草莽崛起。

大人がだらしない。情けないと嘆いても、何もよくならない。変わらない。

いくら、大人が無責任、いい加減、だらしがないとしても、結果に対して、責任をとらされるのは、次の世代を担う若者、君たちだ。
その時、多くの大人たちは楽隠居。
自分たちの所業の責任をとらず、次の世代の世話になる。
ならば、若者は、行動を起こすしかない。

他人のふり見てわがふりなおせ。
何も行動を起こさなければ、自分が批判している人間と同じ道をたどる事になる。
今の大人達は、先達者が残した資産がある。
今の若者に残されるのは負債だけ

時を見て決断するなんて言っていたら、時機を失するよ。
若い頃に、習得しなければならない事はたくさんある。
修行だよ。
修行すべき時に修行しておかないと、ただ、年をとるばかり。

人はある一定の年齢を超えると衰え始める。
それは人によって違う。
早い人は十代後半で。学ばない者は、二十代で。
努力しない者は、三十代で。
研鑽しない者は、四十代で。
怠惰な人間は、五十代で。
人の話を聞かない者は、六十代で。
諦めた者は、七十代で。
衰え始める。

明治は覚醒して行動を起こした若い下級武士によって拓かれた。
それが近代日本の夜明けだ。

吉田松陰 享年 二十九歳
坂本龍馬 享年 三十二歳
高杉晋作 享年 二十七歳
中岡慎太郎 享年 二十九歳
久坂玄瑞 享年 二十五歳
近藤勇 享年 三十五歳
土方歳三 享年 三十五歳
橋本佐内 享年 二十五歳
みんな、二十代三十代で大業を成した。
幕末だって幕府や諸藩の財政は破綻していた。

彼らは、待ってなんかいなかった。

座して死を待つくらいなら、進んで道を切り拓かん。
我に続け」だ。

行動を起こせ。
行動あるのみ。
人生は、長いようで短い。
若く、可能性がある時も短い。
待つな。決起しろ。
命短し、恋せよ乙女だ。

組織には必ず中心を置く。

誰がその場を仕切っているかを明確にする。
仕切り役は、長とか、リーダーである必要はない。
それこそ担当である。
担当を決めて、その場を仕切らせろだ。

仕切るとは、その場を差配するのが役割だから、支配人とか、執事みたいな人間でもいい。
少なくとも、場を仕切っているのは主役ではない。現場監督である。
その辺を勘違いすると、組織を制御する事ができなくなる。

最近奇妙なのは、仕切り役がハッキリしていないで仕事をしている場面に遭遇する事だ。
しかも、仕切り役がいない事を当たり前のように受け取っている
これは異常な事だ。
我々には気持ち悪い。
なぜなら、仕切り役がいないというのは頭がないのと同じだからだ。
統制の取れた行動がとれない。
それこそリスクであり、パニックである。

いざ戦闘開始という時に、指揮官不在だったり、誰が指揮官かわからない。
指揮官が敵前逃亡したら、部隊は全滅必至。
そんな自明の理すら、今の日本人は分からない。
攻められてきてからどうするか考えようとか。何を言ってるのか。
敵に、暴力反対、人道主義を説いて聞かせよう。
田原総一郎に至っては、妻子を捨てて逃げよう。
それが、反戦、反体制主義者の本性だ。

他国では、常に指揮官は誰か、その場を仕切るのは誰かわかるように。
指揮官が戦死して、あるいは、錯乱して指揮が取れなくなったら次席の者が、替わって指揮をとれるよう訓練されている。
指揮官不在な状態が組織にとって一番危うい状態なのだ

中心と仕切り役が同じである必要はないが、中心以外の人間に仕切らせる時は、全員に誰がその場を仕切る事になったかがわかるようにする。

自主性、自発性なんて期待したら、仕切りなんてできない。
そんな事、まともな人間が言う事ではない。
組織は、働かせる、やらせなければ、機能しないから。

自分が仕切り役だという事を自覚していない人間は最低だ。
なぜなら、指揮に、総てが混乱するから。
部隊なら全滅する。
指揮官になったら、指揮をとれ。指揮しなければ部隊が全滅する。
戦場を生き抜いた親父たちの鉄則だ。
恥ずかしとか、相手の機嫌を気にしたり、顔色を窺ったり、他人の目を気にしたり、結果を恐れて指揮できないなんて、人間として最低だ。
指揮官には責任がある、覚悟がある。指揮官がその場をリードするのだから。

