戦争に敗けてから日本人は、組織は、悪いものと思い込まされている。
かくいう、私も、若い頃は、組織嫌いだった。
組織は悪いものという観念は、日本人の価値観の中枢に植え込まれているように思える。
その為に、組織的な事象に若い人は抵抗感を無意識に持つように見える。
組織というとすぐ、思い浮かべるのは、軍隊である。
組織、イコール、軍と連想する人もいるくらいである。
確かに、軍隊は、典型的な組織であり、組織を研究する時、欠かせない素材ではあるが、軍隊だけが組織ではない。
組織は、ある意味で、手段道具である。
車も、使い方を間違えば凶器と化す。
最初から車を凶器として製造するわけではない。
組織も、最初から凶器として作るわけではない。たとえ軍隊だとしても。
大切なのは、組織を使う者の精神である。
組織の事をどう思おうと、組織と関わらずに、現代人は、生きていく事はできない。
組織は、手段、道具であって、使い手によって違ってくる。使い手によって利器にも凶器にもなる。
暴力団だって、山賊だって組織がある。修道者の、賢者の組織だってある。
一概に、組織が悪いと決めつける事ではない。
一つは、組織は、生き物であり、誕生と成長、発展の段階を必ず踏む。
最初から決まった形が、組織にあるわけではなく。
また、いきなり、一つの形に出来上がるわけではない。
組織も人工的に作られる事であり、自然に成るものではない。
組織は、核となる人がいて、その人を中心に生成発展していくのである。
私は、近代は、四つの要素から成り立っていると考える。
一つは、近代科学。
一つは、簿記に基づく近代会計制度。
一つは、近代民主主義。
そして、近代スポーツである。
この四つに共通している事はいくつかあるが、中でも、重要なのは、数値化である。
組織の生成
組織は、どのようにして発生し、発展するのか。
組織の生成発展は、人類の歴史以前、動物的なレベルまで遡る事が出来る。
群れを形成する動物は数多くいる。
また組織的な活動は、動物の実ならず、蟻や蜂のような昆虫にもみられる。
組織には、目的がある。
原始的な組織の目的は、食料を得る事と身を守る事。
組織の原型は、家族にある。
第一に、男と女が一対で子を生し、家族を形成するところに組織の萌芽がある。
つまり、組織の原書的な目的は、種を増やす事と、食料の確保と、身を護る事にある。
そして、人間が組織を必要とした原因の一つが子育てにある。
また、女性が出産、育児を受け持つことが最初から宿命づけられている。
人間は、他の種と異なり、子供の育児に時間がかかる。
そん間、集団を形成する必要がある。つまり助け合うことが求められる、
組織の根源的な目的は、一つ、助け合う事、即ち、分業。二つ、食料の確保。三つ、身を護る事の三点にある。
そして、これは教育の原点である。
先ず、人は、助け合う事、食料を得る事、身を護る事の三つを学ぶ日地用があたのである。
組織が生成する条件は二つある。
一つは、ゼロから発生す津場合。二つ目は、組織化される以前お集団がある場合である。
ゼロから組織が生成する場合は、個人が結びつく事によって組織は形成される。
組織以前の集団から組織が形成される場合は、組織が分裂する事によって組織は形成される。
創業と守勢に違いのような事で。
創業は、創業者があって組織は形成される。
それに対して、既成の組織の中から、或いは、組織化される以前の集団から、既存の体制を継承しつつ、新たなリーダーが出現し、組織を再生する場合がある。
組織化される以前の集団がある場合とリーダーを中心に組織が編成される場合がある。
いずれの場合も中心が定まる事で核が成立する。
一が二となり、三となる。
基本的に三人で中核が構成されることで原初的な組織は成立する。
つまり、原初的な組織には、三つの役割からなる。
一つは、リーダー、二ツ目、補佐役、三つ目は、事務方。
補佐役からスタッフは、派生し、事務方が分裂する事でラインが生じる。
組織が生まれるためには、発起人がいる。
組織は大事とか、最初に、組織づくりが、必要だと言われても、いざ、組織を作ったり、編成しようとしても、どうやったら組織ができるのか。
大体、組織に、どんな役割があって、何処から、着手したらいいのかわからない。
それが、多くの人の実感ではないのか。
ゼロから、組織を作ろうとした場合、発起人が必要となる。
ただ、発起人が、リーダーとなるとは限らない。
リーダーと発起人は別である。
組織は、最初に誰かが声を上げ、それに呼応する人が現れた時、成立する。呼応する人が現れないと、生まれない。つまり、組織は声かけから始まる。
組織は、受けて立つものが現れないと、始まらないんだ。
トップだけ、声をあげても、それに呼応する人間が、現れなければ。
組織は成り立ちはしない。
それを、忘れるない事。
組織は、一人で作れはしない。
組織のメンバー、一人ひとりが参加し。
皆で、作り上げていくものである。
何らかの目的や志を自覚した人間が、声を上げ、自分以外の者に声をかける事で発起人となる。
この指とまれである。そして、最初は一人である。
一が二となり、三となる。
どんな巨大な組織でも、最初は、一人である。
一人が、二人となり、三人となる。
コアのような部分がいかに形成されるかである。
そこに、既に、組織の原型が示されている。
要するに卵子のようなものである。
先ず中心が形作られる。
中心というのは目的とか、人である。
その目的や人にひかれて組織の核となる人が集まる。
大体、三人、集まって、分担が決まったら、組織になると考えていい。
問題は、次に、何が形作られるかである。
次の段階で考えられるのは、サブか、事務局か、担当かである。
参謀の役割には三つあるとされる。一つが情報、一つが、兵站、もう一つが、作戦である。
日本人の弱点は、作を重んじすぎる事だとされるそうだ。
欧米人は、作戦より、兵站、情報を重んじると聞いた。
