貧困の構造

国民経済の目的は、国民を目的は幸せにすることであることを忘れてはならない。

貧困は、人々を不幸にする。最悪、生きる事さえ危うくする。
貧しさは、人間性や人格まで否定する。

貧困は基本的に分配の偏りによって引き起こされる経済的現象である。
働きに応じた公平な分配を実現しないと格差は拡大する。

経済現象の根本は人と物の問題であり、分配の問題であることを前提として考えるべきで「お金」は二義的問題だけれど、「お金」が分配に対し決定的な影響を与えているのも否定できない事実である。

しかし、結局、経済の実体を担うのは、人と物である。
経済に決定的な影響を及ぼすのは物不足である。

経済の根本は生産量と所得と消費量の関係にある。
分配は企業や政府などが働きに応じて支払準備である「お金」を所得として組織的に分配し、所得として受け取った「お金」を使って生活に必要とする財を購入する事によって完成する。

このような経済を支える仕組みには構造がある。

貧困は経済構造によって発生する。

通貨を統合すれば貧困はなくなるかと言うと、貧困は経済構造の歪によって発生するから、ひずみを是正しないと貧困はなくならない。
特に国家間の歪から生じる貧困は、通貨を統合するとより加速し、鮮明となる危険性がある。

貧困にせよ、国家間の係争にせよ、根本には分配の歪があり。
そのひずみがどのような原因で生じるかが経済の問題である。

問題となるのは資源の偏りである。
国民の必要とする資源を総て偏りなく欠けることなく自給できれば他の国を頼る事はない。
ところが、ほとんどの国は自給自足する事がない。

我が国は多くの物的資源を他国に依存している。
我が国が余剰に有している資源は、労働力である。

一国が生み出す生産財と必要とする消費財の不均衡から生じる。
このような不均衡は、経済構造を是正しないと解消しない。

国家間の経済的歪は、歪は国民生活にもおよび貧困を生み出す。

一国の国民が生存するために必要な資源を自給自足できない場合は、他の国から調達しなければならない。
その手段は貿易か戦争。
つまりお金を介在させるか。それとも、力ずくで略奪するかである。
武力は不条理である。

つまり、不足する資源は、金銭的に処理するのが、交易である。

一人の独裁者の野望だけで戦争が起こせるわけではない。
経済的理由が背景には必ず隠されている。経済的理由を正しく理解しない限り戦争はなくならない。
戦争は、政治の延長でもあり、経済の延長でもある。

支配した側の国民にとって栄光でも、支配された国民からみて屈辱。

国家間の歪の原因は経済構造により経済構造を是正しないと解消しないが、ただ是正すればいいというのではない。
分配の不均衡を是正するような構造変化でなければ、何の解決にもならず。
かえって貧富の格差を広げてしまう。

結局、発展途上国に対して公平な分配構造が生産段階に実現できないと貧困の輸出になりかねない。

経済の実相は、生産と消費の関係によって決まる。

一般に、多くの人は、市場の動向や構造に目がいきがちだが、実際は、生産構造、産業構造が決定的な働きをしている。

市場は、単純に規制すればいいというのでもなく、逆に、規制を緩和すればいいというのではない。
市場政策をどのようなものにするかは、産業の性格や構造、発展段階などの前提条件によって選択されるべきで、前提条件を抜きにして一律に語られるべきではない。

実体は、生産と消費である。

生産年齢にある一人の人間が生み出す生産量と、一人の人間が養わなければならない人数、一人の人間が稼ぎ出す所得をいかに均衡させるかの問題。
働きに応じた公平な分配を実現しないと格差は拡大する。

経済においては、質と量、密度が重要となる。
生産財にも、労働にも、質、量、密度の差がある。

経済に実体は本来、どれだけ生産し、どれだけ消費したかにある。

経済に本質は生きる為の活動であり、人々が生きる為に必要な資源をいかに生産し獲得して、それをどのように分配するかにある。
そう考えると、経済の実体が見えてくる。
国民総てが自活できる資源を国内で生産できる国は少ない。

