最近、街を歩いていると、この国も変わったなと感じることが多くなったのです。
町に清潔感がなくなったように思えて。
見るからに生気がないというか、魂が抜かれたような。
それを切実に感じたのは、教育について、話した時なんです。
なぜか、社員教育すると言っても釈然としない。
教育という言葉が空疎に感じるという。
それで僕は、「それは、教育のルーツがハッキリしないからさ」と。
どこの国、特に、国民国家、民主主義、共産主義は、自分の国の成り立ち、思想、仕組を教育してはならないなんて国はない。
教育の根源、どんな国民にしたいのか。
この国をよくするためにはどんなことを教えるべきか。
それを現実的に、話し合えない教育なんて空疎だ。
だから教育という言葉そのものが意味のない言葉になる。
なぜ民主主義で教育は、義務なのか。
それは、国民国家は、そもそも、国が思想的だからで。
民主主義だって、自由主義だって建国の理念が重要。
だから教育は義務。
それなのに日本では、国家の成り立ちも、建国の理念も教えられない。
そもそも多くの教師が愛国心は悪だと。
それでは憲法に魂が籠るはずがない。
なぜなら憲法の根源は愛国心なのだから。
だから、憲法だって暗記問題にすぎない。
つまり、国のルーツが教育に結びついていない。
教育が根無し草、ルーツがないから、当たり前に芯が定まらない。
芯のない教育を受ければ、芯のない人間が育つのは当然。
だから教育に芯が通らなくなる。
街が綺麗でなくなった。
人の生き方も美しくない。
なぜなら、誠がなくなったからだ。
根がないから、自分では、何も、決められない。
些細な事も決められない。
決められなければ、覚悟も、責任も持てやしない。
自分で決められなければ、他人の言いなりになるしかない。
でも、他人のいいなりになるのも嫌だ。
こうなると、いじけて引きこもるしかなくなる。
美学など思いもつかない。
梅原猛は、日本人の価値観は、美学にあると言った。
善悪ではない。日本人は、汚い生き方が許せなかった。
だが、今の日本人は汚い。
恩義、信義、忠義を忘れたからだ。
日本人は、戦争に負けて、負け犬根性が染み付いてしまった。
国に教育が結びついていなければ、健全な愛国心など育てようがない。
健全な愛国心が持てなければ、健全な家族愛も、愛校心も、愛社精神も育てようがない。
つまり、国に魂が籠らない。
要は心張棒がないのである。
戦後生き抜いてきた親父たちは、それこそ地を這い泥をすするような辛酸な思いをなめ。
そこから這い上がってきた。
それもこれも、家族の為であり。
戦後の復興を託して死んでいった、戦友の為である。
だから、親父たちは、魚屋、八百屋の親父だって背筋を伸ばして、凛としていた。
そりゃ戦後のどさくさを生き延びてきたのだから、したたかでなければ。
それでも、自分の家族、国は自分で守るという気概があり。
どんな事だって自分で決めると覚悟していたから。
いつも張り詰めた緊張感が親父にもおふくろさんにも漂っていた。
それこそ、肝っ玉かさんだし、寅さんだ。
そうやって生き抜いてきたからこそ、信義、恩義を大切にしろと。
誇りを忘れるなと。常日頃、口に出し。
いつも清潔でいようと。
だから、日本人は風呂付きで。
どんなに貧しくとも、清く、正しく、美しく生きよと。
確かに頑固だった。負けてはいなかった。
若い頃は反発もしたけど。
頑固おやじと。
でも、今にして思えば。
商売人は商売人だった。
愛想はいいけど卑屈にならず。
商売道を守っていた。
小学校しか出ていない人だって。
今は、大学を出ても挨拶一つできない。
そう育てたのは我々なのだ。
でも、自分の非を認めもせず、世の中が悪い。
躾が悪い、今の子はと他人の性にし。
潔くない。見苦しい、醜い。
だから、政治家だって、人間だって、どこまで行っても、私利、私欲、私怨でしかなく。
汚い。恩もなく、義理もない。
平気で恩ある人を裏切り、笑って友を見捨てる。
昔は、それでも、世のため、人のため。
愛国心や、愛社精神があったから、男の美学があり。
ヤクザだって、一宿一飯の恩といい。
でも今は、ただ恨みつらみしか残らない。悲しい事ですよ。
町も、人間も薄汚れて、汚い。