学ぶ喜びは、自分より優れた人に出会う喜びであって。
それは、負ける喜びに通じる。
自分より優れている人、優れているところを受け入れられず。
恥をかかされたなんて、癇癪を起こしているようでは、学ぶことはできない。
学ぶ意志のない者は、教えられない。だから、いくら教えたところで成長は期待できない。

馬鹿にされたくないとか、恥かきたくないとか、負けたくないなんてね。
学ぶ喜びからしたら、とる足らない、つまらない感情だよ。
その根本は劣等感だと思うね。

僕は、馬鹿にされたくないとか、恥をかきたくないと言う感情を捨てた。
棄てたと言うより、捨てるように努めた。
それは、学校の成績が悪くなり。足搔いても足搔いても、よくならなくなった時。
フッと、我に返り。俺は、本当に、勉強が嫌いなのだろうかと。
成績に囚われているから、本当の学習ができないんではと。
それで自分は学ぶ喜びを取り戻した。
今なら、学習障害なんて言われるかもしれないが、何故なら僕は学ぶ事の喜びを知っているから。
学習障害と言いている方がおかしい。学ぶ事の意義や喜びを忘れているから。

子供の頃は、自分は負けん気が強くて、何でも一番にならないと気が済まなかった。
でも、嗚呼なんて俺は他人から学ぶのが下手なのだろうと思い知らされた事があって。
今でも、なんて他人から学ぶのが下手なのかと反省する事、多々ある。
だから、芯から優しくできないんだよな。
いつも反省しています。

自分がわからないとか、できない、他人に劣っているなんて悔しい。認めたくない。許せない。
でも、学びという事からすれば、逆でね。
あ、この人僕より優れてる。いいとこあるって気づかせてくれる感情でね。
だから、悔しいとか、恥ずかしい言う感情はいいので。
自分が劣っているの認められないとね、嫉妬とか、妬みとか、見栄みたいな悪感情に変質し、自分を苦しめる事になる。
いいじゃない。アッこの人、僕よりいいころがある、優れたところがあるって気がついた事にすれば、楽だし。
本心から思える。その時、はじめてこの人の話を聞こう。この人から学ぼうと言う気になる。
この人に敗けたくないと思いが学びには、邪魔になるし、折角、教えてくれようとしている人を傷つける事になる。

何を肩ひじ張って、突っ張ているんだ。歳をとったら、若者に敗ける事は覚えるさ。
それは諦める事ではなくて、賢くなるためにさ。
指導者になるために。
諦めたら投げやりになるからね。
性格も荒んでしまう。

今のプロ野球の監督で現役の選手なんて一人もいない。
歳をとったら若者に敗けるさ。
だから、監督への道も開ける。
現役に選手と監督が競ってどうなる。

弟子が師を傷つけるより、師が弟子を傷つけるリスクの方が大きい。
だから、師は師、かつての師は人格を問われたのだ。

学ぶためには教えなければならなくなる。
得る事ばかり考えていたら、何も得られなくなる。
得るためには与えなければいけない。
これは苦しい。
学ぶ喜びを知れば、相手の教えるなんて恥ずかしくて。
だから、自分が傲慢にならないように、威儀を正し、他人から教わる時の三倍勉強して。
相手が理解できるところまでかみ砕いて。
相手を無理解を糧にして自分を研鑽する。
だから、師も、弟子も、学びの時は姿勢を正し。
教え、教わる。

素敵だなと思えば、自然に相手を尊重もできる。
相手の話を聞こうと思うし、任せる事もできる。
相手に勝とうなんてすれば、素直に相手の話を聞けないし、任せる事もできない。
肝心なところ、変なところで、相手と競って傷つけあうことになる。

自然に相手に敬意が持てるようになるし、へりくだる事も、見下す事もなくなる。
本当にいい仲というのは、競い合い傷つけあう関係から生まれやしない。
互いに慈しみ、助け合い、補い合いあう関係からしか生まれない。
最初は、互いのいいところを見ていたはずなのに、いつの間にか相手の悪いところ数えるようになってしまう。
それを人間の性というのなら、あまりに悲しいではないか。

だから、俺は、ある時、運転をしない事にした。
それで、社長には随分迷惑を掛けていて、すまないとは思うのだけど。
ただ、総ての社員に、自分は、劣っていると自分は思えるから。
これは捨てがたい。
何かあったら、少なくとも、相手は運転はできるけど、お前は運転できないじゃない。
何粋がってんだよ、肩の力抜いって相手の話を聞けよ。相手を信じて任せようよと。
僕にとって配送員なんて、神様みたいのもの。

