性の本源は、清らかである。
性は本質的に神聖な行為である。
なぜなら、性は、生命の誕生に直接かかわる行為だからである。

性の本源は快楽にあるわけでも、禁欲にあるわけでもない。
愛と自制心にある。克己心である。
己に克たなければ、性の淵源を極める事はできない。

性こそ清潔、清浄、純潔、禁欲、自制が求められる。
なぜなら、性は性欲が絡むからで。
性欲は快楽によって触発される。

最もその人の人間性に関わる欲が、性欲。
人格や人柄が問われる欲が、性欲である。
性欲は、一人の問題ではなく、相手を必要とした欲でもある。
一歩間違うと、欲望のはけ口としてしか、異性を扱えなくなる。
性欲は、強い欲、怖い欲、激しい欲である。

性欲ほど、その人の本性が現れる事はない。
なぜなら、性欲は、性欲の対象となる相手がいるからだ。
相手への愛情、思いやりがなければ性欲は抑えられない。
愛情を失えば、凶暴、凶悪な行為となる。
相手を愛おしみ、慈しみ、労り、尊敬し、認め合うからこそ性欲は、正当化される。
相手の意志や感情を蔑ろにした瞬間、性は不当な行為になる。
性欲の根源は、純真な愛情だからであり、純真な愛情は、総ての人間関係の始源だからである。
それが、「理趣経」で言う本源の清らかさである。
性欲は、自分一人で成就する事ではない。
自分勝手な欲望や快楽を相手に押し付ければ、一瞬で、いかがわしく、淫らな事に変質する。
相手の感情を無視すれば、相手の執着心、執念、怨念、憎しみ、恨みを招き、この世は修羅場と化す。
地獄が現出する。
性欲は、至上の慈悲心をもって始めて成就する。
愛情は、自制心を求める。
互いの心が一体とのなり、愛と性と合体した時、新たな誕生の時を迎える。
それでこそ、新たな生命の誕生にふさわしい行為となる。

性行為は、高貴で、清潔な行為だから、身勝手で、傲慢で、驕慢で、低俗で、暴力的、不潔・不純な気持ちで執り行えば、いかがわしく、淫らな行為に堕してしまう。
性欲は、いずれか一方の思い込みだけでは成就しない。
互いの、心と体が一つになった処に成り立つ行為である。
愛から離れれば、性は醜悪、性悪、邪悪な行為に堕する。
故に、性は人の本性を試す。

相手があって、新たな命の誕生に関わる欲だから、性欲は、人間の本源的の欲といえるのである。

性欲は、生命誕生の根源にある欲である。
だから、最高の快楽も得られる。

本性が清らかだから最高の境地に達するので、本性が穢れ、邪(よこしま)ならば性悪なものとなる。
愛し合う事で為した子だからこそ、愛し、慈しむ事が出来る。愛は愛から生まれる。
故に、性行為は、本来、神聖で清らかな行為であるし、行為でなければならない。
一方的に自分の想いや欲望を強要する行為ではないし、あってはならない。

愛欲というのは、他の欲、食欲や排便欲とは、性格が番う。
種の保存、生殖に関わる欲で、生存に関わる欲ではない。
その為に、よりエゴイスティクに、暴力的、狂暴に、獰猛に、荒れ狂う事がある。
オス同士の争いは、人間に限った事ではない。あらゆる動物に見られる。
人間以外の動物は、相手を殺したりしないが、自制心がなくなれば、殺し合いにまで発展する。
また、性欲は、執着心、偏執、自己顕示欲、優越感、傲慢、所有欲、征服欲、支配欲、独占欲、復讐心、劣等感、羞恥、猜疑心、屈辱、嫉妬、焼き餅、愛憎、怨恨等の感情を生み出す。
それだけに自制が求められるし、自制心が失われると、たちまち、醜く、汚い、醜悪な事の変質する。

だから、性ほど、清らかで、純潔、貞節を求められる事はない。
性を、いやらしく、猥褻、淫らなものにするのは人の心である。
性は、神聖で、尊い行為である。

なぜ、結婚する時、新婦は、白無垢の花嫁衣装を着るのだろう。
それは、結婚、無論、性を神聖、清浄な行為と捉えているからである。

性は卑しい事でも、汚らわしい事でも、ふしだらな事、忌まわしい事、悪い事でもない。
ある意味で厳粛な事である。
性は、労わり合う事、愛し合う事、慈しみあう事、癒しあう事。