経済に決定的に影響を与えるの、必需品の量である。
必需品とは人間が生存するために不可欠な資源だからである。

経済とは生きる為の活動だからである。

いくら宝石の値段が高騰しても、物価が上昇することはないが、石油価格が上昇すると物価に影響するのは、石油は必需品であって、石油が購入することが可能になるレベルまで人件費が高騰するからである。

生産財には、有形なものと無形なものがある。
有形な財とは,肉、魚、石油、建物のような人々が生きていく上で費用な目に見える財である。
それに対して無形な財とは金融とか、サービスに様に、目に見えない、形のない財である。
 
ロシアが強いのはほとんどの資源を自国内で調達できることである。
それに対し日本は自給率が著しく低い。
この点を、正しく認識しておく必要がある。

ここで重要なのが「お金」の効用である。
自国で自給できない資源は他国から調達しなければならない。
その時、威力を発揮するのがお金である。
この点がお金の効用で。

お金は分配の手段である。
お金は分配の手段であると同時に、交換の手段、支払いの手段である。
お金は支払準備である。

最期は、金だよ。
それは、「お金」が分配の手段を全面的に担っているからである。
ただ、それでも「お金」は手段に過ぎない。

すべての経済的価値を貨幣価値に還元し、分配を準備する、それが市場経済、貨幣経済の本質。
ただ、貨幣価値は交換価値を表象したもので、絶対的、普遍的価値ではない。
相対的価値であり、物と結びつく事によって成り立っている価値である。

問題なのは人や物は有限なのに対して貨幣価値は上に開いている。つまり、上限を抑えないと価値が無限に上昇する事を防げない。

経済の仕組みを動かすのはである。
過不足から生じる差であり、差を解消しようとして生じる圧力である。
「お金」は使う事で効力を発揮する。使えば「お金」は無くなる。
なくなると「お金」が不足する。
不足した「お金」を補う球に働く。

収入と支出の差である。
価格差である。
時間差。

差は、経済を動かす原動力だが、極端な格差はかえって、お金の流れの障害となる。

一国が生み出す経済的価値を貨幣価値に取引を通じて換金する。
その上で余剰の生じた貨幣で不足する資源を手に入れる。
余剰に生じた「お金」がなければ不足した資源を手に入れる事はできない。
それは国として貧しいのである。

つまり、不足する資源は余剰の資源を生産し、それを他国の売却して得たお金によって調達する以外にない。

今の日本人は、売ってもらえなくなるとか、買えなくなるなんて、想像もしていない。
なんでも金を払えば手に入ると思っている。
しかし、それは、手に入れたいと思う資源を買えるだけの「お金」があればと言う前提がある。
金がなければだれも売ってくれない。買えないのである。
貧しくなればそれが現実となる。
それが貧困である。

「お金」の動きに振り回されているから、経済の実態が見えてこない。
その様に考えて、一国の経済を会社経営に例えると経済の実体が見えてくる。
企業の生みだす経済価値を一定とした場合。
年々、所得が上昇したら、単価を上げない限り、費用に利益は圧迫されていずれは赤字になる。
経済的価値が一定という事は売上高が一定であることを意味する。

費用の上昇分だけ価格を上げないと利益は維持できない。
では単価を上げればどうか、その場合でも、見かけ上の売り上げは上昇するも、売上数量に変わりがなければ実質的な経済的価値、使用価値は一定である。変化しているのは交換価値。名目的価値である。

実際に市場で、財を動かし流通させるのは、収入と支出である。
「お金」の流れる方向の逆方向に財は流れる。

市場経済を動かしているのは「お金」である。
市場の現象は基本的に連鎖反応である。
一方の収入は、他方の支出であり、他方の支出は、相手方の収入になる。
だから、市場取引の総和はゼロになる。
要は、統計の偏差と同じである。

経済主体を単体で見るから経済の実体が見えなくなるので。

収入を得る手段は、現金売上と税、そして借入である。
支出は費用と生活費、借金の返済として現れる。
分配は所得である。

また、これらの要素は、お金の出入り、収入と支出によって形成される。
総体的で見ると収入と支出は均衡している。
現金売上は、売り手にとっては収入であり、貸し手にとっては支出である。
税も、政府にとっては収入であり、納税者から見れば支出である。

税を金納する事で、お金の効用は広く認知される。(租税貨幣論)

