般若心経は、物理学に通じるところがある。
般若心経を数理哲学的に解釈してみる。

摩訶般若波羅蜜多心経
まかはんにゃはらみたしんぎょう

誕生。開眼。光明。

人は、人知を超えた何ものかによって、命と肉体を与えられて生まれる。
命は、魂であり。魂は肉体を通して外に現れる。
魂は心や意識、精神の源となる。
魂のない肉体は、屍であり、朽ち果てるだけ。
魂があって肉体は生きる事ができる。心は、志の淵源となる。
生まれた時、人は、無垢なる魂を持つ。これが、総ての始まり。

生まれる前の記憶は定かでなく。生まれた時は、無分別。すなわち、空。
始まりは、空。

気がついたら、与えられたこの世界の中で、生きていたというのが、本音。
望む望まないに関わらず。
親を選ぶ権利もなく。ただ生かされていた。
不満があっても、誰にも、ぶつけられやしない。
始めは、何もかも、混沌としていて、意識は混濁している。

この世界は、時空によって成り立っている。
存在は、空間と時間に支配されている。

時の流れは、不可逆的。失われた時は、取り返せない。

位置は、空間によって定まり。変化や運動は、時間によって定まり。
関係は、働きによって定まる。位置と運動を結びつけるのは関係であり。働きである。
働きの背後には法がある。

目に見えない働き、力によって事物は結び付けられている。自分は、目に見えない力によって生かされている。我々が、目にしているのは、表面、上っ面に過ぎない。

位置は、空間の関数であり、運動は、時間の関数であり、関係は、働きの関数である。
働きを数式化するのが、物理学である。
その前提は、存在の絶対性、即ち、空である。
故に存在証明、実証性が求められる。

生きるとは、自分の力で生きることで。故に、自分の人生の大本は、空なのである。

人には、それぞれ、役割と働きと関係がある。
それが定まる時、人は安心立命を得られる。
その本然は、空である。
人それぞれ、その時そのときに自らの意志で自覚するしかない。

在るのは、この時、この場所である。
絶対なのは、この一瞬、この場所だけである。
普遍は、この一瞬にある。確かなのは、この瞬間にしかない。
過去は、不確かな記憶にしかなく、未来は深い霧の中にある。
しかも、今は、一瞬に失われていく。淡雪のごとく。

自分の記憶の中にいる幼い頃の息子も、成長した今の息子も、現実に存在するので。
どちらも、事実。確かに、幼い頃の息子がいたのは事実だし、居たから、成長した今の息子がいる。
しかし、あの頃の息子は今はいない。今、居るのは、成長した今の息子だ。
若く溌剌とした母も、老いた母も事実に変わりはない。若い頃に戻りたいと思っても、戻れない。
それも事実である。事実として受け入れなければ、今の自分は、どうにもならなくなる。

若い頃に戻りたいと言うのは、切ない願望である。時は戻せない。

今、咲く桜も、明日には散っていく。また、来年も同じように花を咲かせかもしれないが、来年、たとえ、花を咲かせたといても、同じ花は一つとしてない。

数は、連続しているとすることもできるし、不連続だともいえる。数の実体は空である。
数は、直線ともいえるし、点の集まりともいえる。直線と見るなら断じる。
時間は、連続しているとすることもできるし、不連続だともいえる。時間の実体は空。

物事には、後先、前後、順序がある。物事には、因果因縁がある。

今は、過去からの延長線上にあり。
未来は、今の行いから生じる。今は、一刹那、あっという間に過ぎ去る。一刹那は空。
今は、生まれ消えていくが、今だけで成り立っているわけではない。
過去の、行いと出来事が積みあがった結果であり。
今は、未来に生起する出来事や行いの、原因、動機となる。
今が未来を作り出す。行いは、この刹那の決断に基づく。
決断は、決して断ずるのである。
因果は連鎖している。
結果が原因となり、原因が結果となる。
因果は巡り、今を生み出す。因果因縁。
今は、過去から未来の通過点。時の流れ。

因果因縁の本は空。卵が先か、鶏が先か。

今の行いが、絶対に正しいという確証、根拠は得られない。
それが、苦の因縁となる。正否善悪は、相対的。

過去の過ち、悪行は、今に現れ。
今の過ち悪行は未来を祟る。
悪行は、他人が知らずとも自分は知っている。
自分が知る以上、自分が許せなくなる。
バレなければいいというのは愚か。愚か。
悪因悪縁を断ち切るためには、今、悔い改めるしかない。

一度、嘘をつくと、嘘が連鎖し積み重なり。本当の自分が見えなくなり。虚となる。
嘘、偽り、誤魔化し、言い訳の人生となる。

存在は、絶対であり、唯一(ユニーク)である。
存在には、主体的存在と、客観的存在がある。
主体的存在が、自分、つまり、私である。
客観的存在は、対象である。

天上天下 唯我独尊。

自分が、いなければ、この世は、存在しないのも同じ。
この世界が、なければ、自分は、存在しない。
自分あっての世界であり。世界あっての自分である。
故に、自分の存在と、世界の存在は、すべての大前提になる。

存在は、自己と世界の関り、関係の上に成り立っている。

自己には内と外があり、内への働きは外への働きとなり。
外への働きは内への働きとなる。

人は外の世界と関わり合いを持つことで自分を知る。
話す事で自分の考えを自分の内で整え、外に対して明らかにする。
人は、人と人との関り、コミュニケーションによって世界と自分を知る。
人とうまく関われない者は、社会だけでなく自分をも見失う。

人の心は、わかったと思った次の瞬間にわからなくなる。
本心が顔の表に現れるとは限らないし。
自分だって自分の本心を理解しているとは限らない。
人の心は掴みようがない。人の心は気紛れ。
信じた人に背かれ、裏切られ、騙される。
傷つきたくないなら、だれも信じなければいい。信じるから苦しいのか。
誰を信じたらいいか、何を信じていいのか、人を信じる事は、賭け事なのか。
人を信じる事は愚かなのか。
かといって、人が信じられなくなれば一日たりとも安心して生きていけなくなる。
真実を見極めるのは難しい。人はとかく色眼鏡で世間を観ている。

存在は、対象と自分との関係上で認識される。
対象が存在しなければ、自分の意識は成立せず。
自分が存在しなければ、対象の存在は成立しない。
存在は、時空間上に成り立っており。時空には場がある。
場は一定の働きのある力に満たされている。

存在は、絶対だから、不完全な存在はない。未完成な存在もない。
大体、絶対的存在には、完全とか、不完全といった相対的分別は成り立たない。
完成、未完成も、存在の問題ではなく、認識の問題である。
完全、不完全の分別は相対的な事だからである。
相対的というのは分別である。絶対的存在は、識別する事ができない。
識別しないと、対象の働きを理解する事が出来ない。分別は認識の都合から生じる。
対象を識別しようとした瞬間、対象は、絶対性が崩壊し、相対的になる。
対象が相対的なのは、対象を認識する為に必然的に生じるので、認識が相対的だからといって、存在の絶対性が失われる事はない。
これは、物理学の大前提でもある。故に、物理学は相対的なのである。

空とは、絶対的空間を言う。つまり、分別以前の空間、無分別な空間である。

観自在菩薩
かんじざいぼさつ

自在とは、思うがままの意。
観自在とは、人々の苦悩を自在に観る事の出来ると菩薩という事。

行深般若波羅蜜多時
ぎょうじんはんにゃはらみったじ

ある日、靈鷲山の山頂にお釈迦さまの説法を聞こうと多くの弟子が集まった。
しかし、お釈迦様は、深い瞑想状態にあり、弟子たちに背を向けたまま何も語ろうとしない。
観自在菩薩は、お釈迦様の背中を見ているうちに自分も深い瞑想状態にはいいた。

照見五蘊皆空
しょうけんごうんかいくう

人間は、生まれたばかりの時、物事を識別する事はできない。
自分の母親すら識別できない。赤子は、無分別である。無垢、無邪気。

生まれたばかりの時、人は自分を知らない。
赤子は自分を知らない。
母に抱かれて、自分の存在を直観する。
自分を抱いた人を母だと直観する。

産声を上げる事で、母に自分の存在を知らせる。
赤子は無力である。自分一人では生きられない。
父母の助けがないと生きられない。
生まれるとすぐに、父母を求めて産声を上げ、泣き叫ぶ。

人は、自分を超えた何ものかによって生かされており。
この世の全ての出来事を、自分一人の力では見る事も、知る事もできない。
人は、先ず、自分以外の自分を生かしている何ものかの力を、無条件に、認め受け入れなければ生きていけない。あるがままに受け入れるしかない。

生まれたばかりの時は、見える物も、事も、定かでない。
赤子は、声を聞き、手で触り、臭いを嗅ぎ、温もりを感じ、痛みを知り、舌で味わい、やがて眼で見るようになり、手、足を動かし、意識が徐々に作られていく。

生まれたばかりの時、この世は、無分別な存在であり、空である。

赤子は、抱かれ、乳をあたえられ、泣いてあやされ、名を呼ばれ、背におぶさり、母を知る。
それが、生みの母か否かは、分別。
赤子は、母を選べない。母と思うから、母となる。
産みの母か、育ての親か、義理の母か、赤子には、識別できない。母は母である。
慈母であっても、鬼母であっても、赤子には選べない。
母親とはなにか、どうあるべきかは、分別。赤子には関わりない。
赤子は、母を頼らなければ生きていけない。
五蘊で赤子は自分の母を求める。
だから、赤子は、五感によって母を知る。それが六根となる。

赤子は、母を通じて自分と世界を知る。
母の温もり、母が呼ぶ声、母の匂い、乳の味、自分を見つめる目で、自分の生を知る。

この世は、変化し続け、定まる事がない。諸行無常。
しかし、よくよく観ると、変わらない事も見えてくる。
この世界は変化する部分(変易)と変わらない部分(不易)な部分から成り立ち。
その関係には一定の法則がある(簡易、ダルマ、法)。

