組織では、服従と自律と相矛盾した事が同時に求められる。
なぜなら、組織を構成する一人ひとりは、メンバーであり、人だからである。
例えば、代表的な組織である軍隊では、戦場で軍人は、統制のとれた行動が求められると、同時に、自律した判断も求められる。
どちらか、一方に偏る事なく、均衡の取れた行動が求められる。故に、統制と自主この均衡は、組織の永遠のテーマである。
組織には、共通の規範、規律があり。人は人として、一己の人間としての価値観、道徳、倫理がある。
戦後の日本は、安直に、服従を切り捨てる事で、整合性を保とうとしてきた。
そのために、社会性や集団活動、チームワークが犠牲にされてきたのである。
義務と権限は、全体から、権利と責任は個人を根源としている。
しかし、義務と権利、権限と責任は一体であり、作用反作用の関係にある。
全体はメンバーに、メンバーは、全体に忠誠を尽くさなければならない。
無条件な服従は、隷属、隷従であり、無条件な自律は、無軌道、無規律である。
服従か、自律か、どちらが正しかではなく。
均衡と調和の問題である。
権利は義務を伴い。義務は権利の根拠となる。
責任があるから権限が生じ。権限は責任によって保証される。
立法権があるから、法にしたが義務がある。
納税するから参政権が保証される。
納税は、義務でもあり、権利でもある。
教育を受けるのは権利である。故に、教育は義務なのである。
教育は義務だから、権利でもある。
働くけば、報酬を受ける権利がある。
働かせれば、報酬を支払う義務が生じる。
労働は、権利であり。労働は義務である。
責任を持たせるのならば、権限を与えなければならない。
権限の根拠は責任にある。
責任を持つから権限は有効なのである。
権限には、責任が伴う。
責任は権限を保障し、権限は責任を担保する。
権限と責任は、表裏一体。
義務と権利も、表裏一体。
スポーツのルールは、規律と自律を両立させる目的で考案された。
ルールがあるから選手は、自由に、試合ができる。
ルールは、平等を実現する。
ルールを理解していない、自分のものにしていない者にとっては、ルールは不自由に感じる。
しかし、ルールがなければ、闘争になる。
スポーツは、ルールがあるから競技となり、闘争でなくなる。
無軌道な暴力や理不尽な服従から選手を守る。
そして、スポーツは、家柄だの、学力の囚われず、実力だけで平等に評価する。
法があるから、国民は、自由で平等な生活が営まれる。
法がなければ、理不尽な暴力によって支配され、無軌道な行動を防げない。
服従か、自律かではなく。
服従と自律を均衡させるための仕組みをいかに構築するかが鍵なのである。
法に違反しなければ何をやっても許されるのか。
道徳が失われても法は正常に機能するのか。
法は社会の規範。
道徳は個人の規範。
法と道徳の整合性を取る事が肝心。
日本人は、フランス語の Liberté, Égalité, Fraternité «リベルテ、エガリテ、フラテルニテ»)を自由、平等、博愛と訳した。
以後、博愛が自由と平等と並び称された。
それが、民主主義を誤解させる原因となっている。
民主主義国家は強い思想的なつながりを核にして革命によって生み出されたという事を日本人は、理解していない。
フラテルニテは、友愛に近く、兄弟愛、姉妹愛に働く強い信頼の絆や、深い親愛の情を基に、中世のキリスト教世界では、信心会を意味するようになり、フランス革命期には同じ目標や思想を持つ者同士の同志愛を意味するようになる。
フランス革命にせよ、アメリカ独立戦争にせよ、厳しい迫害、弾圧を、強い結束によって勝ち取った。
だから、同志愛が求められたのである。
同志愛がなければ運動を継続する事ができなかった。
単なる、きれいごと、象徴的スローガンではない。
それに対し、博愛はすべての人々を平等に愛する普遍的な愛の在り方を指す。
「フラテルニテはフランス人のみならず外国人も含め、自由と平等の実現と維持のために戦う全ての者を抱擁するという十全な使命を持っていた。」
本来、フラテルニテは、社会・共同体への義務・奉仕を意味するのである。
つまり、自由、平等、民主主義を目的とする同志の対して分け隔てのない同志的団結、同志愛を謳ったものである。
フラテルニテを普遍的愛と解釈したら、民主主義的な憲法は、まったく異質なものになる。
友愛と言うのは民主主義や、自由、平等に対する信仰の様な事である。
そして、服従と自律を調和させる力を意味する。
ロシアのウクライナ侵攻で現在の日本に求められているのは、博愛ではない、友愛である。
博愛として考えるから、頓珍漢な事を言うのである。
日本は、どの国と志を同じくしているのか。
それが問われているのである。