親父は、何度も戦場で生死の境を潜り抜けてきて。
多くの死に立ち会ってきました。
その親父は最期の最後まで生きようとして。
その親父が生前、自殺者を見て、「度胸があるな、俺はおっかなくて」と言ってました。
親父たちは、それでなくとも死を身近に感じて生きてきた。

昔は子だくさん。十人以上も子を産んでも、成人に達するのは、一人か二人。
学生だって多くが結核で命を落とす。
兵隊にとられば、多くの戦友が死んでいき。
だから、無常観、切なさを実感していた。
詩も文学もその切なさ、無常観の上に成り立ち、多くの共感を得ていた。

ところが今や少子高齢。
自分の年でも、同級生の物故者の数は知れたもの。
そうなると死はどこまで行っても他所事、他人事
自分の事、自分の人生の延長線上ではとらえられない。
だから、信念や志に殉じるなんて別世界の事でしかない。
自分の思想や国に殉じるなんていう大義が死とは結び付かない。
思想や国のために命を捧げるなんて想像もつかない。
どんな汚い事をしても生きる。
その延長戦でしか思想も信念も語れない。
だから、所詮、金の為に生きていると。
金の為なら何でもするが、世のため人のために命なんてかけられるか。
なぜなら、金でしか、人生の実感を図れない。
志なんて、金の重さから見れば、軽い。
なぜなら、志に命を懸けていないから。
友との約束、誓いなんて、慰謝料ほどの価値もない。
でも、死こそ、現実なのです。

死と隣り合わせと言いますがね。
今でもそう言いう環境に生きている人間が何億人といる。
それが現実ですが。今の日本人は、その現実が受け入れられない。
それで、近親者が死ぬと驚愕する。
変化を受け入れられないで、今の状態が未来永劫続くと思い込んでいる。
死どころか、老いも受け入れられず、衰えも認めようとしない。
だから、成長も向上もしない。
そんな状態が、何十年も続いたら、どうしようもなく怠惰で、馬鹿な人間になる。
何が一番怖いのか。自分が怠惰で馬鹿になったことを認めず、周囲の人を見下していることで。
だから、今の、日本は、余命宣言をされた後、ドラマが始まる。
確かに医療技術が進んだからとはいえ。
敗戦以前には、そんな文学は成立しなかった。
なぜなら、戦前は死をストレート、受けいれていたから。
死と隣り合わせの生き方をしていたから。
生きるも死ぬも、自分の覚悟次第。それが現実だったから。
死ぬこと何が怖い。
それは、今を生きていないから。
死が現実なら。生もまた現実。
死を受け入れた時、生きる事の意義もわかる。
だからこそ、苦しくても生きようとするのだ。
生を諦めたら、死にきれない。

死を現実と受け止められないから、簡単に自分の人生をリセットしてしまう。

安楽死は、自殺を認めていない、一神教の問題で。
だから、細川ガラシャは、自決できなかった。
安楽死問題は、別の次元の問題で。
切腹も含めて。
だ日本人は、安易な自殺は認めていませんから。
切腹は、自身の責任の取り方。

志や生き様と裏腹にある事で。
決して安楽を求めているわけではなく。
その点が武士道ですね。

日本以外の国では、転職する時、あなたは、前職で何をしてきましかと聞かれる。
それに対して、日本では、やめた理由を聞く。
だから、日本ではキャリアが問題にならない。

やめた理由なんてどうでもいい。
何ができるか。何を成したかが問題なのだ。

この年をしてなんですが。
死を覚悟して、事に望んでいるかと自問すると。
お恥ずかしいかぎりですね(笑)
ただ、切腹とはそういう事だと思うのです。
死を覚悟して事に臨む。