戦後生まれの我々が、生理的に受け付けられなくされた言葉が、「愛国心」であり、「忠誠心」であり、「世の為人の為、人の為」であり、「国の為」であり、「軍」であり、「国防」であり、「誇り」であり、「規律」、「秩序」、「勤勉」、「真面目」、「正直」、「道徳」、「志」、「犠牲心」、「権威」、「権力」、「力」、「強制」、「指示命令」、「国家」、「組織」、「礼儀」、「常識」、「良識」、「服従」、「作法」、「統制」、「恩」、「師」、「孝行」、「義」、「伝統」、「義理」、「度胸」、「意気地」、「意地」、「面子」、「心意気」、「指揮」、「人情」、「侠気」、「仕来り」、「亡国」、「憂国」、「日本男児」、「大和魂」である。
要は、これらの言葉、言葉の背後にある概念がタブー視された。
誰が、どういう意図で、これらの事をタブー視させたか、闇の中である。
得体が知れない。
ただ、知らず知らずのうちのこれらの言葉は、悪い事とされていて。
いつの間にか、人前では口にするのが憚れるようになり。
言葉の意味も考えさせられる事もなく。
無条件に、意味もなく、一方的に否定され。
批判する事も許されず、悪い事は悪いと。
否定するにしろ、肯定するにせよ、偏見や囚われることなく話し合ってもいいじゃないか。

所謂、放送禁止用語ではないのだけれど。
ただ、使うのが、恥かしい雰囲気が作られて。
気がつくと言葉が消えている。

世の為、人のためなどというと、「偽善者」とか。
「綺麗事、世の中そんなに甘くない。」
「人を見たら、泥棒と思え。」
「時代錯誤だよ。」とか。
「陳腐とか。ありきたりで。くだらない。」と馬鹿にされ。

もう、役に立つとか、人の為と言う事さえ、無意味な事となり。虚しく。
あなたは、なんの為に働いていると聞かれても、役に立つなんて、白々しく聞こえるようになって。
お客様のためぐらいで、結局、金の為、自分の為としないと納得させられない。

世の為、人の為といえなくなり。

それに代わって「迷惑をかけてはいけない。迷惑をかけてはいけない。」
つまりは、日本人は太平洋戦争で世界中に迷惑かけた。
だから、迷惑をかけないように、世界の片隅で息を潜めて生きていけと。
巧妙にね。
でも、日本人が、何にたいして、国家の存亡をかけて戦ったのだと思う。

日本人が鎖国を辞め、明治維新を断行し、国際社会に出ていったとき、日本を取り囲む情勢は、日本が独立を守れるかどうかも危うかった。
欧米列強は、西洋以外の国々を次々と植民地化し、そこに住む人間を奴隷として言った。
その事実を無視して、何故、日本の非だけを責め立てるのか。
日本がとった道が正しいとは言わないが、戦いもせずに植民地化されたら、日本人は人間としても扱われなかっただろう。

なぜ、今でも、日本人は自分の力で、自分の国を守ってはいかないと言うのか。
自分の国を自分の力で守れない国の独立なんて大国は認めやしない。
それは、ウクライナや台湾を見れば歴然としている。

「真面目」、「勤勉」、「正直」、「辛抱」、「我慢」に変わって、「楽」、「楽しければいい。」、「楽して儲けるのが賢い。」地道に努力するのは無能だから。「真面目」や「正直」なんて阿保らしい。
その結果、おれおれ詐欺だの闇バイト。

強制しては駄目、命令しては駄目と。
それに代わって、なんでも、自主性、自発性。
自分がないのにどうやって自主性をもたせろというのか。

自主性、自主性。主体性を重んじて。
何でもかんでも意見を聞かなければならない三歳児の意見まで聞かなければという。
そうでないと虐待という。
その結果、何でもかんでもパワハラと。

