本当に、怒らないな。
最近の若い子は、怒らなくなったな。
怒らないというより。
怒れない。
怒り方が解らないといった方がいいのかも。
すぐにかっとなて癇癪を起すけどね。
でも、かといって怒っているわけではない。
どうやって怒ったらいいかわからなくて。
下手をすると、下を向いって、泣き出してしまう。

怒りと癇癪とは違う。
癇癪というのは、自分に都合が悪い事や解らない事から逃避するために、一時的感情を爆発させること。
要は、逃げだよ。
癇癪を起こしてすべてを投げ出して、逃げ出したら。
それまでの努力が全て台無し、無に帰すからな。
子供だよ。それでは。
自分が、なんのためにこれまで我慢してきたか、意味がなくなるじゃあないか。

俺たちは、泣いたらお終いよって。
意地を見せろ。
男意気を。心意気を。
どうしようもない怒りを込めて。
ここで、引き下がったら男じゃないと。

男は涙をこらえって、今に見てろって、奮起しなければと励まされたものさ。
だから、ぐっとこらえて、我慢して、この野郎って、挑戦の糧としてたけど。
叩かれ、叩かれ、怒れ、怒れと鍛えられたけどね。
悔しかったら、やり抜いてみせろ。
結果を出せって。頭を抑えられぐいぐいと。
悔しい思いをさせられた。

でも今の日本人は、怒らない。
影で、癇癪を起こすばかりで、怒ることができない。
ぶつぶつと裏で愚痴をこぼすけど。泣き言をいうけど。
正面きっては何も言えない。

怒りとは、相手がいる。
怒りは、ぶつける相手がいる。
相手が、大きければ大きいほど闘志がいる。
だから、怒りの力を借りる。
自分の名誉のために戦うのだ。
だったら、怒るしかない。
頭にくる。

一人で、カッカするだけでは、何にもならない。
カッカするだけ惨めになる。
そんなの負け犬の遠吠えよ。
弱い犬は、よく鳴く。

怒りは、怒りの本に向けられなければ、筋違いである。
例えば、自分の未熟や怠慢、ミスで叱られたら、怒りに本は自分で。
怒りは、自分に向けられなけならない。

怒りは、いかに、強力な相手でも、怒りの本に向けなければ、自分が悪となる。

悔しかったら、見返せって。
戦って、戦って、結果を出せ。

だから、先輩たちは、怒れ、怒れって。
反発しろよと。
くってかかれ。
くらいついて来い。
慰めはいらない。
悔しい思いを、エネルギーに。
諦めるなと。
それが大和魂。

やる気を引き出そうと、挑発するけど。
でも、怒らないよな。
哀しいほど怒らない。
食らいついてこない。悲しいほど。

怒るというのは、感情に任せってあたり散らす事いうのではない。
それは、癇癪。
本当に怒っている時は、クールである。
ある意味で醒めている。

怒りを何に対してぶつけるのかが問題だ。
八つ当たりにも、筋違いにもなる。

怒りの対象が、関係のない、自分より弱い者に向けられたら、弱い者苛めになる。
最も、卑劣、卑怯な事である。
正当化はできない。

何に対して腹を立てたか。
子供の頃は、思い通りならないことに、わけもなく腹を立てていた。
でも、子供の頃の怒りは、もっぱら癇癪。

すこし、物心がついてくると自分の道徳に反する事。
相手が誰であろうと嘘をついたり、約束を違えたら腹が立つ。
友達の裏切り。
仲間の身勝手な行動。
それから、馬鹿にされたとか。
侮辱されたり。
名誉を傷つけられたとか。
仲のいい友達がいじめられたとか。
親に注意されるとか。
ルールを守らない。
それに、犯罪、悪だな。
騙すとか、盗む、暴力を振るわれる、脅される。
自分の価値観や道徳に基ずく私憤だな。

それが高じてくると公に対する怒り。
公害、戦争、虐殺、迫害、貧困、差別、政治の腐敗。
つまり、思想だよな。自分の信条、信念に反する事に対する怒り。
思想が関わって義憤になる。
理不尽な理由で自分の権利が侵されること。
自由を抑えられる事。

愛するものを奪われたり、大切なものを壊されたり、自分の生活の領分を侵されれば、自分の命が狙われたら、小動物や小鳥だって命を懸けて戦う。
自分の愛する者、大切な事、領分を攻撃する者は敵である。
敵に対しては、怒りしかない。

怒りは、怒りの本に向けられなければ意味がない。
怒りを怒りの本以外に向けられたら欺瞞である。

たとえ巨大な権力でも、独裁者、暴君、暴力的犯罪勢力であろうと、怒りは怒りの本に向けられなければ義ではない。
不義である。卑劣、卑怯なだけである。

巨大な圧政者、迫害者、弾圧者に向かうから、世の変革が成就する。

世の不正や、理不尽な仕打ちに対する怒りが、世を正し、変革を促してきた。
怒りを忘れたら、世の不正はただせず。悪が横行する。
また、変革は起こらなくなり。
圧政を抑制しようとする者はいなくなる。

