見る目を養う。
これからの時代は、自分の見る目が大切になる。
社会が平穏で変化が乏しい、あったとしても、高度成長の様に、時流にのればいい時代は、目をつぶっても周りの動きに合わせれば結果はついてきた。
何も考えないで、ただ、黙って従ていた方が、成功できた。
しかし、表面は長期低迷、平穏に見えても、水面下では激しい動きがある。
大企業といえど、国家と言えど安泰とは言えない。
これからの時代は、自分の才覚、自分の考え、決断がものをいう時代。
人に黙って従っていたら自分の身が危うくなる時代。ピンチでもあり、逆にチャンスでもある。
ピンチとするか、チャンスとするか、それを分かつのは、自分の覚悟次第である。
だから、状況を見極められる自分の目を持つことが重要なのである。
これからの時代は、自分の目で見て、自分で誰についていくかを見定めなければならない。
つまり真のリーダーを自分で選んでいく時代になる。
それ以上に、これからは、指導者と運命を共にする事になる。
だからこそ、信頼できる指導者を自分の目で選ばないと、自分の運命も切り開けなくなる。
乱世になる。
自分の目を信じる。
自分の目を信じられる様にする。
その為には、自分の考えを持つ。
自分の考えを持つためには、暗記や記憶を頼らないで、自分で考える癖をつける。
確認と言われたら、何を確認しろと言われたのか。どうやって確認したらいいか考える。
考えたら、考えるだけでなく、やってみて確かめる。
そうやって自分の考えを持てるようにする。
考えなくなったらすぐに馬鹿になるよ。
あの人がこう言ったとか、ああ言ったとかではなくて。
自分はどう考えるか。誰の意見に従うかを、自分で決められるようになる。
どっちに転んでも、結局自分がやったことの結果に対する責任は、自分がとらされる。
他の人に意見に従ったら自分が責任をおえない。
自分が許せなくなるし。
自信にならない。
たとえ、失敗しても、自信に結びつく失敗なら許せるけれど。
成功しても、自信に結びつかない成功もある。悔いの残る成功もある。
我々が、若いころ言われたのは上司がどうあろうと、結果が出せなければ、評価はされない。
どんな上司であろうと結果を出せなければ、自分の評価とされる。
仕事は、指示されたことを確実に実施する事が求められる。
つまり、結果を出すことである。
今までは、言われたことを黙ってやればよかったが、これからは、結果が問われる。
そうなると結果を出せない人の下にいたら、浮かばれない。
しかし、そうは言いてられない状況がある。
上司が、部下ができないとしても、どうにかしなければならない時がある。
その時は自分の考えで仕事を組み立てるしかない。
できる上司だも人によって仕事の仕方が違う。
ワンマンに仕事する人もいれば、大きく任せてくれる人もいる。
相手によって仕事の仕方を変える必要もある。
相手によって変幻自在に仕事の仕方を変えられるのがプロである。
他人の性にしても結果出せるわけではない。
どんな人と組んでも結果が出るようにふるまうのがプロだと教えられた。
見る目を養う。
特に、人見る目を養う。
泣いたって,笑たって、騙されればそれまで。
大谷がいい例。
年寄りが大金をだまし取られるのだって。
信じた私が、あなたが、馬鹿だったとしか。
親父の口癖は、「原理、原則を守れ」
親父に「原理原則とは何か」と聞いたら。
「信じるべき人を信じて、信じてならない人を信じない事だよ」と。
「じゃあ、誰を信じていいか、信じてはいけないか、どこで見分けるの」とl聞いたら。
「そては自分で学ぶしかない」と。
要するに、いろいろな人と付き合い、人生経験、社会経験でしか学べない。
ただ、多くの人が破滅するのは、信じるべき人を見誤るからで。
誰を信じて、誰を信じてはならないかは、人に裏切られたり、騙されたりしながら学んでいく。
一度や二度、人に欺かれたからと言って人間不信に落ちっていたら、生きていけない。
とにかく自分の目を養う。
自分の目で見て判断できるようになる。
だから、若いころの経験が大切なんだ。
人事の基本は人を見ろ。
教育の基本も人を見ろ。
他人の目を借りて見ようとするから何も見えなくなる。
自分の目で見て、自分で決める。
そのためにも、人を見る目を養わなければならない。
どうやって、人を見る目を養うのか。
単純に、肩書だとか、学歴とか言った外形的な事だけで人を判断できる時代は過ぎた。
年上だから、先輩だから従えという事と通用しなくなり。
人として尊敬できるか信じあえるか。
それが問われているので。
何よりも逃げないで立ち向かっていく勇気。
相手の人間性や思想信条、人柄といった本質的な事。
そして、自分が相手と共鳴共感できるか。
互いを認め合う事ができるかにかかっている。
