緊張感を持たせろと言ったって。
言葉で緊張しろといったところで緊張するわけではない。
緊張感を持たせるという事は、緊張させる事なのである。
優しく緊張感を持たないとだめだよといったところで、緊張するわけではない。
緊張させろと言われたら、実際に緊張させなければ意味がない。
大きな音を立てるとか、びっくりさせるとか、恐怖感を持たせるとかしないと緊張なんかしない。
我々の仕事は現実なのである。緊張感を持っていないと怪我をする。
危険が常に伴っている。
結果を出さなければ評価されないし、できない。
パワハラだなんて言っても単に自分の力を誇示する為に大声を出しているわけではない。
危ないから、緊張感がなくなれば怪我をするから、大声を出しているだけだ。
今は、本当のことを言うのさえ、勇気がいる。
言論の自由なんてわめきたてているメディアの人間にかぎって、自分が、言論を弾圧しているのに気がついていない。
評論家は無責任だ。無責任だから、他人を批判できる。
ただ、今の評論家は、無責任なだけでなく、傲慢だ。
差をつける事は、差別する事とは違う。
同じ仕事をさせても全く違う結果が出る。
怠けていても、一生懸命やって同じ評価では、人間、やる気をなくす。
だから差をつける。差をつけるのは駄目だとなったら向上心なんか失せてしまう。
大体の人間は、根っから向上心を持っているわけではない。
自主性、自発性など期待したら指導者は孤立するだけ。
自主性とか、自発性というのは、学校の教室の話。世迷言に過ぎない。
でも、あんなこと言っているから、教室で先生は孤立する。
誰も先生のいう事なんか聞かない。
今の学校は、先生は、指示、命令ができないからね。
だから、日本は、世界から取り残され、落ちている。まだ目が醒めない。
世界中どこ探しても強制のない世界はないの。
自主性とか、自発性が期待できるのは、自主的に自発的に働かなければ生きていけない世界。
何にもしなくとも、同じ事をしていれば、生きていける。
努力しなくても何とかなる社会では、自主的に改革したり、改善なんてするはずがない。
十年一日のごとく、同じ事をし、人から、干渉されないで、やりたいようにやれればいいと思い込んでいるんだからね。
変革なんて最初から望んでないのだから。
厭な事を進んでやるなんて考えるのは人がいいだけ。厭な事はやらないよ。それが人情。
弁解や言い訳、反論なんて聞く必要はない。
重要なのは決断。覚悟。
こうと決まったら、決めた事をどうしたら実現できるかを考えればいい。考えさせればいい。
後は実行あるのみ。
その上で、無理に事は無理と言えばいいだけ。
議論なんかしている間に、攻め潰されるよ。
自分の力で生きて行けるように鍛える。そのどこが悪いというのか。
一人で生きていけないような人間にしてしまう方がよほど残酷である。
頭ごなしに決めつけるのは確かに止めた方がいいけど、それ以前に一人ひとりと向き合っていないのが問題なのである。
やりたい事があったら、自分の力でできる様にしようとするのが大人。
誰も助けてくれないと文句を言うのは子供。他人の世話を当てにしたり、親に面倒見てもらおうなんて考えているうちは、仕事はできない。
教えてくれないなんて言うけれど、学ぶ意思のない人間を教える事はできない。
欲しいものがあったら、自分で働いてお金を稼いで欲しい物を手に入れる。
買ってくれないと駄々をこねるのは子供のする事。少なくとも親が納得するように説得するのは、子の務め。
試験に受かりたければ、ただ、試験勉強をするだけでなく。自分で試験を受けられるように準備する。自分で何を学ぶか。どの学校に行くか。自分で決め。受験する為の手続きも、住む処も自分で決める。昔は、学費だって自分で稼いで払った。
