日本は経済が惨憺たる状態にあると言っても、物価は、安定していて、失業率だって悪くなし、景気だって、そこそこ、誰も、経済が悪いと実感では感られない。
そこが、問題なのである。
現在、2023年9月、日銀の銀行券、つまり、「お札」の発行高は、121兆円。
日銀当座預金残高、547兆円。
日銀の国債保有残高、576兆円。
2023年8月1288兆円。
アベノミクス以前は、国債の保有残高を銀行券の発行高が越えないようにするという内規があたのを、黒田さんがこの慣行を破った。
以後、雪だるま式に増えた。
増えた分を、当座預金に豚積みしており。
これが、金利を上げられない、金融緩和を止められない主たる理由。
黒田さんの目論見は、一時的、カンフル剤として、国債を日銀が買い入れ、市中に流通する「お札」の量を増やし、デフレを脱却しと事を見極めたら、すぐに、金融を引き締め、正常に戻すと言う事にあったのだろうが、見事に目論見が外れ。
ダラダラと金融緩和を続けた結果、いつの間にか、当座預金残高「お札」の発行残高の五倍にまで達してしまった。
この当座預金が溶けだして市中に流れだしたらそれだけで、現在市中に流れている「お札」も含め600%、物価を押し上げる潜在的力があるとみていい。
アメリカをはじめ海外の主要国が、金融引き締めに転じ、場合によって、金利上昇が見込まれている今日。日本の金利の上昇は必然であり。
ただ、日本の金利をいくら上げても、海外との乖離は埋まらない。
しかも金利を上げたら国内の金融機関がもたない。
そうなると円が上昇する事は一時的にあったとしても、基本的には円安。
国内のラーメンが、800円の時、海外で、3000円、これを一種のマクドナルド指数とすると、円高が望めない以上、日本ラーメンの価格が3000円になる日も近い。
これを考えると、大体日本の物価上昇の予測がつく。
これだけで300%から400%の物価上昇。
先ず金利の上昇と為替が、物価の上昇に拍車をかけると考えていい。
国債の保有者、令和5年6月、日銀が53.2%、銀行が10.8%、生損保、18.1%、公的年金、4.8%、年金基金2.8%銀行の預貸率は、2023年3月期で62.9%、3年ぶりに上昇したと言っても以前60%台。
金融機関は預金と貸出金利の金利差が収益源であり、貸出不足を国債でおぎなってきたから長期金切りの上昇は、経営を直撃する。
故に超金利の上昇が金融不安、特に、中小金曜機関をの金融不安を引き起こす可能性がある。
こうなると物価上昇と金融不安が同時に起こる事になる。
景気が好転しているからと言って、見通しのないバラマキ政策をしたら。
物価上昇と財政不安の両方に拍車をかける事になる。
今の日本経済は、瀬戸際に立たされていると言っていい。
瀬戸際に立たされていながら、危機感がない。
相変わらずどうにかなるさ、今までやってこれたのだし。
今がよければいい。今、面白おkしく。
先の事で悩んだところで、その時は、その時、何とかなるさ、誰かが何とかしてくれる。自分一人くらい。なにしたところで、何も出来なしい。大した事もできない。
このままでは、終戦直後の様に惨憺たる状態になるのは見えている。
今の日本経済は、今はよくても、いつまでも続きはづがない。
いつかは破綻し、後はどん底に落ちていくしかない。
問題は、どん底から這い上がる力が残されているかだ。
親父たちの時代は、どん底から、ただ、上昇するだけだった。
我々の時代は、頂点から落ちていくばかり。確かに、我々は恵まれていました。
だから、逆境やどん底を経験した事がない。
闇バイトやいただき女子とか。
彼等は、何のために、あんな悪事を働くのか、その動機が問題なのだ。
中年男性を騙くらかして、大金をせしめても、性悪な男に貢いで、自分お手元には、わずかな金しか残っていないとしたら。
いくら、あるある詐欺で、年寄りを騙して大金を稼いだとしても、遠い異国の刑務所や安アパートに閉籠っていたら。
結局、人を騙し立り、欺く事に快感を感じているとしか。
それが問題であり。
何故、そういう人間を生み出してしまったか。
誰のために、何のために、おいそれと答えは出せないかもしれないが、問い続けなければ、自分を見失うし。訳が分からなくなって、どうやって生きていっていいのかもわからなくなるから。
だから、問い続ける事に少なくとも意義がある。
親父たちは、死と隣り合わせで生きてきた。
私は、両国、生まれなので、関東大震災と東京大空衆の話を子供の頃から聞かされてきたし、焼け跡者固定いた、自分の通った両国小学校の三階は、空襲の後が残っていた。
戦争は、悲惨だとか、いやだとか言ったところで、八十年前に、親父たち、お袋たちは、死の危険に絶えず曝されながら生きていたと言うのは、否定しようのない事実。
その時、親父たちは、ただ国の為だけに戦っていたわけではない。それこそが世迷言だ。
今も、ウクライナ。パレスチナでは、国のために戦っている人がいる。
どちらに正義があるかと考える前に、何かの為に自分の命をかけて戦っている人がいると言う現実を直視しろと言いたいのだ。
それを綺麗事云々という資格は、自分の存在をかけて戦っていない日本人に言う資格はない。
人間は、どこまで、残忍になれるのであろうか。
ただ、その凄惨で、残酷な事態は、決して他人事ではない。
だから、何故、何の為、誰の為と問わざるを得ないし、神と対峙しなければならなくなる。
爆弾を抱えて、沖縄に向かった若者たちのように。
今あなたは、世の為、人の為に働いていると言えるのか。
戦後、愛の為なんて白々しく言う奴いるが、それこそ虚言。
愛なんて感情に過ぎない。
大切なのは、なんの為に、何を愛するのか。
愛する人なのか、国なのか、家族なのか、友や仲間なのか。
そこが肝心なのだ。
それを曖昧にして逃げ回ってきたから、結局、自分の人生までも空しくしてしまうのだ。
一昨日ですね、私の知り合いが突然死しました。
前日から出張していて、熱ぽいっと言ってたとそうだが、それでも、仕事をこなしていて、翌日、ホテルで倒れているのが発見されたと聞く。
ある日突然、予告なしに死は訪れる。
余命を宣告されると日本ではドラマになるが。
日常生活の中では、死は、禁忌。
余命を宣告されないと、死と対峙もできない。
パレスチナやウクライナでは、死と向き合わざるをえないのが、常態。
否応なく、死を見つめなければならない。
死は、現実。感傷ではなく。
いつ訪れてもおかしくない。
生と死は、現実なんです。
それも日常的な。
死は、日常的な出来事。