絶対に、言われた通りにはしないもんな。
言った通りにしてくれれば、フォローのしようがあるが。
絶対に、やらないものな。
チョッとチョッと変えるか。
話だけ聞いてやらないか。
昔なら、しのふの言わないでやればいいんだよと怒鳴られたか。
酷い時は物を投げられた。
今そんなことしたら大変だ。
どこかの国の格言に、子供に、蜜を与えるのは毒を与えるのと同じだと。
甘く育ってるのを戒めっているのだが。
今、そんな事、しようものなら、虐待、パワハラと騒がれる。
でも、言われたとりやらないと、仕事を覚えないし、話も進まない。
いとも簡単な事で、やればわかる事なんだけど。
やらないものな。
簡単な事ほど、受けつけない。
基本的の事ほど嫌がる。
物事には順序があって、順を追って説明する必要する事がある。
それくらいなら、入門書から一緒に勉強すれば手間が省ける。
手っ取り早し、仕事にも着手ができる。
でもやらないよな。なんだかんだ言って。
自分が人の話を聞いてないくせに、僕の話を聞いてくれないとのたまう。
人に文句を言う前に話をちゃんと聞けというの。
ドアの開け閉め。
戸締りの仕方みたいな。
でも注意をするとすぐに怒り出す。
辛抱もないし、根気もない。
だから、何も覚えないし。
始まらない。
できればいいけど、できないから注意しているのに。
逆に、怒られる。
我々の時は、基本的の事は最初に癖にして躾けておきなさい。
最初の癖にしておけば、何でもない事でも、後で躾けるとなると説明するのが厄介だからと。
例えば、指示命令は、ピーナッツの裏表の関係の様なもので、発令者と受令者が共同で完成させる。
なぜなら、発令者は、指示の意図や目的、優先順位を理解しているけど現場や担当者の事情や、都合を必ずしも精通してるわけではない。
反対に、受令者は、指示の意図や目的、優先順位がわからないが、現場の事情や担当者の都合がわかる。
だから、共同で指示は完成させる。
それが、仕事の第一ステップ。
また、朝一で、部下の出欠を報告し、その日の予定を簡潔に報告させる。
そのことで、常に、部下の行動を把握し、一日の仕事を整理する癖をつけさせる。
それで以前は、朝、報告させていたんだけどね。
要領を得ないから、時間がかかって。
慣れれば、一人三分程度で終わるはずなんだけどね。
毎日三分程度ですむようになると、今度は、物足りなくなるし、面倒くさくなる。
だから癖にしとけと。
いつだって、最初は、最低線を合わせる。
スタートは、一番できない者に合わせる。
最高に合わせたら、皆ついていけない。
始まらない。
だからいつだって、入門。
上手くいかなくなったら、最初に、戻る。
初心を忘れたら、失敗する。
勉強、勉強、勉強。
本当にわかっている。
兎に角、勉強会から入るのが、一番さ。
熟練者は、おさらい。
入門者は、順序だって仕事が組み立てられるようになる。
どちらにしても手順に覚えられる。
みんなで同じことを初歩から学ぶ。
足並みもそろう。
自分から学ぼうという意志のない者を教える事はできない。
学ぶ意志のない奴に限て、誰も教えてくれなかったと文句を言う。
いくら教えても、聞く耳を持っていなかったのにである。
我々は、何でも、始まりの時期から出発した。
ラジオやテレビ、家電製品、コンピューターだって、インターネットだって、黎明期。
みんな何も知らない、わからない、だから、誰もが初歩や入門から始めるのを恥ずかしいと思はなかった。
それが、二、三年もすると入門書の類は、巷間からなくなり。
マニュアル書、専門書に入れ替わってしまう。
でも、本当に優秀な人は、簡単な入門書を肌身離さず持っていて、ボロボロになるまで読み返していた。
後から来た者は、初歩的な技術、知識は、身に着けているのが当たり前。
そんな事も知らないのかと言われるのが嫌で下駄をはく。
最初から、下駄をはいてしまうと、下駄が脱げなくなって、高転びに転げる。
実力、実績、経験豊富な者から、勉強から始めようと言われたら、拒めはしない。
それに、本当に実力のある者は、自分の限界を弁えている。
力のない者ほど、わずかばかりの知識や経験をひけらかして、虚勢を張る。
これほど変化の激し時代。
力のある者ほど自分の知識や、経験が通用しなくなる事を知っていて。
常に、若い者から学ぼうとしている。
例えば、どんなにたくさん仕事をしたとしてものね、新たな仕事に取り組む時は初心者に戻れって。
俺は思う、数学を理解しようと思ったらいつでも、小学校の教科書に戻れと。
息子が、小学生の時は、随分、息子の教わった。
時々、親父の沽券が邪魔したけどね。
随分、数学の根本を誤解していたなと。