今の親は、あなたは試験に集中していればいいと勉強以外の事は、何でもやってしまう。だから、子供たちは、学ぶことの意味が理解できない。
人は、生きる為に学ぶのであって卒業をするために学校へ行くわけではない。生活の延長線上に学問があるから、己の魂の底まで学び取ったものが染み込み、自分と一体となった。今の学問の成果は、上っ面でしかないから時間がたてばメッキが剥げるように剥げ落ちる。
日本人は、十二年以上も英語の勉強をしていても、片言の英語もしゃべれない人が多い。外国から日本に働きに来ている人は、正規の教育を受けていないものでさえ、一ヵ月もあれば生活に困らない程度、日本語が話せるようになる。彼等は、言葉がわからなければ生きて入れないからだ。
学ぶ意思があれば自分で何とかして学べるようにする。どんなに丁寧に、良い環境を作っても学ぶ意思がない者を教える事はできない。
だから、かつて、禅寺は、学びを修行として、門前に三日も待たせて、心構えから問うた。学ぶという事は命懸けの修行なんだ。教えてくれないと言う前に、自分は何を学ぼうとしているかを自分に問え。
自分達が生きていくために…。
この国で生きていかなければならないならば、この国をよくするのは、国民一人ひとりの力にかかっている。それが厭なら国を捨てろ。
誰かが助けてくれるだろう、わかってくれるだろうなんて言う甘えは捨てろ。
わかってほしいなら、わかる様にしるしかない。やりたいことがあるのなら、できるように段取りをし、計画を立て、準備をするのは、やりたいと思った者の仕事だ。
少なくとも口に出さなければ解らない。以心伝心。
テレパシーが政治家にあるわけではない。何でもかんでも察せよというのは勘違い。偉い人に忖度してよというのはお門違い。
話を聞いてくれないと言う前に、ちゃんと相手が理解できるように話をしたかを自分の胸に問え。
相手がわかるように説明もせずに、話を聞いてくれないというのは、無茶苦茶な話である。
相手に求める前、自分に求めろ。自分がなければ、何をやったところで虚しい。
独断と独善といわれようと、主観に過ぎないと思われたところで、自分が信じた事に従って生きるしかないじゃあないか。
組織は、個性と個生徒がぶつかり合う事で熱を持ってくる。
それが民主主義なのである。
独断や独善が悪いのではない。
独断や独善が許せないのが悪いのだ。
今の世は、嘘と欺瞞に満ちている。偽善者の言う事に耳を貸すのは予想。
歴史を観ればわかる。
戦う事を怖れた種族は、全滅するか、悲惨な末路が待っていた。
奴隷と、アヘンと、侵略、戦争、暴力、差別、それを、直視しなければ現実や真実なんて見てきやしない。
皆、薄々感づいているはずだ。
目を瞑るのはやめよう。目を逸らすな。現実を直視しろ。
日本人は、どうしてここまで愚かになったのか。
飼いならされてしまったのか。
いくら、俺は、公平な人事制度とか、賃金制度にしたと言ったって、女性から見たら、差別されてきたことに違いない。
公平、公正といったところで視点・立場によって違った風景が見える。
所詮、独断独善から逃れられまい。
ありもしない公平や、公正を求めても。虚しいだけだ。
それは信仰なのである。
非暴力も、不戦も。
戦争は厭だ。できれば戦いたくない。
しかし、戦わなければならない時がある。戦わなければ守れないものがある。
誰も、守ろうとしない国は、守れきれない。
戦う事を拒んだら、大切な物や愛する人を守ることはできない。
守るべき物や人を投げ捨て、己の義務も責任も誇りさえ放りだしたに過ぎない。
自分達の愛するものは、自分達の力で守ろうと、覚悟しないかぎり、誰も助けてはくれない。
自分の国は自分たちで守るしかない。自分たちの権利や義務を他国に守ってもらおうとしたら独立は諦めるしかない。
今の日本人の言う自由なんて家畜の自由に過ぎない。
痩せても、枯れても、野生の自由こそ、誠の自由なのだ。