最近、きちんと、指示、命令が出せる人がいなくなってきた。
部下からしてみると、明確に指示された方がいいに決まている。
指示する事には責任が伴うから、指示された側は、免責されるし。
余計なこと言わずに簡潔に、指示された方が、やる事が明確になる。
この点でも、責任が明確になる。
担当にすれば、自分がやるべき事がわかればいいのである。
早く言ってよ。
注意すべき、決定できるもの、指揮できるものは、特定されていて、その者が決め、指示しないと、何も決められず、指示できない。言い換えると、なのも決まらず、指示も出ない事になる。
しかも、トップが総ての決定権、指揮権を持っているわけではなく、局面きょくめんで決められる者、指揮できるものは変わる。
打順、守備、選手交代は監督が決められるが、相手チームの選書の守備位置は決められないし、ストライク、ボールの判定は審判が決める。ストライク、ボールの判定は審判にできるかもしれないが、何を投げるかは投手が決める。
客の乗ってきた車をどこに止めるかは、監督には決められない。
総てを監督が決めるのではなく、むしろ監督が決められる事は限られている。
指示ができなければどうなるか。
与えられた使命は、確実に実行されなければならない。
そのためには各自が分担し、自分に与えられた作業をこなさなければならない。
いずれにしても、各自に仕事を振り分け、決められた日までにやらせなければならない。
当たり前に指示しなければできない。
しかし、指示できない人がいる。
指示できない人は往々に、依頼、お願いする。
ただこれは、無責任になる。依願というのは、相手側に主体性が移る。
つまり、自主性や自発性の罠で、決定権を持つものが決定権を行使せず、放棄する以上、それから先はボランティア、無責任になる。
自主性とか、主体性というと聞こえはいいが、ようするに、「自分は責任を持たない」と言っているような事。
後は婉曲的に指示する。
あるいはやらなければならないように追い込む。いやがらせだな。
これも、依願と同じ。無責任で、暗に、自主性、自発性に期待しているだけ。
それでもやらなければ、相手が困るのを待つ。
相手の良心とか、使命感に期待する。
究極は、何もしない。
自分が仕事を一人でして、部下の同情を買う。
これも同じ。
挙句に、時間が解決するなどと言い出す。
何もしなけらば、何も解決しない。
ただ責任を放棄した言い訳に過ぎない。
質が悪いのは、何もしなかったことによる結果に対する責任が次の世代に持ち越されることだ。
要するに、指示命令ができなければ、頼むか相手の憐憫に期待する、縋るしかない。
子供のお勉強みたいなものだが、子供だって明確な目標を明らかにされなければ、勉強なんて強制しない限りやらない。
勉強とは、そういう事だ。
なぜ、指示、命令ができないのか。
それは、学校で指示命令は悪だと教えているからだ。
強制する事は暴力であり、何が何でも悪い。
指示・命令は強制であり悪だ。
まあ三段論法みたいなもので。
ただ、大前提は、強制は悪だという命題だけれど、本当に強制は悪い事だろうか。
強制のない社会はない。法や掟は強制力がなければ成り立たない。
人が集まって、一つの集団を形成すれば、必ず強制力が働く。
この命題の前提に近い事に組織は悪だというのがある。
強制は悪だとするのには理由がある。
大概、強制は悪だとする者には、強制を悪だとする動機がある。
その動機がわからないと、何が、強制は悪なのかの理由がわからず、指示・命令のどこが悪いのかもわからない。
まず第一に、指示、命令にも軍隊的な指示・命令と、一般の組織の指示・命令とは性格が違う事を理解しておかなければならない。
軍隊の指示命令は、一方的であり、異論、反論も許さない指示・命令だという事である。
命令に反論する事は、即、反抗、抵抗としてみなされる。
なぜか。
それは軍の性格に基づく。そもそも、軍の目的は一般社会の倫理に逆らっているから、絶対的な服従を前提としなければならない。
つまり、軍重の目的を実現しようとすると、殺人、窃盗、傷害、欺き、嘘、放火、破壊、暴行等といった、一般社会では悪とされることの限りをしなければならない。