人の心は、移ろい易く、計り知れない。顔色を窺ても本心は悟れない。
真に人間関係程、不可思議な事はない。人は表に現れた現象しか観ていない。観えない。

一皮剝いたら、仮想、架空、闇。在るはずでしかない。
内臓の状態なんて外から見ただけではわからない。想像でしかない。

一寸先は闇。ドアの向こうに何があるか。開けてみないとわからない。

自己は主体である。同時に、間接的認識対象である。
自分の顔は、直接、自分で見る事はできない。
自分の顔を見たければ、自分を鏡に写す必要がある。

赤子は自分を知らない。鏡に写った自分の顔を見て自分を知る。段々に。
人は外の世界と関わり合いを持つことで自分を知る。鏡に写った姿を見て自分を知る。
外の世界が光一つない闇で、何ものにも触れる事さえできなければ、世界どころか自分を知る事もできない。自分と世界とが関りが持てない状態を、無明という。光明がないのである。

見る事は、見られる事を意味し。
見られる事は、見る事を意味する。

五蘊というのは、存在に対する認識手段を意味する。
つまり、自分の外に対する働きかけである。
自己認識は、認識手段に制約を受ける。
五蘊は、認識手段である。認識手段は、認識過程を構成する要素である。

観自在菩薩は、自己の本質は、五蘊に他ならないと、正しく見極められた。
つまり、自分の実相は、五蘊の働きによって写りだされた像である。
究極的に、五蘊は、空、即ち、分別以前の空間に還元される。

五蘊は、色、受、想、行、識からなる。

色しき(ルーパ)
受じゅ(ヴェダナー)
想そう(サムジャナ)
行ぎょう(サンスカーラ)
識しき(ヴィジュニャーナ)

色は、物自体を指し。物自体は、空である。
受は、目耳鼻舌身意によって物自体を分別する。物自体を識別、分別した瞬間、物事は相対的になる。
想は、色声香味触法によって境界を悟り。認識する対処を言い。色境、声境、香境、味境、触境、法境の六経がある。六経を以て世界を識別する事を想とする。想は、心根になる。
行。物自体への働きかけ、行いによって世界と自分との結び付けを知り。自分を位置づける。見て、聞いて、嗅いで、話して、触れて、考える、そのような行いによって、自分と対象の双方を知る。
行いそのものは、色もなく、音もなく、匂いもなく、味もなく、感触もなく、意識もなく空である。
識は、色受香味触によって得た知識に基づいて法を明かし。知恵へと昇華する。識は、眼識、耳識、鼻識、舌識、触識、意識の六識からなる。

この循環が五蘊であり、五蘊によって知識や分別は深まる。それを常識という。
半面、五蘊によって形成された知識や分別に囚われると、物自体の実体が見えなくなる。
それを偏見、先入観という。

人には心根というのがある。五蘊の根本に在る根っ子を心根と言う。心根は空である。

愛国心というと軍国主義とか、全体主義とか思想と結び付けて考える人が多い。
しかし、愛国心とは心根にある事で、分別以前の感情である。
愛国心とは、情である。理ではない。
愛国心は、愛情であり、思想ではない。
理屈ではない。
子供が、親を慕うような。
親が、子供を慈しむような。
夫が妻を労るような。
妻が夫を愛おしむような。
自然の情だ。
反体制の人間委も、体制の人間にも愛国心はある。
グローバリストにも、愛国心はある。

心根が正しいかどうかは別にしても、思想を以て心根の是非を語る事はできない。
心根の実体は、空なのである。

度一切苦厄
どいっさいくやく

苦とは、自分の思い通りにならない事。
この世の中は、自分の思いどおりにならない事ばかり。
自分の肉体一つ、思う様にはできないのである。
中でも、生、病、老、死は、儘ならない。

この世の中は、思い通りにならない事ばかりだ。思い通りにならない事が苦だとしたら。この世の中は、苦ばかりだ。中でも、自分の肉体は最たるもの、何一つ思い通りならない。
しかも、肉体こそ、欲の発生源。肉体が、物質的存在の大本なら魂は、精神的存在の根源。
しかし、肉体がなければ、自己の魂は、出現しない。
肉体と魂は互いに依存しながら相克する。
肉体と精神の葛藤が苦の本源となる。

苦といえば四苦八苦。しかし、それ以外にも苦はある。
悩みは、苦の種でもある。
悩みにも、色々あり。事の大小もある。
その色々な悩みが、混在している。
例えば、国策をどうするかも悩みだが、今日の夕飯をどうするかも悩むところ。
それが、一時に混在している。

天下国家を論ずつ者が、今日の食費に事欠き苦しむ。それが現実。

肉体苦痛は、苦を体現する。苦は、肉体を痛めつける。
肉体的苦痛は、本質的な苦である。耐えられない。

知らない、わならない、できないのも悩み。それが高じると劣等感になる。劣等感は苦の種。
自分が、他人に劣っていると言う思いほど、辛い事はない。苦である。
人の人格、性格まで捻じ曲げてしまう。
他人と自分とを比較するのは人間の性(さが)業(ごう)である。
他人と自分との関係は、本来、空。比較しても仕様がない。

死は、苦の本源というが、死にもいろいろある。
余命を宣告されとと、一段と、生が際立つ。いろいろなドラマの種になる。
しかし宣告されようがされまいが。死ぬことには変わりない。
余命よ宣告される事で、自分の死を知るのである。

戦場で死ぬのも、病気で死ぬのも、交通事故で死ぬにも、災害で死ぬのも、死に変わりはない。
どこが違うのかといえば、覚悟の差である。
戦争を九死に一生を得た人が、転んで死ぬこともある。
歴史を変えるような大事を為した人が、詰まらぬ痴話喧嘩もとで殺されたりする。
人類が滅亡すると言うが、人類滅亡とは、人類が、同じ時に死ぬ事で。
自分の死と人類の滅亡とどちらが、自分にとって重いのか。それを決めるのは分別である。
存在は空。
人は、物事の本源に立ち返って、我を取り戻す必要がある。

人は、意図せず、罪を犯す事がある。
罪とは、自分の信条に背く行為である。自分を許すことができなくなる。
一神教徒にとっては、罪は、神に対する背信である。
故に、罪は、心に深く突き刺さる苦である。
罪から逃れるためには、罪を認め、悔い、改めて、自分を許す以外にない。

自分の思い通りにならない事を、思い通りにしようとするから苦となる。

思い通りにしようとするから苦しいのであり、あるがままに受け止めれば苦から解放される。
分別に囚われず、あるがままにに、存在を観れば、存在は、空であり、絶対である。
真理を見極める事で苦を超越できる。

自分が正しいとする事と世間が正しい事が一致するとは限らない。
自分が好きだとしても、相手が自分を好きだとは限らない。
世の中は、自分の思い通りにならない事ばかりである。
苦の種は尽きない。

癒えぬ記憶が心の傷となり、苦の種になる。

苦の種が尽きないと言って、世俗を捨てたとしても、生きるために必要な事はやめられない。
食べて、寝て、排便し、住む家を維持しなければならない。
人と人の関係を断つことはできない。それが、また、苦の種となる。
生きるとは生臭い事である。

一切合切、苦の種といえばその通りかもしれない。
結局は、心の持ちようで定まる。

舍利子
しゃりし

深い瞑想状態 に入られた、観自在菩薩の状態を見て、第一の仏弟子である、シャーリプトラが菩薩に、何が見えるのですかと問うと観自在菩薩は、おもむろに語り始めた。

シャーリプトラよ。
私は、長く厳しい修行をしてきたが、今、心を空しくし、総ての分別、知識、知恵を捨て去り。生まれたばかりの心、赤心に戻って、改めてこの世を見たら、思うがままにこの世の全てが観えるようになった。そして、真実の知恵に達した。

あの物が欲しい。
出世したい。
金が欲しい。
愛されたい。
美味しい物が食べたい。
一番になりたい。
あいつに負けたくない。
あいつより偉くなりたい。
あいつが憎い。
この世の全てを知りたい。

そういう見栄や欲に囚われるから、苦しいのだ。
囚われの心が障害となり、盲目となる。
囚われから、自分を解放し、この世をあるがままに受け入れれば、この世の真実は、自在に観えてくる。

相手の想いなんてわからない。
大概は、自分の思い込みであることが多い。
自分の考えだってハッキリしているわけではない。
相手と自分の想いが交錯し、ますます混乱する。
相手の想いがわからなくとも、一緒に生きていかなければならない時がある。
心の通じ合わない人とは、いるだけでも苦になる事がある。

人は全知全能な存在にはなれない。

物を持てば、物を失う事が苦となる。
人は愛すれば、離別する事が苦となる。
地位を得れば、地位を失う事が苦となる。
有名になれば忘れ去られる事が苦となる。
権威、権力を得れば、権威、権力を失う事が苦となる。

壊れない物はなく。変化は世の常。
欲しい物を手に入れれば、失うのを恐れるようになる。
死は必定、いつまでも一緒には、居られない。
人は年をとり、いつかは、後進に道を譲らなければならず。
名声は、儚(はかな)い。
権力も権威も空しいもの。
栄枯盛衰、盛者必衰は世の常。
苦の種は尽きない。

苦の本源をたどれば、自分の想いに至る。そして、五蘊に至る。

生を悔い。病を憂い。不老不死を求めるから、苦となる。
生を喜び、病を癒し、老いを楽しみ、死を受け入れ、恐れなければ苦にならない。

死は一定。
人は、死ぬまで生きている。
生きているうちは、死を自覚する事はない。
死を恐れて怯えて生きるより。
生を前向きにとらえて、一所懸命生きるしかない。

色不異空
しきふいくう
空不異色
くうふいしき

私、即ち、自己の意識は、五蘊によってつくられる。
分別は、自己と対象との相互のはたきかけ、五蘊によって形成される。
その本源の存在そのもの、物自体は、無分別な存在であり、空である。
自分の根源も無分別であり。
対象の存在と自己の存在は無分別。空である。
わかったと思ったら、わからなくなる。
なぜなら存在そのものは、無分別だから。