この事は組織生成時の構成を暗示する。
組織の初期の段階での役割分担は、一つ、情報の収集、一つは、バックヤードの構築。一つは、計画だと考えられる。最初に、どこから、着手するか。
自分の代わりになる相談相手か。
自分に代わって準備をしてくれる人か。
計画を立てられる人か。
そのあたりを決める事から、組織は、実質に胎動し始める。
組合のような組織は、委員長、副委員長、書記で中核が形作られる。
学校のスポーツクラブは、部長、副部長、マネージャ(会計)によって中心が形成される。
会議は、議長、書記、事務局が基本。
基本は、組織は三人になった時、機能し始める。
一つ、組織は、成長、拡大に伴って分裂して、自己増殖していく。
組織は、成長、拡大に伴って組織を管理する機能が付加されていく。
なぜなら、一人の人間が、人を直接制御できる範囲には限界があるからである。
管理は、組織の制御するための行為である。
管理する対象には人、物、金、情報がある。
人、物、金、情報は、各々、管理する手段、手法、働きが番う。
総ての権限と責任は権力から生じる。
戦後の日本人は、権力は悪だと刷り込まれている。
それは、日本を弱体化するための反体制、反権力者の嘘である。
権力は、組織を維持、統制するための力であり、すべての権限と責任は、権力から発する。
権限と責任は、表裏一体である。つまり、権限は責任を伴い、責任は権限を伴う。
権利と義務は、契約から発する。故に、権力に優先する。
この点を間違ってはいけない。
権利と義務も表裏一体である。
契約に基づいて報酬を得るのは権利であるが、報酬は、契約に基づく労働の対価である。
故に、報酬は権利であると同時に、労働は義務である。
総ての権限と責任は権力から生じる。
総ての権限は、権力から生じる。
つまり、総ての権限はトップから発する。
一旦、総ての権限はトップに与えられる。
なぜなら、トップには、結果に対して全責任を負っているからである。
トップは、役割と仕事に応じて権限を委譲する。それに伴って責任も分担する事になる。
責任は、その人の組織のおける位置と働きと関係の持つ基づくから、必然的に、権限もその人の位置と働きと関係によることになる。
組織には、主従がつきもので、主従の関係は悪い事ではない。
むしろ、主従の関係を明らかにすることが大切である。
役割にも主と従があり。
誰が主で、誰が従かを事あるごとに見極める事である。
役割分担をする時、誰が主で、従かを明らかする事が肝心。
指示、命令は、権威の裏付けを必要とする。
権限は、特定の事に関し、決定し指示、つまり、強制権を伴う。
権限は、組織決定に属している、組織決定は統一することが求めれれる。
決定権が与えられるのは、一人の者に、限られなければならない。
故に、権威をもって重複を防ぐのである。
指示、命令系統は、獣道(けものみち)。
指示、命令系統は、観念の産物ではなく、実際的、経験的産物である。
指示。命令系統は、使わないと原野に戻る。
指示、命令系統は権限がともなう。
権限を伴わなければ、組織のメンバーを働かせることはできないからである。
権限は、メンバーに対する強制権を意味する。
必然的に権限には、反作用として責任が生じる。
権限を与えられた者は速やかに指示命令を発しないと、権限は発効せず。
一定時間を過ぎると権限は失効する。故に、指示命令系統は獣道なのである。
総ての権限は権力から生じる。つまり、総ての権限はトップを源とする。
一旦、総ての権限はトップに与えられる。
なぜなら、トップは、全責任者をおっているからであるからである。
トップは、役割と仕事に応じて権限を委譲する。
それに伴って責任も分担する事になる。
責任は、その人の組織のおける位置と働きと関係の持つ基づくから、必然的に、権限もその人の位置と働きと関係によることになる。
管理は組織を管理するための仕事であり、俗に、後方支援と言われる。
仕事は、例えば、物の管理なら資源を集めて、配分し、不足を補い、正常の働くようにメンテナンスをし、また、記録をとり、保存する。
人なら、採用、配置、異動、教育、評価、勤怠を管理し、給与を計算する等である。また、それに付随した業務として労務や福利厚生、労働条件の改善などが加わる。
また、管理部門はその性格からセンターを構成するようになる。
組織は、管理限界を超えるといくつかの集団に分裂する。
組織は、分裂したら、必ず、集団ごとに、責任者を定め、責任者を連結する事で。全体の一体性を保つ。
組織は、情報系であって情報網が途切れると、その部分は、全体から乖離する。
必ず、総てのメンバーは、指示・命令によって結びついていなければならない。
組織は、分裂しながら自己増殖していく。
成長に伴い組織は、機能やいくつかの単位に分裂し、責任者を介して連結する。
この機能や単位が組織の階層を形作る。
管理限界は、仕事の内容、性格によっても、また、作業が標準化されているかによって違ってくる。
例えば、工場労働や軍の様に、やる事が特定され作業が標準化されている場合と経営計画の立案、市場調査、開発など作業が特定されず、判断も要求される業務とでは管理限界は違ってくる。また、メンバーの能力、行動規範によっても違ってくる。
さらに、近代になって情報通信技術の長足な進歩によって管理限界が大きく拡大した。
情報技術が進化化する以前、非定型業務の管理限界は七人とされた。
これは現在でも一つの目安として有効である。
しかし、管理に限界がある事には違いがなく、管理限界によって、組織は分裂する。
分裂する過程で組織単位、階層が実務的に形成される。
組織には、仕事の性格によって形成される固有の業務と、一般に共通した業務がある。
例えば、製造業は製造に関わる業務は製造業固有の業務であり、販売業は、販売に関わる業務、販売業固有の業務である。それによって固有の部署が形成される。
一般に、組織を管理する業務は共通性があり、汎用性があるとされる。
