論理とは、証明の為の手段である。

自分が、認識した事を検証し、証明する手段としての論理という視点は欠かせない。

証明というのはある命題が真であることを示すことですが。
命題そのものが、不完全で相対的な認識の上に成立しているので、命題そのものが不完全で相対的である事を前提としていることを忘れてはならない。
つまり、たとえ、真だと証明されたとしても、それは、任意の前提、条件の上に成り立っていることを意味する。
もともと、確率統計は、認識の不完全性を前提としていますから、信用範囲、信頼度を設定してその範囲で真だと証明している。

証明は、結果より、証明しようとする行為、働きにこそ意義があると考えるべきで、結果を絶対視する事にはそれなりのリスク(不確実性)が伴う。
例えば、法則を絶対化する事で、古くは、ピタゴラスの誤謬や、ニュートンの神格化、ユークリット幾何、ゼロやマイナスの概念に対するガウスの迫害、天動説に対するガリレオに対する裁判等々。

だからこそ、論理の整合性が問われるので。
論理の正当性は、認識の不完全性、相対性の上に成り立っていることを忘れてはならない。

証明は、論理において重要な働きがある。
存在を写像し、それを、整理分析をする。
整理、分析した事が正しいか、どうかを証明する必要がある。
それが、論理である。

何を証明したいのか。
生きて、生きているうちに、自分の何を証明したいのか。
その裏には、いったい自分は何を望んでいるのか、何を求めているのか、何がしたいのかが隠されている。
自分の人生そのもの。生き様に対する一つの解答が潜んでいる。
自分の生きた証を求める事で。
何を自分は自分の人生で証明したいのか。

愛もあるだろうし。
忠もあるだろう。
同志への信義もあるだろう。
信仰もあるだろう。
正義もあるだろう。
誠、真もあるだろう。
知もあるだろう。

自分の外にある真実を自分の内面に写して何を学び取るのか。
学び取った事をどう証明するのか。

対象を認識したら、それを分類整理する。
その上で、法則を見出して、それを検証し、証明する。

証明には、代数的、幾何的証明と確率、統計的証明がある。
学校では数学というと代数幾何だというよな教え方をし、確率統計を付け足し的な教え方をする。
その為に、証明も代数幾何における証明が総てであるような錯覚をおこし、なんでも確定論的な証明が正しいと思い込んでいる人が多い。
しかし、現実の世界では、確率統計的な証明の方が多い。
また、認識という観点からすると確率統計的な証明が圧倒的に多い。
それは、本来、認識が相対的で不確実な事象をどう証明するかという課題である事が一般的だからだ。

天気予報だって、株価の予測、売上だって、選挙結果だって、結論は一意的に出るのではなく、不確実な部分を含めて出されるのが一般的である。
あるいは、訴訟で用いられる、DNA鑑定や筆跡鑑定、疫学鑑定など。
そして、だから、確率統計に基づき論理が重要になるのである。
代数幾何的な証明に劣らず。

天気予報は、確立統計の論理で証明され、実際の天気によって実証されます。

その点を理解しないと論理は証明だという意味が理解できない。

統計、確率における証明の例としては、品質証明、DNA鑑定で親子である事を証明、薬効の証明書、事故原因の証明、宝石の証明書等がある。
DNA鑑定で親子を証明するとか、品質証明によって製品の品質を保証する、薬品の試験検査によって薬効を証明し公認をとると言ったことが確立統計による証明の典型である。

証明の成果物は、証明書である。

資格、鑑定書、免許、契約書も、証書も、証明書の一種といえる。
証明書は、論理的に作成される。
つまり、証明書には、論理的手続きが隠されている。
この事は論理を考えるうえで色々と含蓄がある。

何を証明するのか。論理によって証明しなければならないのは、以下の点である。
第一に、存在。存在は、全ての根拠、前提となる。故に最初に証明され必要がある。
存在は、行為、働きによって証明される。
行為、働きによって存在は、証明される。
考える、故に、我は存在する。
悲しい思いをする。故に、我は存在する。
嬉しい。故に我は存在する。
欲はある。欲はある。だから否定しない。
食事をする事で食欲の存在は証明される。
人は、食べなければ生きられない。だから、欲を否定はしない。
第二に、了解性。了解、合意が得られるか。何を認めてほしいのか。
自分一人納得しても、存在は証明されたわけではない。
証明は、善意の第三者の了解、合意があって成り立つ。誰に自分の何を認めてほし野化。
故に、必ず、立会人を必要とする。
第三に、信頼性。了解は信用の上になりたつ。いくら存在を証明しても信じなければ証明は成立しない。
いくら、神の存在を証明したとしても信じなければ、証明は成立しない。
信頼性は、検証されなければならない。
第四に、再現性。想定した結果と一致した結果がえられるか。自分の得た知識は再現できるか。事実と記録によって裏付けられ普遍性を持つ。
再現性は、実証性でもある。事実上において再現できるかが、証明の肝である。
第五に、実現性。望んだことが実現できるか。実現が不可能な事は証明できない。
第六に、可能性。総べては、可能性の問題である。存在証明は可能か。再現は可能か。実現は可能か。了解(合意)できるか。信頼できるか。