存在は絶対。存在は空である。
空は、存在そのものに他ならない。

人は生まれた時、名がない。無名である。
生まれた後、名付けられ、他の人と識別される。
命名されると、名前に囚われる。
名は、その人を表す。
しかし、その人の実体と名は無縁である。
名は人を表すようになり。人は、名でよばれる。
しかし、名も人もその本性は空であり。無意味である。

名をつけられると名を惜しむようになる。
名誉を貴ぶようになる。
名を残そうとするようになる。
死ねば、名は残っても、実体は失われる。名は虚である。
名を捨てても、人の為に役に立つのなら、それはそれで、尊い事である。

人は名付けられて自分と他人とを区別できるようになる。
自分と名は、本来、別々である。故に、自分は空である。無名である。
自分という自分はない。
今の自分には名がある。親が付けた名がある。しかし、その名に実体はない。
今の名を変えても自分の本性が変わるわけではない。

テレビは、いろいろな世界を映し出し、我々に見せてくれる。
しかし、本来、テレビ本体は機械、仕組みであり、そのものに、意味はなく、空である。
そこで見せられる世界は、仮想現実で、事実ではない。
写しだされた世界は空である。
しかし、見る側の人間はそれを現実として受け止め、泣いたり笑ったりする。
時には感情移入をして主人公に恋をしたりもする。

物体は一番効率がよく、経済的で、最適、最短距離を選んで運動する。
その結果、我々の目には、真っ直ぐな棒も、水に入れると曲がって見える。
水に入れれば曲がって見えるこの棒も、水から出すと真っ直ぐに見える。
棒が真っすぐなのが事実なら、棒が曲がって見えるのも事実。
どちらが正しくて、どちらが間違っているかが問題なのではなく。
どちらも、事実なのである。

お前は、正しいと言い、あいつは間違っていると言う。
お前は、間違っていると言い、あいつは、正しいと言う。
どちらも、どちら。
各々、正しいとする事を正しいとし、間違っているとする事を間違っているとしている。
我々が検証できるのは、結果である。確実なのは、事実である、
故に、肝心なのは事実である。
事実を受け入れない限り、合意はできない。
何が正しくて、何が間違っているかは、空である。

真っ直ぐという言葉も、実相を表している。
しかし、水に挿した真っすぐな棒が曲がって見える事も、理にかなっているのである。
こうしてみると、実際、自分の目も、意識も不確かである。

現世は、我々に、いろいろな現象を見せてくれる。
しかし、その本源は空である。世界は空である。
写しだされた現象も空である。

色即是空
しきそくぜくう
空即是色
くうそくぜしき

現象は、時空間によって成り立っている。
水に例えれば、水は、個体の時は氷となり。
液体になれば、水となり。
気体となれば、水蒸気になる。
これを相転移という。
水は前提条件によって、氷にも、水にも、水蒸気にも、形や姿を変えるが、本質に変わりはない。
気体になれば、目には見えなくなるが、空間に存在する事は現実である。
時空は現象に他ならず、現象は時空に他ならない。

水は、気体にも、液体にも。固体にも姿を変じるけれど、確かに存在している。
気体になれば見る事はできないし、液体になれば流れて見える。
しかし、それは、見る側にそのように見えるからで、水に変わりはない。

受想行識亦復如是
じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ

物自体には、最初、名はない。
名は後で、物自体とは無縁な者がつける。
名がつくと、名は、物自体、体を表すようになり、他の物と識別するようになり。
物自体を制約するようになる。
しかし、物の本性は無名、空である。
名を変える事も本来自由。その事に気がつけば自在。

自分の頭の中で思い浮かべる世界は、空想である。
我々が事実だと想っている事も、想像である。
想像の根源は、無分別な実相、即ち空である。
空想であるから、物理の法則は相対的なのである。

自分の価値観は、自分の行いの反映である。
自分の本性は、無分別、空である。
自分の姿は、鏡の写しだされた幻、空である。
善は自己善に過ぎない。普遍的な善ではない。

生まれた時から是非善悪の分別があるわけではない。
是非善悪は、自分の行いと周囲の人の反応、教えによって体得していくのである。
生きるために。
だからこそ、道徳も、価値観も、最初は空なのである。
性善でも、性悪でもなく。空である。
善も、悪も、自己と外界との関りによって形成されていくのである。
相互作用である。

その人の実力なんて、やらせてみないとわからない。
自分の力はやらないとわからない。
やれば、その人の実力はあからさまになる。
やれば、自分の実力は歴然とする。
やって自分の未熟さを知る。
修行は、そこから始まる。
自分の未熟を知らされるのが嫌だからと、やらなければいつまでも始まらない。

自分の実力が知られるのが嫌だからと、引き籠っていたら、いつまでも、自分も世間も知る事も、関わる事もできない。
素の自分を曝さないと、自分は、内も外も虚となる。
素の自分は空である。

嘘も誤魔化しも、言い訳も、自分の未熟さ故である。

人は、環境によって育てられる。
人は、自分の意志で成長する。

アメリカやイギリスで生まれれば英語で、中国に生まれれば中国語で、日本に生まれれば日本語で考える。
海は、英語でSEA、フランス語でMER、スペイン語でMAR、ロシア語でMOPE。
でも、海は海。海の実体に変わりない。空。

物自体に、最初は意味がない。意味は、後でつけられる。
一度、意味が持たされると物自体は、意味に囚われる。
しかし、本来、物自体に意味はない。無意味である。空である。

人は、一度、分別を持つと、分別に囚われて、物自体の本性が観えなくなる。

舍利子
しゃりし

シャーリプトラよ。

何が自分を苦しめるのか。
その苦の本源にまで遡れば、苦しみの正体がわかるよ。
そして、その源にあるのは。空だ。

是諸法空相
ぜしょほうくうそう ふしょうふめつ

心を空しくして、この世の現象を見れば、この世の実相が観えてくる。
相対的に見える出来事も、その根底には絶対的な存在がある。

知れば知るほどわからなくなる。超えられなくなる。
物理学は、物と物の関係、働きを探究しているので、物の存在そのものを探求をしているわけではない。
存在する物は存在する。存在しない物は存在しない。
それを明らかにするのが実証主義である。

物理的現象には位置があり、運動があり、関係がある。
現象の実相は、変化である。
諸行無常。
さらに現象を突き詰めると、働きに至る。
働きを方程式にしたのが法則である。
法則を明らかにすれば、現象の変化を予測する事はできる。
しかし、それだけでは、存在の本質を解き明かす事にはならない。
存在の本質は空であり、絶対である。
法則は、どこまで行っても相対的である。
諸法無我。

変易、不易、簡易。
変化するところもあれば、変化しないところもある。
その関係を突き詰めると、単純な法則に至る。
それこそが、物理学の本意。

不生不滅
ふしょうふめつ

人は、今を生きている。
人は、必ず死ぬと言われても、死ぬまで生きている事に変わりはないし、死んだ後の事はわからない。
人は生まれたと言うけれど、生まれた時の事を知る人はいない。
ならば、人は、生まれた時も、死ぬ時も知ることはできない。
確実なのは、今、生きていると言う事だけだ。時は、空である。
今を誠実に生きていくしかない。
空である事を理解した上で意味や意義を考える。

今は、一瞬にしかなく。
過去と未来の通過点。
今は、過去があって成り立ち、未来が信じられるから成り立つ。
今だけでは、何の意味もない。
留まるところを知らず、泡のように、生まれては、消えていく。
今は時を凝縮している。
この時に普遍な存在はある。

創造は、破壊を伴い。
破壊は、創造を伴う。
生ある者は、滅せぬ者のあるものか。
生まれたからこそ、滅しもするのだ。
因果応報。

破壊は、創造であり。創造は、破壊である。
表は裏であり。裏は表である。
表には裏があり。裏には、表がある。
表裏は一体。
どちらを表とするか、裏とするかは、人が決める事。
立ち位置や視点、捉え方によって定まる。絶対ではない。
天が動くか、地が動くか。どちらともいえない。相対的。

人は、生まれたばかりの時、他の人の助けがなければ生きる事ができない。
成人すると人を助ける事で社会に受け入れられる。
人は、赤子の時、自分が、他人の世話になっているという自覚はない。
人は、守られている側から、守る側の人間に、立場が入れ換わる時、自分の所在を、自覚する事ができるのである。
自分は守られているという意識、認識。
その対極にあるのは、大切なものを守ろうとする意志。
それが因縁を生む。
自分が守られているという実感、自分が守ているという意識。
その感覚が、喪われてしまうと、自分と他人との繋がりが見えなくなり。
自分に対する認識がおぼつかなくなる。
自分と他者との関係が見えなくなろと自信が持てなくなる。
守られているわけでも、守っているのでもなく。
行為の結果の責任だけが問われる。それは、儚(はかな)い。

自分がなければ、自分がやった事、やっている事が正しいか、どうかの確証を事前に得る事もできない。
それが苦となる。所在がない。
自分の本は空である。

自分で自分の国を守ろうとしない。
自分で自分を守ろうとしない。
自分の家族を自分で守ろうとしない。
それでは、人と人の関係が作れない。
人は、自分の事は自分でやらなければ。
いつまでたっても自立できない。
互いに助け合うから互いを必要とするので。
互いを必要とするから、組織が形成される。
人は、自分が、他人を必要としている事を素直に認めないと。
互いに、相手を必要としている事を認めないと。
そして、自分も相手の事を認めないと、自分の事すらわからない。

教育は、義務であり、権利である。
納税は、義務であり、権利である。
国防は、義務であり、権利である。

権利は義務であり。
義務は権利である。
何を権利とし、何を義務とするかは、立場、視点の違いでしかない。

植物は、種から根を生やし、芽を出し、大地から水や養分を摂取し、長い時を経て大木となり、やがて枯れ朽ち果て、土にかえる。
何の不思議もなく。空である。
何も生ぜず、何も滅してはいない。

水は、雨となって大地を潤し、川となって海に流れ込み、雲となって天に沸き立ち、また雨となって大地にに降り注ぐ。時には、台風となり、洪水を引き起こすが、全体を見れば、増えも減りもしない。

荒々しい海も、やがてはいつもの穏やかな海に戻る。
人々の平穏な生活を打ち砕いた海も、春の穏やかな海も、恵の海も、海に変わりはない。
変わるのは、人の心である。
海を憎んだところで、何一つ変わらない。
変わらなければならないのは、自分なのである。

