論理とは、任意の課題や命題を与えられたら、一定のルールや基準、アルゴリズムにそって何らかの結果、結論を導き出すシステム、仕組み。あるいは、手順、道筋。

論理とは道筋、過程をさす。
必ずしも一対一の関係で成り立っているわけではない。
一対多、多対多、多対一の関係も成り立つ。
一対一の関係が成り立つのは二次元的な関係である。
しかし、今日、科学は多次元的な解析が求められている。

論理は一本道ではない。

一つひとつのステップを検証する事が求められる。
論理は、単純に、一対一の対応では検証できない。
論理は、手段、道具である。目的にはならない。
論理とは、過程であり、手順、手続きである。
論理は、過程であるから設定、順序、段取り、構成、組み立て、再編、検証によって構成されている。
論理とは、アルゴリズムでありプログラムと言える。
論理は、追跡可能が前提となる。
追跡可能性が保証されていないと、正当性は認められない。

論理は、手順、手続きである。
論理は、一種のプログラム言語と見なしていい。
故に、論理を成り立たせているのは、プロパティであり、リテラシーである。

論意を狂わせるのは、飛躍、逸脱、誤魔化し、すり替え、嘘、虚偽、誤謬、押し付け、歪曲、偏見、先入観などである。

論理は、定義に基づかなければならない。
定義は、認識に基づかなければならない。
定義は、無謬を求められる。
定義の構文、言語使いは矛盾してはならない。

定義は、任意にされる事だから、仮説である。

定義は、前提である。
何を前提とするのか。
どのように証明するのか。
了解できるか。
了解可能性の問題。
何を信じるのか。何を根拠とするのか。
それによって、何を自明とするのかが、定まる。

前提が変われば、定義も変わる。
例えば、管理会計を前程とした場合と、財務会計を前庭とした場合では、減価償却費の定義がかわる。

定義は前提によって定まる。
前提は、認識に基づく。

事実は、実験や観察と言った事実でのみ証明できるというのが実証主義。
論理は、手段、手続きに過ぎない。
論理的に無謬である事は、定義、仮説の正当性を証明するものではない。
役人の無謬性。
いくら精緻な公共事業計画を立てても前提が間違っていれば、誤算になるのは必然。
財政も破綻する。

論理の根拠とは前提である。つまり、論理の正当性は、前提の正当性にある。
前提の正当性は、了解可能性にある。
個々の過程で、前後に矛盾がないか検証することで論理の正当性は保証される。

論理は認識の延長線上で成り立つ。
認識上に根拠を置く事で正当性が保証される。
論理は実証性によって証明される。
存在と認識と論理は、始点を共有する事で、統一される。
信仰と哲学と科学が統合される。

論理の前提は事実でなければならない。
前提や、はじめの言明、命題を間違えば、いくら論理的に間違っていなくても、否、論理的に無謬であるからこそ間違った結論を導き出すのである。

定義は、事実に基づかなければない。
事実に基づかない定義は、外界と内科を乖離させる。

事実に基づかない論理は妄想である。
事実に基づかない妄想は、実証が不可能で、制御ができなくなる。

例えば、事実に基づかないAIに対する脅威は妄想である。
妄想は揣摩臆測を呼び収拾がつかなくなる。
噂や風説、流言飛語などに基づく妄想は、時として破滅的な事態を招く。
今の世で、戦争はない、侵略されることはないというの妄想。
妄想では、真の平和は守れない。

現代の論理は、アルゴリズムであり、システム、プログラムである。
インプットは、アウトプットによって検証される。
また、インプットの正当性は、入力データによって決まる。

故に、論理は、初期前提、要件定義、アルゴリズム、リテラシー、プロンプト、データの質と量、データ構造によって検証される。

現代の論理の典型は機械学習のアルゴリズムであり、リテラシーである。

前提の問題。
定義は、任意で、所与の事ではない。
論理の無謬性は定義の正当性があって効用がある。

論理だけが単一で成立するのではない。
故に、論理の無謬性を証明しただけでは、理論の正当性を証明するためには不十分である。

論理を成立させるのは、定義、それに基づく手続き。
まず定義である。定義は任意に設定される事であるから、自分が問題にどのような目的、動機、立ち位置なのかが問題となる。
手続きは、自己と問題、問題と結果、結果と自己との間の手続きである。
自己と対象と結果の三点ので、個々の局面で検証する事が求められる。
まず、自分がどのような目的、立場、前提に立っているか。
次に、どの様な資料、資源、データに基づいているのか。その資源、資料、データの根拠、信ぴょう性。
どの様な手続き、経過、道筋、アルゴリズムに基づいているのか。
これらが統合されて論理は成り立っている。