若い頃は、我慢、我慢と、自分を抑えることを学ばなければならない。
欲は、人と人の関係に常に、緊張感感をもたらす。
嫉妬や妬み、偏愛、愛憎、変質、ストーカー等など。
しかし、欲は、最も、人間的の事と言えるのかもしれない。
禁欲するほど、欲は悪い事なら、何故、人間に欲は与えられたのか。
欲がなければ、人間は、どう生きていけるのか。
やれ、低俗の、下品の、不道徳の、不潔と言いながら。
商売の種に使われるのは性欲。
猥褻なことほどよく売れる。
いよいよ生活に困ると、性を商う。
性欲にはそれだけの魅力、魔力があるのも否定はできない。
古今東西、性欲は犯罪者を引き付ける。
賢人であろうと、成人であろうと、君主であろうと、誰だって人には欲がある。
人に言えない欲がある。
なぜなら、欲がなければ人は生きられないから。
突き上げる衝動的な欲望。それをどす黒いと多くの人は表現する。
神に背かせる圧力だと。
確かに、欲は、人に生きる希望を与えもする。
欲があるから。新な事に挑戦したり、向上心を持ったりもする。
夢だって、見方を変えれば欲の産物といえる。
欲との付き合い方、欲と格闘する事で、人は、人間らしくなっていくので。
欲は、エロスで、生々しく、生臭い。
命に色や臭いを欲はつける。
だからこそ、欲をむき出しにするのは気恥ずかしく、怖い。
だから、邪な心を断つことが修業なのである。
欲に関わると、下品で、低俗だとされる。
聖純な事の対極にあり、清純さを汚す事、それこそが邪悪な欲だから。
淫らで、卑猥。不純で、不正、不道徳な事とみなされる。
淫らな匂い。
欲は匂う。臭い。
それは香しい匂い、清らかな匂いではないが。
なぜか、人の心を惑わし、迷わせる匂いでもある。
その匂いこそが、人間のエロス、魂の本質なのかもしれない。
自由になるためには、欲望から解放されるのか、罪悪感から解放されるのか。
いずれにしても、自制心が鍵となる。
欲を放つことを自由だと錯覚している人かなりいるけど、欲を放っただけでは自由にはなれない。
ただ欲望のままに生きる事を自由というのではないから。
むしろ、欲望に囚われているにすぎない。
欲を克服してこそ、人は自由になれる。
やはり欲とは、諸刃の剣。
欲を弄ぶことを火遊びという。
ほどほどに、嗜む程度に欲をかくのがいいのだろう。
純なるものと、不純な事。
純な事とは、混じりけのない。
不純とは、邪な気や心が混ざる事。
純なる事、邪な心で捻じ曲げてしまう力は、欲である。
忌まわしい罪のにおいがするからだ。
罪深さは、恥を生む。
罪は後ろめたさの要因でもある。後ろめたさから、羞恥心が生じる。
そして罪の根底には欲がある。
欲は、廉恥心と羞恥心をの生む。
欲の話を人前でするのは、恥ずかしいと感じるようになる。
欲は忌事となる。
悟りを欲する事も欲。
釈迦が、生病老死の真実を知りたいと欲したのも欲。
欲は欲。
その欲が仏教を生んだ。
欲をなくせばいいというが、真実を探求したいと欲するのも欲。
釈迦は、真実を追求したいと欲をかき。
難行苦行の末に、欲に囚われる心を捨てや時、菩提樹の下で悟りを開く。
しかし、それも欲のなせる業。
話を戻そう。
私も、年と伴に欲が衰えていくのを感じる。
これは、感じるというより、現実に肉体の衰えも意味するのだろう。
年をとると権力者が狂うのも、欲が衰える事からくる恐怖からなのかもしれない。
若い頃、美しかった人が年をとると欲で醜く変貌するのも。
白雪姫に出てくる、継母の王妃の様に。
だからこそなのかもしれない。
欲というものの正体が見てみたい。
欲を忌み嫌うだけでなく。
どろどろとした底にどんな魅力が潜んでいるのか。
欲が衰えた今こそ、欲とうまく付き合う事。
ただ、遠ざけるもなく、年甲斐もなく、欲にまみれるのでもなく。
ささやかな欲を味わいながら、残された命を燃やすことを考える。
品位のある欲とはと考えながら。