経済とは、生きる為の活動である。生活である。
経済の本質が生活だとしたら経済破綻とは生活ができなくなる事を意味する。

経済とは、生活に必要な資源を生産し、あるいは、調達し、必要とする人に必要とする物を必要なだけ、分配するための仕組みをいう。

財の生産、調達、分配を仲介するのがお金。

経済は、生産、分配、消費の三つの場から成り立っている。
生産をになうのは、物の仕組み。分配を担うのは、お金の仕組み。消費を担うのは、人の仕組みからなる。
そして、経済の仕組みは、生産量と資金量、人口の三つの量を生み出す。
経済はこの三つの量を均衡させるように働く。

経済空間は、人、物、金、時間の次元からなる。
市場経済は、支払準備であるお金を生産を通じて分配する。
分配された支払準備を支払って、生産財を市場から手に入れる事で実現する。
つまり分配は、働きに応じて支払準備である資金を所得として組織的に分配する。
分配された所得を使って、財を市場から購入するという二段階によって分配は成立する。

財の生産、調達、分配を仲介するのがお金。
お金は、分配の手段である。
お金の本質は負の資産、即ち、借金で、貸借によってお金は循環する。
お金を動かすのは過不足である。
お金は、循環する事によって財の生産を促し、消費財を家計に供給する。

経済の仕組みを動かすのは、経済主体(家計、政府、企業等)に対する入出金である。
市場に資金を供給し、循環させ、制御する役割を担っているのが金曜機関と政府である。

家計(人)は、労働力や権利を提供する事で所得を得る。
所得とは支払準備のためのお金である。

所得と物価を均衡せるように市場は、機能する。
貨幣価値が不安定になると経済の仕組みを制御できなくなり、市場が機能しなくなる。

注意しなければならないのは、経済に実体は、物と人にあり、お金が形成するのは名目的価値である。
そして、名目的価値である相対的価値、交換価値である。
お金に実体はない。

旱魃や洪水、地震、大雨、台風、飢饉といった天候や、自然災害は、経済に直結していた。
それこそが経済の実態なのである。

一人の人間が消費する食料の量は、そんなに極端に変化するわけではない。
一年で、二倍も、三倍も食べる量が変化するわけではない。
急激に変化するのは、価格、貨幣価値である。

経済の本質は、国民生活が成り立つのに必要なだけの資源を生産、調達し、それを総ての国民一人ひとりに分配するところにある。

国民経済はすべての国民が生活していくために必要な財を生産し、総てに国民が必要とするだけ配分する事である。お金は分配を実現するための手段である。

現代の経済の問題点は、ハイパーインフレ、恐慌、デフレなどの貨幣的現象によって、市場が機能しなくなり、生産、分配、消費と言った実体経済が破綻する事にある。

余剰の資金が資本を形成する。
資本とは、生産手段である。
生産手段には物的資産と金融資産がある。

経済の仕組みを動かしているのは、経済主体に対するお金の出と入り、イン・アウトである。
入金は、出金は表裏の関係にある。
入金と出金が表裏の関係なる事は、入金と出金によって作用反作用のはたきが形成される事を意味する。
市場取引の総和はゼロサムになる。ゼロに均衡している。

総生産と総収入と総支出は一致する。
生産の総和と、収入の総和と、支出の総和は一致する。
支出する者がいれば、受取者がいる。受け取る者がいれば、支払う者がいる。

お金のはたきを考察する時、注意する必要があるのは、物と人の数は有限なのに対し。お金は無限だという事である。

生産にも分配にも、消費にも、質と量がある。

消費にも水準がある。
先ず、総ての国民が生きていく為に必要な資源。この資源量を割り込むと餓死、飢餓などの現象が起こる。
基本的に国家を維持することができなくなる。
国家の独立を維持できる水準。つまり、国防費を賄える水準。この水準を維持できないと国家の独立が維持できなくなる。つまり、国民の基本的権利が守れなくなる。
次に、最低限の国民生活が維持できる水準。
そして、自己実現ができる水準。

そして、消費は、生産と表裏の関係にある。

人口が一定なら、生産量が増えなくても、消費、すなわち、生活は困らない。
ただそれは、現代状況は不変で何も変わらない事を前提としているからである。
つまり、去年も、今年も、来年も条件は変わらない事を前提として成り立つ。
しかし、諸行無常、万物は流転する、はるか昔に、この世の中に、変化しない事はなく、何事も、変化することを前提としなければ生きていけないとされている。