欲は苦の根源とされる。
欲があるから、人間は、煩悩に囚われ、苦しみのたうち回る。
それ故に、多くの求道者は、苦を断ち、禁欲に徹しようとした。

また、欲は不正、不義の源とされ、あらゆる犯罪の重大な要因とされる。
欲がなければ、人は罪を犯さない。

人間の、肉欲、欲望にもいろいろある。
性欲、食欲、排泄欲。
食欲や排泄欲が生存に関わる欲なら、性欲は、生殖に関わる欲。
食欲や排泄欲が失われれば生きていけない。
しかし、性欲がなくとも、人間は生きていける。
つまりは性欲は欲そのものに意義がある。

性欲は、欲望の中でも、一番、あからさまな欲だ。

性欲ほど、人間の本性をむき出しにする欲はないだろう。
それ故に、性欲は、多くの宗教においてタブー、禁忌とされてきた。

性欲はあらゆる苦の根源、あらゆる悪や犯罪の素(もと)の様にみられる、反面、歓喜や、快楽の源にも見られる。

性には、異常性欲がついて回る。しかし、性の異常とはなにか。
なにをもって正常とするのか。

強いて異常と言うなら、自分の性癖を力づくで強要することかもしれない。
しかし、これは、異常と言うより、犯罪である。
性が、子孫を増やすための行為と言うなら、その目的を逸脱する事は、異常といえば異常だが、取り締まらなければならない理由にはならない。
性は、根本的に個人の性向の属するとは、社会に及ぼす影響も大きい。

人に性に対する欲求というのは、いつ、どの様に訪れるのか。
男にとって、それは、大概は、唐突に、衝動的に、密やかに訪れる。

はじめで、勃起した時、はじめて射精した時、それは、予期していたり、何らかの知識があったり、自分の考えとか、意志とかとは、無縁なところで、予告なしに、突然、訪れる。

だからこそ、誰に相談していいのかも、わからず。
それが、一方で性に対する後ろめたさ、罪悪感となり、また、秘密や禁忌にもなる。
性は「禁断の果実」である。

女にとっては初潮や体の変化として自覚されるのだろうけど。
とりあえず、はじめて、性を体感する時は、性は闇だといっていい。
はじめて、勃起した時、意識して勃起するわけではない。
大体、自分がはじめて勃起を自覚する以前から勃起していたのかもしれない。
ただ、無意識だから、わけがわからない。
それは、本音で言えば、終生、わからずじまいなのかもしれない。

はじめて射精した時も同じ。
射精は始末が悪いことに夢精する事もある大人は、顔を赤らめたり、性について語る時は、声を顰めたりする。かと思えば、あからさまに、得意げに、話したりもする。

子供の頃は、男と女の違いもわかっていないし。
じゃあ、性教育をすればいいではないかというが、そうは、簡単なは行かない。

愛とか、差別とか、憎しみ、妊娠、避妊、同性愛、近親相姦、強姦、小児性愛、サディズム、マゾヒィズムとかそういった性にまつわる、ドロドロとした愛憎問題や罪、道徳は単純に割り切れはしない。

性に関しては七十の私にとっても、謎、闇の中、肝心の事はあいまいで、モヤモヤしている。

性欲の根源は、理性とも、感情とも言えない、正体不明な衝動で。
抑えがたく、暴力的な衝動。それは、犯罪をも誘発する

だから、得体のしれない魔物が人の心の底に潜んでいるという人もいる。
しかも、性は、生。命の誕生の深淵にかかわっている。
故に、性は、心の奥に深い闇を作り、人々を苦しめる。
聖なる存在と俗な事が相克し。
罪の意識を目覚めさせる。

脳科学者にすれば、脳のはたきとするのかもしれない。
或いは、生理的問題と片付けられるかもしれないが。
もやもやが解決するわけでもなく。

ジャニーズの話なんて。
悍ましく、おどろおどろしい。禍々しく、忌まわしく、いかがわしく。
ジャニー喜多川の罪深いのは、何も知らない無垢の子の烙印を押し付けてしまった事である。
ジャニーズの問題は、象徴的、典型的で、当の当事者は死んでしまって。
ジャニー喜多川は、やりたい放題、皆から惜しまれて死んで。
災難なのは残された連中。

