生きるのも、死ぬのも切ないし。
死など、自分が病気にでもなって、わが身に降りかからない限り、他人ごとなのです。

風俗に使う金はあっても、他人を救う金はないのが、普通なのです。

冷たい言い方かもしれませんが、死は必ず訪れるのですよ。
問題は、心の準備です。
いくら覚悟はできていると言ったて、いざ、その時になってみないと分かりません。
ハムレットでも、父王が、心の準備もできない内に、突然、その時が訪れと、嘆いてみせた。
自分の死と向き合った時、本当の自分の姿が現れるのだと。

怖いですし、どんなに、わかっているつもりでもね。
平静でいられるか。
それは、その時になってみないと。

それが人間ですよ。
見苦しいと言われても、あさましいと言われても。

誤解しないでくださいね、今、自分がそういう現実を突きつけられていると言うわけではない。
むしろ、現実を突きつけられていないからこそですね、こんなことが言えるので。

他人の子供の死は、自分の子供が転んだくらいにしか感じないものよ。
母が、よく言ってましたが、確かに、それが現実なのだと。

ドストエフスキーが、銃殺の直前に許されたと。
ドストエフスキーのその後の人生に、どんな影響を与えたかは、ドストエフスキー本人でしかわからない。
ただ、その経験があったから、彼の作品があるのも事実です。

今こうしている時も、戦場で、生と死の間を彷徨っている人がいる。

死は、いずれは訪れるのです。
だからこそ、自分に正直になるしかない。

諸行無常
是生滅法
涅槃寂静
寂滅為楽といってもですね。

自分が生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされている時、人類の滅亡とか、国家の存亡が、どれほどの重きを持つか。

現実に直面している時に、夢の話などといいますがね。
現実と直面しているからこそ、夢の話が意味を持つのですよ。

だからこそですよ。
だからこそ。

この世の出来事にどれほどの意味があるのかと。

何を信じて、何を頼るのか。
まさにそれが問われているのです。
是生滅法

僕の話など、どれほどの意味がありますか。
どれほどの救いになりますか。
救いは、自分でしか見だせない。

どれほど、死にそうだと言ったところで、いつもと変わらないように日常は流れているのです。
儚(はかな)い事です。

何を言いても、どうあがいても。
現実には勝てません。
戦争を生き延びた人が、交通事故であっけなく亡くなったり。
寿命もあるし。
うちの父も、見舞いに来た人が先に逝ったと。
今日ピンピンしてた人が突然死したり。

余命宣告された人、事故で死んだ人ばかり同情される。
平凡に死んだ人は、見向きもされない。
でも死に変わりはないのですよ。

死を意識して生きるか、意識せずに生きるか。
ただそれだけの事。
いつ、お迎えが来るかは誰も知らないのです。

それなのに。
人間は弱いものです。

死の影に怯えて自殺したりもする。

何故、恬淡と生きられないのだろうか。

幕末維新で、切腹した殿様は一人もいないと聞きます。
半面、多くの下級武士に若者が切腹して死んだと。

新選組とか、海援隊の近藤長次郎、会津の白虎隊、西郷一族の自決、堺事件での土佐藩士、武市半平太など。

また、忠臣蔵ですね。切腹に始まり、切腹で終わる。これは、外人にとって戦慄でしょうね。

何が日本人を死に駆り立てるか。美学ですかね。潔さ。よく桜に例えられる。

逆に言えば、死ぬ気になれば何でもできると。私に母はよく言います。父は、自殺の話を聞くと勇気あるな、怖くないのかなと。それが戦争で多くの死を見てきた人の実感なんでしょうね。
死は必然。
だから、慌てる事はない。定めは、定めとして、従容として受け入れるいい。
ただ、見苦しい振舞だけはするなと。

人の本性は煩悩なのだと思います。
それは、プーチンでも、習近平でも、それこそ、聖人といわれる人も。
自分は、泰然自若、従容として死をむかえたと言われる人でも。
実際のところは。
それで、日本人は切腹に美学を求めるのでしょうけれど。
山本周五郎の作品に、橋本佐内が、切腹の直前に泣いたと言う作品がありますが。
人は、足搔きますよ。
だから、自分の死を通して見た世界の方が透明感があるのかもしれません。

特攻隊の遺書が心をうつように。

自分の死を正面に見据えた時、自分の生も定まると言う事ですか。
多くの人は、自分の死に無自覚でいる。
それが、後何か月とか、戦争、災害で、いきなり、突き付けられ、周章狼狽する。
修養とは、自分の死を正面に据えて、瞑想する事のような気がします。
雑念を吹っ切って自分と向き合うとは、自分の生と死に向き合う事を意味する。
それがサムライ、大和魂の本質。
人は遅かれ早かれ、死ぬのです。
問題は、自分の死と対峙した時、自分の死を平静に受け入れられるかですね。

それで、私は、神の本性は死神だと思うのです。
死神は、不吉な神ではないですよ。
むしろ、自分の最期を看取ってくれる神。

先の戦争の英霊たちがあって今日の日本がある。
じゃあ、我々の死は、次に時代の日本の礎となれるか。
私は、日大の物理科に入学した時ですね。
物理学者の人生なんて三十台で終わると。
我々は、次の時代の物理学を担う学徒の為に、万骨化るる会を結成しているのだと。
担任に言われたのですね。
だからこそ祖先の祖廟が大切なんです。
御霊ですよ。

大方の死は、予告なしに訪れる。
戦場では、さっきまで談笑していた相手が、目の当たりで死んでいく。
病気であろうと、その時は、突然訪れるのです。
余命を宣告されて言おうと、それは、死は必定という現実を突きつけられたに過ぎない。
それで、生き方が変わるのは、それまで、現実から目を背けていたに過ぎない。
死は、生まれた時から、定められているのです。
聖人であろうと、英雄豪傑であろうと、大統領であろうと、帝王であろうと、強盗であろうと、殺人者であろうと、ペテン師であろうと、狂人であろうと、変態であろうと、変わりない。
だとしたら、死神は、いつでも傍らにいるに相違ない。
ならば、死神を恐れたところで詮方ない。
むしろ死神と仲良くして。
見つめあい、生と死について語らった方が、なんぼか楽しい。

所詮、過ぎ去れば一夜の夢です。
何を、恨み、何に怯え、何に憤り、何を信じるのか。
あるのは、透徹した時間の流れだけです。

行く川の流れは、久しくして。
流れ行く先は…。

また、楽し。

松陰は、百歳の天寿を全うした者にも。
生まれてすぐに死んだ者にも、人の一生には四季があると断じました。
春が来て、夏が過ぎ、秋が来て、やがて、冬になる。
人生の四季を愛でる事ですよ。