だから絶対的な服従が求められる。
しかし、軍以外の組織は、相互信頼を前提としているから、基本的にモラル、倫理の上に成り立っている。
道徳に反する事を強要する事もなく、むしろ、モラルや常識に基づく行動が求められるので、軍隊的な組織を前提とした指示、命令を引き合いに、強制は悪だというのは、無意味である。
次に、なぜ、指示、命令を悪とするのか、これは、学生運動や労働運動が、不服従運動を基礎としている。
だから、学園紛争や労働運動、その延長線上にある革命運動は不服従から始まる。
これは、相手の指示、命令、決めたことに従うなという事で、最初は髪型、校則みたいな事に対する抵抗から始まった。
しかし、彼らは、指示命令や組織そのものを悪だなんていっていない。
むしろ、指示・命令、組織の重要性を熟知しているから敵対するものの指示・命令・決め事が悪だとしているにすぎない。
強制は悪だとするのはアナキストでこれは、革命運動でも少数派に過ぎない。
他の学生運動、労働運動家は、組織や指示・命令は軍隊的にまで重視しているのは、社会主義国を見ればわかる。
また、体育会的な強権的組織の中には、反対を許さず、絶対的服従を強要する組織もある。
しかし、これは例外的で、一般に組織は双方向である。双方向でなければ環境に適合する事が難しいからである。また、組織を構成する人たちの人格、主体性を否定し、情報の還流ができなくなるからである。
とにかく、組織は指示・命令で動いているのであり。強制は悪ではない。
ただ、指示・命令は、使い方を間違うと凶器になる。包丁の様に。
それで、取り扱には注意が必要で、指示・命令は厳格なルールによって制約される。
正当な理由なくして指示・命令は拒めない、それと同時に、正当な権限なくして指示命令は行使してはならない。
また、不当な、理不尽な、実行不可能な指示命令はしてはならない。
逆に、不当、理不尽な、実行不可能な指示命令は拒むことが許される。
ただし、基本的に正当な理由なくして指示命令は拒否できない。
この点を正しく理解すれば、指示命令をすることに後ろめたさを感じる必要はない。
組織は指示・命令に始まり、報告で終わる。
指示・命令が出されなければ、組織は求心力、結束力を失い。
バラバラに解体する。
組織は、開店する車輪の様のものであり、回転が止まれば均衡が保てない。
それ以前、指示命令が出されなければ、組織は正常に機能しない。動かない。
組織は、統一性、統制を保つために、決定権、指揮権は、特定された人間に、限定的に与えられる。
これが権力を形成する。
決定権、指揮権というのは特定の人間に与えられるので、使い方を間違うと既得権となる。
何故なら、強制力を伴うからで。
その為に厳重な監視下に置かれることが多い。
指揮官は常に明確にする。
特に、現場指揮官は。
誰の指示に従うかが、明らかでないと、部下は迷う。
災害時には、一瞬の迷いが生死を分ける。
窮地においては決定的となる。
誰に、販売計画立てさせる。
現場の誰に、展示会の責任者をさせるというところから、どうするといことで。
いきなり、販売政策は何々でというのではなくて。人なんだよね。
野球だって、先行逃げ切りとか、中盤で逆転するとかでなくて。
先発ピッチャーを誰にする。四番を誰にするかで。
それによって監督の考え方は、配置や守備位置を見ると明確になる。人が最初。
実際に仕事をするのは、担当。
誰の指示に従えばいいですか。
それが担当者にとって一番重要になる。
矛盾した指示、間も場所も、やる事も重複されるとできない。
また、ツーヘッドになると、オーバーワークになりがち、逆に、仕事がなくなったりも、評価者も複数になる。要は、仕事が煩雑になる。
また、指揮官が複数、あるいは、不在となると、組織は統制が取れなくなり、ばらばらに分解してしまう。指揮官は常に一本筋を通す。そのために軍には、先任制度がある。
決められなくする事で、指示できなくする事で、権限を独占的に支配しようとする者が現れる。
組織を指揮制御できなくし、服従せざる得なくするのが狙いである。
つまりゾンビ化しようとするものであるが、これは、人としての自立性、主体性を奪うので邪道である。