半面、専門性が要求される業務でもある。
その典型が会計やITであり、会計やITの業務が専門化する下地となっている。
外注化も比較的容易にできる。
また、このような業務は資格化する事も容易である。
初期段階では、管理的業務は、一人で賄える。組織が拡大するにつれて部門として独立し、更に、組織が拡大すると、人、物、金、情報と機能別に漸次、独立していく。
組織は、ある一定の段階、水準に達すると惰性でも動く。しかし、惰性で動いている組織は、環境の変化や状況の変化、時代の変化に対応できない。やがては、衰退に向かっていく。
一つ、組織には、目的がある。
組織は、合目的的集団だという事である。
故に、組織は、目的を共有することから始まる。
典型的なの、軍隊、警察、消防、学校、製造会社、行政などである。
目的は、組織の在り方を定める。
組織は、仕事をする集団である。
組織は、人の集まりだと言う事である。
生まれも、育ちも、価値観も違う人間が集って一つの事業を為し遂げようとしたら、何らかの共通点がなければ、まとまりようがない。
その共通点が目的となる。目的がハッキリしないと組織は統一性が保たない。
組織は統一性が保てなくなったら、分裂するか分解する。
思想のような事では細部まで一致させるのは難しい。
だから、目的を明確にするのである。
目的は、簡潔明瞭、一目瞭然、誰にでも分かり易く了解できることがいい。
組織は、一つの目的に基づいて、一つの仕事をやり遂げるための仕組み。
組織は、作業、働きの集合と見なす事もできる。
組織は合目的的な仕組みであるから、総ての作業をたどると一点に収束しなければならない。
その原点に目的はある。
組織の目的は、組織が形成される際の経緯に由来する場合が多い。
何故、目的が、必須かというと、目的が明確に示されていないと、組織の統一性が保てないからである。
そして、目的を共有するためには行動を共にする事が手っ取り早いからである。
統一した行動がとれなくなると組織は存在意義を失う。
組織に加わる人は、組織の目的によって決める。
組織の目的に応じって人は集まるのである。
故に、目的が不明確なら、始めから人は集められない。
この様な事から発起人の考えが、目的形成に重大な役割をはたしている事がわかる。
組織は、人の集まりであり。
人が集まるには、人が集まるなりの理由がある。
その理由の本源が目的である。
目的がハッキリしなければ、人は、そもそも、集まらないのである。
一つ、組織は、情報系だということである。
人の集団があり、総ての人が、何らかの情報系によって結び付けられていれば、そこには、組織が形成される。好むと好まざるに関わらず、組織は、人間社会には欠かせない存在である。
組織は、情報系である。
組織は、情報網によってすべての要素が結び付けられているシステムである。
組織は、指示、命令系統によって組織を構成する個人を結び付け、働かせる仕組みである。
組織を構成する者は全員、指示命令系統によって結び付けられている事が前提条件である。
百に言うと、同じ仕事を一緒に、同じ場所でしていても、指示命令系統によって結び付けられていない者は、組織の構成員とはみなされない。
組織の仕事は作業の連鎖によって成立している。
組織は、情報系である。
故に、情報の均質化、標準化、統一性が求められる。
情報は、記録であり、文書である。
また、保存であり、情報の流れである。
組織は、一つの情報を共有する必要がある。
その為には情報の物質化、見える化、操作性が必要なのである。
情報は、視覚性、操作性が重要で、それを兼ね備えているのが方程式である。
情報系には、放射、樹形、格子、ネットワーク、ループ等の形があり、どのような情報系を下地にするかによって組織の形態も定まる。
組織は、単一の形で結ぶついているわけではない。
例えば、指示命令系統は、樹形で、連絡網はネットワークというように、いくつかの形を組み合わせ、相互牽制がきくような仕組みにしている場合が多い。
組織には、組織を動かすための情報系統と、情報を収集、分析するための情報系統の二つの情報系統がある。
伝達する働きと環流する双方向の働きによって組織は維持されている。
結果は報告されなければならない。
正確な情報がなければ、リーダー(決定権者)は、正しい判断が下せない。
自分に都合が悪い情報をあげなかったり、自分にとって都合がいいように変えて伝えるのは、組織にとって犯罪である。
各々、自分の部署に帰ったら報告する。
当然、要には、複数の部署から報告がされる事になる。
何故、複数の部門から報告書を上げさせるのかは、一つは抜け漏れがないように。
一つ、情実が入らないように。
一つ、視点、立場が違う。相互牽制を働かせるため。
一つ、受け持ちの部署が違う。
一つ、比較対象できる。客観的、相対的にみれる。
一つ、複数の部署から報告を受けるのは、一部の部署が報告を怠っても、他の部署の報告によって補完するため。
一つ、報告する事で担当した仕事の後の作業の方針や段取りを取らせる。
指示が、正しき伝達されたかは、先ず、どの様な指示が出せれか。出された指示に従ってどのような作業をいつ、だれが、実行し。その結果はどうなったかを、検証しない限りわからない。
指示された事を間違って受け止めていたら、結果を見るまでもなく。
指示された事を正しく理解しても、やる事を間違えば、正しい結果は得られず。例え、やる事を間違えていなくても期待した結果が得られない事もある。
それでも、間違った個所に立ち返れれば、次から、間違わないで済む。
問題は、指示された事を最初から違える事で、それでは、いつまでたっても組織的の行動がとれない。
だからこそ、指示の確認、作業の確認、結果の確認が求められる。
組織で一番、厭われるのは、身勝手な行動である。
情報は、正確に、速やかに伝達される必要がある。
