勝利。
答えは出てないかもしれないが。結果は出ている。
だから、ドラマになるのだろう。
戦後の知識人は、自称だけど、自他の主体的関わりを否定してしまって、客観性万能、それを科学的だと勝手に思い込み。
その癖、主体性、主体性と理由のわからないことを言う。
自他の主体的関わりは、結局、自分がなんの為、誰の為という問いに集約されるから。
世の為、人の為、愛する人の為、家族の為、祖国の為、友の為、人民の為、神の為と、自分の存在意義を、他との関わりを通じて見出そうとする。
その根源は、自分の強烈な意志や情熱にあるのだが。
公正、公平、中立、無思想の思想等と称える事で、自分の立場を曖昧にして、若者たちを思考停止に陥らせ。
反体制、反権威、反権力、反社会、反米、反戦と何でも反とつければ知識人、言論人、マスコミとすればかっこがつくと。
叛逆の美学、ピカレスクロマンと犯罪まで美化してしまう。
世の為、人の為。愛する人の為と言ったところで、全てきれい事よ、偽善だと否定し、拒む。
行くつくところは、自分の為、金の為。
その癖、自分だけのこと考えるなんて許せないと他人を責める。
なんだって自分の為、金の為としなければ、納得しない。気が済まない。
人間なんて醜く、汚いと。
人間不信を装って。
そう言って自分の巣穴に閉じ籠もっていれば居心地がいい。
要は、人間の意志や情熱の働きを取り除いて、冷めて覚めて。
極限にまで心を凍結してしまう。
それが知識だって、科学だって、ふざけないでくれ。
そんなもの、独りよがり以外の何物でもない。
人の醜いところや、きたないところを見つけては、そらみたことかと。
信じるなんて愚か者のする事よと。
なんでも疑ってかかれと信じることを怖れさせ。
だから何だと。だからどうしたと。
他の人間があさましいからといって自分もあさましくなるための言い訳にはならない。
他人が諦めたからと言って自分が諦める必要はない。
他人が信じないから、自分が信じなくなることはない。
知識人などと称していても、所詮、行き着くところ自分の意見など持ち合わせていない。
マルクスが風靡すれば、マルクスを称賛し。
ソビエットが、崩壊したら自由主義に転向する。
結局、信念なんて無縁の事で、ただ世の風潮に同調しているだけ。
思想信条など関係なく、酷いことしていると、同情と哀れみでしか語れやしない。
何が、リアリズムだ、自然主義だ。
現実を直視もしないで、リアルもへったくりもない。
欺瞞でしかない。
他国との関係も考えもせず、自国の都合だけでこの国を護れると、無邪気に信じている政治家の何と多い事か。ただ、無心に、祈っていれば平和は維持できると。
あなたは、暴力反対と避ければ、この世の中から、本当に、暴力消え失せると、本気で信じているにしても、自分たちの子供たちを巻き込まないでくれ。
哲学とか、思想とか、宗教なんて、煩わし事は、KYとか空気読めないと最初から遠ざけて。
真面目に議論する事も出来ず。
挙句の果てに欝だ、躁だと、自分の殻に閉じこもる。
いい加減したらどうだ。
答えは確かに出てはいないけど、結果は出てはいる。
その結果を、どう受け止め、どう生きていくかを決めるのは自分でしかない。
確かに。
でもね。世の中、汚い事ばかりじゃないよ。
へたな憐憫、同情は相手をかばう事にはならない。
かえって相手が間違わせる事になる。
そんな同情、私情は、相手を思ているように見えて、結局は、自分を慰めるためだ。
俺は、昔っから、仲間に宣言している。
お前が、間違った道に行こうとしたら、俺は、友情を掛けてお前をぶん殴る。
殴れば、友達でなくなるかもしれない。
でも、殴れなければ、最初から友ではない。
下手な憐憫で部下を叱れなければ、最初から責任者なんて引き受けない。