なぜ、企画書や予算書、日程表などを作らさせられるのか。
わかっていない人が見受けられる。
なぜ、企画書や、予算書を作るのか。
第一にね。
予算とか、企画というのは目に見えないという事さ。
だから、目に見えるようにする。
企画書とか予算書というのは、いわば鏡なのね。
第二に、チームワークという事ね。
これは、一番目の事にも関係するけど、目に見えない事は、共有できないという事。
第三に、いろいろと試行錯誤したり、訓練したり、予行演習をする事。
こういう目的を理解しておかないと的外れ、頓珍漢な事になる。
いい例が、タイミングね。おなかが、一杯な時に料理を出すみたいな。
企画とか、予算と言ってもね。
じゃあ、具体的に、何から手を付けたらいいか、どんな作業があるか。
頭の中で考えているだけでは、見えてこない。
だから、企画書を作成するとか、予算書を作ると言った目に見える物の作成に置き換えて作業を読む。
現物に置き換える。予算ではなく予算。企画でなくて企画書。
言い換えると、企画書や資料を作成するという作業で、工数や日程を計算する。
日程表を作る仕様が、日程を調整する作業に置き換わるし。
日程表を作成するための担当者が、日程調整の担当者。
日程表を作成する手続きが日程調整の手続きになる。
日程表を作る目的が日程を作る目的になる。
つまり、日程表という物に置き換える事で作業や工数を実体化し計算できるようにする。
だから、突端の作業は、項目をどうするか枠組みをどうするかであり。
仕様である。それが実務家の考える事。
実務家は、作業で考える。
例えば、会議日程表なら、会議も、日程表の枠組みや目的を実体化する。
当然打ち合わせも、日程表の、枠組みや項目から始める。
更に、付帯資料や帳票によって、付随作業を見えるかする。
また、予算書などは、予算書を作る過程で、役割分担、予行演習、方針の浸透、意思統一、社員教育、目標の明確化、現状認識、責任の自覚等を実行する。
極端な話、予算が出来なくても目的を達成できればいいのである。
果たして、一円単位まで精緻な予算を立てる必要があるのか。
今日なら、パソコンを使えば、一人でかなり正確な予算を立てようと思えば立てられる。
しかし、それでは、却って仕事の邪魔のなる事さえある。
一人で作ったら意味がないのである。
また、予算を立てる事に追われて現業に支障が生じる事の方が問題。
また、答えがあるわけではなく。
企画にしても、最初から一本化する必要はない。
代替え案をいくつか用意するのも一つの方策。
予算もしかり。
要するに、何の目的で予算を得るかが肝心で、それを確かめるために予算書を共同して作るのである。
だから、結果より、いつ、だれに、どのように仕事をさせるかの方が意義を持つことが多い。
重点施策を誰を責任者にして、誰と素案を作るか。
そして誰に報告し、誰がどのように決裁を下すのか。
それが現実の仕事の下敷きになるからである。
企画と企画書の違いを理解しなければいけない。
企画には姿かたちがないのである
企画書には姿かたちがある。
企画と企画書の違いに気がついていない人が結構いる。
しかし、実務では、決定的な違いがある。
設計と設計図とは違う。
工程と工程図、工程表は違う。
組織と組織図は違う。
チェックとチェック票は違う。
会話とメールは違う。
計画は探せないけど。計画書は探せる。
日程は見れないけど、日程表は見れるし、書き換えられる。
設計は確認できないけど、設計図は確認できる。
書、表、図があるかないかで天と地ほど違うのである。
書や表、図になっていないと取り留めなくなる。
記憶は失われるが、メモは残る。
記憶を信じていたら、忘れたらお終いである。
結局、言った言わないの諍いを起こす。
記録さえあれば、話は別である。
パソコンで保存をかけずに慌てるのは、記録が失われるからである。
要は、形があるか、ないかなのである。
我々は、形にしろ、形を作れと。
そうしないと仕事にならないと注意されてきた。
自分の頭の中にある事を外に出し、写す、外に写像する。
写像する事で関数化する。
一旦、文書などの生成物、成果物に置き換え、そこから作業を洗い出し、パート化する。
それが、WBSである。
そうすれば、視覚化でき、操作が可能となる。
それが数学の原点。
数学とは、抽象化、操作化、視覚化である。
写像とは、鏡像関係を作る事である。
自己とは、間接的認識対象。
自分や背中は、直接見ることはできない。
外部に投げ出す。投影する事で、はじめて見ることができる。
後ろ姿は、なおのこと、一枚の鏡では見ることはできない。
自分の考えも同じ。
紙に書くなどして一度、外に投影しないと見えない。
外に出す事で。客体化し、再認識するのである。
なんて事はない。
自分の事が一番わかりにくいのである。
表に出す事で、自分の考え、構想が手に取るようにわかるようになる。
形にすれば、加工もできる。
咀嚼する事もできる。
細分化したり、深堀もできるようになる。
組織的事象は、原則、一人では確認できない。
確認の基本は比較、照合だから一人ではできないのである。
人を代えて確認する。
自分一人で自分の考えを理解しようとしたら、一旦、外の世界に投影する必要がある。
猶更、組織は、一人では成り立たない。
だから、、他の人に自分の考えを投影する事で再認識する事で確認できる。
一人で仕事を抱え込まれるのが一番困るのである。
関係が成り立たないからである。