わからなくなったら、初心の戻る。
最初に、会計の入門書を学んだ時と五十年たって読み直す時では、学ぶことが違う。
ただ、若い頃は傲慢で、一度読んだだけだ、わかったつもりになっていたけれど。
五十年たって読む返すと、何もわかっていなった事に気が付く。
とりあえず。教科書通りやればいいと言っているんだけど。
それもやらないんだよな。
仕事の段取りをつけるためには、全体像を把握してる必要があるんだけどね。
我々の時代は、いろいろな技術が、生まれたばかりで、どれをとっても未完成。
一つひとつ自分で試行錯誤しながら自分のものにしてきたから、技術や産業の発展と共に自分の成長できたけど。
今は、、ある程度、技術も成熟しているから、全体像をつかむのが大変。
教条主義的にもなるし、入門書と専門書の落差がね。
今では、仕事は、バラバラに分解し、部品かパーツ化されている。
一通り、通しで仕事をしないと、仕事の全体像はつかめない。
だから、入門書から学ぶのが一番、近道なんだ。
若い頃、わかりましたと言い張ていた自分が恥ずかしい。
結局、書いてある事、理解するのが、関の山で。
その裏にある実態なんかとてもとても。
年をとってその事に気が付いて。
反対に、自分なりの読み方、解釈ができるようにもなった。
だから、入門書は、いつ読んでも為になる。
若いうちにわかった、わかったと逃げ回るのは、自分が、わかっていない事がばれるのが怖いから。
正直、簡単な事がわかっていない。
ほんと、わからないというのが若い頃は、死ぬほど嫌なんだよな。
それも、簡単な事ほどね。
俺も、簡単な事を注意されるとすぐ腹を立てた。
でもこの歳をして気が付いた。
基本て繰り返すしかないんだよ。
繰り返し、繰り返しやっているうちに、身につく。
わかるなんて事ないんだよ。身に着けるしかない。
面の打ち方なんてわかるはずがない。
ボールを打つ最適な角度なんて、数学的に導き出して、理論的にわかったからとしても、ボールが打てるようになるわけではない。
そこを勘違いしてる限り、経営分析なんて意味ない。
逆に、それが自覚できたら、経営分析も意味がある。
何も、わからないというという事から始めればいいのに。
なまじわかりました、わかりましたという事から始めようとするから、すぐに躓く。
わかりましたなんて請け負う奴の方が信用できない。
要は、やるしかない、石にかじりつてもやり抜いて見せるという覚悟、意地があるか否かが、問題なのだ。
やってみなければ、わからない事を、わかりましたなんて言う方がおかしい。
調べなければわからなければ、調べるところから始めるしかない。
学ばなければならないなら、学べばいい。
事情が分からなければ、事情を聴けばいい。
できもせんことをできますと虚勢を張り。
わかりもせん事、わかりますなんて誤魔化すから、すぐに行き詰まる。
嘘をつもりがなくても、嘘になる。
最初は、誰もわからない。
最初から、完璧にできる人はいない。
わからなくても、できなくても恥でない。
勉強会から始めれば、共通認識も持てるし、それぞれの力量もわかる。
自然に仕事に着手もできる。
わかった振り、できるふりから始めるから、最初から無理がある。
そんな事いつまでも続かない。
さあ、始めましょうと言ったところでとん挫する。
だから、入り口までもたどり着けづに、いつまでもクドクドと。
まず、ゼロから始める気になれば早いもの。
ああだこうだと言ってるまに時は立つ。
それなら、何でもいいから、皆で勉強から始めればいいじゃないか。
こういって、はい、わかりましたと言っても、やらないものな。
言われた通りに素直にやればいい。
意地を張って変えたところで、その変えた部分が傷になる。
最初は素直に言われた通りにして、基本を覚えるのが鉄則。
言われたことを言われた通りするというのは、実は、難しんだよ。
なかなか、言われた通りには頭に入ってこないからね。
できれば、三回くらい声に出して反芻するといいだけどね。
勉強会というのは、予行演習を兼ねる。
勉強会では、いろいろな、組織、体制が施行できる。
勉強会のメンバーは、そのまま、プロジェクトメンバーに移行できる。
勉強会そのものが、リーダーシップやメンバーシップの訓練になる。
勉強会は、実施の前哨とする言葉出来る。
勉強会なら、手順に全体を学べる。
勉強会なら、自然に細目におとせる。
一巡しないと全体像はつかめない。
一通りしないと覚えない。
一通りやらないと、断片的にしか覚えられないし、偏りができて、理解しているとは言えない。
なぜなら、自分で仕事を組み立てたり段取れないからだ。