不動心

不垢不浄
ふくふじょう

この世に貴賤の別はなく。
肛門だから卑しく、頭だから尊いと言う分別は、本来ない。
分別は、自分の意識が生み出す事だ。

何が罪で、何が穢れか。
何を汚いとし、醜いとするのか。
それは自分の意識のなせる業である。
故に相対的。
それ以上に大切なのは、自分の本性である。

人の肉体は絶え間なく変化している。
それを、成長と言えるかどうか。
肉体が成長しているのは一時、ピークを越えるとと、衰え始める。老いる。
そして、やがて、死を迎える。
自分の思い通りにはならない。
しかし、自分は自分であり、誰も変わる事はできない。
他人を羨んだりしても、若さに嫉妬しても意味がない。
自分は自分である。そして、自分の実体は空。
所詮、人間の肉体も借り物に過ぎない。
死ねば、お返しする事になる。
死ねばすべてを失う。つまりは空。
地位も、名誉も、財産も、名声も、そして、肉体も、総てを、創造主にお返ししなければならない。
空。

肉体は、自然の法則に従っている。
肉体を動かすのは、魂であり、人の意志である。
肉体は、魂がなければ物である。
魂のない肉体は、屍に過ぎない。朽ち果てるだけである。
魂とか、命とか、霊とか、精神とか、心とか、気なんて非科学的という人がいるが、魂がなければ、肉体を維持できないのは疑いようのない事実である。

刀は、武士の魂というのなら、武士がいなくなったら、魂なんて虚しい。
武士がいなくなったら刀は何になる。
ただの飾りか、工芸品、装身具。
包丁は、料理に使えるけれど、刀は無用の長物に成り下る。
そうなると、金儲けしか残らない。
この国から武士がいなくなれば、刀は、単なる商品、金儲けの道具。
目的も、相手も選ばずただ売れさえすれば良くなる。

武士というのは、生き様、武士道を言うので、ただ外見を言うのではない。
武士は、内面を磨かずに外見ばかり飾る人間を軽蔑した。
日本人は、清潔、清浄を求めたのに、今の日本人は汚い。穢れてしまった。
武士もどきの人はたくさんいるが、真の武士はいなくなった。
見た目ばかり気にして、精神を磨こうとしない。
魂のない刀は、意味がない。空である。

今の日本人は、カジノに遊郭、歓楽街に価値を見出す。
武士の魂なんて妄想の世界でしかない。

日本人の心、魂なんて二束三文の価値しかない。
外人が日本旅行の土産に買っていく。土産物に過ぎないと言うのか。

武士など過去の遺物。
そうなったら、日本刀も骨董の価値しかない。

この国から、本当の武士がいなくなり、日本刀が床の間を飾る価値しか見いだせなくなったら、日本人の魂はそこで尽きる。
武士の志を学ぼうともしても、学べなくなる。
日本人の魂が失せた時、日本は独立と主権を喪い。亡国の時を迎える。
そして、日本の植民地化、隷属化は完成する。
独立を失えば、国としてどうあるべきかが問題ではなくなり。
どの国に隷属するかが問題となるのである。
自分達の権利や義務なんて自分達では決められなくなる。

大切な物は、なくしてから、すぐに、気がつく。
しかし、気がついた時は、既に、遅い。手遅れなんだ。

肉体は、何もしなければ、衰える。
肉体を鍛えるのは自分の意志である。
意志を鍛えるのは、自分の心である。
怠惰な生活は、心身を弱くし、災いを招く。

自分の正しさを守る為には、自分の心身を鍛えるしかない。
自分で自分を律する事ができなければ、自分を堕落させる。

唯物でも、唯心でもない。ただ空である。

不増不減
ふぞうふげん

存在そのものには、本来、前後、左右、上下、増減もない。
前後、左右、上下、増減は、分別に基ずくのであり。
比較対照によって成立するので、比較するものも、対照するものも無分別な空間にはないのだから、前後、左右、上下、増減は成り立たない。

前があって、後がある。
増があって、減がある。
長があって、短がある。
上があって、下がある。
善があって、悪があり。
美があって、醜がある。
真があって、偽がある。

前がなければ、後がなく。
増がなければ、減はなく。
長がなければ、短はない。
上がなければ、下はない。
善がなくば、悪もなく。
美がなければ、醜もない。
真がなければ、偽もない。

その根源は空である。

心を空しくすれば、失う事も、得る事もない。
今、この時、この瞬間の真実だけしかない。

売る者がいれば、同じ量だけ買う者がいる。
貸し手がいれば、同じ量だけ借りる者がいる。
市場取引は、ゼロサム、ゼロ和。
市場取引の総和は零、即ち空である。
零は、空である。
故に、市場は空である。

出し手の支出は、受けての収入。
一つの取引の収支、貸し借りは、総和は均衡して零、空となる。

渡した物の経済的価値と、受け取ったお金の経済的価値は同じ。
故に、取引の経済的価値の総和はゼロに均衡する。即ち、空である。

借方は、実体を表し、貸方は、名目を表す。
貸借の総和は均衡して零、空となる。

貸借と損益はゼロに均衡する。
故に会計、簿記は空である。

お金は、本来、空なのである。

生産された者は消費されて空になる。
労働は、対価を得て空になる。
お金は、同量の財と交換する事で空となる。

市場は空である。

お金は、使わないと役に立たない。しかし、お金は、使えばなくなる。
お金に執着したら、お金の効用、働きを知ることはできない。
人は、お金の為に生きているわけではなく。
生きるためにお金を必要としているだけだ。
お金は、生きていく為に必要な物と交換する事が、本来の働き、効用なのである。
根本は生活するための道具。

ゼロは空。
零は均衡を意味する。
均衡は、空。

閉じた空間においては、エネルギーは不変である。
閉じた空間の中では、止まっている物体は、止まり続け、動いていている物体は、力が加わらない限り同じ運動を続ける。
閉じた空間愛では、エネルギーは保存され、不変である。即ち空である。(慣性の法則)

物体に働く力は、同時に、同量の反対方向の作用が働いている。作用反作用は均衡している。
即ち空である。(作用反作用の法則)

場は空である。

是故空中
ぜこくうちゅう

打者は、考えてボールを打つのではない。
気がついたら、バットがボールを捕らえている。
野手は、計算してボールを捕球するのではない。
無意識の内に、ボールがグラブの中に入っている。

心を空にしなければ、球を打つことも、捕球する事もできない。
心を空にするために、日々練習するのである。
心を空にしてボールに気を集中させる。

たった一本のヒットを打つために何千回、何万回も素振りをするのである。

決めると言う事は、決して断じる事である。
考えて考え抜いた末に、考えを、決して断じる事を決断という。
心を空しくし、考える事を止め、断じるから決められる。
心を空にするために考えるのである。

無色
むしき

この世の事象は、定まることなく、変化し続けている。
だとした、その本性は空である。
空こそ絶対的実相である。
空こそ実体を表し。
実体は空しい。

時が来れば、壊れない物はない。
しかし、今、ここに存在するのも真実である。

時の流れに身を委ね、この時、この場を、無心に受け入れれば。
この世の総ては空となり、実体となる。

実子かどうか争っている話をよく聞く。
結局、男は自分の子かどうかわからないのかもしれない。
しかし、親としての自覚があれば、覚悟して自分の子として育てる。
それが、事実であり。男なのである。
事実は空なのである。

無受想行識
むじゅそうぎょうしき

物や、地位、名誉に、執着するから苦となる。
最初かないものと思えば苦にならない。

自分にできない事を望めば苦となる。
自分が得る事の出来ない事を望めば苦となる。
知りえない事を知ろうとすれば苦となる。
できない事、わからない事、限界を認めないと苦となる。

最初からできない、わからないと諦めるのも苦となる。

苦は業となって、自分に祟る。
望んでも得られない事を悟れば苦とならない。

自分に何ができて、何ができないか。
何がわかっていて、何がわからないのか。
己の限界を見極めた時、生きようもわかる。
それは、素の自分、自分を空しくする事である。

子は生まれる前は、この世に居ない。
しかし、生まれてしまえば、いるのが当たり前になる。

親しい友も、父も、死ねば居なくなる。

在ると言う事は、そういう事。
在り、在りて、在る。

子をなせば、子と別れる事が苦となる。
愛すれば愛するほど、苦しみもまた深くなる。
では、苦を恐れて、子をなさない方がいいか。
それでは生を否定する事になる。

苦もまた、生きる事に他ならない。
辛い思いをするから悟る事もある。

人を愛さず、子をなさないのも苦である。

出会わなければ、幸せにはならない。
出会いがあるから、別れがある、
会うは別れのはじめ。それが定め。宿命。

出会わなければ苦にならないとしても、出会わなければ生きる喜びも得られない。
苦も喜びもまた空である。

ならば、心を空しくして、一切合切を受け入れるのである。

苦の本性を見極め、苦を苦として受け止め呑み込んでしまえば、苦もまた、生きる事に他ならなくなる。
苦の種も、喜びの為の糧となる。

無眼耳鼻舌身意
むげんにびぜっしんい

人は、眼、耳、鼻、舌、身、意を以てこの世界と自分を知る。
目で見て、耳で聞き、鼻で、嗅いで、舌で味わい、手で触れ、意識する事でこの世界と自分を知る。
しかし、その根本に在る、自分も対象も本来は、無分別であり、空である。

目で見るから見えるので、目が見えなければ見えない。
見えないからといって、存在しないわけではない。
見えなければ、どうやって、その物を知るかである。
聞いて見て、味わって見て、嗅いで見る。

見るものと見られるものがあって、見ると言う行為は成立する。
見る存在と見られる存在があって、見ると言う行為は成立する。
見る自分という存在と見られると言う対象の存在があって見ると言う行為は成立する。
見ると言う行為と見られると言う行為は表裏一体の関係にある。
見ると言う行為と見られると言う行為は作用反作用の関係にある。
見ると言う行為と見られると言う行為の相互作用によって分別、意識は構成される。
意識、分別は見ると言う行為と見られると言う行為の結果、生じる。
見る前、見られる前の自分も対象も無分別、即ち、空である。