組織は、指示、命令で動くので、基本的に指示命令には従う事が求められる。
しかし、指示、命令は絶対的でなく、正当な理由があれば、拒むことができる。
ただし、その場合、指揮官の許可が必要となる。
許可なく、指示命令に従わなかった場合は罰せられる。
軍隊的な組織は、正当な理由を制約せざる得ない。それが、指示命令に強権的な印象を当てる。
しかし、権力を乱用して、絶対的服従を強要する傾向のある組織がある。
そのような組織が、パワハラの原因となる。
例えば、体育会的指示で、絶対服従を求める傾向がある。
しかし、それは特殊な組織の傾向であり、指示、命令そのものが悪いわけではない。
仕事は、指示命令で始まり、報告に終わる事に変わる。
非合法な組織は、軍隊的指示、絶対服従を強要する。共犯者にして、抜けられないようにする。
組織で決定的なのは、考えより、言動が重視される。
なぜなら、組織は、人の集団であり、言動として表さないと、組織は、認知できないからだ。
だから、組織では、打ち合わせ、会議、朝礼、儀式といったイベントが重要な働きをしている。
人事異動、権限の移譲は、いつ、誰が、どのように告知するかが、決定的になる。
誰も見ていないところで相対(あいたい)で伝えても、成立しない。
況や、考えているだけでは誰にも伝わらない。
何もしないで、ほっとけば、時間が解決するなんて考えは、犯罪に近い、最低の考え。
戦場では、命令が伝わらない人が一人でもいれば、戦場で孤立し、死を招く。
スポーツでも、判定は、動作によって表現する。
判定は、動作として表さないと誰にも伝わらない。
審判が、一々、監督のところへ行って、ボソボソ伝えても、選手や観客には、伝わらない、試合は、乱れる。
思っているだけではダメ。動け、声を出せ、コールしろ。
指示、命令を無視したり、放置するのは、重大な抗命行為、命令違反であることを忘れてはならない。
やらなければ、決めなければ、責任を問われないと思っている者が居たら、即刻改めなければならない。
試合が始まったら選手以外の者は、フィールド内にいてはならないというのは、小学生でもわかる。犬猫だって無視することは許されない。
黙っていれば、時間が解決するなんて事は許されない。
審判が、選手の気分を害すると言って、ストライク、アウトのコールをしなかったり、ストライクをボールに言い換えることは許されない。
試合中の判定は絶対であり、抗議を受け付けるかどうかは、審判の判断に委ねられる。
時間がたてば、指示命令は効力を失うから、やったふりして、何もしなければいい、そうすれば自然に治まるなんて、それが「水の思想」なんて馬鹿なこと言っている者がいるそうだが、これは法を無視していいと言っているのに等しく。
言葉を変えれば、犯罪、反社会的行為である。
特に、ルールを守らせる側の人間が言ったら、警察官が、法を無視するような事で、無法状態に陥る。
指示、命令は、一度発令されると法令化、即ち強制力を持つから法と同じ働きをする事になる。
指示は、簡潔明瞭にする。
曖昧な表現、複数の解釈が可能な表現は避ける。
気に入らないからと言って受令者は、指示された事を勝手に、許可なく変更してはならない。
指示されたら、速やかに、実行しなければならない。時間が開くと指示の前提条件が変わる。朝と夕では前提条件が変わる。
意識的に意図して決める。
指示は簡潔明瞭に、余計なことは言わない。
部門長、支店長は、指示が出たら、即日、遅くとも一両日中に部下を集め、指示を伝えな上、担当を決めて指示する。
指示を出すタイミングは、この時しかない。
一人でも伝わらない者がいると、その者は戦場に取り残される、だから、最初に周知するのである。
馬鹿にしているとか、舐められたとか、能力不足というより、初動が悪い、或いは、できていない。ハッキリしない、されてないという事が原因な事が多く。
その為に、原因がつかめず、個人攻撃をしているケースが多く見受けられる。
例えば、第一声を誰がするか。
第一声を誰が発声するのか。これは意外と難しくて。
例えば、結婚式。
第一声は、新郎新婦、親、兄弟、仲人、主賓、神主が、発声するか。
