認識について話をしますね。
まず、認識における定義をします。
認識における自己を定義します。
認識における定義は、
第一に、認識前提。
第二に、自己は認識主体。
第三に、間接的認識対象。
このような自己は、認識において唯一絶対である。

自己の存在は、すべての認識の前提である。
自己が存在がなければ、自己にとって何も存在しない。
そして、全ての認識は、自己の認識行為に基づく。それが認識主体。
認識前提であり、認識主体である、自己は、認識において唯一絶対な存在であり、存在の唯一絶対の対極となる。
つまり、存在の唯一絶対は、認識の前提であり、自己の存在の根拠となる。

自己が認識前提だという事は、自己が存在しなけれは、認識が成り立たない事を意味する。
つまり、自己のとって何も、認識できない、つまり、認識上、何も存在しない。
この様な、自己は認識上、唯一絶対であることを意味する。

存在は、認識の前提であるが、自己が認識していない、あるいは、認識しできない事象は、自己にとって存在していない。
コロブス以前のヨーロッパ人には、アメリカ大陸は、存在していない。
今の人にとって、他の星の文明、あったとしても存在しない。
たた、信じている人には存在している。
神の認知が典型である。
信じている人にとって認識できなくても存在する。
故に、了解可能性が重要なので。
科学は、認知できるかどうかが最大の課題となる。
認知とは再現性であり、実証性である。不可知、不思議な存在であるという事のみを前提とする。

実在とは、その存在が認識できるかどうかの問題です。認識でき、その存在を他の人に証明できるかどうか決まる。それが実証主義。
ただ、認識できない事でも、実在する事象から論理的に証明できれば、それは実在するとするのが論路実証主義。
ただし、論理実証主義は前提によって変わる。たとえば、AIに自己が存在するか否かは、前提とする定義によって異なる答えが出る。論理実証主義は、推測の域を出ない。
つまり、了解可能性の範囲に限られる。

そうなると何を根拠とするかが鍵になる。

了解可能性は、任意だということを忘れてはならない。
了解可能性は、定義による。

自己がどう解釈するかに基づいている。

定義の仕方でまったく違う解釈になる。
神の存在が典型で、神に対するていぎのちがいで解釈がまったく違う。何を信じるかである。
私は、存在と自分との関係にのみ根拠を置き、それ以外は不可知な事とする。
それが私の信仰である。
親子の関係と同じである。
愛する人をなぜ、愛するのかと問うような事で、それは、不可知。

了解可能性は、信頼性の問題である。
つまり、信じられるか、否かである。
信じると言えば、了解できるし、信じられないと言えば、了解できない。

認識は、認識する者、認識される対象の相互作用で実現される。
即ち、認識主体と認識対象からなる。

自己は、認識主体と認識対象が一体である為に、間接的認識対象となる。

また、初期の段階では、自己は、明確に意識されず、潜在的前提となる。
自己と他者の関わりによって認識は始まる。
自己と他者との関係において、認識の作用反作用の関係にある。
自己の生存に関わる事から認識する。

認識は、位置と運動と関係を識別することとする。
認識は、他者を知覚する行為から始まる。
知覚は、見る聞く、感じる。
それ以前に、泣く、手足をバタバタさせて、外界との接触を図る。

認識は、自分から見た対象の位置と運動と関係を定めることである。
まず、対象と自己との距離を測り位置付ける事である。
次に、対象との関わりを知る。
その為には、他の一点に注目する。或いは、集中する。

人が直接観察するのは、対象と対象の関係でも、必ず、自己との関わりが存在する。

どうやって、対象を識別するのか。
まず、一点に視点を定める。
照準を合わせる。
視点を一点に集めるというのは、見つめることである。
目が見えない時は、聞く、触る。
一点に集中する事は、空間も定める事を意味する。
空間を定めることは静止した物を定める事になる。

見ている自分、つまり、対象を認識している自分は、常に、潜在的存在。

基点、原点を定めると言うことは、基点、原点を定数とする事。
定数とは、時間が陰に作用している点を意味する。
時間が陰に作用するとは、静止していることである。
定点を定めることは空間を特定する事になる。
定点は、基点、原点に限られていない。時間が陰に作用している点である。
定点と定点を結びつけられ、そこで派生する値が定数である。
変数は、時間が様に作用する値である。

定点は、自分が定める。つまり、自分が任意に決める点である。
自分が任意な定めると言う事は、初期設定、前提条件によって決まることを意味する。
必然的に、定数も任意に前提条件に定まる。

原点、基準点が定まったら、動いている対象に目を移し。
変化、動いている対象に注目する。
認識は、自分、基点、対象の三点から構成される。

そして、識別は、自己と基点に対して相対的に位置づけられる。
例えば、基点に対して遠い、近い。
右、左。
高い、低い。
上、下。
この様な認識に基づいって上とか下が意味づけられる。

最初の認識は庇護者に向かったなされる。声かけ、泣く事で、相手に注意を喚起するのである。
そして、自分の声、泣き声に対する反応によって自分の守護者、庇護者を特定する。基本的の親である。
これは、自分の生存の関わる事なので真っ先にされる。
先ず、自分を守る為に。そして、食事をするために。

目が見えない時は、聞く、触る。
対象を認識した時点では、自己は自覚されていない。
しかし、対象を認識した時点で自己は、発生する。これは必然。
この場合は機械的に認識するのとは違う。
認識とは、双方向で、だから、AIは違う。
気がついた時には意識が成立している。
故に、自己と他との関係は潜在的な前提となる。

対象を識別する。認識するためには自己の存在が前提となる。
自覚、自信。

認識行為には、常に、自己の存在が働いていると考える必要がある。
自己の内部のフィルターがかかっている。
内面の動機、目的である。
内面の動機、目的は、必ずしも明確に意識されているわけではない。
基本的には無自覚である。
また、意識した動機や目的が真の目的、動機だとする根拠はない。

わかっているようでわからない。
自分の事は、判ったつもりで解らない。

だから、行為とその行為の結果を検証し、自と他を知っていくのである。
人生は自分を知る旅ともいえる。
真の動機と意識した目的が過度に乖離すると自己喪失と自己崩壊を招き、自己の制御できなくなる。

認識には必ず、認識者の意図が隠されている。
意識されているかいないかは別に。

政治家の本心はどこにあるのか。
本当に、国のためを思っての事か。
志があっての事か。
革命の為か。
売名行為なのか。
利権の為か。
私利私欲の為か。
立身出世が望みなのか。
それとも。

いずれにして、業績に現れる。
行いを見れば。

科学者は、何故、科学を学ぶのか。
真理の探究の為か。
技術革新の為なのか。
投資なのか。金の為なのか。
歴史に名を残す為なのか。
他にやる事がないからか。

その意図を明らかにしないと、認識にズレが生じる。

倫理を問題とする時も同じ、倫理を問題とする者の意図が隠されている。

センサーは、肉体である。
肉体の視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感である。

人は、自分の誰が、何故、自分の肉体を与え合たのかは不可知。
不可知、不思議な存在であるという事のみを前提とする。

自己は肉体を通じて外界との関わっている。
自己の肉体は所与の物である。
何故、誰、何ものが、どのようにしてこのような肉体が与えられたかは不可思議。
知りえない事。
故に、自己を超越した存在を想定する以外にない。
それが神。
神を求めるのは、人である。

根源は、不可思議。

人に自分行いの真の目的、動機は不可思議。
人は神にはなれない。

自己そのものは不可知。
内省せよ。
自己の行いの動機と自己の行いの結果とを反省し、検証し。
自分を知る。
克己復礼。