立証できた事は前提を形成する。

証明をする時、重要なのは、問題設定である。
何故なら、証明は、任意な、設定に基ずく行為であり、前提条件によって左右からである。

論理的に正しい答えを出しても要求が正しく入力されていないっ場合は、論理的に正しければ正しいほど間違った答えになる。

正しい証明をするためには、適切な問題設定、正確な情報が入力されなければならない。故にデータ分析は、前処理に多くの時間と労力を割く。前処理が適切なら論理展開はさほど労力も時間もいらない。

証明の前提とは何か。
一つは、証明すべき対象、事象に関連した前提。これは外的存在に関する前提条件。
一つは、自己、証明する当事者に関連した前提。これは、認識に関する前提条件。
一つは、証明のための手段に関連した前提。これは、論理的手段に関する前提条件。
対象に関する前提条件は、物的、外的前提条件をいう。
それに対して、自己に対する前提条件とは、目的、視点、立ち位置、価値観、内的基準といった自己の認識、観念に関する前提条件。
証明の手段としては、定性的手段に基づくべきか、定量的手段によるか、確率的手段で証明するか、代数的手段によるかといった手段い関わる前提。
即ち、自己と、対象と、基準の三点から証明は構成されていることを意味する。

正しい問題設定をするためには相手の問題設定を自分で再構築し、相手の問題と比較、検証する必要がある。

自分の問いかけに対して応えるのは、相手は、無意識に、自分のロジックで問題を自分の内で再構築している証左。つまり、相手の問題設定と自分の問題設定をすり合わせ、相手の質問の真意を探っている。これが認識の常道。

重要なのは、前提条件の確認で、前提条件が確認できないと議論はかみ合わなくなる。

最終的な前提条件は、存在と認識と論理にいたる。
最終的前提は、異なる信条を持つ人の間では合意がとりにくい。
キリスト教徒とイスラム教徒とユダヤ教徒、無神論者、仏教徒、ヒンズー教徒の間の妥協は難しい。

それ故に、無駄な部分を徹底的にそぎ落とし、残った。働きと位置と関係にのみ私は、注目する。

そうすると、存在と認識と、論理の働きに至る。存在は、自己の外的存在と内的空間、それだけ残る。

ここからスタートすれば、平等(位置)、自由(働き)、愛(関係)が実現する。

そう実践するしか発現しない。神は何も語らない。お示しになるだけ。思うだけではだめ。言うだけではだめ。行動しなければ実現しない。

自己は、肉体を通じて行動によってのみ外界に発現する。故に自己の存在証明は行動によってのみ可能となる。

つまり、自己は自己単体では存在できない。少なくとも認識できない存在。

結論、人は独りでは、物理的にも、生物的にも、認識上においても存在できない。

この関係から、愛の普遍性が証明される。
愛なくしては、人は存在できない。
だから、私は、神は愛。
何故なら、愛なくして存在できない事をお示しになっているから。
それをいかに証明するか、それが当面の課題。

愛は、認める事、許す事、信じる事、助け合う事、労わり合う事、思いやる事、喜び合う事、癒す事、学ぶこと。

愛は、主体的行為で能動的な行為ですから自分がなければ実現しなけど、その自分のエゴが愛を阻む(笑)実践するのは難しい。
母の愛には神の望む愛の形が示されている。愛は献身。
神は母親を通じて愛の本性をお示しになっておられる。
愛されたいでは愛は出現しない。
愛する事によってのみ愛は出現する。

経営は自分の事業の正当性を経営によって証明する。
経営は論理である。

考える習慣を身につける事である。
今の日本人は、考える習慣を失ってしまった。
人は、考えなければ馬鹿になる。これは、AIも同じ。
考えれば、わかることを、考えないから馬鹿なことしかできない。

感じて、気づき、興味を持ち、問題意識を持ち、仮説を立て、証明する、学び、記憶する。
その一連の行為が考えるという事。
情報を知識に変える過程の行為、それが考えるという事。