有形な財が不足すると無形な財によって補わなければならなくなる。

注意しなければならないのは、収支と損益の違いである。
利益は損益上の概念で収支上で重要となるのは残高である。

収支と損益,貸借を切り離したから、「お金」の効用を測定できるようになった。
しかし、それが、盲点も生むことになる。
借入金の返済は損益上どこにも計上されない

収入に関わるのは収益と負債、資本。
支出に関わるのは資産と費用。

収益や負債は、収入に関わるが一致しているわけではない。
費用や資産は、支出に関わるが一致しているわけではない。

借入金から発生する支出は、借入金の返済であり、費用は減価償却費である。
これが、「お金の流れ」と損益を別れさせている。

収入は陰で、支出は陽
収益、負債、資本資産、費用
利益は陰徳である。

負債、資本、収益は、名目的価値を表し、資産と費用は、実体的価値を表す。
名目的価値は貨幣的価値であり、実体的価値は、物的価値を言う。
貨幣、すなわち、「お金」は、陰であり、物や人は、陽である。

貸方が陰で、借方が陽。

市場は、分配のための仕組み、場だということである。

資本主義も市場経済も、会計がわからないと理解できない。
朝仕入れたものを売り、
売上から仕入れが詳しく。差額が儲けである。

しかし、近代の会計ルールではもうけを利益とは言わない。
儲けは、残高である。

借金に対する考えも変わった。
紙幣の根源は預り書、借用書である。
ある意味で近代の貨幣制度は借金が土台にあると言っていい。

​借金、負債から債権と債務が生じる。債権は資産の元であり、債務は負債の元となる。

資産や所得の偏りは、正常な「お金」の流れを阻害する。

近代の市場経済の特徴は、貸借と損益を分離して計算する事にある。
貸借、即ち、貸し借りと期間損益の分離は、「お金」の長期的効用と短期的効用を分けて考える点と負債、即ち借金や資本による収支を別会計として計測すること意味する。

この事によって、期間損益に対する評価が現金収支、即ちキャッシュフロー分離した。
それが、資産、負債、資本の概念を成立させた。

金持ちには、二種類あり、一つは、俗に言う、資産家、もう一つは、所得が多い人を言う。
これは象徴的な事である。

借金の対極にあるのが資産である。

働きに応じてという観点からいうと資産から生じる価値は不労所得であり。
原則は働き応じてという点からすると労働が生む所得を根本とべきなのである。

費用は経営上、邪魔な存在のように錯覚し、ひたすら、経費削減を経済目標にしている経営者や政治家がいるが、それは大錯覚である。
費用は邪魔ではなく、必要である。費用こそ、分配の手段、要である。
だから、むやみやたらに安売り、経費削減に囚われると経済は実体を失い衰弱してしまう。

なぜなら費用は人件費だからである。

これらの点は利益、即ち、損益の哲学の基礎となっている。

費用というのは、人件費の塊
商品といっても、商品を製造するためにかかる労力の塊だし。原材料も同様。
そう思うと経済の本質が見えてくる。
費用の目的は分配にある。
人件費のあり方は、経済のあり方に反映される。
人件費の働きは、第一に生活費。
現在の経済は賃金化にある。

市場で実現しなければならないのは適正な価格であり、適性な費用であり、廉価でも、費用を限りなく削減する事ではない。
何故なら費用は人件費であり、分配の要である。

過当競争などで市場が荒廃したら、不況カルテなどで市場を養生する事も大切な施策である。
さもないと、産業が独占、寡占状態になり競争の効用が利かなくなる危険性がある。

何が重要かと言うと人件費と言うのは言い換えると賃金であり、生活費だという事、つまり分配の手段なのである。
ここで鍵になるのは分配。

人件費が経営に与える影響を考える事である。

二十代中心の会社も、四十年立つと、中心は六十になる。

仮に、売上が変わらないとすると即ち生産量が変わらないとしても、人件費は上昇するとしたら。
売上が伸びている時と売り上げが伸びない時とでは前提条件が違う。
そう、前提条件の問題である。