本来なら被害者だと言うのに、責められて。
どんなに騒いだところで後の祭り。
赦しがたい事。だから、俺達は、若者のために戦うしかない。

ジャニー喜多川の少年愛が社会問題化しているが、性の乱れは、世の中の倫理観に深刻なダメージを与える。特に、ジャニー喜多川の行為は、まだ、性に対する知識が未熟である少年の価値観、人生を歪めただけに、罪は深い。

性は快楽と結びついている。
欲と快楽が結びついっている、だから、制御が難しい。
しかし、自分の嗜好を人に押し付けるのは許される行為ではない。
人は性に関わる事で、傷つきやすく、一度傷つくと、長く、心にとどまり、その人の精神や価値観を歪めてしまう原因ともなる。

性という事は、もっと真っ直ぐに捉えるべきである。人と人の根本的な関係に基づいているのだから。
正常とか、異常というのではなく。
一人ひとりの、自分の本性の問題として。

一方で、神聖な行為として厳しく制約され、一方で快楽の源として抑えがたい。
故に、性欲は、人の心に抗いがたい葛藤を引き起こす。
理性的でありたいと思いながら、欲の誘惑に惹きつけられる。

聖なる事は、清浄、清潔、清らか、純潔、そして、貞淑、貞節とされ。
性欲に関わる事は、いかがわし事、妖しい事とされ。
それは、性欲が罪、咎を生むと考えられるからである。

不浄、不潔、不純、不貞、淫ら、汚れ、汚い。
不道徳な行為の源、欲とされる。

性欲は、邪な欲望、淫らな欲望とされた。
性に関わる事は話題にすることさえ、はしたない事とされた。

性的に乱れた宗教は淫祠邪教とされ。
性は、淫ら、ふしだら、卑猥、猥褻、隠微な事と闇の追いやられた。

しかし、その反面、性欲は、男の強さの象徴的でもあった。
浅ましいとか、見苦しいとか、みっともない、えげつない、賤しい、ふしだらとか言われても、性的にたくましい男は、羨望の的となり。
妖艶な女性は、世の男を悩ませてきたのです。
性は劣等感や精神病の要因でもある。

性的な劣等感は、時には、人格まで変えてしまう。
性欲は、動物の本能に根差すような欲であり。
闘争だの、種を残すための欲で。
動物的な欲といっていい。

自分も、誰彼に教わったとか、真似をしてと言うのではなく。
ある出来事をキッカケに勃起した記憶がある。
しかし、勃起した事の意味は、後々学ぶ事になる。
それも、淫靡に。
だから、性には後ろめたさが付きまとう。
だからといて、ただ性教育をすればいいと言うことにはならない。
日本の性教育は唯物的で、ただ生理的現象でしかない。
愛を教えられないから性を先に教える。
だから、本末転倒となる。

性欲は、一方で生命力の根源とされ、他方で禁欲の対象とされた。

しかし、いずれも、性に対する正しい理解を妨げてきた。
欲は、生命力の源。欲があるから、人は向上心を持つ。
しかし、欲は、人を惑わせ、堕落もさせる。

欲も、人を活かすエネルギーである。
電気も、石油も、火力も、水力も、ガスも、原子力も、エネルギーはそれを貯める器と仕組み、仕掛けがなければ、安全に活用できない。
欲が、悪いのではなく。欲を制御できなくなる事が悪い。

性というのは、命の根源にある。
性は、命の誕生に関わる行為。
本来神聖であるべき行為。
神秘的で、不可思議な事。

必ず、相手がいて。
相手に対する愛情がなければ、暴虐となる。
だから、慎ましく、また、逞しくあるべきで。

ところが、性欲は、猛々しく、衝動的で、獰猛、荒々しく、狂暴、身勝手なもの。
だから、むき出しだと、まがまがしく、ギラギラしている。
性欲は人格まで変えてしまう。
ジキル氏とハイドみたいに。
一度、荒れ狂うと手に負えなくなる。

身を焦がす嫉妬、焼きもち、欲情、愛憎。

性欲を抑えられるのは、本然の愛である。
愛は、執着心ではない。
所有欲でもない。狂気でもない。
愛は能動的な思い、情である。
相手を、愛(いとお)しく、慈しみ、労り、慕い、思いやる、献身的な情である。
愛を正しく理解しないと、狂気、憎悪に変じる事がある。
愛は、妄執ではない。思いやりである。
愛は、愛されたいと言う執念ではなく。
愛すると言う主体的な慈悲、慈愛である。