意味もなくパワハラやセクハラはいけない教育しなければという人いるけど、それは、親が子供をしかったり、躾するのは、虐待だから、叱ったり躾は悪いいう様なもの。
その前に、何故、親は子を𠮟ったり、躾けたりしているのかをハッキリさせないと。
何が何でも、親が子に厳しく躾けるには、悪いというなるし、今、引きこもりになったり、ニートや不登校、また、社会に出て、社会に適合ができないで転職を繰り返す方が問題なので。
最近の事件、猿之助とか、新宿で首切り殺つ人事件に異様で、不気味、薄気味悪く感じるのは、従来の親子関係から考えられないからで。
本来、静止しなければならない親が、静止するどころか、子の言いなりになり、隷属しているように見える事。
従来ではありえない構図。
本来の親子の役割が転倒してしまっている。
家族の構造が崩れている。
子供が頂点に立って。
親がかしずいている。酷い話、親は、この召使か、奴婢、奴隷のように扱われ、窘めるどころか、子の言いなりになっている。
昔は、どんなに出世しても、親は親だったけど、今は、成人する以前から、親が子に遠慮し、怖れ。かしずいているようにすら見える。
昔の親は、子に親が厳しくするのは当たり前で、聞き訳がなければ、人前でも、お尻をたたいたものだ。
それができない親が、躾ができないと。
子が犯罪をすれば親の顔が見てみたいと。
躾けや叱る事が悪いのではなく、どんな考え、方針で叱っているか、躾けているか。
この教育方針は、夫婦、親子でも譲れない。そこが肝心なので。
パワハラが悪い、セクハラが悪いというより、トップの考え、会社の方針があっての事で。
そこを明確にせず、やみくもに言葉尻をとらえて、ヤレパワハラだ、セクハラだとやったら、現場で、部下指導をやっている、職長が、怖くて何もできなくなる。
それは、社会適合のできない子を育てたり、親子関係を逆転させるのと同じで職場の規律や統制はあっという間になくなる。
家族が崩壊した背景には、三歳児でも、極端な場合、生まれてすぐに子供は、大人と同じ分別があるのだから、自主性、主体性を尊重し、子供意見、考えを聞いて尊重しなければならない。
なるべく、親は干渉せずに、自由放任すればいい。子供が嫌がる事はさせない事とした思想にある。
そんの事、どれほど非現実化、実際に子育ってをしている母親なら誰だってわかる。
子育ての現場を知らない学者だから言えることで。
新宿の事件の父親が、精神科の医者だというのが何かを象徴している気がする。
パワハラ、セクハラを問題にする前に会社のあるべき姿を明確にし、それに基づいた教育を考えるべきで、そうすれば、自ずとパワハラもセクハラもなくなるはず。
根本の考え、思想が間違っていたら、いくら外見を整えて、取り繕っても、却って問題は深刻化する。

大切な物を守ろうとする意志。
その対極にある自分は守られているという意識、認識、それが喪われてしまうと。
自分は、守られている側から守る側の人間に立場が入れ換わる自覚が持てない。
守られているわけでも、守っているのでもなく。
やってしまった事の責任だけが問われる。
自分がやった事、やっている事が正しいか、どうかの確証が事前に得られない。
自分で自分の国を守ろうとしない。
自分で自分を守ろうとしない。
自分の家族を自分で守ろうとしない。
それでは、人と人の関係が作れない。
自分の事は自分でやらなければ。
自分なんていつまでたっても自立できない。
ひどい話だ。
互いに助け合うから互いを必要とするので。
互いを必要とするから、組織が形成される。

助け合うという関係が、自覚できなければ、社会も組織も求心力を失う。
集団を維持しようとか、守ろうという意志が働かず。
団結も、結束もできない。凝集のしようがないのである。

今の日本人は、何かというとすみません、すみませんと。
謝れば済むと思って。
挨拶代わりに、すぐにすみません。
かえって、すみませんといっても心がこもっていない。
本心から謝罪なんてする気もないのに、すみません。
誰に対し、何を誤っているのかも、わからないですみません。
卑屈にしか見えませんよ。
何かといえば、謝れ、謝れ。
挙句に、何はともあれ、謝罪会見。
そこで、へたな事言うと袋叩き。
被害者でも、関係者でもない、記者に向かってすみません。
記者は記者で金切り声を挙げて糾弾する。
感情的に。
訳がわからない。

昔は意味もなく謝るなと。
お前には誇りがないのかと。

自分がないのに、自分ためにといい。
その癖、自分が何をしたいのかわからない。
要するに、芯がないのである。
自分の核となる芯がない。それなのに、自主性、主体性と。
自主性を強要され、自分の寄る辺がなくなる。無茶苦茶である。
自分なりの価値観が固まるまでは、親や庇護者が、責任を持つものである。