組織は、仕事を分かち合う事で、形成される。
投手一人では、キャッチボールさえできないのである。
投手が投げたボールを受け取る捕手がいて、キャッチボールは成り立つ。
確認や報告は、仕事の基本だが意外とその目的を正しく理解している人は少ない。
第一に、誰が確認しているのかわかっていない。
指示した者が確認しているのか。
指示された者が確認しているのか。
その双方なのか。
三つとも正しいのである。
指示した者が確認するのは、先ず、自分の指示した内容、要件を確認している。
また、指示された内容を指示された内容を、指示された者が、どの程度理解しているか。
指示され者が確認するのは、自分が指示された事を確認する。
その上で、指示を実行するために何をするのか、必要な物は何か、いつまでにするか、できるかなどを確認する。
双方で確認するのは、お互いの役割分担。指示の目的など共通認識に立つことである。
また、何によって確認するのかも重要な要素である。
目で確認する。見て確認する。書かせて確認する。合図で確認する。色で確認する。図面で確認する。表で確認する。設計図、書面で確認する。物で確認する。
耳で確認する。聞いて確認する。音で確認する。
口で確認する。言って確認する。
味で確認する。食べて確認する。
嗅いで確認する。(匂い)
触って確認する。手で確認する。肌で確認する。感触で確認する。書いて確認する。温度で確認する。
足(行って)で確認する。位置を変えて確認する。
動き(行動)で確認する。やっている事で確認する。やらせて確認する。指差し呼称して確認する。
仕事(作業)で確認する。やって確認する。二人で確認する。読み合わせて確認する。手続きで確認する。時間で確認する。
どこで、どこを、確認するかで見るべきところも違ってくる。
理解度を確認するのか。
仕事の内容を確認するのか。
目的を確認するのか。
誰に報告するのかを確認する。人。
道具を確認するのか。物。
いつまでに、やるのかを確認するのか。時間。
集合場所を確認するのか。場所。
費用を確認する。「お金」。
確認するところで視点も変わる。
なぜ、確認するのか。
意思統一をするためなのか。
夢を実現する為なのか。
使命をやり遂げるためなのか。
国の為なのか。
人々の為なのか。
家族の為なのか。
神の為なのか。
信じるためなのか。
生きる為なのか。
仕事や組織と言った物事の本質は、いろいろな角度から多角的に照射し、確認しないと見えてこない。
何故、指示を出すのか、報告をするのか、確認をするのかもわからないで。
いう事を聞かないとか、わかってないなんて、文句を言っても意味がない。
指示も、報告も、確認も、目的や相手によっては、まったく違ってくる。
確認の仕方も立ち位置、立場、目的の応じて変わる。
仕事も、組織も、人も、取引も、裏、表があり。
確認も、報告も、仕事や人、取引を、鏡像関係に結びつける事に、意味があるのである。
自分を一度表に出し。皆に見えて、操作できるようにする。
自分を表に出せば、自分お世界も広がる。
はじめは、から、空なのである。
見える化というのは、皆の考えを表に出して、皆で共同で計画を立てられようにする事。
絵にするとか、グラフにするとか、動画にするという事を言うわけではない。
見えるかの原始的ののは方程式である。
数学とは、数という抽象的概念を、数字ににして見えるかし、変数と演算式にする事で操作ができるようにした。それが、数学を飛躍的に進歩させたのである。
そうすると、最初は、枠組み、骨組みが大切になる。
項目をあげて枠組みを作る。ここに、最初の工夫が求められる。
つまりデザインである。
はじめは、項目でけあげて、それから、具体的な事を書き込む。
そうしないと、結論に縛られ、手が詰まる。
先ず、選手の名簿を作り、それから、投手、捕手、一塁手と言った守備位置(項目)を挙げ、それから、名簿を見て、コーチの意見を聞きながら、割り振っていく。
その為には、自分の考え構想を一旦、表に出す。
計画や構想には、全体と部分があり。
日程表や、予算書、会議規則、名簿、地図、ToDo表などは部品。
一回で決められる事は、ほとんどない。
なぜなら、チームワークだからである。
日時と言っても、場所と言っても一つではない。
打ち合わせの回数毎に、日時も場所も生じる。
日時というより日程と捉えた方がいい。
担当を決めれば終わりではない。
やることが決まり次第一人ひとりに割り振る必要がある。
一つが決まれば、他の項目と結び付けなければならない。
誰かが抜けたら速やかに作業の組み換えが必要となる。
予定が外れたら、段取りが来る。速やかに手順を変える必要がある。
常に、全体を見渡せるようにし、皆にわかるようにする。
その為に仕事を分担するので。
一人で、考えをまとめるのではなく。
口頭で伝えて担当にまとめさせる。
それによって、自分の考えを整理すると、同時に、相手がどれくらい理解し、自分のものにしているかを確認する。鏡がなければ、自分お姿を見る事はできない。キャッチボールは、一人ではできない。
自分の考えを表に出すためには、鏡が必要なのである。
鏡は、人だったり、図表だったり、計画書だったり、組織だったり、動画だったり、音楽だったり、プレゼンテーションだったり、方程式だったり、守備位置だったり、形だったりする。
それから、細部を組み立てていくのである。
鏡に自分の考えを写す。それが、写像である。