売上が拡大している場合と、停滞している場合、縮小している場合。

費用は、売上、すなわち、収入、生産との関係で決まる相対的である。
資源の絶対量が不足する時は、生産に重点が置かれ、費用は安く抑えられる、生産量が充足するにつれて、経済は成熟して、消費に重点は移っていく。

経済が成熟した段階で経済体制の転換がうまくいかないと、経済は費用が相対的に高くなり衰退に向かう。

一つは、人権費によってどれだけの生産財を生み出せるかである。その生産財がどれほどの交換価値を生み出せるか。所謂、費用対効果である。

肝心なのは所得は一方で、人件費であり。一方で生活費の原資だという事。

一人が稼ぐ収入で何人養わなければならないか。

人件費を一定にして管理したいというのが現代の経済制度の一致した傾向。
これは自由主義経済であろうと社会主義経済であろうと、全体主義経済であろうと変わらない。

最終的には、賃金労働に統一したいという事である。

売上、すなわち、収入は、不確実、不安定なのに、費用、支出は、一定、確実。
企業や行政機関は、不確実、不安定な収入を定収入に転換することで「お金」の流れを整流する働きをしている。

賃金という形で、一定に報酬を決まった日に規則正しく支払う事で家計の収入を安定させる。
これによって消費のムラや偏りを是正する。
消費が安定すれば計画的な生産を保障する。
また、冷蔵庫など技術革新は、食料などの長期保存を可能にし、消費をさらに安定させた。

このことは、結果的に家計の借金も可能とした。

人件費の水準がその国経済を左右すると言っていい。
その国の実体は人件費の平均値と分散に表れると言っていい。
そして、最低所得、最高所得。
つまり、総額と偏りである。

企業の盛衰に例えれば、二十代中心の会社も、四十年立つと、中心は六十になる。
それによって費用も上昇する。
必然的に損益の均衡が保てなくなる。
費用対効果が見合わなくなるのである。
これは一国の経済でも、似たような現象がみられる。

経済は人の一生を基礎にして考えるべきで。
人が一生のうちに生み出せる経済的価値と、人が一生のうちに生きていく上に必要な消費財とをいかに均衡させるかが経済の根本なのである。まだ生きている途中なのに、生きていくために必要な消費財を手に入れられなくなったら、それは経済的に成り立たない事を意味している。

一生のうちに問題なのは生産活動に従事できる期間や部分とできない部分があると言いう点である。
一生のうちに生産活動に従事できる期間が限られているという事で、当然、一定に時間では、生産活動に従事している人とそうでない人が混在しているという事である。

少子高齢化問題は象徴的の事なのである。

自分の働いて収入を得られない部分そこが鍵なのである
家族主義的な社会では、家族がその部分を補ってきた。
戦後は国家が老後を担ってきたが少子高齢化は今後も、高齢者の生活をどこまで担っていけるか怪しくなってきた。
現実は企業が人生を担っている。

年をとり自分で稼げなくなってから、将来に不安を抱いたら単年度で帳尻を合わせようとする。
経済合理性で行動する。

最近、老人の孤独死が増えたと言われる。街からは、商店街が消えた、自営業者や個人事業者がいなくなった。
街は、コンビニやチェーストアが支配し、あらゆる、商売が標準化、画一化され、合理化された。
現代の経済は、生産に偏り、消費が忘れられている。
年を取り役に立たなくなると、弊履のごとく捨てられていく。

経済というのは、生きる為の活動であり、本来、消費の場で破棄される。
消費は費用である。費用は、人件費の塊だという事を忘れてはならない。
価値を見だせば支出をする。それが付加価値を生み出すので、生産だけでは付加価値を生み出さない。
むしろ、生産の効率化は付加価値をそぎ落とす。
付加価値は人の働きが生み出すのである。
人が調理するから、食事は付加価値を持つのである。

食べ物を工場生産に委ねれば付加価値は失われていく。
手間暇かけるから付加価値が生まれる。
その典型がサービス業である。
サービスを機械化したら、付加価値は失われ、雇用は失われる。

工場のような殺伐とした無機的な店舗に客以外、人がいなくなり。
失業者が、街にあふれる、それを豊かと言えるのだろうか。

豊かさを感じるのは消費する時で生産をする時ではない。
豊かさは、「お金」を支払う時に感じるのである。