何でも疑れと言いながら。
タブー視された言葉、無条件に受け入れる様に、刷り込まれた。
そして、憲法を聖典の様に崇めるように。
決して、言葉狩りの様に、使ってはいけないとは言わないが、生理的に受け付けないように。
そして、それが、自由だ民主主義だっと思い込ませ。
なぜ禁句とはしなかったのか、それは、日本以外の国では、当然の徳目としているからである。
災難に会った時、そうでなくても、日本人は秩序を守ろうとする。
砂漠の真ん中でも、日本人は、信号を守ろうとする。

世界の人間は、半ば呆れ、その反面、憧憬を籠めて日本人をを評する。
自分達の国や文化を取り戻そうよ。
誇りを持って。
そしないと、この国の魂は消えてなくなってしまう。

突き詰めてみると、結局、自分の為、お金の為でしかないのと。
そう思い込まされてきた。
気がつくと、世の中は、自分の為か、金の為でしか動かなくなる。
正直者は、馬鹿を見る、損をする世になったしまった。
善も悪も金次第。
地獄の沙汰も金次第。

神や仏を信じる者は、愚か者と。
そう思い込まされて、挙句に、わけのわからないカルトに引き込まれ。

神や仏を頼るのは、現世利益を求める時だけ。
金儲けに、合格祈願、立身出世に、厄除け、家内安全、病気平癒。
平和や、護国など祈る気持ちはさらさらなく。
世の為、人の為などと祈ろうものなら、嘘だと。
神、仏も、自分の為、金の為にしか意義もなく、役にも立たない。

世界の多くの人間は、神を信じていると言うのに。
神という言葉も廃れ。

神を信じない者は自らを神とする。
自分を超える何者かの存在、超越者を信じるから自らを律する事を覚える。
克己復礼である。

最近は、結婚式でも、神や仏に誓ったりはしない。
神前が、人前になり。
今は、人にも誓わなくなった。
誓いなんて意味もない。
金がもったいないと言う。
それも新婦が。
花嫁にとって結婚式は晴れの舞台ではなくなった。

結婚式が無意味だと言う事は、結婚そのものが無意味だと。
聖なる存在、誓いという言葉も意味もなく。
結婚は儀式も式典もなく。
人生は、何事もなく。
自分の一生に何も求めもしない。
それで、自分さえ善ければといっても、エゴにしかならない。

人と人の繋がりが消えて、ただただ、泡のように消えて。
なんの為にと問うたところで虚しさがつのるばかり。

誓いとか、儀式とか、神前とか、親戚とか、祭りいう言葉も死語となりつつある。
祭りも、神の為でなく、自分たちが空騒ぎする為でしかなくなった。
神とか、神聖とか、式典、儀式という言葉もいつの間にか消えてしまったのである。

自分のために自分を高められるという者は、それこそ限られている。
それは、修道者だ。
自分を高めるどころか、自分の為、自分だけの為と刷り込めば、エゴの塊になるだけ。
自分の善ではなく、自分さえよければと、欲望の赴くまま自分の快楽、悦楽しか求めなくなれば、自分を抑える事は出来なくなる。
欲は際限がないからである。自分の欲に呑み込まれて、自滅する。
欲を自分の力では制御が出来なくなる。
人は、自分の力で欲を制御できなければ、我を忘れて、強欲、貪欲となる。
つまり、欲が暴走し、自分を抑えられなくなるのである。

僕らは、親父から、三日飼えば犬だって恩を忘れない。
恩を忘れたら犬畜生にも劣る。
やくざだって一宿一飯の恩と。
日本人にとって恩は、中核的徳目だった。
注意してほしいのは、恩は、強制される事ではなく、自分が感じる事だと言う事です。
しかし、今、恩などというと、軍国主義者か、国家主義者のように言われ。
恩などに縛られては駄目だと躾けられ。
恩義など犬も食わぬと、平然と、恩に背く。
師の恩、親の恩など、阿保らしい。