組織は、一つの目的を共有し、共同して一つの仕事を為し遂げ、実現するための仕組みであるから、当然、総ての作業が、抜け漏れ、重複なく総て、結び付けられてなければならない。
つまり、総ての要件を満たし、かつ、総ての要件が、抜け漏れなく結びついていなければならない。
正確に、作業と作業が連結していないと、仕事は制御できない。
だから、確認を怠る事はゆるされないのである
情報の働きを測る基準には、精度、速度、範囲等がある。
情報は鮮度がある。
情報は時間の経過とともに価値を減じる。
組織は、指示命令によって動く仕組みである。
指示、命令は、情報である。
指示、命令は、不可逆的に、一定方向に、流れる。
結果は、環流され検証する必要がある。
指示命令の流れを上下関係に結び付けて考える人がいるが、上下関係としてより、情報の流れとして考えた方が、組織の働きは、理解できる。
指示は正確に伝達されなければならない。
途中で、中断、改ざん、修正、偏向、抜け、漏れ、間違いは許されない。
なぜなら、情報系統が割れるからである。組織に中心とは、乖離した命令が流れる事になる。
それは、組織を分裂させ、求心力を失わせ、分解させてしまうからである。
故に、指示命令は、確認、報告、分散、連絡等によって監視する必要がある。
情報は途中で止めては駄目。
止めた者が、全責任を問われる。
自分ができる範囲で処置しながら、情報を伝えていく。
情報を流すというのは、神経を通す事で、末端、担当に指示を出すことで神経を繋げ、担当がいつでも動けるようにしておく。
正確な情報がなければ、リーダーは、正しい判断が下せない。
自分に都合が悪い情報をあげなかったり、自分にとって都合がいいように変えて伝えるのは、組織にとって犯罪である。
勘違いしている人多いけどね。
学校でまた、自分の意見は、他の人と違う事とか。
自分の言葉でというのを言い換える事なんてでたらめな事を教えるから。
別に、違うこと言おうとか、違う言葉使おうなんて考える必要なんてない。
自然に自分が思っている事を口にすればいいだけ。
不用意に違えたり、言い換えたりしたら、正確に伝えたいことも伝わらなくなる。
投げられたボールを投げ返さないで、とんでもない方へ投げたり。
飛んできたボールを、どこへも投げられないで、握り続けていたら。
言われた事、素直に投げ返さなければ。
正確に正しい情報が伝わらなくなる。
自分は、逆らっていいと言い続けているけど、上司のいう事を、自分の都合のいいように変えあたり、無視したりしている人間。
そういう行為を逆らうというのだよ。
そういう人間は、いわれた通りにはしてはいけないとでも思ているのだろうけど。
それが、最大の誤り。
情報系統は組織的な意思決定の仕組みでもある。
指示が伝えられたら指示通りに行動すればいいかというとそう簡単ではない。
作業まで、指定された指示もあれば、指示に基づいてやる事を自分で判断しなければならない指示もある。
前提条件は、必ずも一定、不変ではなく。絶え間なく、状況、環境が変化している場合があるからである。
命令は、訓令と、号令からなる。
訓令は、命令の目的や方針と言った考えを示したもので、号令は、具体的な作業指示を構成する。
号令は、要件を満たさないと発効しない。
要件には、第一に、人。発令者と受令者。
第二に、時間。発令、受令日時、発効日時、期限。
第三に、作業。等がある。
また、組織は、常に、環境、状況の変化に適合しなければならないから、基本的に双方向の力が働き、情報が還流していなければならない。
組織が、正常に機能していないから、組織が際立つのであり。
組織が正常に働かなくなると、個人の力、腕力で組織を強引に動かそうとする。
我から、かえって、組織が目立ち、障害になるのである。
情報が一定方向にのみ流れ、かつ環流していない組織では、フィードバック効果が働かない。
フィードバックが効かないと環境の変化に適合できなくなる。
フィードバック効果が働かない組織は不完全な、危険な組織である。
一つ、組織には、全体と部分からなる。
狭義で言うと組織は、人の集まりである。
単なる人の集まりは、集団、烏合の衆に過ぎない。
人と人が何らかの力によって結び付けられた集団が組織である。
組織は、いろいろな要素の塊である。
組織は、まず、人の塊である。
人の塊だけでなく、組織は、作業の塊、物の塊、お金の塊、そして、決断の塊、情報の塊でもある。
その塊を解きほぐす事から、組織化は始まる。
組織は、塊としての全体を持ち、また、塊を構成する部分からなる。
狭義で、組織は、広義では、物の集まりでも、何等かの力によって結び付けられている集まりを、指す場合もある。例えば、細胞組織のような事である。
集まり、塊である組織には、常に、全体の一体性を保とうする力が働いている。
全体の一体性を保とうとする力が、正常に働いているうちは、組織には自浄作用がある。
自浄作用が働かなくなると、組織は、分裂し、やがて、解体する。
前進、向上する組織は、ベクトルの方向が一致しているから、多少、方向を間違える部分が生じても推進力が方向を是正する。
全体を一つの情報系によって繋ぎ、一体化しておく事が求められる。
故に、組織のおいては、つなぎ目、接続点のあり方で正否が決まる。
情報系が一カ所でも切断されていたり、つながっていない部分があると、全体の一体性は保てなくなる。
国家の様な巨大な仕組みでさえ、総ての国民が、何らかの情報系に、繋がっているから、成り立っているのであり。その意味では国家も一つの組織と言える。
組織の部分を構成する要素には、位置と働きと関係がある。
それぞれの要素には、各々、一つひとつに関係と位置と働きがある。
なぜ、旗とか、社章とか、社歌とか、制服、社訓、儀式、式典のようなシンボル、象徴が必要なのかというと全体を一つにまとめる為である。
つまり、シンボルによって全体を見える、認識できるようにする事で統一性、アイデンティティ、同一性、一体感を高めるのである。
