一緒にって。
一緒に生きようと。
一緒にって言えるか、言えないかが鍵なんだよ。
どんなことがあっても。何があっても、一緒に生きていこうと。
結婚でも、事業でも。
一緒に居られないとなったら、一緒にいられなくなるんです。
どんなに喧嘩をしても一緒に居たいと思ううちは、一緒でいられるけれど。
何にも問題はないけど一緒のいられないと思えば分かれるしかない。
一緒に人生を共にしたいという人に出会えあたら、それだけでも幸せなんだという事に、早く気がつかないとね。
「一緒に生きていきたい、一緒に仕事がしたい」と思えれば辛い事、苦し事にも耐えられるようになるし。「顔も見たくない」と思えば、一緒にいる事もできない。
最期は自分との戦いだけど、それは、自分にとって大切な人や事のためであって。
自分の為じゃない。
自分の為と思っていたら、自分が「駄目だ。いやだ。」と思ったとたん、耐えられなくなる。
だから、この人の為にとか、一緒に生きていきたいと思える人に出会えなければ、いつまでたっても、はぐれ鳥で終わるよ。
結局止まり木さ。羽を休め、心を落ち着かせる止まり木がね、必要なんだよ。
そういう仲間がね。
自分の理解者が必要なんだ。
「どんなことがあっても、どんな時でも、こいつは絶対俺を裏切らない」と信じられる相手さ。
苦楽、寝食を共にする。
一緒にやろう。一緒に生きていこう。一緒に守ろう。
一緒にやっていこうと言う気がない、意志がない者とは、一緒には、出来ないという事さ。
組織の関係には、合理的な繋がりと情緒的繋がりがある。
なぜならば、組織には、予測可能な合理的な事象と予測不可能な不合理な事象が混在しているからである。
予測可能な合理的な部分は、定型化できるが、予測できない不合理な事象、リスクにも絶えず備えておく必要がある。
例えば、急にやめられた場合などである。
わかっている事とわかっていない事がある。
合理的に行動できるのは、わかっている部分で、わからない部分は合理的には行動できない。
人と人の繋がりには、合理的に割り切れない部分が付きまとう。
情緒的な繋がりは、全人格的繋がり、だから、親分、子分的な繋がり。
面倒を見る。世話をする。
寝食を共にする。
そういった生活を共にする事によって生まれる絆。
一家、家族的繋がりによって構成される組織。
特に創業期とか、危機に落ちいた時は、予期せぬ出来事に支配されるから。
何も言わずに、従ってくれる人が必要なんだ。
いざと言う時、力になってくれるね。
また相談できる。
結局、求めているのは、親分、子分の関係さ。
子分が必要なんだ。
親分肌がね、必要になるさ。
今は親分子分なんて言うと時代錯誤みたいに言うけど。
人間関係なんて、理屈ばかりで割り切れるわけではなくてさ。
基本は、この人についていきたいと、一緒に仕事したいと。
それはそれで考えないとね。
特に企業というと、やれタスクと、業務だといってられない。
無理を承知で、仕事をやらせなければならない時があるし。
何も言わなくてもわかる子分をね。
厄介な仕事とか、半端な仕事を自分に代わってかたずけてくれる。
何もしないで陰働きをする。
組織なんて表の仕事ばかりでなく、裏の仕事もあって。
一々、口に出して指図できない。
社長だって、家事とか、引っ越しとか、運転とか、金庫番とか。
そういった雑事を黙って黙々と仕事してくれる人間がね。
自分の女房、子供の事を任せても、財布を任せても。
次郎長に大政、小政がいたみたいな。
トヨタに、石田退蔵がいたように。
ホンダに、藤沢武夫がいたように。
裏仕事を信用して任せられる人間も必要になる。
そういう人間はそういう人間で養わないと。承知してね。
だから昔は一家だったんだよ。
徳川家の家臣は徳川家の家臣で。
浅野匠の家臣は浅野家の家臣で、だから忠義が成り立つので。
そういう人間関係もありで。
ありだけど。別にして考えないとね。
一宿一飯の恩でしかないんだよ。
無宿渡世ではね。
ヤクザな商売といえばそうかも知れない。
恩であり、義理、人情さ。
世話になった、厄介になった。
だから厄介者を雇うので。
その代わり、その人間の面倒は一生みる。
それは、今のサラリーマン家業の埒外だよ。
同じ釜の飯を食った中でないとね。