師という言葉も死語で、教師と師は、明らかに違う。
教師というのは、単なる教育に携わる労働者に過ぎない。
それに対し、師は、人生の師。
教師は、選べないけれど、師は、自分で求めて探し出す。
師に出会えるかどうかで一生が左右された。
だからこそ、結婚式に師を招く風習があった。
今は、教師を尊敬できない生徒が、五十パーセント以上いる。
世界中でこんな国ない。
一般に、どの国でも教師を九十パーセント以上の生徒が尊敬していると答える。
あのアメリカですら、五十パーセントは切らない。
日本人だけが教師を尊敬できないと言う。
それは、教師が教えるのは、成績をよくする事だけだからで、一人ひとりの生徒と向き合っていないからだ。
学校を卒業してしまえば、後は野となれ、山となれ。
野垂れ死のうが。
引きこもりになろうが。
犯罪者になろうが知った事ではない。
人生の師ではないからだ。

かつては、人生いたるところに師がいると教えられ。
上司でも、先輩でも、それこそ、自分の子供ですら、師となりえた。
でも、今は、師とのなる人がいない。
誰も人生を語れなくなったのである。
学ぶ事を忘れたのである。

親の世話は、単なる介護の問題で、徳目とは無縁。
高齢者問題は、制度か設備が問題なので、道徳の問題のは一切触れようとしない。
だから、親の介護で疲れはてても、金の問題でしかない。
道徳であり、人間性の問題だから、深刻なのに。
親孝行なんて糞くらえ。
誰が親の世話などするものか。
それが道理と育てたのだから。

自分一人で大きくなったと錯覚し、親の世話にはならない、なりたくないと錯覚し。
親の世話もせず。
親を侮る事は自己否定となる事に気がつかず。
親の恩も忘れ。感じる事もなく。
どうやって、自分の子育てに責任が持てよう。

愛だ、情けだと言っても、男と女の間はセックスだけの関係でしかなく。
子供だって、快楽の結果でしかない。
かつて、男は、覚悟なくして子はなせない。
子は快楽の結果できるのではない。
愛があるから、相手を慈しむ思いがあるから子ができるので。
なぜなら、男は決断しなければ子はなせない。
今は、欲望の果てに子をなし。顧みる事がない。
愛だ、情けといってもきれいごとにしか聞こえず。空々しい。

父は、世のため、人のために役に立つ人間になれと、教え続けた。
我々は、父の教えに背いてきたのかもしれない。
そして、自分の為に、自分の為に自分にも子供たちにも言い聞かせ、その結果、この有様だ。
誠がなくなってしまった。
だって、自分ために誠は尽くせない。
だから、苦し紛れに、お客様のためにと言うけれど、それは、金のためにと言っているのと変わりない。
株主のためというのも同様。

役立たずと言われるのは、屈辱である。
しかし、何に対して、誰に対して役に立てというのか。
それが判然としなければ、言葉そのものが空しい。
自分の為、お金の為に役に立てとでもいうのか。

結局、父の言葉の真意を理解もせずに、ただ、反発しただけで。
でもその代償は大きかったのかもしれない。

人の為と言うのも、いつの間にか、人の性に置き換わり。
それは、自分の為の裏返し。自分の為に、責任を他人に転嫁するけど、全然、自分の為になっていない。
本当に自分の為を思うなら、責任を持ってやり遂げなければ、つまり、人の為に働くから、自分も生かさるのだから。

見た目ばかりを気にして、内面を磨くのを忘れ。
刹那主義、快楽主義。
今この瞬間さえよければいいと。楽しければいいと。
清廉潔白なんて、戯言でしかない。

男らしくも使ってはいけない言葉になりつつある。
男尊女卑を私は是とはしない。
女性は女性として尊重すべきだと思うだけで。
男と女は違う。
その違いを認めるからこそ、男女の平等は成り立つので。
差をさとして認められなければ差別はより深刻になる。
お互いに相手との違いを認め合うから、相手を尊重できる。
違い認める事は、差別する事ではない。

男と女は違う。
男と女の差を認めるから、男女平等は成り立つ。
女性を不当に差別するのは許されないが、男と女の違いを認めないのもおかしなことだ。

しかしそれもいつの間にか禁句にされた。

間違いなく男は子供を産めない。
でも、それは、男を差別する理由にはならない。

当然、男らしくの言葉の背後にある、「廉恥」、「潔く」、「みっともない事をするな」、「卑怯、卑劣」、「臆する」「臆病者」といった言葉もなくなった。

指揮、命令という言葉も駄目。
何でも、自発性、自主性。
指示する代わりに、お願いするしかない。
こうなると、やるかやらないかは、相手次第となる。

三歳の子供に、自分の考えを持てと言うのは強要ではないのか。
強制は悪だからとされれば、当たり前に、指揮統制も悪になる。
始礼も、終礼も、強要だから止めようとなり、当然、「起立」「礼」も駄目。
その結果、組織は、どろどろの溶けだしている。
秩序など、求めようもない。
無論、秩序も悪い言葉。
亡国は、時間の問題。
亡国という言葉も悪い言葉だけど。