言葉だけでは全体は表せないから。
人は、動物であり、目に見える事を信じる。
目に見える範囲の事によって判断する傾向がある。
総ての人に全体が見えているわけでもないし、総ての人に、全体が見えるわけではない。
組織を構成する一人ひとりは、自分が見える範囲の仕事を見て、できる範囲の仕事をしている。
全体が見えないから、不安になり、疎外感にも悩まされる。
また、離脱したいと言う誘惑に囚われるのである。
自分の所在がわからなくなるのである。
一つ、組織には繋ぎ目、接続点がある。
組織を統御するためには、全体を一つの情報系によって繋ぎ、一体化しておく事が求められる。
故に、組織のおいては、つなぎ目、接続点のあり方で正否が決まる。
組織は、一人ひとりの個人を、指示命令系統によって結びつける事で機能を発揮する。
実際に働くのは組織を構成する人である。
組織は、このような人の働きによる機構以外に、会議を必要とする。
すなわち組織は指示命令系統にとって作られる系統と会議体を組み合わせる事で成り立っている。
組織は、人と物と作業の情報の塊である。
人と物と作業、情報をバラバラに分化し、分解した個々の部分を再構築する事によって編成される。
個々の部品を繋ぎ合わせる事で全体を最高尽くする。
その際、繋ぎ目、接続面に隙間が出来る。或いは、うまくつながらない部分が生じる。
権限や責任、守備範囲に隙間ができる事がある。
隙間が広がると組織はばらけてしまう。最悪分解。
隙間は、人的隙間、物理的隙間、時間的隙間、情報系統の隙間などある。
その隙間をどう埋めるか、それは、組織にとって深刻な問題なのである。
組織は、人の集まり、物の集まり、作業の集まり、情報の集まりだから、いかに、人と人を連携させるか、作業と作業を繋ぎ合わせるか、物と物をどう組み合わせるかがカギを握っている。
つまり、繋ぎ、接続が問題なのである。
情報の繋ぎ目、接合点の役割を果たしているのが会議である。
会議の働きには、情報の伝達以外に、情報交換、意思決定(採決)や、意思統一、問題解決、進捗状況の確認調整、予実績の管理、制御、審議、審査、評決、諮問、立法等がある。
会議の目的や働きによって会議の構成や形も変化する。
民主主義は、会議を土台とした制度をいう。
日本人は民主主義の基本を話し合いだと誤解している。
その上で、話せばわかると言う事が、民主主義の基本だと錯覚している。
民主主義の基本は話してもわからないであって、民主主義の中核となる会議は、ルールを定めた話しあいである。
民主主義の前提は、話し合っただけでは一致に至らない事を前提とし、ルールに基づいた話し合いで決めると言う事で、その場合、予め、決め方を決めておく事である。
民主主義を多数決だとするのも過ちで、多数決も、決定方法の一つに過ぎない。
民主主義は、司法、立法、行政の三つの会議体からなる体制を言う。
会議は、簡単に見えて、複雑な構造を持っている。
目的に応じって会議デザインをする必要がある。
日本人は、会議を安直安易に捉える傾向がある。
欧米、特に、アメリカは、会議のデザインを重視する。
近代の民主主義は、会議をコアとして発展してきたからである。
会議も、組織である。あるいは、組織の一部である。
日本人は、この意識がかけていて。会議の働きを正しく理解しようと言う意欲がないように思える。
会議では、中心を明確にする必要がある。中心とは、リーダー、議長である。
次に、事務方、書記、主催者、招集者、出席者、発表者、レポーター、提案者等など。
それに、空間、配置していく。
そして、ストーリー、レジメ、式次第。
この様な要素を有機的に組み立てるのである。
会議打ち合わせは、組織や仕事のつなぎ目や接合点の部品だと思っていい。
一つは、作業の進捗状況確認し、調整をする。
また、状況の変化に合わせて作業を組み替える。
或いは、状況を調査し、意思決定をする。
個々の部分の問題点を抽出し解決する。
決定事項を伝達する。
自分達が得た情報を交換し、方針を決める等が、主たる働きである。
会議やプロジェクトも仕事、業務であるならば、必ず、指示命令系統に組み込まれていなければならない。
すなわち、会議やプロジェクトチームを管理する部署を明確にしておく必要がある。
つまり、会議やプロジェクトチームが、誰の指揮下に入るかである。
総ての人に全体が見えているわけでもないし、総ての人に、全体が見えるわけではない。
組織を構成する一人ひとりは、自分が見える範囲の仕事を見て、できる範囲の仕事をしている。
要するに、群盲、像をなでる状態である。
組織の全体像、仕事の全体像を把握しなければ組織も、仕事も制御できない。
また、全体の隅々まで情報が流れないと、組織も仕事も制御できない。
故に、全体を制御するためには、指示、命令系統を張り巡らせておく必要がある。
それが会議、打ち合わせである。
会議、打ち合わせは、指示を作業に変換する働きもある。
また、意思決定をする場でもある。
日本人は、決めると言うと一つの事のように思い込んでいる人が多い。
しかし、一つの事を実現するにも、決める事は、一つでなく、数限りなくある。
一回、一度、一人が、決めれば、総てが片付くわけではない。
断片を集めて、全体を再構築する場が必要となる。それが、会議、打ち合わせである。
また、意思決定会議も、日本人は、話し合うことを目的としているように勘違いしているが、本来の会議は、意見を戦わせた上で決定する協議のような事。
つまり、最初にルールを決めて(決め方の決め方)、時間を定め、ルールに沿って決める場を会議とする。
ルールが決まっていない話し合いは、最初から会議ではない。
会議というのは、スポーツのようなもので、現に、話し合いで決着のつかない事を勝負で決めるというのは、会議と本質的に変わらない。
日本人の多くは、会議や打ち合わせと話し合い、討論会の区別がつかない。