大体は、司会進行だけど、あらかじめ決めておかないと、当日、その場では決められない
第一声には、
「皆さんお集まりください。」
「ご静粛に願います。」
「ただ、今より始めます。」
「集合!」
「注目。」
「動くな。」(非常時等)
「火を消せ。」
この第一声を誰が発するかで、その場を誰が仕切るかが定まる。
だから、大事で、リーダーは意図してやらなければならない。
野球だと、監督、コーチ、選手、投手、捕手、それとも主審、審判、場内アナウンス等々。
「主審に決まっているじゃない」というのは決まっているからで。
草野球では、審判がいない時すらある。
誰が第一声を発するか間違うと、ボタンの掛け違いが生じる。
ボタンを掛け違うと、いった、言わない等のトラベルの原因となる。
簡単で、誰でもわかっていそうなことを知らないとは言えない。
初歩的な事は、恥ずかしくて、歳を取ると聞けなくなる。
だから、年を取ると新しいことが学べなくなる。
わかっている人は、そんな簡単な事。
当たり前な事とわからないはずないと思い。
知らない人は恥ずかしくていえない。だから、最後まで本当の理由がわからない。
新しいことほど、年寄は、聞けなくて、ついていけなくなる。
初心者は、初歩的なことでも、相手が年下でも恥ずかしがらないで聞く。
チームワークは、最初から最後までチームで仕事をする。
目的を自分で考え、自分で決めていたらチームワークにならない。
担当を決めて、トップの意向を聞かせ、また、皆の話を聞かせて案としてまとめさせ、それをトップが決め、事務方が周知させる事で全体の目的をメンバー全員に浸透させる。それが、目的を共有させる事で。
組織的に仕事をする為には、まずやる事を考える事で。
例えば、チームワークの目的は、チームの目的で、個人の目的は、チームの目的を達成する為の目的でなければならない。
目的と質問されても、個人的な目的を聞かれているわけではない。チームの目的を一つに統一することが求められるので、どうすると聞かれているので、個人的な目的を聞かれているわけではない。
個人的な目的を聞いているわけではなく。
どのようにしてチームの目的を一つに要約するかを聞かれているのである。
目的を決めるといった場合、まず最初に考えるのは、誰に、どうやって目的を決めさせるかで。
いきなり、目的とはなんぞやではない。それは、担当者が考える事。
担当は、みんなの意見を聞いて一つの案にまとめるのが役割。
担当が用意するのは、あくまでも、案で、どういう手順で案をまとめるかを、指示者に確認し、その手順に従って作業を進める。
組織的な仕事で、なぜ、目的を設定するのかと言うと、複数の人が共同で一つの仕事をする為に、全員のやることを統一、統制する事で。
目的が決まったら、目的に沿って人や役割、作業を決める。
経常利益を挙げることを目的とされたら、営業、業務、人事、財務、それぞれの立場で経常利益を上げるために何ができるかを考える。
てんでんばらばらに目的を行っても意味がない。
誰に、目的を担当させるかが問題なので、目的そのものを聞かれているわけではない。
よく言われたのは、「聞かれたら応えろ。聞かれなければ答えるな。聞かれもしない事をこたえるとかえってややこしくなる」と。
組織で決定的なのは、考えより、言動が重視される。
なぜなら、組織は、人の集団であり、言動として表さないと、組織は、認知できないからだ。
だから、組織では、打ち合わせ、会議、朝礼、儀式といったイベントが重要な働きをしている。
人事異動、権限の移譲は、いつ、誰が、どのように告知するかが、決定的になる。
誰も見ていないところで相対(あいたい)で伝えても、成立しない。
況や、考えているだけでは誰にも伝わらない。
何もしないで、ほっとけば、時間が解決するなんて考えは、犯罪に近い、最低の考え。
戦場では、命令が伝わらない人が一人でもいれば、その兵は、戦場で孤立し、死を招く。
スポーツでも、判定は、動作によって表現する。
判定は、動作として表さないと誰にも伝わらない。
審判が、一々、監督のところへ行って、ボソボソ伝えても、選手や観客には、伝わらない、試合は、乱れる。
思っているだけではダメ。動け、コールしろ。