本然の愛だけが欲を抑制できる。

現代学校教育のお粗末さは、愛を教える前に性を教える事だ。
性教育はできても、愛を教えられない。
だから、性欲は性欲だけで独り歩きする。
文学でも、性の表現は、抑制が効かなくなり、生々しく、即物的で下品になる。
情愛が消えて、悦楽だけの表現しかできない。
つまりは快楽か、禁欲かのいずれかに偏る。

しかし、性と愛に求められるのは調和であり、均衡である。
互いを慈しみあい、いたわりあう行為で。
古事記や神話にみられる和合である。
性は美しく、清らか、清浄でなければならない。

人を愛する事は、淫らな事でも、ふしだら、はしたない、、邪(よこしま)な事、邪悪な行為ではない。
純なる事、清い心、聖なる情。
だから純愛。
愛は、清潔を好む。愛は、清らか。美しい。
愛は、愛するものを守ろうとする思い。生き甲斐。
恋は、人の心をときめかし、生きる喜びを教えてくれる。歓喜。
愛は、人を傷つけまいとする自制心を生む。
自分が守らなければならない、大切なものを気づかせてくれる。
それが、真実の愛。
愛は、創造である。

むき出しの性欲は、相手を傷つけてしまい、時には、破滅へと導く。
性欲は、むき出しのエネルギーで、猛々しく、荒々しい。
愛によってのみ抑制できる。
愛は、強者の弱者へのいたわりがあって成り立ってる。
互いへの慈しみ、思いやりがなければ、性欲は狂暴な本性をむき出しにしてしまう。

性欲は男に自制を求める。

だから、性欲を正面に見据え、その本性を見極める必要がある。
頭から否定するのでもなく。
我を忘れるのでもなく。

自己の存在と命の根源を知るために。
性と愛が清らかに和合した時、新たな生命を生む。歓喜。

新たな生命は苦しみの中から誕生する。(陣痛)
愛は試練。

性欲によって新たな生命を生み出すのだから。
もっと、尊び、真摯に受け止める事。
無自覚に、快楽の結果として子をなすのではない。

愛と性の葛藤の結果、新たな生命は宿るのである。

婚姻は、卑猥な事ではない。
聖なる誓いなので。
それは愛だけでなく、性も伴う儀式なのだ。

古代の日本人の性は、おおらか、だから、清い。
性は、淫らではなく。
淫らにならなかったから、純愛で。
いわゆる、素朴なエロティシズムがあった気が。

性は禁忌が強ければ強いほど、淫らになる。
隠せば隠すほど卑猥になる。
猥褻というのは歪められた意志だと言う気がします。

日本人の性は、素朴で、あっけらかんとしていたし。
それは根源に愛があったからだろう。
相手を慈しみ、愛おしく思う心があるから、性欲を、おおらかに肯定できた。

混浴だって、欧米人に言われたから悪いとしたので、それまでは、何の不思議もなかったし。
日本人の性は、陽ですよね。
陰な事ではない。
陰湿になってきたのは、江戸時代になってからですよね。
それが決定的になったのは、明治以後。
日本人は性に対しておおらかだったとしても、じゃあ乱れていた、乱脈というわけではない。
乱脈で、淫らだとしたのは、欧米の価値観が入ってから。
日本人の性は隠す必要のない事。
貞節であるか否かは、陰であるか否かに関わらない。
隠し立てする事ではない。
ただ、相手に対する愛しみ、慈しみ、労りが失われれば罪となる。

淫らとか、不道徳というのは、性と関係がないところにあるので。
裸の付き合いを、卑猥だと思うかです。

アダムもイブも、林檎を食べる前は、裸でいる事を罪だと感じなかったので。
林檎を齧ったから、恥ずかしいと感じ、罪だと思い込んだ。
思い込んで隠した。隠したのを見て、神は気がついたので。
アダムやイブが罪だと気がついたから、神にとって罪となったというのか。
それでは、恥ずかしいと感じた事は罪なのか。

真実の愛は、善悪を超越したところで成立する。
赦しなのです。

何を罪とするのは神のみが知る。
神の意志は、在り様に現れる。
人の在り様は愛と性の在り様に凝縮される。

その本源をたどれば、性と愛にたどり着く。
愛について百万言を費やしても語り尽くすことはできないが、人を愛せば忽ち理解する。
愛を悟れば、性欲は自ずと制御できるようになる。