中には、話せばわかると、延々と会議を続ける人もいる。
その為に、会議の前にルールの確認や準備が曖昧なまま実行される事が通例である。
しかし、本来、組織においては、厳格な手続きとルールの明確化は、絶対条件の一つである。
組織では合理的判断が求められるからである。
組織決定は、事実に基づき体系的、合理的、論理的になされなければ、メンバーの合意はえられない。
人は、奴隷人と自由人があり。
組織の決定に参加できる者を、自由人とする。
組織決定は、メンバーの合意に基づかなければならない。
その為に、決定された事、決定に至る経過は開示されている事が求められる。
また、メンバーになるためには契約が求められる。
いずれにしても、組織決定は、論理的で、追跡可能であることが求められる。
故に、近代的組織では記録をとる事が必須とされる。
これらの事を鑑みれば、余り討議する内容はない。
討議、討論が生じるのは、事前の準備不足や根回しが不十分である場合が多い。
会議は、目的を明確にする必要がある。
会議、打ち合わせに限らず、組織では、人が集まって、共同で作業を行う場合は、必ず、責任者を置く。
責任者がいない集まりは制御できないからである。
組織には、「業務の流れ」、「お金の流れ」、「物の流れ」、「情報の流れ」と言った流れがあり、その流れに沿って会議、打ち合わせは行われる。
それぞれの流れを、撚り合わせ、結合し、分流させ、調節し、整流するのが、会議、打ち合わせの重要な役得ありである。
当然、会議打ち合わせは、段階やレベルを一致させる、合わせる事が求められる。
レベルには、時間のレベル、役割(担当)のレベル、局面(全体と部分、平時と有事、後方と現場、人・物・金等)のレベルがある。
組織には、常時、複数の要素の流れが存在する。
また、個々の要素も、更に、いくつかの要素に分解される。
つまり、常に、並行作業、並行作用が働いている事になり、この、複数の要素の相互牽制の働きによって組織は、制御されている。
相互牽制作用が聞かなくなると、組織は、全体の均衡が失われ、制御不能状態に陥り、最悪の場合、分解してしまう。
複数の要素や並行作業の流れを、つなぎ合わせる役割も会議や打ち合わせにはある。
要するに、会議、打ち合わせというのは、組織や、業務の中の部品に過ぎない。
特に、前後、左右の仕事や情報を結び付け、接続するのが、主たる目的だから、仕事全体の流れと照合しないと効用は評価できない。
資料も、情報や業務の結果から導き出されるもので、会議や資料は、それ自体、単体で成り立っているわけではない。
報告や、決済用の書類が、一定の仕様に基づくのかというと、そうとは、限らない。
使用目的によって書類の仕様は変える必要がるからで。
例えば、予実績を管理しようとしたら、一枚の帳票で予算と実績を照合する必要がある。
会議は、指揮、統制の場であり、調節の場。
それを前提に報告と確認をする。
現代の組織で重要なのは、記録である。議事も記録されなければならない。
会議は、仕事の中継点に位置し、情報を集約するからである。
会議は、組織的な仕事の成否は過程にある場合が多く。
常に、作業の検証、追跡可能性が求められているからである。
組織には、儀式は付き物である。
儀式の意味をよく理解し、活用する。
組織は人の集まりだと言う事である。
人は理屈だけでは納得させることが難しい。
総ての人を納得させるためには、目に見える形にすることである。それが儀式である。
組織を操作する手段は、儀式やミィーティングである。
礼儀、作法として形式化してあった。
組織にも仕事にも始まりと終わりがあるり。
組織にも、仕事にも、起動操作と終了操作がある。
組織も、仕事も、開始時点は、初期設定であるから入念、丁寧にやる必要がある。
開始には、ガイダンス、オリエンテーション、キックオフ・ミィーティング、顔合わせと言った、会議やミィ―ティングや、手続きを組み合わせて実施する。
人数が多くなった場合、いくつかの集団に分け、順序を決めって、組み立てる。
開始イベントと言っても一かいとは限らない。
開始に限らず、通知や伝達、指導は、いくつかのイベント、会議、説明会などを組み合わせるのが通例である。ワンセットである。
日本人は、ハッキリさせるのが嫌い、苦手だ。
決めると言う段階になると、いきなり曖昧になったり、自分で決めなければならない事を決めさせようとしたり、話をはぐらかしたり。
自分一人の時は、それでもいいが、組織は、そうはいかない。
組織に、決心を認識させる為には、曖昧な態度は許されない。
組織では、誰が決断するか決まっているのである。
決めるべき人が決めて、手続きをとらないと、組織は決定として認知しない。できない。
リーダーが思っているだけでは、決心しても、組織がそれを認知しなければ、組織には伝わらない。
組織を起動するにしても、組織を操縦するにしても、組織に自分の思いや決心を認知させる必要がある。
トップの決心、会社の方針、考え等を組織に認知させるのは手続きである。
また、手続きを実体化する手段が、会議や儀式がある。
よくシンボルや、儀式、式典を無意味な事として排斥する者がいるが、それは、組織を動かす原理を知らないか、組織そのものを否定しているかだ。
ただ、意味も解らないで、儀式や式典を排斥するのは危険な行為である。
なぜなら、組織の統一性が保てなくなり、組織が土台から瓦解してしまう危険性があるからである。
儀式は、組織の思想や方針などを象徴的に表した事と言える。
国家や軍で儀式を重んじるのは当然の事である。
民主主義は儀式で保たれていると言ってもいい。
決して、全体主義や独裁主義だけが儀式を重んじているわけではない。
儀式を侮蔑するように仕組まれたのも、日本人が一致団結できないようにするためである。
反体制勢力は、団結する為に儀式を重んじている。
国家も一つの組織なら、国家的行事や式典を破壊する事は、国家を転覆する事にもつながる。