我々は、「この場を誰が仕切る」と仕切り役をまず決めた。
中には「この場は俺に仕切らせてくれ」と申し出たものだ。
みんな、仕切るのは嫌だと逃げたら始まらない。
苦しい時ほど買って出る、それが男だともね。

仕事は、始めてから終わるまでの間に、いろいろな局面や場面がある。
その一つひとつの局面、場面ごとに、その場を仕切る人間がいなければならない。

企画の局面、準備の局面、会場の場面、受付の場面、駐車場の場面、後始末の局面、その局面、場面ごとに場を仕切るものが決められていなければならない。

そうしなければ、人の集団をまとめられない、一致した行動がとれない。
パニックになる。

実務屋の発想、考え方。
例えば、「あの人に任せってできると思う」と問う。
できないと思う。これは、かけなし、本音で、できないなら「できない」と答える。
それで、「じゃあどうする」と考える。
この時「あいつは馬鹿で」なんて考えたり。
なぜできないのと考えるのは、時間の無駄だと実務屋は考える。
ようは、できるか、できないかが問題なんで。
なぜできないかとか、できない理由や、原因を探っても、あるいは性格なんてどうでもいい。
できなことがわかればいい。
また、相手を庇ったり、言い訳をしても意味がない。
これはミスやご判断、事故なども同じ。事実だけが聞きたいので言い訳なんて聞きたくない。
あいつがどうたらこうたらも、ただのゴタク。責任問題は仕事が片付いてからする。
よく、意味もなく、当人に代わって弁解する者がいるが、実務屋にとって意味不明。
要するに、できるか、できないかが問題で。
庇ったり、弁解する事で相手ができるようになるのならばいい。

しかし、できるようにならないなら聞く必要がないと考えるのが実務屋。
できるのならいいが、できない、明らかにできなければ、どうするかである。
実務屋は現実主義者でなければ。
できなければ、できないなりに何とかしなければならない。
つまり結果を出すことが先決だから。
できなければ、できる人に代わってもらうのが原則。
当人が自分ができないという事を認めているときは、話が早い。
問題になるのは、当人が自分は、できなのに、できない事を認めなかったり、頑張っている場合
始末が悪いのは、弁解や言い訳を始めた時。
まず、弁解や言い訳を聞かなければならなくなるし。
言い訳や弁解が、問題解決につながるのならば、つまり、できない事が、できるようになるなら聞くだけの価値もあるし、時間も無駄にはならない。
しかし、単なる言い訳、弁解だと厄介。
意味のない庇い立ては当人の為にもならないし。問題点を見えなくしてしまう。
まず、当人にできない事を認めさせなければ、始まらない、次に移れなくなるから。
できない理由がわかりそれを解決すればできるようになるなら話は別。
要するに確実に期限までに終わらせなければならない事は、どうやって、仕事を成し遂げるかが最重点なので。できない理由なんて聞いても何の役にもたたない。
どうやってやるかが一番の問題なのである。
だから、実務屋にとって言い訳や弁解が一番の禁句
いつまでも我を張って、自分ができない事を認めず。
弁解や言い訳に終始している人が最大の問題。
その場合は人を変えるかルートを変えるか作業を組み替えるしかなくなる。
なぜなら、やらなければならない事だからである。
確実にやらなければならない事の妨げになる場合は、ある程度強引な手段に訴えるのもやむおえない。
それが実務家の発想である。

議長とか、部長とか、マネージャーとかという前に、誰が、この場を仕切っているのかわからないというのは気色が悪い。
第一怖い。まとまりよう、まとめようのない群衆だから。

仕切り役がいなければ手を挙げって率先して仕切り役になれ
それこそが、次の時代を担う者の心意気だ。

何を言ったって、どうお体裁を気にしても、国を滅ぼし、会社を潰し、家庭を崩壊させ、自分を喪失させたらおしまいよ。
そうなる前に決起しろ。
行動を起こせ。
そうしないと千載に悔いを残す。