それは、極端な禁欲でも快楽でもない。。
愛憎を乗り越えた先にある静謐。
恍惚である。
穏やかな眼差しで互い愛おしむ行為である。

それこそが神が許したもうた事。
だから、互いに、慈しみあう、睦み合う事を神に誓う。

性欲は、その人その人の本性、人間性を問う。
お前は、いかにして人を愛するか。
それこそが、お前の本性。隠せはしない。
どの様に、相手を愛しみ、慈しみ、尊び、許し、労われるか。
どこまで相手を許せるか。
愛欲とは。

欲に敗け愛を捨てた時、己の業はあからさまとなる。
だからこそ、愛する事は修道なのである。
愛と性は試練でもある。

快楽を求める事は悪ではない。
快楽に溺れて我を忘れる事が悪なのである。

人間にとって、いかに欲を抑制し、制御するかが人生において一番問われているのである。

なぜ、性欲について、ここで、語るのか。
なぜなら、性欲の問題は、哲学を完成するためには避けて取れない問題だから。
逃げられない問題だから。
本源的問題だから。

性欲というのは、本来、高貴で、神聖、清浄、純粋な欲である。
故に、厳しい禁忌や制約が科せられる。
愛に守られ、犯してはならない領域があるのである。

性欲には、強烈な快楽と誘惑、魅力が伴う。
故に、人としての理性、自制が求められる。

何故、今、性について語るのかというと、人は、これまで、性について、まともに、真面目に向き合ってこなかったと思うからで。
結局、それが、思想や哲学、宗教の大切な部分にポッカリと穴を開けている。
禁欲主義か快楽主義かの二者択一的でしかなく。
性教育と言っても、生理的なことばかりに限定している。
文化的な面や精神的な事、道徳とか、社会性、人と人の関係に与える影響、人格にどう影響するのかは、語られない。

禁欲主義的であろうと、快楽主義であろうと、性をただ欲望のはけ口としてしかとらえておらず。
でも、実際は、文化的で、精神的でなければ、性の真実は見えてこない。
結局、聖人君主といえど、自分の性癖からは逃れられないのだから。

娼婦は、最も、古い商売だと聞いたことがある。
遊郭だって。
性的なことは、はしたないと忌み嫌ったところで、どんな社会でも、猥褻な書物がなくなったことはないし。芸術だって、文学だって、一つのジャンルを形成している。
それでありながら、常に日陰ものでしかない。
生活に窮すれば体を売る。

多くの種が性的問題で滅んでいったという事実から目を背けるべきではない。

自分は、これから、人類が問われるのは、存外、人間存在の根源に潜む真実である気がします。

戦後の日本からは、健全な色気が、失われってしまったと思いますね。
一番の問題は、言論の自由がらみでヘアが出たとかでないとかですね。あの時から。
言論の自由も卑猥な事になり。
その後は、なし崩しに、アダルトビデオ、つまりは、むき出しの行為。
そこに、恥じらいとか、風情とか、情緒など入り込む余地はなく。
やったかやらないこと言う動物的行為しかない。

僕は、猥褻というのを歪められた意志と定義するのですが。
本来の、性描写というのは、性行為そのものを言うのではなく、そこに至るまでの過程ですね。

恋愛には、それなりの作法、手続き、礼儀があり。
それが文化の源となっていたし。
それを、社会、集団の中で慣習化し、伝統化し、文化にまで高めていた。
また、そこから、喜劇や悲劇が生まれた。
実際、どんな大恋愛小説だって、所詮は、他愛のない恋愛ですよ。
他愛のない恋愛だからこそ、命の営みがるので。

結婚にしても、かつては、最初に、プロポーズして、その後、親の承諾えて、仲人を決め、結納、仮祝言、結婚式、披露宴、それから、子を生した。
今は、先に子を生して、それから、相手の承諾を得て、結婚してから、親の承諾を得る。
まるで、本末転倒である。