指示、命令を無視したり、放置するのは、重大な抗命行為であることを忘れてはならない。
やらなければ、決めなければ、責任を問われないと思っている者が居たら、即刻改めなければならない。
試合が始まったら選手以外の者は、フィールド内にいてはならないというのは、小学生でもわかる。犬猫だって無視することは許されない。
黙っていれば、時間が解決するなんて事は許されない。
審判が、選手の気分を害すると言って、ストライク、アウトのコールをしなかったり、ストライクをボールに言い換えることは許されない。
試合中の判定は絶対であり、抗議を受け付けるかどうかは、審判の判断に委ねられる。
時間がたてば、指示命令は効力を失うから、やったふりして、何もしなければいい、そうすれば自然に治まるなんて、それが「水の思想」なんて馬鹿なこと言っている者がいるそうだが、これは法を無視していいと言っているのに等しく。
言葉を変えれば、犯罪、反社会的行為である。
特に、ルールを守らせる側の人間が言ったら、警察官が、法を無視するような事で、無法状態に陥る。
指示、命令は、一度発令されると法令化、即ち強制力を持つから法と同じ働きをするようになる。
一日目を飛び越えて二日目から着手しようとするからうまくいかない。
一日目を飛ばして、二日目から着手しようとするか仕事が繋がらなくなる。
仕事は足元から始める。だから、決められた事、指示されたことは即日伝達する。
指示は、簡潔明瞭にする。
部下にとって指示がはっきりしていて、自分が何をしたらいいか明確にされていることが、なによりだからだ。
曖昧な表現、複数の解釈が可能な表現は避ける。
気に入らないからと言って受令者は、勝手に、許可なく変更してはならない。
指示されたら、速やかに、実行しなければならない。
時間が経つと指示の前提条件が変わる。
例えば、朝と夕では前提条件が変わる。
プレゼを担当を決めて作らせる場合、担当が、指示者の考えをどの程度理解しているかは、実際にやらせないとわからない。
この段階でわかっているのは、プレゼを作ることと誰が担当するか程度だということである。
「プレゼを担当した。」それ以上言う必要はない。
その上で、何から着手するかを報告し承認を得る。
意識的に意図して決める。
指示は簡潔明瞭に、余計なことは言わない。
部門長、支店長は、指示が出たら、即日、遅くとも一両日中に部下を集め、指示を伝えた上、担当を決めて指示する。
指示を出すタイミングは、この時しかない。
戦場では、一人でも伝わらない者がいると、その者は戦場に取り残される。
だから、通信技術が発達する以前、伝令は命がけで戦場を駆け巡ったのである。
また、作戦は、最初に周知するのである。
部下をまとめられないのは、部下に、馬鹿にされているとか、舐められたとか、能力不足というより、初動が悪い、或いは、できていない。ハッキリしない、されてないという事が原因になっている場合が多い。
実際は、些細なことが原因である場合が多い。
つまり、最初に事情が説明されていない、指示されていない。
その為に、原因がつかめず、個人攻撃になってしまっているケースが多く見受けられる。
例えば、第一声を誰がするか。
第一声を誰が発するのか。これは意外と難しくて。
例えば、結婚式。
第一声は、新郎新婦、親、兄弟、仲人、主賓、神主が、発声するか。
大体は、司会進行だけど、あらかじめ決めておかないと、当日、その場では決められない。
第一声には、
「皆さんお集まりください。」
「ご静粛に願います。」
「ただ、今より始めます。」
「集合!」
この第一声を誰が発するかで、その場を誰が仕切るかが定まる。
だから、大事で、リーダーは意図してやらなければならない。
野球だと、監督、コーチ、選手、投手、捕手、それとも主審、審判、場内アナウンス等々。
「主審に決まっているじゃない」というのは決まっているから。
草野球では、審判がいない時すらある。
誰が第一声を発するか間違うと、ボタンの掛け違いが生じる。
ボタンを掛け違うと、いった言わない等のトラベルの原因となる。
簡単で、誰でもわかっていそうなことを知らないとは言えない。