若者に負かされることは楽しい事だ。
それは、自分が学んだことの証にもなる。

年寄りに勝ったところでつまらない。
得ることより失うことが多いからだ。
年寄りには負けるところで負けるさ。
そうすれば、年寄りは、いろんな知恵を教えてくれる。

負けたくないと思えば、人との出会いは辛いけど。
学びたいと思えば、人との出会いは、楽しい。

お互いに、お互いの弱さを認め、互いを尊敬できる友との出会いは最高に楽しい。
友は競い合う仲ではなく。学び合い、高め合える仲だからだ。

だから、僕は、負けたくないとか、馬鹿にされたくない、劣等感みたいな非生産的感情は持たない事にした。
他人から学べなくなるから。
他人を尊敬できなくなるから。
他人を信用して任せられなくなるから。
他人を愛せなくなるから。

親父が息子を認めるのは、息子に敗けた時。
俺が大学生の時、仲間にいたものさ。
男にとって、最初の他人は親父さ。
家を出って、独立したいと思ったら、親父とぶつかることを恐れていては駄目。
親父に勝てば、親父は、憎いと思っても、男として認める。
負ければ、親父は、可愛いと思うかもしれないが、一生子ども扱いする。
親父は何時か息子に敗けるさ。
でも簡単に負けはしない。それは、息子にとって試練だから。
相撲の世界では、師に対する恩返しは、土俵上で師を転ばせる事と聞く。
将棋の世界では、師が、見切りをつけた弟子に最後に敗けるそうだ。

勝ち負けに囚われていたら、真実を理解する事はできやしない。

結局最後は、馬鹿にされたくない、負けたくないと言う自分に克つ事しかない。

結局最後は自分に克つ事だよ。

克己復礼

負けなさいよ。

負ければいいじゃあないか。
勝とうとするから、任せることも分担することもできないんだ。
どのみち、若い連中にはかなわないんだから。
だいたい俺達の仕事は、若手を育てることや、隠れた才能を引き出すことなのだし。

負けることを知らなければリーダーにはなれない。リーダーは、代表なのだから。

俺は、最初から、若い連中に勝とうなんて思っていない。
勝てるわけないし。
大体、リーダーは、いかに、自分より優秀なメンバーを集めるかが肝心なので。
どれくらい、自分より優秀なメンバーが居るかが自慢になる。
なぜなら、リーダーの役割は、人を育てる事、それこそ、指導力だから。
リーダーに求められるのは、人の隠れた才能を見出す目と自分が責任を負う覚悟だ。

自分が何を求められているかを考えれば、自分が何をすべきか、つまり、仕事がわかる。
何が求められるかは、役割からくるので、他人の思惑ではない。
監督には、監督の役割があり、コーチには、コーチ、投手には投手の役割がある。

ボールを投げなければ、試合は始まらない。
ボールを投げる事は、簡単だよ。
その簡単なことができなければ、試合は、始まらない。
だから、深刻なんだ。
監督が、先発を決めなければ、試合は、始まらない。
先発を決める事は、簡単だよ、でも、決めなければ試合は始まらない。
やろうと思えば、簡単にできる。
全員が守備位置につかなければ試合は始まらない。
打順を決めなければ試合は始まらない。
打席に立たなければ、試合は始まらない。
審判がコールしなければ試合は始まらない。
一つひとつは、簡単で、やればできる。
その簡単なことが、手順よくできないと試合は始まらない。

自動車の運転も意識しなければ滑らかに決断できる。
意識しだすとギクシャクしてしまう。
組織もすくみだから、決めるべき時に、決めるべき事を、決める履きこと決めないと、滑らかに、よどみなく仕事は流れなくなる。
仕事は一連の作業、連鎖した作業、しかも、並行作業、順序の決まった作業の塊。一つでもひっかてしまうと、正常に作動しなけなる。

とにかく担当を決めて、最初にセットアップする。

まず、やるべき事、すなわち、指示されたこと、決められたことを書き出し、項目事に、担当者を決める。
次に、個々の担当者と打ち合わせ、どこから着手するから決めるのだけど、その前に、思いつく範囲でいいから、関係部署、関係者を書き出す。

つい出る愚痴や、不満、陰口が悪い影響を組織に及ぼす。
特に、責任者やベテラン、補佐役の愚痴や不平不満は組織を解体する危険性をはらんでいる。
厳に戒めるべきである。
いうべき事があったら、決定が出る前に、言うべき時に、言うべき場所で、堂々と言う。
一度、段が下ったら粛々と従う。従えない者は去る。
それが責任ある者の態度だ。