自分は、両国育ちだから。
夏は、両国の川開き。
花火と、相場は決まっていた。
夏は、花火。
物干し台に、当時は、住み込みで働いている人も大勢いて。
家族、皆で、賑やかに。
鍵屋、玉屋と。
当時は、エアコンなんてしゃれた物はなく。
団扇で、パタパタ、涼をとったもの。
蚊取り線香があたところで、役にも立たず。
果物と言ってもマクワウリにスイカ。
懐かしいと言うより、夢のよう。
何もないのだけれど。
大人たちは、ビールに枝豆。
昔は、縁台を出して夕涼み。
エアコンの効いた、マンションの一室で、一人、遠い花火を見ても。
なぜだろう、日本の夏という気がしない。
何かが遠くへ行ってしまったような。
霞んでいくような。
コロナによって、また一つ何かが消えてしまった。
何が変わったと言うのか。
変わってしまたのは、私の方か。
幸福の根源は、欲である。
不幸の根源も、欲である。
だから、欲を制御しなければならない。
無欲では幸せには、なれない。
欲に溺れれば自分を見失う。
欲がなければ生きることはできない。
欲に囚われたら命を失う。
今は、我利我利と。
取り留めもない欲。
抑えようのない欲に身を任せて。
自分を見失い。
自分が失せていく。
それでいいのか。
日本の風景。
日本の夏も。
いつの間にか、変わってしまい。
ビルの谷間に見る花火は、昔のように、夜空に、ぱっと広がって散っていくわけではなく。
私の知っている花火は、もっと単純明快。
パッと咲いて。パッと散っていく。
花火と言ってもただ、華やかできれいであればいいと言うわけではなく。
何というか、日本人の魂。
お盆の花火は、鎮魂の祈りを込め。
子供の頃に見た花火は、まだまだ、焼け跡残る、粗末な家の屋根高く。
戦争の記憶も醒めずに。
祖母から見れば、焼夷弾が花火となった。
それが平和というものか。
今の祭りに神はなく。
お盆はただの休日、里帰りの口実に過ぎない。
盆踊りも廃れてしまい。
先祖供養はどこ吹く風。
迎え火、送り火も忘れて遊び狂う。
何が現実で、何か幻か。
つかの間の夢。
胡蝶の夢か。
あの頃、一緒に花火を見た人も今はいない。
サラリーマン人生とは、はかないもの。
まるで線香花火の様。
最後の輝きを残して落ちていく。
定年になれば、自分の人生の履歴がリセットされ。
燃え尽きていく。
おのれの存在の根源に目覚めなければ。
錨をなくして漂うしかない。
所詮人生は、邯鄲の夢。
死のうは一定。
されど、人生は人生。
せめて生きてるうちは、一途に。
職人や農民は、人生と仕事が一体だった。
認知症になっても畑に出て仕事をしたという話も聞く。
そこには、芯があった。人生を貫く一本の筋が。
自分の人生を全うしたければ。
自分を見失わない事。
自分の道を貫く。
自分がなくなってしまえば、剥いても、剝いても,芯のない。
玉ねぎのような人生なってしまう。
自分の頭上に爆弾が落ちてくるはずがないと勝手に決めつけて。
ただ安逸をむさぼってる気がする。
しかし、現実には何も確かな事はない。
諸行無常。
現実を見ているようで実際は、霧の中。
何もかもが白昼夢のようで。
現実なんだよ。現実。
目を醒ませ。