わかる、同じ釜の飯を食う事さ。
稼いだ金で米買って、同じ釜で飯食って。
腐れ縁ていえば腐れ縁。
やくざと言えばやくざだけど。
信義があって、任侠があればさ。
美学なんだよ。
だから、やくざだって道義、道理な外れればさ。
そして、自分の子分、兵隊の面倒をみる為に権力を握る。
そこで権力闘争がある。
でも、生活をかけた組織てそうだろ。
親分子分の関係に自分たちの生活が掛かっている。
でも、親分にはできない仕事がさあるんだよ。
親分子分と言っても持ちつもたれるさ。
背に腹は代えられないだろう。
だから、子分が必要だったんだから。
子分を作ってさ、面倒見たんだから。
その代わり、この親分の為にってね思わせないと。
そこに義理と人情があるんじゃないか。
今は、親分がいなくなったから子分もいない。
次郎長がいたから、森の石松は語り継がれた。
次郎長がいないから、森の石松もでない。
理屈をこねられるより。黙って俺についと来いと。
そのほうが通りがいいのかも。
世話になるり、面倒になった。
子分がいなければ、親分なんて陸に上がったカツパも同然。
だから子分は別に採用しないと。
頭の良いやつばかり集めても仕事ができるわけではない。
森の石松みたいな人間も必要なのだ。
何かを始めようとした時。
創業期は、何もかもが混沌としていて、海のものとも、山のものともわからない。漠然としていて。
予測もできない。見通しもない。約束もできない。
保障できるものは何もないし。
ただ、黙って信じてついてきてくれと。
ただ、一緒に語り合い、助け合てきた。それが原点なのだし。
一緒にやるということがどういう事か。
考えてみることだな。
それなりの覚悟が必要ということさ。
一緒にやるという事は、甘い話ばかりではないし。
一緒にやるという事は、一緒にやる事を考える事だし。
リーダーは、一緒にできるようにする事なんだよ。
ハッキリ言て苦労をさせる。一緒に苦労をしてくれということです。
結婚も、一緒に乗り越えていこうということでね。
結婚に甘い幻想を持っていても、結婚すれば、すぐに現実に引き戻される。
他人に見せられない所を、互いに、さらさないと子は生めないので。
苦し時を助け合って一緒に乗り越えていこうという覚悟がなければ。
先が何も見えない創業の頃から助け合い、信じ合っていかなければ創業なんてできない。
成功してから加わった人には、わからない。
成功した後は、成功した事しか見えなくなって。
下積み生活なんて見えなくなる。
創業時代は、下積み時代なので。甘い幻想など許されない。
その時代を共に一緒にしてくれと。
苦節は共にできても栄辱は共にできない。
糟糠の妻みたいな。
自分が窮地に落ちいた時、逃げ出さないで、力になってくれる。
助けてくれる。所詮、市場は木斬った張ったの世界。
夜でも、休みでも、黙って働いてくれる。
無理を聞いてくれる。
困った時には面倒を見てくれる。
いざという時は世話を見てくれて。
自分達を見捨てない。
山岡鉄水の次郎長に、
「親分の為には命を投げ出す子分がさぞかしいるんでしょうね」と聞いた時、次郎長は、「勘違いしないでほしい。俺の為の命を捨てる子分はいないが、俺が命を捨てられる子分はたくさんいる。」と答えたと言うが。
それが任侠道で。ヤクザでも、それだけの覚悟ができていた。
今、求められるのはそういう親分で。そういう親分がいれば、石松のような無宿人でも、吉良の仁吉のような侠客も現れるので。
浪花節や講談、講釈もできる。
俺も生きたや、仁吉のように義理と人情のある世界と唄にもなる。
今の世界、政治家にも親分がいなくなった。
変な意味でなく。
惚れたはれたには、男も女もない。
男心に男が惚れてと。
頭に、一緒にという言葉が欠けているんだ。
仕事にしたって、結婚にしたって、家族ですら、一緒にと言えなくて。
だから、別れる事になる。
一緒に生きてくれ。捨てないで。
一緒にやろう。
一緒に戦おう。
一緒に仕事しようて。
一緒に作ろう。
一緒に守ってくれ。
そう言えればいいんだ。
恥も外聞もなく、お前が必要なんだ一緒に生きてくれと。
それが日本人なんだ。
愛しているとか。好きだという前に。
一緒に生きてくれと。一緒に居てくれと。
そうとしか言えないのが日本人なんだ。