世の中かが不安定になると、どこからか、陰謀論が頭をもたげてくる。
まことに、陰謀論と言うのは鵺みたいなものである。
闇の底にうごめくえたいのしれない。
陰謀とか都市伝説の類は、聞いてみるとそれなり、の説得力があったりもする。
だから余計に始末が悪い。
陰謀かどうかは立ち位置によって変わる。
体制側から見れば、反体制活動は、陰謀と言える。
陰謀が成立するためには、いくつかの条件を満たしていなければならない。
第一に、主体の問題である。
陰謀、つまりは、社会の裏世界の勢力と言ったところで何らかの主体がなければ、陰謀は成り立たない。
それが、秘密だから陰謀とされるのだろうけど。
そのような主体が陰謀を実行するためには、何等かの思想があって、目的や意図がなければ成り立たない。
問題は、根本思想である。
陰謀を実行するためには、それなりの、資力もなければならないし、人員も必要だ。
それをどこから調達するのか。
人は、金だけで動くわけではなく。
命がけでかからなければならない。
それだけの人を動かすためには、強固な動機が必要である。
それに、広大な闇ネットワークやシンジケートを構築しなけれなならない。
陰謀と言うのは、犯罪者集団みたいなものを想定しているのかもしれないが。
むろん、マフィアや、暴力団みたいなシンジケートはありますが。
それを、陰謀と言うかどうか。
陰謀と言えば、ユダヤとか、まあ、日本人以外から見れば、日本人の陰謀と言うのかもしれないが。
じゃあ、ここでいうユダヤとか、日本人の実体とは何かという事になるのだけど。
日本人の陰謀と言われてどれ程の人がピンとくるのか。
闇の組織と言われても組織って合目的的なもので、表の組織でも維持するために大変な労力を必要とするので、いわんや、闇の組織となると鉄の規律が要求される。誰がそれを統制するのか。
まあ、それに近いのは、イスラム原理とか、キリスト原理とか、カルトの過激派、左翼の過激派みたいな、狂信者。
明治維新の志士など、あるいは、薩摩や長州の討幕を陰謀と言えば陰謀だけど。
それでも、根本の思想は明確だったのであり。
問題は、何を善とし、何を意図し、何を目的にしているかだ。
そこが問題なので。
007とか、スパイ映画などを見ると悪の組織なんかが当て、その組織のボスが一人で悪事を企んでいるようなストーリーがありますが。
手下だって人間で、自分の意志や価値観がある。
盲目的にボスに従うはずがなく。迷いも悩みもある。
闇の組織を束ねるのは一筋縄にはいかないもの。
カリスマ的指導者でなければ、組織を統制できない。
根本に、人を狂わせるような思想がなければ、成り立たない。
だから、陰謀があると言えば、あるし。ないと言えばない。
なぜなら、個々の勢力はそれぞれが自分の戦略、意図があって活動するのだから。
それを陰謀ととらえるか、否かは、とらえ方の違い。
自分が、どの様な考えに根差しているので。
陰謀と言うなら、自分の立ち位置を明らかにしないと。
自分は仕事が出来ない癖に仕切りたがる。
そういう人間が増えている。
そういう人間が困るのは、実際に仕事ができる人間を排除しようとすることである。
そういう人間にとって仕事のできる人間は、目障りなのである。
確かに、それは陰謀に見えなくはない。
しかし、それを陰謀というのは、あんまりに、矮小だ。
日本人の悪いところは、その根本思想を明らかにしないで、上面だけ見て、陰謀だ陰謀だと騒ぎ立てる事よね。
戦争に敗けて、自分の思想を、明確のできなくなったからかな。
でもそれは、卑怯だよね。
肝心なのは、自分の立ち位置を明確にすること。
自分の立ち位置からは見えないところがあるから。
人は、自分のわからない事を悪だと決めつけたり。
見えないところに恐れを抱いたり。
都合が悪い事から目を瞑ろうとする傾向があるから。
決定的なのは日本が負けたという事実であって。
その事実の上に立ってこれから自分たちは、どのように国にしていくのか。
日本人は、日本人としての立ち位置が明確にしておかなければならない。
そこをしっかりさせないと、陰謀がどうのこうのと言っても始まらない。
ロシアのウクライナ侵攻に対しても、日本人は、日本人として覚悟をもって、責任を持って、他人事としてではなく、関わっていかなければならない。
陰謀というのは、陰謀を企むものが何らかの目的や意図があるはずで、だとしたら、陰謀の目的が達成されたら、どうするのか。どのような得があるのか。
陰謀を企んだとしてもそれが成功した時、何の得もない、自分にとって意味がなっかたら、陰謀を企む動機がない。
大体、陰謀は、失敗した時、失う者が大きすぎるのである。
その割に陰謀に払うコストは莫大なのである。
一番怖いのは、信用を失う事である。
陰謀論を言い出す人は、陰謀のみならず、この世の出来事は、総て計算ずくで動いてると考えている節がある。
しかし、歴史的出来事に対する解説や解釈のほとんどは後付けに過ぎない。
歴史に残されるのは結果だけで、勝ったら、何故勝ったかが問われ、負けたら敗けた理由が追及される。
成功したら成功した要因が聞かれ、失敗したら失敗の原因が問題となる。
アレキサンダー大王だの、諸葛孔明だの、モルトケ、徳川家康、竹中半兵衛、武田信玄、坂本龍馬は、総てを見通し、あらゆることを計算しつくしていたと。