目は物をを見て視覚を生み。
耳は、声、音を聞いて、聴覚を生み。
鼻は、匂いを嗅いで嗅覚を生み。
舌は、味わって味覚を生み。
身体、手、足は、触れて触覚を生む。
自己は、意識して自覚する。

対象に対する認識は、目、耳、鼻、舌、身、意を根とする。
目、耳、鼻、舌、身、意を、六根という。
目、耳、鼻、舌、身、意を働く以前の状態に戻す。つまり、リセットする。
それを、六根清浄という。
六根を清浄すると、常に、この世は新鮮である。

六根は、六境に、六覚、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、知覚を働かせ、識を生み出す。
六根は、六内処ともいう。

目、耳、鼻、舌、身、意の六根は、働いている時、意志されない。
物を見る時、人は、自分の目を意識しない。
声を聴いている時、耳は意識されない。
臭いを嗅いでいる時、鼻を意識しない。
自覚はしないが、六根が働いていることは確かだ。
六根の働きは、無であり、空である。

老いて、目が悪くなると、人は、目の大切な事、働きを悟る。

大切な物は、なくした時に気がつく。気がついた時は遅い。

行いは、自分にも、世界にも働く。
内への働きは、外への働きといて均衡する。
外への働きは、内への働きとして均衡する。
働きの総和は零である。

六根が捉える対象が六境。
六根が六境に六覚を働かせ六識が生じる。
六境は、六外処ともいう。

物を食べた時、美味しいとか、不味いと感じる。
しかし、不味いと感じるのは舌が根本なのか、食べた物が根本なのか。
根本は、舌と物にある。

苦の原因は、自分にあるのか、世界にあるのか。

無色声香味触法
むしきしょうこうみそくほう

何が美味しくて、何が拙いかは、味あわなければわからない。
舌で、味わえば、甘味、塩味、酸味、苦味、旨味を五味という。
五味のほかに辛味や渋味もある。
いずれも味は味だが、何が美味しいかどうかは、その人その人と違う。
その違いが分別となる。分別は、対象と自分との相互作用によって形成される。

美味しいと言う事は絶対的な事ではなく、相対的である。

絶対的に美味しいと言う物はない。無である。

美味しいか、不味いかは、味わってみなければわからない。
食べていないのに、好き嫌いはないはずなのに、食わず嫌いな人がいる。
食べ物の好き嫌いは、一人ひとり違う。普遍的な事ではない。
子供の頃、嫌いだった物が好きになる事もある。
人の好物は、不可思議である。

味は、味わう人と味わう料理の二つが存在しなければ、成り立たない。
人だけでも、料理だけでも成り立たない。
人だけでも、料理だけでも、空である。
自分の味覚と料理の味が合わさって、好きか嫌いかが、はじめて明らかになる。

苦いと感じる自分の舌と苦いと感じさせる物。
どちらも一定ではない。
どちらが、苦いと感じさせたかではなく。
合わさって苦いと感じさせる。
苦いとはそう言う事だ。

要は、食べてその料理を自分が好きか嫌いか、食べられるか食べられないかを知る。
自分と、料理を知る。それが分別である。
食べる前には好きも嫌いもない。
在るのは思い込みである。

誰が食べても絶対的に美味しいと言う物はないし、美味しいか美味しくないかの基準は、人それぞれ違う。文化や、宗教、環境によっても違ってくる。
要は、突き詰めてみれば、何が美味しくて、何が、美味しくないかの基準はない。つまり、空である。
俺は、食通だとか、グルメと称しても空しい事である。
その空しさを知り、前提として、美味し処を紹介するなら、それはそれで意義があるのだろうが、ある種の権威みたいになって既得権が生じたら、滑稽であり、愚かな事である。
美味しい物は、自分が食べてみて、美味しと感じたらそれでいいのである。
美味しい物は美味しのである。美味しい物が美味しいのである。

拙い物を食べさせられるのは苦である。
逆に、一度、美味しいものを知ると、美味しものが食べられない事が苦となる。
食い物の恨みは恐ろしいと言うぐらい、食にこだわるとあさましくなる。

しかし、美味しいものを知らなければ苦にならない。

それよりも、もっと、苦になるのは飢餓である。
飢えを知ると、飢えは苦となる。

同じ指示なのに、受ける人間によってまったく違った事になる。
その人が置かれている立場、環境、条件によっても違うし。
その人の性格、経験、知識、能力によっても違う。
同じ指示だから、一律に伝わると思っていたら、真実は伝わらない。
人それぞれ受け取り方は違うのである。

物事の本質は、空なのである。
六根を空にしなければ、真実は伝わらない
相手によって伝わり方は、違うのである。
心を空しくして相手を観よ。

無眼界
むげんかい

乃至無意識界
ないしむいしきかい

頭の中で思い描いているだけでは、虚しい。空である。
どんなに豪華な料理も、実際に、調理し、食べてみなければ、味はわからない。
絵にかいた餅に過ぎない。
頭で理想的な人を追い求めても、現実に人を愛せなければ、愛は実現しない。
人は食べなければ生きていけない。
人は霞を食べて生きていけないのである。
生きると言うのは現実である。絵空事ではない。

味を知りたければ、実際に調理をすることである。
調理をすれば、美味いか、拙いか、わかる。
自分の作った料理が不味くても、不味いなりに反省すれば成長する。
拙いと言われて傷つく事を恐れていたら、何も、実現できない。
何も味わえない。
無明である。
生きると言う事は、苦しく、辛い事であるけれど、それが、生きる事である。

真実はその果てにある。そこを極めたところにある。

人は生まれ、人は生き、時には病に倒れ、老い、そして死んでいく。
現実をあるがままに受け止め、受け入れる事から始まる。
夢想、仮想現実の中では人は生きられない。

生きているつもりではなく。
人は、現実世界を生きるているのである。
生身の人間に恋をして、性欲、食欲に身を委ね。
血の滴る肉を食い。たとえ、菜食主義と言ったところで、生物を食べているには相違ない。
過去の過ちを記憶して、それでも生きていかなければならない。
だから、一切を苦とする。
苦としても、それが生きると言う事で。
だから、忘れろと言うのではなく、空しくしろと。

心を空しくし省みて、過ちなら過ちと受け止め、悔い改め。
そして改めて前を観よ。

真実は、この一瞬にしかなく。
常に、自己の魂は、生まれ変わっている。
この今に、自分の真を尽くすしかない。
今、最善に生きよ。
悔いを残さないために。

ただ一言、未練。
死は一定。

心を空しくし、過去に囚われずに、目の前の世界、現実を直視せよ。
同じ過ちを繰り返さないために。

時間には、実体はなく。ただ、変化と働きとして現れる。
時間に実体がないから、位置や物体にも実体はなくなる。
故に、物象は空となる。

無無明
むむみょう
亦無無明尽

やくむむみょうじん

生まれた時、人は無明であろうか。
そんな事はない。赤子には赤子の見える世界があるので。
無明なのは、自分の心の闇で。
その無明は尽きる事がない。

人は気がつくと生きている。
死ぬまで、人は生きていて死んだ後の事はわからない。

人は、生を知らず、死を悟れない。
ただ、今を生きている。

乃至無老死
ないしむろうし
亦無老死尽
やくむろうしじん

老いは残酷である。
時の流れは、非情。

いくら、医療技術が発達しても、生病老死の四苦から逃れられるわけではない。
未練がましくなる分、苦は深まるのかもしれない。

歳をとると、目は悪くなるし、耳も遠くなり、歯も抜け、体力、気力も衰え、欲も消え失せ、記憶も悪くなる。時は不可逆だ。失った時は取り返せない。

若い頃に戻りたいと思ったところでかなわない事。
気ばかりが若いつもりでも、体が追い付かない。

しかし、老いてこそ人生の苦の意味を悟れるのかもしれない。
欲も愛憎も越えて。
涅槃寂静。

だからこそ、老いて尚と。

吉田松陰は、死に際し、人生には四季があると語った。
六十、七十と寿命を全うした者も。四十、五十の働き盛りで死ぬ者、三十、二十と若くして逝った者も、生まれてすぐに死ぬ者も、人生には四季があると。
生まれた時が春で、夏が来て、やがて秋になり、冬となる。
その時々を愛で、楽しむ気持ちがもてれば、どんな人生も豊かだと。

人の一生は、真に、夢幻(ゆめまぼろし)、空である。

胡蝶の夢よ。邯鄲の夢。

無苦集滅道
むくしゅうめつどう

生きようとしても生きられない。
思うようにならない。
この世は、苦で満ちている。
生きる事は、自分の人生とは、自分の思い通りにならない事を悟る事でもある。(苦諦)
生きる事で尽きぬ欲望が生じ、苦しみは増すばかり。(集諦)
欲を抑える事が出来れば苦しみを軽くする事が出来る。(滅諦)
欲を抑えるためには八つの正しい行いを実践する必要がある。(道諦)

苦から逃れるためには、八つの行いを正しくする事である。
八つの行いとは、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八つを言う。(八正道)

何をもって正道とするか。
自分が正しいとしても、相手が正しいとするとは限らない。
世間が正しいとするかもわからない。
世の中が常に正しいとは限らない。
独善も許されない。

善意、好意で行う事も、悪意ととられる事がある。
自分だけが正しいとする事さえ許されない。
何事にも、相手がいるのである。

よかれと思ってやった事で相手を傷つけてしまう。
犯罪を犯す者は、悪いと自覚して、罪を犯すのか。

あくどい商売で繁昌するものもいれば、真面目に商売して廃る者もいる。
悪逆非道の行いで出世する者もいる、正義を貫いて挫折する者もいる。
善も、悪も、空しい。
自分の行いの正しさは、自分が知る。
疚(やま)しい気持ちを抱いて生きる事は苦である。

戦場で国に殉じる事を潔しとするか。生き延びて、国のために尽くす事を潔しとするか。
それは覚悟の問題。
ただ、一念を捨てれば、言い訳となる。本源は空。心根は、己の内にある。