一つ、組織は人によって作られたシステムである。
組織は、人によって作られるシステムである。
同じ形の組織でも、配置される人によって全く違った組織になる。
そこが、機械的に作られた組織とは決定的に違う。
例えば、野球のチームを思い浮かべればいい。
故に、マニュアルや設計図だけでは、組織はできない。
人の心や性格、能力が鍵を握るのである。
組織は、システムであるから、起動操作をしないと動かない。
同様に、組織は、決定を組織的に認識しないと従わない。
起動操作は宣言であり。
手続きと儀式を組み合わせて実行されるのが一般的である。
一つ、組織にはルールがある。ルールとは法や規則、掟を言う。
組織は、車や電気製品と同じ、システム、仕組み、機械であるから、操縦、操作するためには、決まり事、ルール、手順がある。
ルール、手順に従わないと、組織は、上手く動かない。
うまく動かないと腕力を使って動かそうとする。
それが、パワーハラスメントの原因となる。
組織は、人によって作られたシステムである。
基本は、人の役割、働きによって組織は組み立てられる。
役割と働き、作業は、結び付けて考える必要がある。
役割、働きは、権限、責任の根拠となる。
組織を動かすためには、組織に、組織を動かすプログラムをコーディングしておく必要がある。
組織に、プログラムをコーディングするのは、日常的な指示、命令、報告、確認である。
人を代えずに、単純明快に、反復し、繰り返して指示する事で、組織に覚え込ませていく。
気紛れや場当たり的、繋がりがない、指示命令を繰り返すと、組織は制御できなくなる。
組織は、人の集まりだから、最終的には、人に依存している。
組織は助け合いの関係を構築する事を意味する。
いかに、人と人を連携させるかがカギを握っている。
組織の根本は、協業、共働、チームワーク、分業だと言える。
この点が、単なる集団、群れとの違いである。
組織のベース、基盤は、人間関係である。
人には人の要素がある。
人の要素、位置と働きによって人間関係は形作られる。
人の位置と働きと関係のよって権限と責任が生じる。
人と人が協力し、人との仕事を分担して遂行する為には、人と人の関係や仕事を取り持ち、組み合わせ、制御しなければならなくなる。つまり、まとめ役が必要となる。
これは、組織固有の仕事であり、管理業務と言い、管理業務に従事する者を管理職という。
管理業務には、権限と責任が伴う。
なぜなら、人と人の関係や作業を裁定するのが、管理業務の基本だからである。
管理者がいないと、組織は、束ねや要が存在しない事になる。
人々が共働する為に重要なのは行動規範である。
だから、組織では、モラルや常識が問われる。
最低限、約束は守る、法や規則に従う、嘘はつかない、盗みはしない、仲間に暴力は振るわない等の道徳は要求される。
仕事は、管理されないと、分業が成立せず横並びとなろ。
横並びの組織は、単なる群れであり、組織とは言えない。
なぜなら、人と人を連携したり、関係づける事が出来ないからである。
組織には、集団を差配したり、支配する束ねや要が必要である。
束ねや要を欠くと組織は制御できなくなる。
管理職は、組織を構成する単位のつなぎ役、連絡役でもある。
管理者一人が、同時に統制できる人数には限りがあり。
これを、スパン・オブ・コントロールという。
諸説あるが、一般に五名から十名程度、単純なライン業務であれば、二十名から三十名程度とされる。
経験的に考えると、スパン・オブ・コントロールの適正人数は、五人から七人、最大でも十人ぐらいかなと考える。
この範囲であれば、管理者が部下の進捗状況を適切にフォローアップし、個別のサポートやフィードバックを提供できるとされています。
管理者がピンの働きをして組織単位を接続していく。
その結果、階層的ツリー構造を持った指示命令系統が形成される。
スパン・オブ・コントロール、管理限界は、ヒエラルキーを生み出す原因となる。
管理限界は、必然的に、組織に階層を作るからである。
階層に、既得権益や権力が癒着すると階級化し、ヒエラルキーが派生する。
ヒエラルキーが問題となるのは、人の能力が一定ではない事にある。
また、人の能力には、限界があり、しかも、一定の年齢でピークに達し、以後衰えていくと言う事にある。
多くの人は、二十代後半から、三十代後半にかけて、ピークを向かえる。
十代、二十代、三十代、四十代、五十代、六十代、七十代の人間に百メートルを全力疾走させると、その差歴然とする。
人は老い、衰える。
人材育成の基本は、二十代で、仕事の基本を学ばせ、三十代で一分野の仕事に責任を持たせ、四十代で一部門を任せ、五十代で経営に参画させると言う構図だが、これは最初から無理がある。
技術革新がなくて百年も二百年も同じ仕事をやっていればいいのと。
現在は違う、五年、十年、最近では、一年、二年で仕事のやり方ががらりと変わってしまったら、それほど、時間をかけて指導できない。
また技能も若年層の方が熟達が早いと言う逆転現象も起こる。
人間の能力は、三十代から、四十代でピークに達するから、どうしても五十代、六十代の人間は保守的になり、地位や既得権の固執するようになる。
大体、一人の人間が管理できるのが、五人~七人だとしても。
逆に言うとポジションは限られている。
だから、ヒエラルキー【組織の階層】は、ピラミッド型になるので。
上に、行けば行くほど、地位を与えられる者は限られてくる。
萬年課長とか、支店長というのは、私が若い頃から言われてたことで。
それが、ピークに達するのが、団塊の世代の時。
この様な体制が成り立つのは、人口構成がピラミッド型で、また、市場も会社も、常に拡大、成長している事が前提となる。
また技術革新もなく、百年も二百年も同じ仕事をしてれば生活できる事。
高度成長時代ならかろうじて成り立ていた。
