日本人は自意識過剰ではないか。
自意識が強い。
勢い、主体的な考え方に傾く。
客観性が低くなり。
自他の考えが生まれない。
内向的、内省的に陥りやすい。
内向きなんですね。
それに対して、欧米人は自己概念が希薄なんですね。
いろいろ調べたんですが、英語だと、I、my、me、mine。
後は、selfくらい。
それに対し、日本は、自己を表す言葉が異常に多い。
私、我、自ら、吾、己、うち、てまえ、俺、僕、自分、自己、自我、自身。
俺の類語だけでも、おいら、俺っち、俺様、僕、おら、おらあ、おらっち、わい、わて、あて、おいどん、私、あたし、あたくし、あたい、わだす、わし、あっし、わっち、わちき、あちき、me、我、己、自分、自身、自分自身、自己、手前、当方、身共、うち、吾輩、余、麻呂、麿、わらわ、拙者、小生、小子、老生、不肖、それがし、こちとら、吾人、やつがれ、あれ、迂生、迂拙、迂叟、うら、俺共、朕、寡人、我が身。
だからなんでも、自分で片付ける。
自分が悪いと言えば片付く。
それがかえって、自分以外に目を向けさせない。
結局、敗戦も、自分たちが悪かったで片付けようとする。
二度と過ちを繰りかえしませんと。
誰が。
暗黙に自分ですよ。
欧米は、自己概念が希薄だから、自分を外的存在との関係によってとらえようする。
だから、物と物との関係、物と人との関係、人と人との関係によって自己を認識しようとする。
それが、科学の元となり、民主主義を生み、個人主義を確立した。
逆説的ですがね。
一神教徒なら神に普遍的な価値を置いて、それを中心にして、自他の関係を構築します。
だから、神と自己との関係から価値観を構築する。
神が絶対的だから、自分は相対的になれんですね。
自分と神の関係が核となる。二眼レフですね。
しかし、自意識の強い日本人は、自分が絶対的基準になる。
一眼レフになる。
自分が神と同じですね。
究極の自己中ですよ。自分が善ければいい。
要は、日本人の自己概念と欧米人の価値概念は、ピーナッツの裏表の関係になる。
それが、僕は、哲学の盲点だったのではないかと。
日本人は、何でもかんでも自分なんですよ。
気がついていないかもしれませんが、自己概念が強すぎる。
何でも自分・自分。
つまり内向きなんですね。
戦争だって、自分たちが悪かって、納得するんですね。
それで、自分が反省すれば赦されると思い込む。
当然、自虐的になる。自閉的にもなる。
勝手に、自分が反省すれば、誰も攻めてこないと決めつける。
他人や相手が消えてしまうんです。
戦争も自分の問題でしかない。
だけど、それは、日本人以外わからないでしょうね。
なぜなら、戦争は、自分だけの問題ではない。
他の国の人間は、自国と他国の関係から考える。
だから、自分が反省しようとしまいと関係ない。
他国との関係で決まる事。
日本人が自意識が過剰なのではないかと感じたのは、実存主義を勉強している時ですね。
日本人なら、自分の問題だろで片付けられる事をやたらと難しくしているんで。
サルトルも、カミュも、キルケゴールも、ハイデッガーも、自己とは何ぞやですね。
だから、日本人は実存主義が理解できなかったじゃないですかね。
「シーシュポスの神話」なんて典型ですよね。
いつ、何によって、自己を感じるか。
それが、欧米人にとって永遠のテーマだけど。
日本人はいとも簡単に、自分の問題でしょで片付ける。
わらちゃいます。
信仰だって、罪だって、自分の問題でしかない。
だから。お互いに理解ができない。
自己といってしまうと身も蓋もなくなるので、人とか、内的世界なんていいますけど。
それでは、何を言っているのかわからない。
要は、自己意識が欠如しているのです。
自己というのは、間接的認識対象だから。
他者との関係によって認識される。
自分の為、自分の為なんて自分の事ばかり考えていたら、自分を見失ってしまう。
だから、親父たちは、世の為、人の為と、他人との関係を重視した。
恩や縁というと言う人と人の関係も大切にした。
なのに、今は、何でもかんでも自分の為、自分の為と、親も、学校も言うものだから、自分の事がわからない人が増えている。
いくら自分の為といっても、自分の事、自分が何をしたいのかもわからないのだから。
どうしようもない。
ただただ、虚ろになるだけ。
本当の自分が知りたければ、シッカリと自分を見つめ、人と人との絆、結びつきを大切にしなければ。