初歩的な事は、恥ずかしくて、歳を取ると聞けなくなる。
だから、年を取ると新しいことが学べなくなる。
わかっている人は、そんな簡単な事。
当たり前な事とわからないはずないと思い。
知らない人は恥ずかしくていけない。だから、最後まで本当の理由がわからない。
新しいことほど、年寄は、聞けなくて、ついていけなくなる。
初心者は、初歩的なことでも、相手が年下でも恥ずかしがらないで聞く。
最終的にコールできるのは一人に絞られる。
逆にコールすべき人間がコールしないと、組織は機能不全に陥る。
コールできるのは一人。
結婚式は進行役。
野球は、主審。
結婚式も、進行役が、開会宣言をしないと始まらない。新郎や、新郎の父、仲人は促すことはできても、開会宣言はできない。いいかえると、進行役は、開会宣言を後らしたり手順を狂わせることで、結婚式を妨害することができる。
同様に、プレーボールのコールは、主審にしかできない。
決めるのも、コールするのも一人に決められていて、その人が決めなければ、決まらないし、コールしないと始まらない。
だから、イベントが必要となる。イベントを使って、組織を統制、制御する。
結婚式も、始球式も、なぜするのか。
指示命令ができないようにする。
伝達を遅らせる、これだけで組織は、機能不全に陥る。
ブレーキを踏んでから、ブレーキが作動するのに一分かかたら、自動車は制御できない。
組織も同じ、指示命令が伝達されるのに時間がかかったら組織は制御できなくなる。
また、指示命令が変えられたら組織は制御不能状態に陥る。
これは、犯罪である。
指示命令の伝達は考える必要はない。速やかに伝達する。
指示・命令とは、例えば、「この度、予算を作成することになった。担当責任者は○○とし、担当を〇△にする。速やかに、○○は、〇△と打ち合わせの上、今日の、三時までに考え方を文書にして私に提出する事」みたいに、基本的に議論する余地がない事で。
よく首を傾げたり、言葉尻をとらえて、指示を遅らせたりする人いるが、意味なく抵抗する事は、悪い影響が組織全体に波及する。
勝手に考え方を目的に変えたりすることは許されない。
勝手に変な間を置いたり、返事をしない者がいるが、これは、組織ではあってはならない事。
指示されたら即刻、伝達する。
一言一句、そのまま変えずに伝達する。
その上で、指示命令をどのようにするかの手順を挙げる。
これが鉄則である。これがブレたら、チームワークはできない。
指示は出だしに出されるもので、尻、つまり、結果が出てからでは、手遅れ。
後手後手になる。
仕事は、逃げ水のように逃げていく。
頭を抑えないと。尻尾を捕まえようとしたら、とらえどころがなくなってぬるぬると逃げていくよ。
第一声も、結婚式や野球の様にハッキリしている場合はいいが、災害、緊急時のように決まっていない場合もある。その場合は、基本的に第一声を発したものがその場を仕切る事になるから、よく注意しなければならない。
仕事は結果が求められているのだから、勝ちにいかなけければ。最初から、負けると決まった人選したら、それだけでやる気がないと思われたものさ。
味方ばかりとは限らないよ。
野球だって、ただ、監督の言われるままにボール捕球し投げ、バット振ってるだけではいつまでたっても野球を覚える事も面白味も分からない。
ある程度、ルールを覚えたら、試合の流れを自分なりに読み、自分の役割を作っていく。
そうすることで能動的に試合に関わるから、面白いので。
いつまでも、受け身の仕事をしていたら、仕事は苦痛以外の何物でもない。
現代は、昔のような奴隷労働はなくなってきたけど、苦役である限り、労働は、自分にとって何の生産性もない。
自分から能動的に仕掛けられるから、労働から得るところがある。
上司、先輩がなかなか、後輩に譲らないのは、仕事が面白いからである。
ただ後輩には、「面白くない、苦痛だ」というけどね。
そういう意味で仕事は勝ちにいけと。
勝ちにいても勝てるとは限らないけれど、少なくとも、勝てる可能性はあるけれど、最初から勝負を放棄し ていたら勝ってこない。
だから、自分でチームを組んだ時、「お前、これで勝てると思うか。」