当然、経済も変化を前提として成り立っている。

人は、衰えるのである。
人は、一定の年齢を境に衰えていく。
年をとれば、若い頃と同じことをしようとしてもできなくなる。
老いれば、他人の力を借りなければ生活もできなくなる。

また、経済を取り囲む環境も時々刻々変わっている、寸刻も休むことがない。
去年、売れたから、今年も同じように売れるとは限らない。
去年、豊作、大漁だからと言って、今年も豊作大量になるという保証はどこにもない。

今年、何とかなったから、来年も何とかなるなんて事は期待してはいけない。
未来は、自分たちの力で切り開くのである。
自分達が置かれている環境も、自分の置かれている環境も変化し続けている。

生産や売り上げが一定していないという事は、収入が一定していない事を意味する。
それに対し、生活費は一定している。つまり、支出は固定的なのである。
そこに収支の非対称、不均衡がある。

去年と今年では条件がそれだけで違っている。
その変化に対応、適合できなければ生き残れない。
それが現実。

重要なのは、前提条件の変化、構造的変化である。
典型は、少子高齢化で。
構造的変化は、現象的変化と違って、表面に影響が現れにくい。
問題は、生産労働人口と消費人口(総人口)の比率は、一定ではないと言う事である。

少子高齢化が深化している今日、生産活動に関わる人間が総人口に占める割合が決定的になる。

結局、経済は、生活をするためにはどれくらいの資源が必要か。
必要な資源をどこから、どのように、どの程度調達するか。
そして、調達した資源を、誰に、どの様に配分するかの問題である。

一つの国家を一つの会社に要約すると。
生産は売上、分配は、賃金、消費は、生活費に置き換えられる。
何かというと賃上げ賃上げというが、仮に、売上が一定だとしたら、おいそれとは、賃金は上げられない。
大体、物価が上昇しなければ、賃金を上げなくても、生活は困らない。
企業にとって、賃金水準は、売上と、社員の生活水準によって決まる事である。
賃金だけを取り上げて、上げる、上げないを検討する事はできない。
売上を無視しても、社員の生活を考えなくても、適性な賃金は定める事はできない。

収益は、生産を担い、費用は、分配を担う。所得は、消費を担う。
市場は競争が原理であり、規制を感はし、競争を煽ればいいと思い込んでいる、経済学者がいるが、もともと企業は、資金を調達し、それを分配する事に役割がある。

売上には波があり、費用の多く、特に、人件費は固定的である。
それは、生産と消費の整合性を保つことでもある。
収入には浮き沈みがあるのに対し、日々の支出は、一定している。
収入と支出の不均衡を、金融によって補正し、平準化しているのが企業である。

民間企業には収入の波を整流する働きがある。
費用には支払準備であるお金を安定的に供給することで支出を保証する機能がある。

また、価格には、収益と費用の均衡を保つ働きがあり、その指標が利益である。
価格は収益と費用の均衡が適正に保たれているか、どうかが、問題なのであり。
ただ、安ければいいと言うのは間違った認識である。
むしろ過当競争による、乱売合戦は、市場を荒廃させる。

市場の機能は、適正な価格によって生産と分配、消費の各局面を調整する事で、廉価を追求する事ではない。要は適正な配分をいかに実現するかで、生産と分配、消費の均衡を保つことである。
費用を悪役視するのは間違いで、費用は分配の要であることを忘れてはならない。
適正な費用が維持できなければ分配は成就できない。

これは、経済も同じなのである。

企業が会社を維持するために、どの程度の売り上げを、確保しなければならないかを問題とするように。
国家も、国民生活、国民が生きていく為には、どのような資源、どの程度、必要としているかを、正確に把握する必要がある。

会社が成長しなければ、人件費は、上げられない。
同様に、経済の成長が止まれば、実質的な所得も頭打ちになる。
勘違いしてはならないのは、お金は分配の手段であって、需要と供給の関係によって決まる相対的、交換価値を表象した事である。そして、お金は名目的価値である。