始めたら、途中で投げ出さず。
結果がどうあろうと最後までやり抜く。
特に後片付け、後始末は自分でする。
他人任せにしていたらいつまで経っても自分のものにならない。
指導や相談をするのはいいけど、やるのは自分だからね。
他人任せにしていたらいつまで経っても自分のものにならない。
指導や相談をするのはいいけど、やるのは自分だからね。
試合をするのは選手で監督、コーチではない。
コーチは、バットの振り方は教えられても、実際に選手がバットを振らなければヒットは出ない。
助手席に座っていては運転は覚えない。
ハンドルを自分で握らないと運転は覚えられない。
後ろの席で、ああだ、こうだ言うのは簡単だけどね。
だから、素直にやればわかるのにね。
別に、恥ずかしい事でもないし。
馬鹿にされたわけでもないのに。
素直になれよ。素直に。
今の学校では、個性を他の人と違う事と間違って教える。
だから、個性を出せというと他の人と違うことをする事と勘違いをする。
個性なんて、素直に自分をだせば出るの。
なまじ、他人と違う事をしようなんて無理すると、却って、個性を殺してしまう。
言い換えるのやめろよ。
今の学校は、自分の言葉で語れというのを、言葉を言い換えろと教える。
余計な事を。
言い換えると微妙に話がズレていく。
言い換えるなとしょっちゅう怒られた。
謙虚さを、忘れてはならないよ。
自分をごまかそうとするから、素直のなれないんだよ。
自分ができない事や、解らない事を認めらないんで、結果的に、学ぶ事ができないんだよ。
自分に敗けているのさ。
克己復礼だよ。
わかりませんとか、できませんと言うの死ぬほど厭では、人とは交われないよ。
孤独は、自分で招くんだよ。
人の好意は素直に受け入れる事だよ。
なんでも、最初は合わせるものさ。
最初から、逆らったり、はぐらしていたら始まらないじゃないか。
何でもかんでも、逆らえとか、信じるな、疑れと教えるのは感心しないな。
はじめは、相手に合わせる事を教えるべきなのだ。
定例的、定期的会議、打ち合わせを先に決め、それで、仕事のリズム、節目を作るのがコツなんだよな。そうすると作業の区切りもつけやすいから。工数の計算の目安もできる。
大体全体会議を、月に一度、連絡、事務打ち合わせを週一くらい。
でも、教えるの怖いんだよな。教えると皆やらないからな。
教えられたことは意地でもやらないという奴いるからな。
打ち合わせや、会議の用意準備は、自分たちでやるんだからね。
俺たちは、準備もしないできたら、本気で怒られたよ。
学校バカもいるしね。
打ち合わせも、会議も、自分たちで準備すると言っても。
学校バカは、自分は教室へ行けば全部、準備も用意委もできていて、自分は教室へ行けばいいと思い込んでいる。
下手すると、引き道具も教科書、資料も忘れたら用意してくれていると。
こういうのを学校馬鹿と言うんだよな。予習復習なんてする気もないし、宿題なんて出そうものなら。
勉強会の準備は、自分たちで準備するの。場所も自分で用意いするし、日程も、参加者に対する通知も、講師の依頼も、資料、教材の準備も。子供ではないんだからね。
学校と違ってお金をもらてるの。社会常識をみにつけないと。
準備とか用意と言ってもわかんないかもね。
わからない事は、聞く。
自分で考えて計画を立て準備するから、学問だって、仕事だって、身につく。楽をしする事ばかり考えていたり、面倒くさい事から逃げている限り、仕事はできないし。基本を身につけられる年齢は短い。できるうちにやらなければ一生を棒に振る事になる。
先輩は、出だしは難しいから、ある程度手伝ってやるよと言ってくれた。最初は、手伝ってやるけど、早く覚えって、一人でできるように。
でも今の子は、馬鹿にしないでくださいと、いきなり、拒絶する。
だから、いつまでたっても、仕事の基本が身につかない。
別に、先輩は馬鹿にして言っているわけではないけど。あくまでも善意でね。
それだけ、出だしは難しいんだよ。
優秀な者ほど後で考えれば、たわいもない事に躓いて、七転八倒する。
暴れて、周囲の者を傷つけもする。
だから、指導する者も満身創痍させられる事を覚悟する。
満身創痍になる事を覚悟して受け止めないと、人は育ったない。
やったみないとわからない事がある。
肝心な事は、教えられない。
自分で体得するしかない。
泳ぎは、水に入らなければ覚えられない。
できなくて。できなくて。
悔し泣きする事もあるさ。
途中でで投げ出したくなることもね。
兎に角、言われた通りにやってみる事だよ
勇気をだして、一歩を踏み出すことだよ。
やってみるこだよ。
やらなければ、始まらない。