まず、他人事を自分の事にする。
そのうえで、一緒に仕事をするためには、自分の事を自分達の事のする。

予算だ、計画だと言ってもはじめは、参画した人を除いて他人事、当事者もなかなか、自分のものにできない。
それに、全員がお互いの役割、自分の役割を理解していないと一緒に仕事をする上では自分のものにしたとは言い切れない。
また、一緒に、仕事をするためには、自分のものにしただけでは、一緒に仕事にするというのには不十分と言える。
だから、自分のものから自分達のものにする。

その為に、冒頭に、イベント催す。

つまり、方針確認会議の主旨、目的は、会社の来期の方針を、各々、自分のものにするための儀式と言っていい。
それで、しゃてょうは、自分が自ら、全体の方針を説明し、各部門長は、自分の受け持つ部門の方針を説明した上、確認する。また、支店長は、支店の方針目標を宣言し、約束する。これは、全社員に対する誓約であり。契約。
だから、会社にとっては神聖な儀式。場合によっては神かけて誓う。
なぜなら、会社の存亡がかかっているから。

当然、部門長、支店長は、自分のものとしていなければならない。
事前に資料を見ていないと根拠も説明できない。
根拠を示せなければ、社員を納得させることができないから。
根拠とは、神前で結婚する時の誓約のような事。
「俺は、まじめに働いて、お前を幸せにするよ。」神かけて誓えば根協となる。

誓約した事は、確実に実行しなければならない。
会議、打ち合わせたことは、結果に関わらず実行しなければならない。
それは、契約だからである。
だから、欧米では、打ち合わせた結果を文書にしてサインする。これは議事録とは別。
システムの世界では厳格。

確実に実行するためには、支店長は部下を納得させなければならない。
その為には、きちんと根拠を説明できなければならない。
高度成長時代のように、市場が拡大している時は、多少乱暴な事でも通った。
今のように,市場が停滞、縮小をしている時代は別である。
前年よりナンパ-セント上乗せと言っても、根拠が示せなければ納得させることはできない。

少なくとも、根拠となる資料に目を通しておかないと、聞かれても応えられない。
応えられなければ感情的になる。

誓約された事は、確実に実行されなければならない。
確実に実行するためには、やる事を明らかにし、できるに
ところが、システム化された事で、仕事の段取りが大きく変わった。
システム化される以前と何が違うか。

ウォターフォールのように指示を末端まで伝えていく。

打ち合わせの結論は、次までにやっておくこととその報告、それから、次までに調べてくることそれしかないんで。
だから、間が抜けているというので。
答えに詰まったり、手元に資料がなくて答えられない。
下手に言い逃れしたり、確証もなく答えようとしたら粗末が悪い。
言い訳や誤魔化そうとするかは悪いので、わからないことはわからないと正直に言って、次回までにどうするかを言えばいいのに。

何が違うかというと、以前は、資料一つ作るのも、皆で役割分担をして協力していた。
ところが、今は、パソコンを使えば一人でできる。
しかも、パソコンの中身は、ブラックボックスだ。
だから、最初に打ち合わせをする必要がない。
ところが、それが、チームワークや資料を作る意義を喪失させた。
自分で資料や報告書、届け出を書くことに意義があるというのに、その意義が伝わらなくなる。
あって話すことに意味がある事も最近はリモートワークで。

最初に打ち合わせ、そして、途中で報告することで、皆が何を考えどうしたいのかが黙っていても伝わったのだが、今は、いちいち確認しなければ伝わらない。
顔を見ればわかるということがなくなった。

一人でできなければ、最初に打ち合わせ、途中で経過報告をしながら、お互いの考えを調整しなければ仕事ができない仕組みだったが今は、一人で何でもできる。
そうなると誰が何をやっているのかわからなくなる。

頭は、使わなければ馬鹿になる。
頭を使わせなければ馬鹿にする。
頭を使う事を覚えさせないのは馬鹿にしていることだ。

俺は、次世代を担うべき若者に特攻を命じた者が許せない。
全体に健全有意な若者は温存すべきなのだ。
たとえ、わが身を犠牲にしても。