理不尽な言いつけに、ただ、従順に従うのは、隷属に過ぎない。
怒りを忘れたら、義を貫く事はできない。

怒る前に、諦めてしまってる気がする。
どうせ俺なんてと。
違うだろう。そこで諦めたらお終いだろう。

諦めるから、抵抗もしない。
ただ言いなりになるだけ。

結果が出る前から降参している。
どうせ、何をやっても変わらない。
厭な思いするだけ損だ。
なんで僕なんですか。
俺一人、何やっても無駄さ。
最初から、投げている。
努力したって無駄。
最初から諦めている。

だけど、それはていのいい言い訳に過ぎない。
自分が傷つくのを怖れているだけだ。
逃げているだけ。

強きを挫き、弱気を助けるから、義憤となる。
自分より弱い者に怒りをぶつけても愚劣なだけさ。
捌け口に過ぎない。
自分より強いものにぶつかっていくからこそ、自分の限界が超えられる。

世の不正に対する怒り、憤りが権力の腐敗や圧政を防ぐのである。
長い物には巻かれよと。
腹も立たなければ、何も変わらない。

怒りを忘れたら不正や圧政を防げない。
怒りを忘れたら、自分の分が立たない。
一寸の虫にも五分の魂。
誇りを失ったら自分が自分でなくなる。人でなしになる。

何が自由だ。
怒りを忘れたら自由になんてなれない。
誇りもなく隷従するしかない。
怒りは自分の存在証明。
誇りを傷つけられたただ戦うのみ。
生き恥を晒せるか。

決断は、感情でする。
決断は、飛躍である。
判断は、理性的に、決断は、感情。
だから、感情を制御することが求められる。

考えたら決められない。
決断とは、考えるのやめる事である。
だから、決断。決して断じるのである。
決断するまで考え抜くことは大切である。
しかし、決断は、感情的にやる。
理性では決断はできない。
第一感力を養う。直観を大切にする。
決断力は、爆発力である。気合である。

怒りは決断の引き金。
決断力の原動力、エネルギー。

雪辱を帰すというが、悔しさは成長の為のばねとなる。

怒る事と叱るのも違うともね、よく注意された。
躾けと虐めも違う。
上に立つ者、指導的立場にある者は、唯、怒るのでは駄目。
怒る事と叱るのとは違う。
怒るのは、私情。
𠮟るのは、相手を導くために。
親は子を叱る。怒っては駄目。
愛情があるから怒りは思いやりになり、叱りへと変わる。
叱りは、教え、指導の手段。

なぜ、仏は、明王は、憤怒の相をもって人々を教え導こうとするのか。
哀れみによって救われるか、怒りによって救われるか。
胸に手を当てて己が罪を考えてみよ。

怒りを忘れたら叱れない。
叱れなければ、過ちを正せない。
感情を制御できなければ、真の導きはできない。

自分の怠慢や過ち、未熟を他人の性にしてはならない。
怒りの本は、自分にあるので、親や師にあるわけではない。
むろん、親も師も絶対ではない。
盲従せよというのではない。
しかし、自分の未熟の原因は、自分であり、特に、自分の怠慢、不勉強、不摂生の依る怒りは、自分に向けなければ、自分の未熟さも克服できないし、成長もできない。
自分の怠慢、不摂生、不勉強の責を師や親に向けるのは愚劣である。
怒りの本を見誤れば、決定的な過ちを犯す。

怒りは、志の源である。

今の日本の大人は、怒りそのものを悪いように教える。
怒りそのものが悪いわけではない。
怒りを制御できないのが、悪いなだ。
怒りの持っていき処どこにするのか。
何によって怒りを抑えるのか。
怒りに底にあるのは何か。
怒りの本源は義である。
怒りを忘れたら正義は実現できなくなる。
怒りを忘れた国民に残された選択肢は隷属以外ない。

誰もやらない事は、自分が何もしない事の言い訳にはならない。
皆が、無責任な事は、自分が無責任であることの口実にはならない。
日本人が怒りを忘れた事は、自分が怒りを忘れる事を意味しない。

何も、知らなっかた。
それが問題なんだ。
自分の知らなかったことで責任を問われる。
そんなことあってはならない。
だから、そうなる前に怒れ。
怒って正すんじゃないか。

我が道を行く。
明日を信じて。
若者を信じて。

怒りを、志に変え。
グッと我慢し。
その場を収める、それが、指導者本来の在り方。
怒りの矛先を間違えたら、私怨、私恨に終わる。

憤怒を秘めて生きる。

確乎不抜 かっこふばつ (k-keiichiro.jp)