戦後の日本に、フィヒテがいなかった。
ナポレオン占領下のドイツで、フィヒテは、ドイツ国民に向かって次の様に訴えたのです。
ドイツ国民に告ぐより。
独立を失った国民は、同時に、時代の動きに、影響を及ぼし、時代の流れを導くための施策を、自由に決定する能力をも失ってしまう。
もしも、ドイツ国民がこのような状態から抜け出ようとしないなら。
この時代と、この時代の国民みずからが、この国の運命を支配する外国の権力によって、牛耳られることになるでしょう。
他国の占領下にあって滅亡を逃れ、わが国の精神を、いかなる形の服従に屈しない不屈の精神を再び蘇らせる事を可能とするのは、ドイツ魂という我らが共有する特徴である。
先ず、今の我々を見てみよう。
かつての秩序の根本は、なんだったのか。
なぜ、かつての秩序が失われたのか。
その原因を明らかにできれば。
その正反対の事を、これからの時代の中にはめ込み。
一から出直せば、堕落した国民を再起する事に導く事が出来る。
敗因を探究した結果、かつての組織は全体的関係が個人的な関係が結びつけられていた。
しかも、その結びつきは、現世と来世とが公的な運命と私的な事柄とが結び付けられていたが、そのつながりがあるところで断ち切られていまって、全体の利益を顧みる者がいなくなったことに気がつくであろう。
享楽的物欲は、私利私欲のみを研ぎ澄まし。
現世と来世とを結び付けてていた信仰心すら捨てさせ。
信仰心にかけていた、あるいはその代償となる道義的手段、即ち、名誉や国家の体面を空虚な幻想としてしまう。
政府の力が弱いために、国家への義務を怠る事も罰せられない事が度重なり。
個人の行動が国家全体に与える影響、現世が来世に与える影響に対する恐れを失わせ。
個人が全体に与える影響を顧みることなく。全体の規則や動機に反する規律や規則にしたがって、自分勝手な行動が度重なるにつれて希望をもつ事すら失った。
この様にして国家全体と国民とのつながりは、全て、断ち切られてしまい。
これに従って、公共的団結は、失われたのである。
たんなる享楽的欲望、利己主義がそのすべての生命的な活動、運動の原動力になっているということに向かって突き進んだことを述べた。
しかし、同時にこれがために、利己主義は行くところまで進みすぎて、かえって自己を失うに至ったのだと語った。
これでは行方を失いつつあるドイツは救えない。
私はこの講演をドイツ人のために、もっぱらドイツ人についての出来事に絞って語りたい。
なぜドイツ人のためなのか。
それ以外のどんな統一的名称も真理や意義をもたないからなのだ。
我々は、来世を現世に結びつけなければならない。
そのためには我々は「敷衍化された自己」を獲得しなければならない。
それにはドイツはドイツの教育を抜本的に変革する必要がある。
その教育とは国民の教育であり、ドイツ人のための教育であり、ドイツのための教育である。
この講演の目的は、打ちひしがれた人々に勇気と希望を与え、深い悲しみのなかに喜びを予告し、最大の窮迫の時を乗り越えるようにすることである。
ここにいる聴衆は少ないかもしれないが、私はこれを全ドイツの国民に告げている。
占領軍の支配を受けはじめると、まるでその時を待ち兼ねていたかのように、誰も彼もが、われ遅れじと外国人の機嫌を取ろうとした。
かつてはドイツの政府や政治家たちに対して媚びへつらい、ぶざまに這いつくばっていた人たちが、今度は国を極めて誹謗し、ドイツのものといえば何でもかんでも悪しざまにののしるようになった。
我々は即座にドイツ人になればよい。
本来あるべき姿に戻れば良いのだ。
我々は精神を他人の支配にまかせてはならない。
そのためにはまず堅確な精神を養わなければならない。
自らドイツ国民たるを信じ。
ドイツ国民が偉大かつ高尚な国民たることを疑わず。
ドイツ国民に望みを託し。
ドイツ国民のために生命を賭け。
艱難(かんなん)に耐え。
苦痛を忍び。
今日限り動揺を止め。
信念を強固にしなければならない。
フィヒテは、偏狭な国粋主義者ではありません。
ただ、愛国心からナポレオン占領下のドイツ国民を鼓舞する為に訴えたのです。
命がけでドイツ国民に告げた。
ドイツというところを日本と置き換えれば、フィヒテが何を言わんとしたかがわかるはずです。
ナポレオン占領下のドイツは、まだ統一されていない。
だから、フィヒテがドイツ国民とあえて言うの特別な意味がある。
国家とは何か、国民とは何かの、本源的な問いがある。
今の日本人が言う。国民というのと意味が違う。
ただ、今の日本人の方が素直に国民という言葉を受け入れるかもしれない。
逆に言うと、愛国心とか国家などと言うと短絡的に右翼、国粋主義、民族主義、独裁主義に結び付けて考える事は、危険であり。
その短絡的な考えかたこそ、戦後の日本の文化を殺伐とさせているのである。
ドイツとは何か。
ドイツ国民とは何か。
日本とは何か。
日本国民とは、何か。
その本源的な問いを忘れたら。
ドイツ国民、ひいては、日本国民に何を告げようとしているかを理解する事はできない。
日本人は、日本人とか、日本国民というのを分かっていると思い込んでいる。
わかっているつもりの人が多い。
それは、日本が島国で他国と物理的に隔てられてきたからで。
それでも、改めて、日本人とはと聞かれると、戸惑う人が多い。
ウクライナとロシアの戦いというが、日本人は、ウクライナ人とロシア人とを、見分けるのは難しい。
戦争にならなければ、ウクライナ人もロシア人も生活を共にしていたのだ。
隣国の中国では、香港人とか、台湾人と言い出す人もいる。
日本人は、国とか国境という概念が希薄だから、領土を、歴史的な事から、決めようなどと、意味不明な事を言い出すのである。
古来、大陸では、国境は武力で決められてきた。
大陸は、国境が地続きで絶え間なく、武力で変更されてきたのである。
歴史によって国境線は、塗り替えられてきた。
日本人は、自分達が、当たり前だと考えている事の中には、世界では、通用しない事が多くある事を知るべきだ。
自分達の考えを敷衍化して、どこでも通用すると思い込んでいるから、島国根性と謗られるのである。
日本とは、属人的な概念なのか、法的な概念なのか、物的な概念なのか。
今日では、法的な概念とするのが、もっぱらだが、いざ、ウクライナ紛争のような事件が起こると、属人的な要素や領土といた物的の要素が前面に出てくる場合がある。
占領されれば、民族浄化や、虐殺、強制移住など、属人的、物的、あるいは。歴史的な事は書き換えられてしまう。
だからこそ、国家とは何か、絶えず問う必要がある。
フィヒテのような哲学者が命をかけってドイツ国民に訴えた事に意味がある。
フィヒテのような哲学者がいなかったことは、日本の悲劇だ。
私は、ナチズムや反ユダヤ主義、人種差別を容認しない。
ただ、いわれなき服従、自らのアイデンティティを失いたくないだけだ。
今の日本人は、国家、国民、独立という概念すら失っているように思える。
自分の国は自分で守らなければ、誰も、助けてはくれない。
失われてから騒いでも遅い。
後の祭りである。
ナポレオンがプロイセンから敗退した後、混乱する国内の救援に夫人がボランティア看護婦として参加したが、その間に、夫人は、チフスに感染した。
夫人を看護し続けたフィヒテもチフスに感染、間もなく急死した。
享年、51歳であった。