それは、言葉で言っている事より、行いを見ればわかる。
言っていることとやっていることが違ったら信じることはできない。
自分を誤魔化したり、うそをついたり、空威張りしている人にもついていけやしない。
実際に、相手がわかっているか、わかっていないか。
できるか、できないかを見極める事である。
できない事を自覚しているか
できない事を自覚していないか。
できないなら、できない事を認めているか。
できないのに、できない事を誤魔化していないか。
相手が他人(ひと)の言っていることを理解しているか、どうか。
理解していない場合、自分が理解できないのを認めているか。
誤魔化しているか。
わかっていないのに、わかったふりをしているのか。
一番困るのは、わかっていないのに、わかっているとし、自分がわかっていない事を認めようとしない。
できないのに、できると言い張り、できない事を認めようとしない事である。
できるか、できないかを、どう見極めるかは、基本動作を見る事である。
基本は初動である。
初動で間違えるとずっと後を引くと指導された。
指示された時、指示された直後にどのような行動をとるかにある。
まず、メモを取っているか。
的確な質問したか。
言われたことを確認したか。
これからやることの承認をとったか。
そんな些細な事と馬鹿にするかもしれないが、省みて、そんな簡単な事もできていないのではないか。
なぜ、メモを取り、確認をするのか。
それは間違いを犯さない事であり。
仕事に着手する事であり。
確認をする。
そして、後々、いざこざを起こさないため。
忘れないためである。
これだけ大切な意味が、メモを取ることにあるので、それすらできていなければ誠実さに欠けると言われても仕方ない。
人柄というのは一見些細なことにこそ現れるものである。
やることが決まったら、次に作業を洗い出し。
一つひとつの作業をあげて、相手にできる事、自分にできる事を別けて整理していく。
それが役割分担。
例えば、アンケートをすることが決まった。
アンケートをするための作業を洗い出していく。
基本計画の作成。決定。周知。
アンケート用紙の書式の素案作成。決定、配布。
アンケート用紙の回収、集計、分析、レポートの作成。報告。
作業の洗い出し方はいろいろある。
ただ、体系的に、知真理、全体的に作業を洗い出そうとする場合、初心者は項目を挙げてから洗い出す癖をつけたらいい。
例えば、目的、方針、日時、場所。
取り合えず、項目挙げてから、基本計画の作成に着手する。
思いつくままに仕事に着手すると、偏ってしまう。
学校ではなぜと問うことは御法度。
なぜなら、先生が答えられないから。
それに、学校では、なぜと問うても何も変えられない。
逆に、職場では、なぜと問う事は必須。
その証拠に、指示、命令の必須項目の五W一Hの一つに「なぜ」という項目がある。
なぜなら、仕事には目的があり、関係者は、共有する必要があるから。
なぜと問うて間違っていれば、たとえ、目的でも変えなければならない。
なぜ、勉強するかは、個人的問題。
なぜ、仕事をするのかは、公の問題。
学校の教室は、組織ではない。
組織化される以前の集団。
故に、勉強する目的は個人の意志に帰す。
それに対して、職場は、組織された集団。
故に、仕事の目的は、組織に帰す。
仮に、受験を目的とする生徒がいたら、受験科目でない、音楽や体育は、目的に反する。
だから、受験生にとって音楽や体育を学習する動機はない。
では、なぜ、学校の教科に音楽や体育の科目があるのか。
それは。学校教育本来の目的が国民の情操教育、人としての基本的な教養、常識を身につかせることにあった証左。
しかし、そんな事、受験生には関係ない。受験生には受験生の目的がある。
それに対して、会社に意義は、一つの仕事や目的を社員全員が協力して成就させることにある。
だから、目的が重要で、社員全員が共有する必要がある。
故に、なぜと問う事が求められる。
また、社員一人ひとりが何故と自問自答する必要がある。
組織の目的が実現しないと、個人の目的も同時に破綻する。
全体と個人、双方の目的を一致させ、整合性を保つ必要がある。
野球の試合での、チームの目的も選手の目的も試合に勝つことで、個人的な付き合いのために無断で試合を抜ける事は許されない。
むろん、生活費を稼ぐという個人的があったとしても、会社が潰れてしまえば、個人の目的も達成できなくなる。
故に、会社、組織全体の目的が優先されると同時に、社員全員が共有する必要がある。
また、たとえ、学校では、生徒が何故と問うても、何も学校を代えることはできない。
しかし、組織は、メンバーの意志で目的をすら変えることができる。
この点でも、常に、なぜと問うて、目的を検証し続ける必要がある。