そう言った文化が否定される事で、性が、粗雑で暴力的な事、むき出しの欲望でしかない事に、変貌してしまった。
例えば、輪姦を目的とした大学のサークルなどが作られ。
過程を無視して、力づくで自分の欲望を遂げようとする。
そこには、美学や愛情、感情など一片のかけらもなく。
ただ、醜悪で身勝手な行為しか残されない。
しかも、それを金だけで解決しようとする、さもしい根性しかない。
相手を性欲のはけ口としてしか見ない。
結局、唯物でしかないんです。
エロスは、命の営みそのものですから。
魂のない行為は、エロテイクにはなりようがない。垣間見える。
ほのかな命の輝きがエロテイクなので。
人をただ物としか見ない人にエロスはない。

源氏物語には、健全な色気があり。
それが風情であり、文学にまで昇華させた。
男と女の交情があり、そこに、性が絡むから、物語になるので。
そこには人と人の魂の叫びがあるのです。

生と死の狭間にこそ性、エロスがある。

理趣経 <初段 大楽の法門の分訳> 威徳山金剛寺 

説一切法清清句文・・あらゆる事象のすべては清らかである、という経句を説く 
所謂・・いわゆる
妙滴清清句是菩薩位・・性行為による恍惚感は、清らかであるから菩薩の境地である
欲箭清清句是菩薩位・・愛欲の矢を放つことは、清らかであるから菩薩の境地である
触清清句是菩薩位・・性的な接触は、清らかであるから菩薩の境地である
愛縛清清句是菩薩位・・愛欲による束縛は、清らかであるから菩薩の境地である
一切自在主清清句是菩薩位・・性行為によって得られる解放感や支配感は、清らかであるから菩薩の境地である
見清清句是菩薩位・・愛欲の眼差しを向けることは、清らかであるから菩薩の境地である
適悦清清句是菩薩位・・性的な悦楽感は、清らかであるから菩薩の境地である
愛清清句是菩薩位・・性愛の感情は、清らかであるから菩薩の境地である
慢清清句是菩薩位・・性行為によって慢心する感情は、清らかであるから菩薩の境地である
荘厳清清句是菩薩位・・異性を意識して外観を飾る行為は、清らかであるから菩薩の境地である
意滋沢清清句是菩薩位・・性行為によって満ち足りた気分に浸る感覚は、清らかであるか ら菩薩の境地である
光明清清句是菩薩位・・性行中の光り輝くような感覚(絶頂感)は、清らかであるから菩薩の境地である
身楽清清句是菩薩位・・肉体的快楽は、清らかであるから菩薩の境地である
色清清句是菩薩位・・色欲を齎らす事象は、清らかであるから菩薩の境地である
声清清句是菩薩位・・色欲を齎らす声や音は、清らかであるから菩薩の境地である
香清清句是菩薩位・・色欲を齎らす香は、清らかであるから菩薩の境地である
味清清句是菩薩位・・色欲を齎らす味は、清らかであるから菩薩の境地である
何以故・・それはいかなることか
一切法自性清清故・・あらゆる事象は、その本性に於いて本質的に清らかであるからである
般若波羅蜜多清清・・したがって悟りに至る智慧の完成そのものも清らかなのである
金剛手・・金剛手菩薩よ
若有聞此清清出生句般若理趣・・もしこの「すべては清らかである、という悟りを生み出す真理に至る智慧の経句」を聞くことあらば
乃至菩提道場・・悟りを目指す修行の過程において
一切蓋障・・智慧を封じるすべての障害
及煩悩障・・及び悪しき想いや行為による障害
法障・・誤った教えに影響を受けて正法を疎んじる障害
業障・・前世の因縁による障害
設広積習・・それらが広く深く蓄積しても
必不堕於地獄等趣・・決して地獄などの悪しき世界に落ちることはない
設作重罪消滅不難・・たとえ重き罪を犯そうとも、その罪を消し去ることは難しいことではない

若能受持日日読誦作意思惟・・もし日々、読誦し暗唱し、思い巡らせるならば
即於現生証一切法金剛三昧耶地・・この世は堅固で永遠の輝きに満ちた悟りの世界であることを、たちどころに悟るであろう
於一切法皆得自在・・さらに世界のすべてを自由自在に操り作り上げることが出来
受於無量適悦歓喜・・この上ない快楽と喜びを享受することが出来るであろう
以十六大菩薩生・・これにより、十六大菩薩生という境地に至り
獲得如来執金剛位・・如来並びに執金剛の悟りを得ることが出来るであろう