過去の過ちや悪行の報いを、今、受ける。
今、犯す罪と咎は、未来を暗示する。
後悔、先に立たず。

何もしなければ、失敗も、過ちもしないかもしれない。
傷つく事もない。
ただ、何もしなければ、自分の思いは空しく実現する事はない。
何も、しなければ、傷つく事はないかもしれない。
しかし、それは、自分に正直な事だろうか。
嘘は、自分をも欺く。

浮気をすれば嫉妬、猜疑、怨恨等、苦の種を自分で蒔く。
わかっているのに、自分に負ける。
人は煩悩の塊。
すぐに誘惑に負ける。自分に負けると災難を自分で引き寄せてしまう。

一度、嘘をついたり、自分のミスを誤魔化すと、ついた嘘やごまかした事が原因となり結果が生じる。
その結果を誤魔化したり、いい訳をしたり、嘘を重ねる。
嘘や誤魔化し、言い訳は連鎖しカサブタのように素の自分を覆い隠す。
嘘、偽り、言い訳、誤魔化しで固められた、人生になってしまう。
カサブタが厚く覆うようになると、カサブタは殻となって自分と外の世界を遮断する。
自分と外の世界が遮断されれば素の自分を知るすべがなくなる。
また、厚く覆われたカサブタによって覆われた、素の自分は鍛えられる事もなく、傷つきやすく脆いままである。
素の自分は、空である。
自分を飾らず、虚勢をはらず、自分に正直に、素の自分を出していけば、自分に正直な生き方ができる。
素の自分を生かす事ができる。
本当の強さの源は、素の自分、空な自分にある。

未熟なら、未熟でいいではないか。
出来なければ出来ないでいいではないか。
知らなければ、知らないでいいではないか。
素の自分の実力を知れば、努力のしようがある。
自分を偽っている限り、自分を正す事も、成長させることも、他の人と一緒に仕事をすることもできない。
それこそが、苦の正体。苦の正体は自分にある。

今、正しいとしたことが、明日は、間違っているとされるかもしれない。
十歳で許されない事も、二十歳になれば許される事もある。
日本で許されても、中国やアメリカでは許されない事もある。
善も悪も絶対ではない。
所詮、空である。

平和で穏やか、美しい日々も、一度、戦場となれば一変する。

今、ロシアはウクライナに進軍している。
かつて、日本は、大陸に進出し、
スターリンや毛沢東は、幾千万という同胞を殺し。
アレキザンダー、チンギス・ハーン、ナポレオン。
近くは、ヒトラーが、世界を制覇しようという野望を持ち。
また、アメリカは、自由を守るためと核兵器を開発した。

どの国も、国家存亡をかけて戦い。
いずれも、正義、大義を旗印に。
その陰で、人類は滅亡を怖れる事態を招いている。

大義は、勝者にあり。
敗者は、勝者の憐憫に縋るだけ。
勝者は、驕り。敗者は阿る。
戦争の大義は、所詮、空。

科学の発展は、人類に、神の力を与えはしたかもしれないが、神の心まで与えはしない。
人間の未来は、真に、空である。

偏りのない、透明な目で現実を直視し。
無心に、人の意見を聞いて。
平常心で、判断し、その時、正しいと思った事を、正直に行い。
謙虚に、反省し。
過ちに気がついたら、悔い改める。
虚心に。

自分の行いを通じて己(おのれ)の善を悟る。
自分の行いに対しては、いいにせよ、悪いにせよ、反応がある。
自分の行いを是とする者と非とする者が現れる。
素直に人々との交流や結果から学び自分の善と悪とを学ぶ。

打てば響く。その響きを聞いて良し悪しを決める。

食べてみないと美味いか拙いかわからない。
好きか嫌いかもわからない。
その料理を自分で食べる事でその料理が、自分にとって美味しか、美味しくないか悟る。
他人が食べても、自分とって美味しいかどうかはわからない。
好きか嫌いかは自分にしかわからない。
美味いか、不味いかは、あなたの舌と料理によって定まる。
善悪も同じ。

人は、自らの価値観によって裁かれる。
憎しみを是とすれば憎しに。
法を是とすれば法によって裁かれる。
故に、善悪は空。好き嫌いも空。

あなたは、常に、あなたを見ている。
あなたは、常に、あなたに見られている。

物を買うと言う事は。売る相手があって成り立つ。
買えば値がつく。値は需要と供給によって決まる。

心を空っぽにすれば、苦・集・滅・道も意味がなくなる。

何を、正しいとし。何を間違っているとするかは、分別に他ならない。
善と言っても、自己善に過ぎない。

その一瞬、一瞬に自分の誠を尽くす以外にない。
そのために、日々、精進し、学んでいる。

決断は飛躍であり、考えたらできない。
第一感、直観を研ぎ澄まし。
その一瞬、一瞬に、迷いを捨て、その時その時、最善を尽くす。
それが生きるという事。
考えて考えて、考え抜いて、決断する時はすべてを捨て、無心に決める。
平常心。

この世は、思い通りにならない事ばかりだ。
思い通りにいかない事に囚われていたら、苦から逃れる事はできない。

無智亦無得
むちやくむとく

始まりは、無明、何も分別がつかない。
行いによって認識し、実体に名をつける。
眼耳鼻舌身意識によって識別をし、触れる事によって感受し、感情が生じて、執着心が出来て、生きていることを実感し、生活する。そして、老いと死を悟る。

名をつけると、名は、実体とは違う働きをするようになる。
時には、名は、実体以上の働きをして、実体を支配するようにすらなる。

いくつかの物があり。
その物に、一と名付け。二と名付け。三と名付ける。
やがて、一は、物から離れ、一として独自の働きをするようになる。

名をつける前の物自体には、一もなく、二もない。
空である。

数は、実体から離れて数独自の働きをする。
数は、数独自の体系を持つ。

全一なる存在と唯一の存在。

一には、二つの意味がある。
己(こ、個)としての一と全体としての一である。
この二つの一が認識の始まりとなる。
己としての一は、自己の一である。
自分の命は一つである。自分の肉体も一である。
自分は、唯一で絶対的な存在である。
自分の人生も一つである。

全体としての一は、存在の一である。
対象の一である。
唯一無二。唯一の存在として一である。
世界全体としての一である。
そして、唯一絶対なる神の一である。

全体としての一と自己の一は、本来、存在するものとして一体である。
そして、全てはこの存在者としての一から始まる。
そこから、全一なる一から、自己が個としての一を識別する。
その時、全体から部分が生じ、一が二を生む。二が三となる。
この一の持つ二つの意味が二を生み出す。

一が二となるのである。
そして、二が三となる。
唯一無二なる一に対して個となる一が対峙した時、二を生み出す一が生じる。
それが単位である。
二から先は意識が生み出す。
それが分別の始まりである。

全一なる存在は、全知全能なる存在である。
全知全能は、一となる。
全知は、絶対値で絶対値は無分別である。
全てを知ることは何も知らないことと同じである。
全知を極めれば無に転じる。
一は無に通じる。
無はゼロである。
零は、空(空間)である。

ゼロは、無であり、虚であり、空(空間)である。
全ては、存在であり、無限である。
個としての一は、自己によって生じ、自己は一である。
自己は、対象に投影されて単位となり、対象は、単位を切り取られて一となる。
単位は、自己に反映されて二を生む。
二は、自己に還元されて三となる。
神は、ゼロであり、全てであり、無限である。
意識は、ゼロと一と無限の間に生じる。
自己と全体、自己と対象とは一対一の関係にある。
自己と全体が統一されて絶対的存在となる。
それが全ての認識の前提である。

関数の変数は空である。
単位集合、空集合は、空である。
十進数、二進数、六進数、十六進数など、数は相対的で絶対的定めはない、数は空である。

お金は、名目的価値で、貨幣価値が指し示す実体、対象(商品)と交換する事で機能を発揮する。お金単独では効用を発揮する事はできない。
お金は、対象の経済的価値を指し示す尺度である。
お金は情報である。
お金は交換によって効用を発揮する。お金そのものは空である。
お金とお金が指し示す対象は等価であり均衡している。つまりゼロであり空である。
お金そのもは使用価値はない、空である。
お金の本性は値、数値である。お金の価値に物的実体はない。故に、記号や信号に置き換える事が出来る。
お金は、象徴、シンボルである。
お金は、空しい。

老いと死を知ったところで、何かが、変わるわけではない。
ただ、少しは賢くなる。
老いと死を悟るのは、それが、逃れられない定めである事を自覚する事に過ぎない。

死を知るから、生きる事の意義を求める。
何かを残そうとする。
その時、生きる目的を模索するようになる。
死を知らなければ、生きる事は無意味である。
無意味でいいのである。
生き甲斐は、死に甲斐である。
自分の死を自覚するからこそ、自分以外の事の役に、立ちたいと思うようになるのである。
死は生を悟らせる契機となる。
老いによって若さの意味を知る。
老いと死は、時の大切さを思い知らさせる。

もう若くはない。
失った時は、取り返せない。

過去こそ不確かな記憶でしかない。

人はいつまでも若さを保つことはできない。
若い時は、つかの間である。
若さは取り戻せない。
若い時に時を無駄にして、老いて悔いても時を取り返す事はできない。
老いを知り、死を知るから、人は時を大切にする。
時を大切にすれば、人は向上する。

時は、非情、時は無常。
時の正体は空。
時は、捉えどころがない。
時は流れる。絶え間なく。
時は流れる。
普遍は、一瞬にしかない。
万物は流転する。
時は、止まる事を知らず、不可逆である。
運動は、時間の関数である。

いのち短し、恋せよ少女(おとめ)
朱き唇、褪せぬ間に。
熱き血潮の冷えぬ間に。
明日の月日のないものを。
いのち短し恋せよ少女。
黒髪の色、褪せぬ間に
心のほのお消えぬ間に
今日はふたたび来ぬものを(中山晋平)