実際のところ、人の見とせることなど、わずかな事、その時点その時点の決断の多くは直観的なもので、予測外、予定外、不測の出来事、誤謬、混乱に満ちているので、幸運に恵まれたという事が多い。
あたかもすべて見透していたかのように見えても、一寸先は闇、暗中模索状態なのである。
刻一刻、事態は変化し、多くの事は、偶発、偶然、計算外なのである。
大義は勝者の側にある。
敗者は、何を言っても負け犬の遠吠えにしかならない。
ただでさえ予測のつかない事なのに、陰謀は、リスクが大きすぎる。
仮に陰謀を企むものがいたとして、陰でこそこそする事が好きな人間で、成功する確率は極めて低いと言わざるを得ない。
陰謀を企むためには、鋭い洞察力と構想、見通しがあって、強い意志がなければ完遂できない。
仮にそのような人物なら、陰謀なんて企まないであろう。
ほとんどが、妄想の域を出ない。
秘密結社とか、陰謀と言うけど、敵対している勢力から見れば、必然的に、そのように見えるのである。なぜなら、敵対する者に対して自分たちの意図を隠すのは必然だからである。
陰謀がどうのこうのと言うなら、先ず、自分の立ち位置を明らかにすることで。
世界は、考え方や、信じている事、利害も、人種民族、宗教も、違う勢力が、鬩ぎ合っている場だという事を忘れてはならない。
国内を見ても、いろいろな思想団体、組合、政党、宗教団体、それこそ、企業だだって競い、戦っているのである。
それを一々、秘密結社とか陰謀と言ったら、中小企業だった秘密結社で、陰謀を図っている事になる。
それよりも、自分の考えもなく、周囲の考えを理解しようとしなければ、自分の意図する事に反して利用されるだけである。
世の中に蠢く、勢力には、それこそ、暴力団、マフィア、ギャング、過激派、テロ集団、スパイ、カルトなども含まれるのである。
いつの間にか、自分と敵対する勢力の策謀に知らぬ間に加担させられる事や、犯罪集団の片棒を担がされる事にもなる。
金の為なんて事になったら最悪である。
世間知らずでは済まない。
陰謀があるというのは、一面において真理だと思います。極端なね。
ただ、何らかの考えを持つ勢力がいるのは事実ですよ。
問題は、それは、一面でしかないということで、
肝心なのは、誰に、どの程度の影響を及ぼすかですよね。
一つの勢力の思い通りにはならない。
私が学生時代は、反米、反体制、反戦、一辺倒で。
愛国心、国益なんて怖くて言える雰囲気ではなっかた。
共産主義化するのは必然みたいな。
何故、そうだったのかって、その背景を考えたからいろんなことが見えてきたので。
共産主義なんて、陰謀だらけ。
革命集団とは、そういう団体ですから。
ただ、どの勢力も、最終的解決策を示していない。
一つ、言えるのは、紙幣の元は借金だという事。
陰謀がないなんてナイーブなのが問題なので。
逆に、陰謀と言われれば、信じ切ってしまう。
無為自然を究極の境地とする思想が日本人にはあるが。
現実に人の世界は、無為自然になる事ではなくて。
自然とは違う。
世に中の動きは、自分の、考え立ち位置を明確にし、いろいろな角度から、検証していく必要がある。
日本人は、陰謀論として、偏った見方しかできない。それが問題なので。
だからどうしたというにが問題なので。
敵もいれば味方もいる、そう思っていないと、いいように弄ばれるのである。
日本人の議論を聞いていると、突然、あたかも、所与、自明であるかのごとく、決めつけて論理を展開する事がある。
「すべての国は平和を望んでいるではないですか。」みたいな。
「民主主義は必然」とか。
それこそが、陰謀だよ。ちゃんと、根本にある事を検証しないと。
秘密があるからで、秘密と聞くと、隠微で暗く、顕にできない悪どいことが隠されている。
でも、秘密は誰にでもあるし、誰にも話せない事、話したくない事はある。
ただ、秘密を握られたからと言って人の言いなりになる事はない。
我々は、何と戦っているのか。
それをハッキリさせる事です。
何と戦っているのかを明らかにするためには、自分達は何を守ろうとしているのか。
そして、何から守ろうとしているのか。
何から、何を守ろうとしているのか。それが鍵なのである。
居心地のよさの引き換えに、何らかの代償を支払っている。
人は、居心地がいいところに安住しようとする。
しかし、時の流れは、いつまでも居心地のいいところに、安住させてはくれない。
居心地の良さと引き換えに何を失ったかそれを考えてみる事だ。
居心地の良さと引き換えに失ってはならない事がある。
自分が守るべきものを知らずに生きていくと、ただ居心地の良さにしがみついて自分を見失っていく。
今がいいからと目を瞑って何も考えようとしないのは楽だ。
それよりも、意味も解らないで、居心地のいい理屈にとらわれる事の方が怖い。
どんな、美人だって糞尿も、オナラもするし、年も取る。
絶対的権力者も不老不死にはなれないし。
どれほど富があっても、あの世には持っていけない。
大統領だって、皇帝だって、書記長だって、法王だって、総統だって、将軍だって、食事もしなければならないし、寝なければ病気になる。
出す物を出さなければ生きていけない。
一生に出会える人も限られていって、
どんなに栄耀栄華を誇っても、人間は限られた世界に生きている。
そして、報いは誰にでもある。
僕が言いたいのは、どんな陰謀も、人としての限界は超えられないんですね。
人は、神を超えられない。
僕は、僕なりにこの国を守る。
ただ、それだけですね。