時薄伽梵・・この時、世尊(大日如来)に対し
一切如来大乗現証三昧耶・・すべての如来が体現した大乗の悟り(すべてのものを救い取る悟り)を得て
一切曼陀羅持金剛勝薩埵・・すべての曼陀羅(悟りの世界)において最も活躍し、堅固で永遠の輝きを獲得した人であり
於三界中調伏無余・・さらに三界(欲界.色界.無色界というすべての世界)に蔓延っている障害を余すところなくこらしめる力を持ち
一切義成就金剛手菩薩摩訶薩・・すべての真理を完成させた金剛手菩薩(金剛薩埵)は、
為欲重顕明此義故・・世尊の唱えた教えをさらに明確なものにしようと、
熙怡微笑左手作金剛慢印・・お顔に笑みをたたえながら、左手に金剛慢の印を結び
右手抽擲本初大金剛作勇進勢・・右手に五鈷杵を持って、勇ましく進む姿勢を見せながら
説大楽不空三昧耶心・・大いなる快楽に至る、虚しからざる悟りの心を(種字に表し)唱えた
ウン 金剛薩埵

<初段 大楽の法門の全訳>

「私は、これから、すべてのものは清らかである、という教句を説く。それはこのようなものである。
性行為による恍惚感は清らかであるから、菩薩の境地である。
愛欲の矢を放つことは清らかであるから、菩薩の境地である。
互いに触れ合い睦み合うことは清らかであるから、菩薩の境地である。
互いに抱きしめ合うことは清らかであるから、菩薩の境地である。
性行為によって得られる征服感は清らかであるから、菩薩の境地である。
愛欲の眼差しで相手を見ることは清らかであるから、菩薩の境地である。
性的な快感は清らかであるから、菩薩の境地である。
性愛の感情は清らかであるから、菩薩の境地である。
性行為によって慢心する感情は清らかであるから、菩薩の境地である。
異性を意識して外観を飾る行為は清らかであるから、菩薩の境地である。
性行為で満ち足りた気分に浸ることは清らかであるから、菩薩の境地である。
性行為中の光り輝くような感覚(絶頂感)は清らかであるから、菩薩の境地である。
肉体の快楽は清らかであるから、菩薩の境地である。
色欲を齎らす事象は清らかであるから、菩薩の境地である。
色欲を齎らす声や音は清らかであるから、菩薩の境地である。
色欲を齎らす香は清らかであるから、菩薩の境地である。
色欲を齎らす味は清らかであるから、菩薩の境地である。

それはいかなることであろうか。あらゆる事象は、その本性に於いて本質的に清らかであるからである。したがって、性愛も菩薩の境地となり、それを説く、悟りに至る智慧の完成も清らかなのである。

金剛手菩薩(金剛薩埵)よ。もしこの『性愛は清らかで菩薩の境地であること示す、悟りの智慧に至る十七の教え』の経句を聞くことあらば、悟りを目指す修行の過程において、智慧を封じるすべての障害、さらに悪しき想いや行為による障害、誤った教えに影響を受けて正法を疎んじる障害、前世の因縁による障害、これらがさらに広く深く蓄積しようとも、決して地獄などの悪しき世界に落ちることはない。またたとえ重き罪を犯そうとも、その罪を消し去ることは難しいことではない。

もし日々、読誦し、暗唱し、常に思い巡らせるのならば、この世が堅固で輝きに満ちた悟りの世界であることを、たちどころに悟るであろう。さらに世界を自由自在に操り作り上げることが出来、この上ない快楽と喜びを享受することが出来るであろう。これにより、十六大菩薩生という境地に至り、如来並びに執金剛の悟リを得ることが出来るのである」

世尊(大日如来)がそうお説きになられた、その時でした。すべての如来が体現した大乗の悟り(あらゆるものを救い取る悟り)を得て、すべての曼陀羅世界(悟りを体現した世界)においてもっとも活躍し、堅固で永遠の輝きを獲得した人であり、さらに三界(欲界・色界・無色界というすべての世界)に蔓延るあらゆる障害を余すところなくこらしめる力を持ち、すべての真理を完成させた金剛手菩薩(金剛薩埵)は、世尊(大日如来)に向かい、その教えをさらに明確にしようと、お顔に笑みをたたえながら、左手に金剛慢の印を結び、右手に五鈷杵を持って、勇ましく邁進する姿勢を見せながら、大いなる快楽に至る、虚しからざる悟りの心を(種字に表し)唱えられたのでした。

ウン 金剛薩埵