時は苦の源であろうか。
時の流れを静かに受け入れれば、老いもまた楽しい。
人生の四季を楽しめばいい。
冬は冬で楽しみ方がある。
時を知る事である。

以無所得故
いむしょとくこ

聖人といわれる人も、大統領だって、書記長だって、大僧正だって、帝王、皇帝、天皇だって、大富豪だって、大学者だって、独裁者だって、貧者だって、食べなければ生きて言えないし、糞尿もする。
寝ないで生きる事はできないし。
不老不死にもなれない。
この世の総てを支配しているような独裁者でも、庭に遊ぶ小雀の心さえ支配する事はできない。

聖者も、大統領も、大富豪も、皇帝も、独裁者も、裸にすればただの人。
人間と言う一皮むけば動物。
食って、寝って、糞をする。犬猫、猿と変わりないのである。

真の奇蹟は、大地が割れたり、死人が生き返ったり、昼夜が入れ替わるような事ではない。
同じように一日が始まり、同じように生活をし、同じように一日を終わる事で。
決まった時に日が昇り、決まった時に日は沈む。
平穏無事に生活を送れる事こそ真の奇蹟である。感謝。

本来この世は空なのである。

最初からできもしない事を企むから、苦しいのだ。
科学がどんなに進んだとしても、存在の本質を明らかにすることはできない。
もともと、相対的な事を前提としている。存在自体は、空。

限界を知るから科学たりうるのだ。
科学は、万能ではないし。万能にはなりえない。
全知全能になれない事を悟った者だけが、真の科学者になれる。
人は神にはなれない。

神の力を手に入れても、神の意志を理解しなければ、手に入れた神の力によって滅びるだけだ。
愚か。愚か。

独裁者であろうと、聖人であろうと、トイレでする事に変わりはない。
所詮は人なのである。

菩提薩埵
ぼだいさった

依般若波羅蜜多故
えはんにゃはらみったこ

心無罣礙
しんむけいげ

何のこだわりもなく。わだかまりもなく。妨げも、偏りもなく、囚われもなく、引っかかる事もなく。
無心に物事を観れば、自ずと、物事の実相は見えてくる。

明鏡止水。

心を空しくする、空にするのである。

無心というのは、心をなくせと言うのではない。
心を空にしろというのである。
無邪気、邪気のない心、曇りのない目で観よ。

自分が正しいと思た事を主張する。
それに賛成する者もいれば、反対する者もいる。
その双方の意見を聞いて、自分の中で昇華する。
それが、学問であり、科学である。
双方向で、一方的な事ではない。
学問も、科学も、本は空なのである。
故に、本が空だからこそ、学問も、科学も、相対的でいられるのである。

無罣礙故
むけいげこ
無有恐怖

むうくふ 

人は、知識を得るために、分別を持つ。
分別をするようになると、存在の絶対性は壊れて、相対的になる。
相対的となると、絶対性は失われ、全ては、不完全になる。
知識は、不完全で、相対的である。
赤子は死の意味を知らない。
故に、死を恐れない。
知らぬが仏。

存在が不完全なのではない。知識が不完全なのである。
存在は完全で、絶対である。
それが、物理学の大前提。
知識、学問は、相対的であり、存在の絶対性を超えられない。

空を飛ぶ鳥や地を這う蟻は、生も死も知らない。自分の事も知らない。
それでも、精一杯、今を生きている。
彼らは生きるために、自分にとって何が必要なのかを知っている。

魚は、教わらなくても泳ぐことを知っている。
雛鳥は、羽ばたいて、飛ぶ事を自ら学ぶ。
魚も、雛も無明な世界にいるわけではない。

飼われて餌を与えられていると、働いて自分で食料を調達する術が身につかなくなる。
自分の力で野生の世界を生きていく事が出来なくなる。無明。

猫に小判、豚に真珠と言うけれど。猫は、小判の為に仲間を欺いたり、殺したりはしない。
豚は、真珠のために争ったりはしない。
小判や、真珠の本当の価値を知っているのは人なのか、それとも、猫や豚なのか。

死んだ子猿を離さない母猿がいたと聞いた。
死んだ仲間のそばを離れようとしない野良犬の動画を見た。
命がけで主人を守ろうとする犬がいる。
子牛を守るために獅子に立ち向かう牛に群れがいる。
雛を守るために囮になる母鳥がいる。
母猿の心、野良犬の気持ち、犬の意志、牛の志、母鳥の心を私はわからない。
ただ、畏敬し、畏怖する。

池に石を投げ込むと水面に写った月は乱れて見える。
しかし、それは、池に投げ込んだ石が水面に波を起こしたからで、月そのものに変わりはない。
この世が乱れたとしても、自分そのものに変わりがないとしたら。
変わりがないと自覚するば、怖れる事は何もない。

世の移り変わりに心を奪われるから、物事の実相が観えなくなるのだ。
心を空にし、ただただ、無心に月を観れば、心の乱れも自ずと平らかになる。

遠離一切顛倒夢想
おんりいっさいてんどうむそう

意識が生み出した世界は、所詮、空想なのである。
一切の先入観、偏見から遠ざかり、その物自体を、何にも捕らわれない眼で観れば、この世界の真の姿を知る事が出来るだろう。

バットを振らなければ、誰だって何とでも言える。大打者相手でも。
ボールを投げなければ、誰だって何とでも言える。相手が、大投手でも。
でも、バットを振れば、ボールを投げれば何も言えなくなる。
それが現実であり。現実を知れば傷つくと言うのならば、何も始まらない。

バットを振らなければ、バットにボールは当たらない。
バッターボックスに立ったら、一度もバット振らずに三振するな。
他人の目を気にしたら、バットは振れない。
無心にバットを振れ。振るしかない。
心を空しくして。

生きると言う事は生きることっで。
頭の中で生きているわけではない。
生きなければならないから、働くので。
生きなければならないから、食べるので。
生きなければならないから、寝るので。
生きなければならないから、排便する。
生きるとは、理屈でも観念でもなく。
生きるために、免許も卒業証書もいらない。
犬だって、猫だった、蟻だって生きているのである。

見栄だの、意地だの、劣等感だの、恥ずかしいなどといっていないで。
裸になって、無心に聞いて学べば、真実が見えてくる。
己を、知れ。

初心に帰れ。

いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす

色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず

究竟涅槃
くきょうねはん

人は、生まれて始めてこの世界に接した時、どんな感動を持たのであろうか。
赤子にみる世界には、意味も分別もない。
時がたち多くの知識や経験を積むことで、人は大いなる知恵をもち分別ができる。
多くの経験や知恵を積み重ねる事で科学は発達した。
しかし、それでも生病老死の四苦から逃れられるわけではない。
ならば、生まれたばかりの時に戻り。
赤子の様に、汚れのない、澄んだ目で、無心に世界を観れば、真実の実相が観えてくる。
生きる事の意義、知識や経験の本当の意味を知る事が出来る。

昔、日本は、大きな戦争があり。沖縄では、多くの罪のない人々が、国のために犠牲となった。
東日本大震災の時は、洪水で多くの人が亡くなった。
しかし、今は、沖縄の海も、東北の海も何事もなかったように穏やかだ。

嵐で荒れ狂い、獰猛な牙をむいて人間に襲い掛かる海も、穏やかで、人々の心を癒し、多くの恵みをもたらす海も、同じ海。海に変わりはない。
見る人のおかれている状況、海の姿が違うだけで。
生まれたはじめてこの世界に接した時と同じように、海を観れば。
海は、いろいろな事を教えてくる。

英知というけれど、科学は、本当に、人間の経験や知識を生かしていると言えるだろうか。
沖縄の海を、東北の海を生まれたばかりの赤子の目で見た時、我々に、海は何を教えてくれるのであろうか。

青く澄んだ海、浜辺に打ち寄せる波の音、さわやかな潮風、磯の香、雲間から海原を照らす一筋の日の光。
心をを空しくして、無心に海原を眺めれば、海は、偉大な自然の神秘を垣間見せてくれる。
何ものにもとらわれず、生まれた時の感動に立ち返れれば。心静かに。

生滅滅已。
寂滅為楽。

お釈迦様がなくなる時、人々は驚いた。
悟りを開いた仏陀は、不老不死だと思い込んでいたから。
しかし、お釈迦様は、それが定めと諭された。
例外なく、誰も逃れられない定め。
それが法なのだ。

諸行無常
諸法無我
一切皆苦
涅槃寂静

三世諸仏
さんぜしょぶつ

これまで、どれくらい多くの賢者、知者、予言者、聖人が現れ、人々を教え導いた事か。
それなのに、なぜ、彼らの教えに耳を傾け、守ろうとしないのか。
耳を傾けるどころか、迫害をし、酷い仕打ちで殺害すらしてきた。

教え、導きがないのではない。
ただ、見ていない。見えていないのである。

どれほど、人は過ちを繰り返し。
どれほど、惨禍を招かねば気が済まぬのか。

過ちが苦を招く。人の過ちが苦の本源である。

過ちは、傲慢、嫉妬、執着、独善、妬み、遺恨、劣等感、差別、強欲、憎しみ、遺恨、怨恨、憎悪、見栄、偏見、思い込み、怠慢といった、人間の迷い、心が生み出している事に気がつかないか。

飛ぶ鳥は、無心に空を飛ぶ。
海を泳ぐ魚の心は空だ。

人間以外の動植物は、無心に自然界の掟を守って生きている。
人は、自然の掟を理解しようともせずに、自分勝手に変えようとし、苦しみ足搔いている。
心を澄まして考えてみるがよい。
戦争は、人間が自ら招いた惨禍。
差別は、人間が生み出した苦。
貧富は、人が作り出した苦である。

金の為に殺しあうのは人だけだ。
地位の為に人を欺くのは人だけだ。
名声の得る為に、相手を出し抜こうとするのは、人だけだ。
欲の為に、掟を破るのは人だけだ。
命を自分の快楽の為に弄ぶのは人だけだ。
万物の霊長と他の生物を蔑むのは人だけだ。

心を空しくして世界を観ろ。
そうすれば、真実の実相が観えてくる。

医学がどれほど発達しても、生命の神秘は解き明かす事はできない。
そこは、神の領域だから。
ただ、病を癒し、寿命を延ばしているに過ぎない。
生病老死の四苦は変わらない。