と聞かれ、「勝てないと思うなら、最初から勝つ気がないんだよ。やる気がない。
やってみてああやっぱり勝てなかったなんてな、情けない試合はするな。やるからには勝つ気でいけ。勝つことを考えろ。」
「最初から、勝つ気のない試合をするのは負け犬根性だ」と。
親父は、「昔の軍隊は、靴に足を合わせろという考え。だけど俺は、サイズの合わない靴を支給されたら、人相が変わるくらい殴られても足に合う靴に変えてもらった。後で、サイズの合わな靴を履いて死んでいった人間が沢山いた。誰も助けてくれないなんて御託を並べるくらいなら、生き残る術を考えろ。誰も助けてはくれないぞ」と。
言いなりになっていたら、生き残れない。
かといって逆らっても生き残れない。
そこを生き抜くのが才覚だと教えてくれた。
どんな環境に置かれても生き抜け。
そのためにはなりふりなんてかまっていられるかと。
ミットにボールが入ってからバットを振るような野球はするな。
自分の目で見る、自分の頭で考える。
ハッキリしているのは、自分の望むチームが組めなければ、また、一年棒に振る事になる。
組織では、最初の作業は、人選から始まる。
先ず責任者を誰にするかであるが、それを誰と相談するかは、任意であり、既定ではない。
つまり、誰と相談するかは決まっていないで、リーダーが選ぶ、無から有に変換する。
誰を責任者とするか、そして責任者を選別したら、次に、担当を選ぶ。
基本的に欧米では、オーナー、チーフ。ワーカーから構成する。
組織のおいては、指揮官を最初に決める。
指揮官のいないチームは、頭のない動物のようなものでいわば。物の怪である。
指揮官がいなければ、何も決められず、何も指示できない。
つまり、組織として機能できない。
最近の日本では、決める事、指示をすることを罪悪視する傾向というより刷り込みがあり、この異様な組織がよく見受けられる。
つまり、指揮官が名ばかりで、何も決めず、何も指示しない。
ところが、誰も、指揮官不在に気が付かない。
先ず、誰を指揮官とするかを決める。
指揮官とは、欧米ではチーフである。
指揮官よって、部門は結ばれる、故に。指揮官は、部門と部門を結ぶピンである。
指揮官に任命された者は、これを強く自覚する。
責任者と担当が決まったら、責任者は。担当に命じて、構想、概要を報告書にして日限を切って、報告書にして提出させる。
指示を受けた、担当は、指示されたことを確認の上、報告書の作成手順を責任者に確認する。基本は文書をもって、これが作成計画を兼ねる場合が多い。
責任者は、事前にオーナーの承認をとって手順を決め、担当に、正式に指示する。
気をつけなければならないの、チラシの作成とか、商品企画、現状分析などの個別の作業に手をつけない。
これは、「目先の作業をわしづかみするな」と、厳重に注意された。
「それをすると、細目に囚われて本筋に手を付けられなくなるぞ」と。
チーフは、担当に、構想や概要の作成を命じた後。大枠を作成する。
また、オーナーと相談して、現場の体制を編成する。
大枠は、正式なスタート点と実質的な終点(日付)を定め、その間の、正式なイベント(会議や式典等)で目安として区切る。
大枠が設定でき、概要の承認ができたら、責任者は、担当に命じて基本計画の作成に着手する。
これが、出だしの手順かな。
繰り返し言うけど、いきなり、作業にとりかからない。
指示命令系統が定まっておらず、責任体制が出来上がっていないから、すぐに手詰まりになりとん挫する。
組織は、仕組だという事。
組織のメンバーはそれぞれ、立場・役割によって働きが決められているという事。
指揮官は、調整弁、安全弁の役割がある。
人は、いくつかの役割を兼ねる、兼務することができる。
指揮官と担当を兼ねた場合、この役割が果たせなくなる恐れがある。
オーナーやユーザーからチーフが注意された時、担当を兼ねていると即言い訳になってしまう。
チーフをかませることでユーザーや、オーナーと直接ぶつかる事を避け、ショックを和らげることも可能となる。
組織は仕組みであり、役割に応じて、働きがあるので、まず、体制作りから入るのが常道。兼務する場合は、場面に応じて役割を使い分ける必要が出てくる。