局面きょくめん、考えて、自分なりの結論を出す。

神を感じ、己の未熟に気がつく。
自分のどこが未熟なのか興味を持ち。
どこを改めるか調べて、改善点を定める。
改めるべき処を改め、結果を反省する。
そして自分の教訓として心に止める。

今の人は、前段、中段を抜いて、証明、学び、記憶する事しか教えられない。
だから、記憶は暗記となる。
大切なのは、前段、中段。特に、前段の感じて、気がつく事。

これはAIも同じ。

位置は、時間が陰に作用し、変化、運動は、時間が陽に作用している。関係は、位置と運動が他に及ぼす働き。
関係は、対象間に働く影響。
位置と運動と関係は他の存在と自己の存在、そして、基準の存在によって成立する。
人生は、自分の思想を表に現し、証明すること。

先ず他を感じ、自分に気付く。
他を感じる事は、自分に気づくキッカケ。

他者との距離を感じたら、それが位置づけになります。
距離感です。距離を持たないと、相手にのみ込まれる。
それで、自己と対象との間に基準を置くのです。

考えられなくなったら、人もAIも馬鹿になる。
馬鹿な人間ほど恐ろしい存在はない。何故なら、馬鹿だから。
考えなしだから。

何を感じ、何に気づくかですよね。
おかしなと感じ、何がおかしいかに気付く。
危険だと感じ、何が危険なのかに気付く。
嬉しいと感じて、なぜうれしいのかに気付いて、考え始める。
気づいたら興味を持つことです。

感じても気がつかないと。
気がついても興味がないと。
こうして段々と。

神は、何も語らない。
ただお示しになるだけだ。

神は、人が幸せになる事を望んでおられる。
この命題を前提とできるか。

幸せは、人が望まないと実現できない。
望んでも実現できるかどうかは保証できない。
しかし、望まなければ実現できないのは確か。

神は、望む者に、望むものを与える。
求めよさらば与えられん。

先ず、神の存在を証明できるか。
神の存在は、自己の存在によって証明できるとする。
これを、了解できるか。

自分は、不幸になる事を望んでいるか。
不幸を望む人を、信頼できるか。
神は、人を不幸にするために生むわけではない。
神は、命あるものすべての幸せを望んでいる。

再現、実証できるか。
幸せな時は実証できる。
自分が幸せだったと気を思いだせばいいのだから。
実現できるか。
幸せは、自分が望めば実現できる。

神の存在を了解し前提とする。
神は、人が幸せになる事を望んでいることを了解し前提とする。

前提は、自分が望む事しか実現できない。
望んでも、実現できるかどうかは保証されてはいない。
しかし、望まななければ、実現できないのは確か。

神が望むのは、人が幸せになる事。
何故なら、幸せは、神の賜物だからである。
人は幸せな時、神を感じるからである。

人は、平和でなければ、幸せになれない。
神は、平和を望んでいる。

神を祭る日に、血で汚す事を神が望むと思うか。私は望まないと思う。
神の名の下にするのは人、祭壇を血で穢すのは、神ではないでしょう。

戦争によって人が幸せになれるとするなら、それを立証すればいいのである。
嘘偽りは、論理に反する。

自分が望む事しか実現できない。
平和は、だれも望まなければ実現しない。
平和が実現するか、しないかは人の問題。

人は幸せになる事を望むのなら。
行為をもって証明しなければならない。

人を憎んで幸せになれると思うのなら、自分の人生をかけて証明しなさい。
人を憎んでも幸せになれないと思うのなら、悔い改めなさい。
それこそが神が望むところ。

幸せな時は、望めば、再現できる。
人は、独りでは幸せにはなれない。他者との合意が必要。
幸せは、自分達、人が望まない限り実現できない。
幸せを実現した時、人の望みは、証明できる。
神に、自分の望みを証明するのは、自分。
神は、人が望まない限り救えない。
幸せを拒絶しているのは人なのだ。

人は、存在する時のみに救われる。
生きている時である。生きている時にこそ幸せになれる。
人は、食べるために生きているのではない。
生きるために食べるのだ。
これが正しい構文である。
金を稼ぐために生きているのではない。
生きる為に金を稼いでいるのだ。
人は、人々を幸せにするために生かされている。
自分の最愛の人、妻や夫、子や親を幸せにするために働きなさい。
友を、同志を幸せにする事を考えなさい。
幸せにする相手を求めなさい。
自分が幸せになるために。
それが神の望むところ。
人は一人では幸せになれないのだから。