諸悪莫作 諸々の悪をなさず。
衆善奉行 正しいと信じる事を行い。
自浄其意 自らの心を清めよ
是諸仏教 これが諸仏の教え。

悪いと思う事をしないで、正しいと信じる事だけを行っていれば、心は、自ずと穏やかになるさ。
なぜ、必要以上に欲をかき。
なぜ、必要以上のものを欲しがる。
足らざるは貧なり。
足るを知れば豊かになれる。

悔い改めよ。
悔い改めれば赦される。

貪瞋痴の三毒を断て。
貪は、貪欲(とんよく)むさぼり、ものおしみ。
瞋は、瞋恚(しんに)いかり、にくしみ、癡 は、愚癡(ぐち)おろかさ。
貪瞋痴は、心の闇となる。
心の闇を断ち斬り、ただただ、光明に向かえば道は拓ける。

保守だ、革新だ。
右だ、左だと争うけれど。
何をもって、保守とし、何をもって、革新とするのか。
右から見れば真ん中は左だし、左から見れば右。
所詮、思想も、政治も人が作り出した事、相対的で空。
争いも虚しい。
偏りのない透明な目で、自分の先入観、偏見を捨て現実を見よ。
現実は空。

依般若波羅蜜多故
えはんにゃはらみったこ

四十過ぎてからかな、何が、こんなに苦しいんだと悩んだ事があるよ。
それで気がついたんだ、皆が、当たり前にできる事が出来ない事。
わからない事をわからないとし、できない事をできないとする。
特に、基本。
知らない事は、悪い事でも、恥ずかしいことでもないけれど。
知らないと、失敗したり、恥をかく。

転職するとね。
それまでの、知識や経験がすべてリセットされる。
つまり、やり直さなければならない。
それが、辛い、苦になる。

自分より、一回りも二回りも下の子から、業界の人間ならだれでも知っているような事を教わらなければならない。
当たり前な事、基本的な事だから、尚、辛い。

ラーメン屋には、ラーメン屋の基本があるように、ガス屋にはガス屋の基本がある。
データ分析なんてかっこよく聞こえるけど、基本は基本。
球拾いから始めないと覚えない。
仕度や後始末ができないと、仕事の基本は身につかない。
メモの付け方、注文の取り方がわからないと仕事は始まらない。
ガスの高度の技術を言っているわけではない。
学校出たての子でもできる基本なんだよ。
基本だから、学ばなければ始まらない。

それに気が付いいたのは、三十すぎてかな。
自分が会計のこと勉強していて、全然わからないで。
報告式と勘定式という言葉が出てきて、それすらわからなくて、それで、三級簿記の演習問題を五年くらいかな毎日一時間くらい説き続けて、それでやっとわかるようになった。
でも基本は怠るとすぐに忘れる。だから、また、勉強しなければ。
僕は、大学で、物理、学んだ。
恥ずかしいが、数学がわからなくなると、小学校の教科書を引っ張り出して勉強する。
考えてみれば、一番勉強になるのは小学校の教科書かもしれない。

歳を取ると分別がついて物解りがよくなるかというと、そうでもない。
歳を取ると、かえって頑固になり、頑な、頑迷になる。
歳を取れば取るほど、基本を学ぶのがつらくなる。
屈辱的になる。それで基本から学べなくなる。

なにが、自分を苦しめるのか、それは、難しい事ではなく、当たり前にできなければならない事が、当たり前にできない事だ。基本。イロハである。だから、頑固にもなる。
基本が学べなくなったら、始める以前に頓挫してしまう。

字が読めなければ、本から学べない。
英語がわからなければ、英語の本は読むこともできない。
たとえそれが真理だとしても、英語で書かれていては、英語がわからない者にとっては空しい。 
しかし、考えてみれば、英語圏に行けば五、六歳の子供でも英語は使いこなしている。

字を読むのは学問の基本である。
しかし、字の読めない者は、字が読めない事を認めようとしない。隠そうとする。
出来なことを認めようとしないから、年々歳々、基本を学ぶのが苦になる。
それで基本が学べず、新しい事に挑む気力がなくなる。

基本を学ぶ時はなりふり構っていては駄目。
恥も外聞もかなぐり捨てられなければ。
なぜなら、できて当たり前な事が出来ないのだから。

新人の時は、自分も周りの人も何も知らない、わからない、できないと思っているから。
でも年をとるとこんなこともできないのと。
だから、自分との戦いでしかない。
そうしないといつまでたっても、入り口にも立てないよ。

自分は他人から学ぶの下手だなと思った。今でも。
基本を学ぶ事に屈辱を感じている限り、入口にも立てない。

基本は、教えるのも学ぶのも難しい。
なぜなら、できる者は、できて当たり前だし。
できない者は、できないことが屈辱的だからである。
剣道の、基本というのは、道着の着方、礼の仕方、姿勢の取り方、竹刀の持ち方、気合のかけ方。
野球では、ボールの投げ方、バットの振り方。
そんな何でもない事が、歳を取ればとるほど、できない事、わからない事を認めて、自分の子供のような人から教わるのは辛い。苦だ。
基本を七十を越えた者が、十代の子に教わるのは、辛い、恥ずかしい、屈辱である。
でも、コンビニでバイトをしようとしたら学ばなければ働けない。

初心さ。初心、忘れるべからず。
初心とは、無、つまり空なんだよ。心が。

相手の問題ではなく、自分の問題である。だから、どこまでもついて回る。
自分の影に怯えているだけさ。
自分を空にできれば、いつだって、誰からだって学ぶ事が出来る。
苦を喜びに変えられる。

得阿耨多羅三藐三菩提
とくあのくたらさんみゃくさんぼだい

故知般若波羅蜜多
こちはんにゃはらみったー

是大神呪
ぜだいじんしゅ
是大明呪
ぜだいみょうしゅ
是無上呪
ぜむじょうしゅ
是無等等呪

ぜむとうどうしゅ

能除一切苦
のうじょいっさいく

人は、自分の過ちを、認め、受け入れる事が難しい。
しかしそれは、救いようのない苦となる。
自らの過ちを受け入れ、悔い改めない限り、救いようがない。
苦を取り除く事はできない。

他人の過ちを赦すのは、難しい。
しかし、それ以上に難しいのは、自分を許す事だ。
他人の罪を許せないのではなく、自分が許せないのだ。
だから、他人の性にして自分の罪から逃れようとする。
それが、自分の心の闇、苦の淵源を深くする。

自分で自分を許すのは難しい。
自分を許すためには、自分の過ちや罪を認めなければならないからだ。
謝れば済むいうのではない。
自分の過ちを認め、悔い改めなければ自分を許す事にはならない。
それが辛い。苦しい。
自分の心を空しくし、自分の行いを省みないと、自分を許す事にはならない。
相手が信じられないのではない。自分が信じられないのだ。

分別に囚われず、心を空にし、過ちを過ちとして、認め、受け入れ、悔い改めた時、人は許され、苦から解放される。ただただ、無心、自分の行いを日々反省し続ける事である。
それが学びである。
学ぶ事によって人は苦しみを取り除く。
それが学ぶと言う事である。
生きることそのものが修業みたいな事なのかもしれない。

事上磨錬。

真実不虚
しんじつふこ

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。
だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる.(マタイ)

思い煩う事はない。
空を飛ぶ鳥は、自然の法、掟に従って生きている。
彼らが、何を学び、何う信じて生きているかは、わからない。
彼らなりの分別であろう。
だが、お金がないと悩んでいるわけではない。
その時そのとき、全力を尽くして、与えられた恵みを受け入れ、あるがままに生きているだけである。

今を生きる。
心を空しくして、偏見、先入観、地位や名誉、強欲、思惑、怨恨に囚われず。
過ち、間違いに気がついたら、素直、正直に認め、懺悔して悔い改める。
思い煩う事で解決できるなら、思い煩えばいい。
思い煩っても解決できないなら、思い煩う事はない。
心を空にし、澄んだ目で現実を直視、透徹した考えで未来を見通し、決して断じる。

無心にボールを打つ。

そうすれば、心気力体が一つとなり三昧となる。

故説般若波羅蜜多呪
こせつはんにゃはらみったしゅ

おのが行いを通じて己(おのれ)の善を悟る。

行いは、自分にも、世界にも働く。
自分の行いが世間を変え、世間の働きが自分を変える。
善は、自分の行いと世間の反応によって成就する。
人々が正しい行いをすれば社会の正しくなり。
人々が悪を為せば世の中も悪くなる。
自分が世の中をよくし、世の中が自分を正す。

内への働きは、外への働きといて均衡する。
外への働きは、内への働きとして均衡する。
働きの総和は零である。

その時、自分が正しいと信じることを行わなければ、正義は行われない。
先ず、自分が何を正しいとするかである。
自分がなければ善もない。
自分が正しいと行っても、世間はそれを正しいとするとは限らない。
しかし、世間が正しいとすることばかりに迎合していたら、自分が何を正しいとするかを悟ることはできない。さりとて、自分が絶対に正しいとも言い切れない。
心を空にして、その時そのとき、正しいと信じたことを行うしかない。
自分が相手を好きだとしても、相手が自分を好きになってくれるとは限らない。
しかし、その時、確かなのは、自分が相手が好きだという事、ならば、相手が自分を好きになってくれるよう努めるしかない。相手に、強要しても逆効果になるだけ。
この世は、自分だけでも、世間だけで成り立っているわけではない。
自分の行いが、自分も、世間も、変えていく。
だから、自分も、世間も、本は空なのである。

即説呪曰
そくせつしゅわつ

始まりは、空であり。至れば、終わりも空に戻る。
ただただ、虚空。

釈迦は、瞑想から目覚め。称賛された。

羯諦羯諦
ぎゃていぎゃてい

波羅羯諦
はらぎゃてい
波羅僧羯諦
はらそうぎゃてい
菩提薩婆訶
ぼじそわか

達した。達した。超越した。乗り越えた。
悟りを開きし者よ解脱せる者よ。覚醒せる者よ。
自在にすべてを見通せる者よ。

般若心経
はんにゃしんぎょう