総人口が増えれば、市場は、拡大する。
生産も拡大し、消費も拡大する。

売上は、販売量掛ける単価。
人件費は、社員(生産者)掛ける平均賃金。生活費は、購入量掛ける支払単価。

価格は、需要と供給で決まる。
総所得と総支払は、同じ。

物価(価格)も、所得も、金利も、税金も、為替も、単独では成り立たない。

名目的な価値であるお金の価値の変動に囚われると経済の実態は見えなくなり性具尾する事ができなくなる。なぜなら、人や、物の量は有限なのに対し、お金の量は際限がない、無限だからである。
企業経営でも売り上げは大切であるが、売上の実体は、製品の価値にある。
つまり、経済の実体は、国民生活にある事を忘れてはならない。

現代の国民経済における国民国家の使命は、総ての国民が、最低限の生活、即ち、生存を可能にするための資源を生産、或いは、調達し、生産、調達した資源を総ての国民に行き渡らせる事である。
それを可能にするために必要な支払い準備であるお金を配分する。
基本は、自分が働いて必要なお金を稼ぐ事であるが、自分の力では、お金を稼ぐ事ができない人が多くいる。
かつては、男が代表して働きに出てお金を稼ぐのが原則だった。その為に、女性が経済的に自立する事が不可能だった。

重要なのは、生産労働人口が、総人口に占める比率が低下していることである。
つまり、生産活動に参加出来る人口が減って、養わなければならない人口が増えている事を意味する。
それが、少子高齢化の本質なのである。

太平洋戦争前は、婚姻、親子関係を核とした大家族制度によって分配を担って来たが、戦後は、女性の社会進出、核家族化が進んで、家族に頼るわけにいかなくなり。国家による所得の再配分が深化した。
その結果、個人の税負担が増加し、これからも、増加することが予想される。
このような体制では、働けるうちは働くことが求められる。

国民国家が成立するためには、総ての国民が生存する為に必要な資源を確保する事が絶対要件となる。
自国が、自国内で、総ての国民の生存を維持する為に必要な資源を総て賄える国は少ない。
多くの国は、一部の資源を海外からの輸入に依存している。
かつては、海外から必要な資源を調達できず。
飢饉が周期的に発生していた。

一国の経済は、単独では成り立たなくなっている。
他の国の経済政策や経済状態の影響を常に受けている。

国内でどの程度、国民生活に必要な資源を調達できるかによって経済の在り方は変わってくる。
国家存立の前提が違ってくるからである。

通常は、貿易によって不足している資源を調達するが、それが不可能な時は、武力に訴えた。それが、戦争である。

国民が生存できるために必要な資源を自国内で、生産、調達できなければ、国民は生存の危機に陥る。
中でも、食料と水、エネルギーが不足すると餓死する人が出る。
それは、現代でも変わりはない。

食料と水、エネルギーを自国内で総て調達できるのはアメリカやカナダ、ロシアなど数国である。
ロシアが継戦できるのも、食料とエネルギーを自給できるからである。

それに対して日本は、食料もエネルギーも自給自足できない。
最も、経済封鎖に弱いのである。
この事を理解しておかないとこの国の未来は開けない。

市場経済では、予め、支払い手段であるお金を分配しておく必要がある。
また、お金は使う事で効用を発揮する。使えば手持ちの資金は不足する。
資金の不足を補うために働いて、資金を補充する。この関係、働きが、経済を動かしている。

お金は、一人ひとりの働きに応じて組織的に配分される。
この点が重要なのである。
市場経済は、需要と供給の関係によって無作為に価値が決められているように錯覚している人がいるが、それ以前に、お金を何らかの機関によって組織的に、人為的に決められているのである。

自由主義経済というのは、民間企業、私企業が、お金の分配を担い、現在の社会主義国は国家が、お金の分配を担っている。
ただ、賃金労働に収斂させようという考えにおいては一致している。

経済体制と、政治体制は、必ずしも一帯ではない。
全体主義国でも、自由主義的経済体制を採用している国もあれば、自由主義国でも陽性的経済体制を敷く国もある。

経済体制は、不変的、絶対的ではない。
環境の変化に゙適合し続ける事が求められる。

最後にもう一度、確認しておくが国民経済の本質は、国民の生活を成り立たせることにある。
国民生活が成り立たなくなった時、国民経済は、破綻するので。言い換えると、経済の実体は、人と物の関係にある。
お金の働きは、重要だけれど、お金は手段にすぎない。この点を正しく理解しないとお金が原因で実体経済が破綻してしまう事がある。