なぜでしょうね。
所詮、人の一生なんて、自分の世界から一歩も出られない。
それはアメリカ大統領でも、中国の書記長、ロシアの大統領でも。
同じなんです。
母は、戦前、天皇は、黄金のうんこをしていたと思っていたと。
でも所詮、人間は自分の住む世界の中であがいている。
それに気がつくと。一層自分の人生がいとおしくもなる。

最近アランドロンが死にましたが。
彼の人生も、人の一生に変わりはない。
どんなの生きているうちは華やかな人生を置く多っとしてもですね。
所詮、自分の世界の中でしか完結していない。

神というのは、その一切合切を、とり仕切っているのですから。
神の偉大さが身に沁みますね。

人類が滅亡するとかしないとか。
そんな定めもちっぽけなひとりの人間が握っているとしたら。
人間の存在なんてそんなもの(笑)

病気になって四面壁に囲まれた部屋に閉じ込められても。
地震で崩れたビルに閉じ込められても、結局、自分の世界での出来事。
日本で苦しみもだえる者、パレスチナで苦しみもだえる者、恐怖におののく者。
でも、自分が見ているのは自分の世界の出来事。
わらちゃいますよね。
熱でうなされてみる世界も、この世の現実も。
やがては、混然一体となて、夢の世界か、現の世界か。
夢も、現も、所詮は、自分の世界の一部に過ぎないんですね。
その中で、泣いて笑って。

そう思えば、何を恐れ、何におびえる必要があるのか。
自分の志を遂げるしかないじゃないですか。
自分の世界が薄汚れて、あるいは色褪せていく前に。

自分の母は、九十を過ぎて、自分の家の周りを散歩するのも四苦八苦。
世界中を、旅する人も、自分が見えている世界から出られないのだし。
見える世界は限られている。
夜は、粗末な部屋かテントの中。自分が見える世界にとじ込んるしかない。
寝室がいくつもある豪邸に住む人だって、夜、寝る時、自分がいる世界は、一つのベッドか布団の中から見える世界。

人間が神を超えられるかって愚かな事。
人間が神を超えられるわけないでしょ。
人は夜の暗闇におびえて床に就く。

世界を旅する人も、寝たきりの人も、見える世界は限られている。
その限られた世界で、悲劇も、喜劇も演じられる。
映画だって、テレビだって限られた空間を切り取って。

考えてみれば、確かに、人間は平等なので。
平等に世界が与えられていて、そこで垣間見られる世界の中で生きているのに過ぎないのに。
なぜか、人は、自分以外の人は自分の世界から解放されているように思いこむ。
現実は、誰も自分の世界から、飛び出せない。
狭い牢獄いれられているのと変わりない。

だから、自分の世界と向き合うしかない。
自分がこれまで生きてきた世界と。

家族とは何だろうと思ってしまう事がありますね。
家族なんて、いる時は、いるのが当たり前で、親父なども、亡くなる直前まで、母に厄介をかけたのですが、逝ってしまうと。
ただ、最近は、家族なんていてもいなくても同じ。
先日も、伯母がなくなったのですが。
葬式には、身内は誰も来なくて寂しいものでした。
家族が崩壊したと言いますが。
じゃあ、人間とは何かといえば、相も変わらず、血のつながりで、あちこちで戦争して。
でも。今の日本人は、信義でつながるのでもなく、神を信じるのでもなく。
血縁家族すら信じられなくなっているのですから。

今、日本というこの国が、何を絆に、まとめていけばいいのか。

終戦記念日に、八月十五日は何の日か知ってますかと尋ねたら、知らないと結構の人が。
ただ、もっと衝撃的だったのが、1974年のしらけ世代に同じ質問をしている古いフィルムで、彼の知らないと。
あの、しらけ世代の時から始まってるんですよ。自分もまんざらわからないまでもないので。

総理が自分は、総裁選に出馬せず、一兵卒として働くという。
そう言うことなのだろう。
今の日本には、兵卒にしかなれない。

もののあわれですよ。
哀れ、哀れ。
胡蝶の夢。
所詮、一夜の夢。
そう思えば、自己満足と言われようと、ひたすらに、自分を生きていくしかないと。
迷ったところで、所詮、仏の掌のうち(笑)
自分の世界も無辺。