ある時は…。
指揮官は指揮をする。審判は、判定する。投手は、何を投げるか決めた投球する。
それぞれ、役割が違う。
指揮官と担当は役割が違う。
実際に仕事をするのはワーカーである。
直せるところを直す。
直せない所に囚われるから、止まる。
仕組みや段取りに原因を求めないと、個人攻撃が始まる。
例えば、野球で負けたのはあいつがエラーしたからだといった風に。
人選ミスだ、練習の仕方が悪い、手順が悪いとなれば改めよう、直しようがある。
あいつの性格が悪いとか、馬鹿だと言ったら直しようがなくなる。
クールに判断すべきことで、手順、段取り、配置、役割、練習などは、改善の余地がある。つまり、論理的なのである。
最初から、勝ってないメンバー、配置では勝てない。
勝ちにいくなら、最初から勝てるメンバー、勝つための配置をすべきなのだ。
勝つことにどん欲にならなければ勝てない。
成功したくない、勝ちたくないという、体制、手順を組んだいないか。
まずそこを見なければ。
報告をしろと指示すれば聞いてくる(ボトムアップ)
基準をおって伝えるといえば黙る(トップダウン)
相手に投げかければ返ってくる。
一方的になれば、返ってこない。
キャッチボールは一人ではできない。
相手に投げるから、返ってくる。
空に向かって出すような指示は出すな。
人と人に真ん中に出すような指示はするな。
ヘッドは上と下に触手の伸ばし、幹を作り、枝葉を伸ばしていく。
手順で言えば、売り上げの責任者を誰にする。
人件費の責任者を誰にする、経費の責任者を誰にする。
投資の責任者を誰にする。
仕入れの責任者を誰にする等々。
これは決まっていると言えば決まっているし。
決まっていないと言えば決まっていない。
決まっているようで決まっていないので、放置すれば、成り行きで決まっていてしまう。
なぜ、決まっているようで決まっていないかというと、原則、それぞれの部門長がいるので、成り行きでいけば、ライン長が自動的に責任者になってしまう。
自動的に決まる、成り行きで決まるから、一見、誰も責任を負わなくていいように見えるが最悪である。
要するに意志が持てなくなり、総てが成り行き任せ、誰も何も決められなくなる。
原因も責任の所在も判然となる。
しかし、前提となる構想や政策、戦略によって、体制の変化が求められるから、その際、必ずしもライン長が責任者になるとは限らない。
例えば、売り上げも、前年の施策や考え方を踏襲するなら、既定の、ラインに基づいても問題ないが、まったく新しい商品、あるいは商品開発に主軸を置けば、既定のメンバーではなく、新人や若手、あるいは外注に出すことさえ。
そうなると規定の体制では、担いきれないので、プロジェクチームや若手の担当を選抜したりする必要が生じる。
だからこそ、出だしの、政策、戦略、目的や考え、構想などが重要となるので。
組織体制も決まっているようで決まっていないという事になる。
要は、実際に何をやるかが決まっていないから、決まっているような、決まっていないような体制になるので。
肝心なのは意志で、これまで通りのやり方でいくのか、これまでと違うやり方をするのかによって、組織の設計思想はガラリと変わる。
既定の組織を使うか、これまでにない体制をしくのかは、意志の問題であり。
組織は、考えや方針でいかようにでもなるのである。
それで、冒頭の作業は。構想、概念等が要になる。
また、手順位決めるというのは、例えば、売り上げ予算を作る事になったけどどうすると部下に投げかけ。部下が、「市場調査が必要じゃないですか」と提案すれば「じゃあお前市場調査を担当しろ」とか。
「去年の実績を調べますよ。」といえば、「じゃあお前、現状分析を担当しろ」と決めていく。
部下の考えに合わせて全体を調整するスタイル。
みんなの考え方、手順に沿って担当を決めて段どっていく。
それが、手なり、成り行き、手順に決まるというやり方。
組織には組織の心があり、それは、絶対権力者の心と必ずしも合致してない。
そこが権力者が陥りやすい罠で。
組織はそここで声を発している。それこそうめき声や歓喜の声。
組織が発する言葉に耳を傾けないと、組織は、いう事を聞かなくなる。