敗者に義は許されない。
ただ、勝者の憐憫に縋るだけだ。
私は、戦争を是とするわけではない。
言い訳をしたくもない。
しかし、勝者のみが正義を振りかざすのは、我慢ならない。
命がけで戦うにはそれなりの覚悟いるのである。
時の権力者だけが武器を手にしたわけではない。

親父たちは戦後、口を閉ざした。
そして、この国の復興を成し遂げた。
国は富ます事はできたが、精神の貧困は、いかんともしがたい。
魂を失えば、真の復興などありえはしない。
失った言葉の中にこそ、この国の魂が隠されている。
それでなくとも、日本は言霊の国といわれるのだから。

和食というのは、本来、素材を生かす事に主眼が置かれた気がします。
素を尊ぶ。
飾りけなく、清らかで、自然そのまま。
純朴、素朴なる魂ですね。
神羅万象、あるがままですね。
白木を重んじ。
華美を嫌う。
今は、ただ派手で、濃厚な味付け、人工的な。
食も工場製品になり。大量生産。

言論の自由といいながら、一方で使えない言葉を増やして言論を抑圧する。
今のメディアの偏向は明白というのに。
誰も真実を語ろうとしない。

僕は、陰謀論なんていう気はないんです。
それより、国民の堕落の方がよほど怖く、深刻なんです。
陰謀論なんて語るくらいなら、いかに、人を鍛えるかを考えるべきで。
陰謀論なんて言ってる暇はない。
どんな陰謀だって、国民が、しっかりしていれば跳ね除けられるけれど、国民が堕落したら。
簡単に、隷属させられる。
陰謀などよりも、現実を直視できなくなる方がよほど怖い。

日本人が尊んだのは、清らか、清潔、清浄。
でも、今の日本人は汚い。
日本の精神が蝕まれ、汚されているようで。
穢れに鈍感になり、澄んだ空気を忘れ、汚れた空気の中でも平気で息がすえる。
鮮烈な生き様なんてお笑い種。
どんな汚い手段を使っても、金や権力を手にした者が栄える。

こんな国にするために英霊達は、死んでいったと言うのか。

そんな国に未来はない。
魂を失った肉体は、屍に過ぎない。
醜いだけだ。

戦後、日本人は迷惑を掛けてはいけない。迷惑を掛けるなと躾けられた。
なぜなら、日本人は、戦争で、近隣国、特に、中国や朝鮮、アメリカ、ロシアに迷惑を掛けたのだからと。
迷惑を掛けたのだから。
謝れ、謝れと。

世の為人の為なんて。お人好しの言う、戯言に過ぎない。
どんな汚い手段を使っても、金や権力を手にした者が栄える。

そんな国にしてしまった。

親父たちは、毎日、世の為人の為に働ける人になれと参っていた。
その心を封じられた時、日本人は、日本人の心を殺されたのだ。
日本人としての誇りと共に。

家の神様に唱える「神棚祝詞」

此の神床に坐す 掛けまくも畏き(これのかむどこにます かけまくもかしこき)
天照大御神 産土大神等の大前を 拝み奉りて(あまてらすおおみかみ うぶすなのおおかみたちのおおまえを おろがみまつりて)
恐み恐みも白さく(かしこみかしこみももうさく)
大神等の広き厚き御恵を 辱み奉り(おおかみたちのひろきあつきみめぐみを かたじけなみまつり)
高き尊き神教のまにまに(たかきとうときみおしえのまにまに)
直き正しき 真心もちて(なおきただしき まごころもちて)
誠の道に違ふことなく(まことのみちにたがうことなく)
負ひ持つ業に励ましめ給ひ(おいもつわざにはげましめたまい)
家門高く 身健に(いえかどたかく みすこやかに)
世のため人のために尽さしめ給へと(よのためひとのためにつくさしめたまえと)
恐み恐みも白す(かしこみかしこみももうす)