しかし、それも見せかけで、当時から、多角化、高くたと叫ばれたのはポジションを増やすため。
そんな動機で多角化しても上手いきようがない。
そうは言いても、放置すれば、青天井に固定費が上昇し続ける。
現代のように、少子高齢化、人口構成が逆ピラミッド型で、市場も縮小均衡。会社も経済も低成長時代に入ると成り立たなくなる。
団塊の世代の時は、役職をたらいまわし。
定年間際になってやっと管理職、課長、支店長にたどり着けたと言う人もざら。
こうなるとに担当者時代が長すぎて、管理職としての責任なんて持ちようがない。
この様な企業のヒエラルキーだって、それが成立したのは戦後。
それ以前は、世襲が主流だった。
つまり。家老の子は家老。番頭の子は番頭。
足軽の子は足軽、農民の子は、農民と身分が構成され、世襲化された。
いずれにしても、このような組織は弊害が強くなり、限界に達した時変革せざるを得ない。
それを回避するための組織設計が今盛んに試みられている。
しかし、それは自分たちの問題としてとらえ自分達で解決していかなければならない。
人が一生に獲得できる能力は、ピークで限界に達する。
一旦ピークに達すると後は衰えていく。
だから、若いうちが大切なのだ。
若いうちに行けるところまで行っておく必要がある。
若い時に、寝食を忘れて打ち込む事が出来たら、その人の持てる能力を最大限に発揮できるようになる。
若い時、鍛えないで遊ばせてしまうと、能力は不完全炎暑になりいつまでもブスブスとくすぶる事になる。
特に決断力は、場数、経験値に大きく左右される。後悔先に立たずである。
だから、若いうちに責任を持たせ決断する場を踏ませる必要がある。
スポーツ選手などで、プロとアマチアのの差はどこでいつ形成されるのか。
それは、十代後半から二十代前半にかけて厳しい練習と専門訓練、試合を通じて鍛えるからで、意帝の年齢までにはじめて、一定期間継続する事による。
ヒエラルキーが、固定化すると、往々に、能力のピークを過ぎても組織上の地位は上昇し続け。
そして、地位の上昇に伴って処遇、待遇、所得も上昇する。
役割と仕事、能力、実績と評価が一致しなくなり、勢い、報奨も権限も不公正なものになる。労働に対する適正な評価が行われなく、信頼関係が損なわれ、組織が正常に機能しなくなる危険性をはらむ。
また、階級が、一人ひとり、本来の実力から乖離し、門閥、出自、コネ、学歴、年功などと結びつくと、不公平感を充満させる原因にもなる。
組織は、常に、状況や環境の変化に適応する事が求められる。
ヒエラルキーに支配されると組織は、形骸化し、衰退する。
ヒエラルキーが強く働くと、権力が、組織本来の働きよりも、ヒエラルキーを守るために、行使されるようになる。
管理原価によって派生する、ツリー構造には、権限と責任が伴うが、それと、仕事の成果とを切り離し、評価に結び付けるのも、一つの解決策である。
人は、皆、違う。一人ひとり個性がある。
人には、性格、能力、経験、技術、知識、価値観、学歴、特技、病気、各種障害、年齢、性別、家族などの個性がある。
公式の組織は、このような個性を勘案し、役割を与え、結び付ける事で組み上げる。
また、非公式な組織は自然に形成される人間関係の上に構築される。
この公式的な組織と非公式な組織の相互作用によって組織は動いている。
人には、優劣があり、得手不得手、強味弱味もある。
人は、一人ひとり違う。同じ人はいない。
一人ひとりの違い、差を正しく認識する事なのである。
組織は、一人ひとりの違いを組み合わせる事で成立するのである。
短所を補い合い、各々の長所を生かす事が組織を生かす。
それによって報酬に差が生じるのは、仕方ない。
労働と成果、報酬の関係はそういうことだ。
差をつけること自体、悪い事ではない。差別でもない。
働きにも、差にも、よらないで報酬に差をつけたりするのは差別である。
成果にも、働きにも、能力にも差があるのに同等に扱うのは、差別である。
人は働きに応じて、差をつけるのが自然である。
一生懸命、働いている人と怠けている人。
全体に大きく貢献している人と、怠けて、何の働きもしていない人を同じ扱いにするのは、却って不公平である。
また、成果に違いがあるの、同じにはできない。
働きや効用に応じて報酬を分配する事は、悪い事ではない。
分配の利の理にも適っている。
問題は、働きもなく、成果もあげられないのに、既得権のによって過剰の報酬を受ける事である。
そして、それが累積し、固定化し、分配に不公平が生じるから、問題なのである。
力のない者は、年齢とか、性別とか、人種とか、既得権で差をつけようとする。
一つ、組織には、役割がある。
一人の人間にできることには限りがある。
組織は、本来、分業によって形成された。
分業は、何も人間だけがするわけではない。
蟻や蜂のような昆虫でも分業している種がある。
分業の為に自分の体の一部を変異するものも現れるくらいである。
組織は、協業であり、各々の欠点を補い、長所を発揮させることが目的である。
役割を分担する事が、組織の基本である。
分業、つまり、一人ひとりが役割を持ち、分担する事が組織の根本にある。
それは、一人ひとりの役割、業務を明確にし、責任を明らかにして、それを一人ひとりに振り分ける事が求められる。
その事から、部分を担う一人ひとりの仕事以外に、全体を制御し、統制、統御、管理する業務が派生する。
役割から権限と責任が生じる。
組織は、人と役割と働き、権限を組み合わせる事で形成されると言っていい。
役割とは、言い換えると仕事である。組織的な仕事を業務とする。
言い変えると、組織から与えられる仕事が業務である。
業務には、単一で、単純な作業。
第二に、管理の為の仕事。
第三に、スタッフ業務。
第四に、経営業務がある。
単純な作業は現業を構成する。
組織は、仕事と人を組み合わせることによって構成される。
組織は、仕事(作業)の塊、集合ともいえる。
組織は人の集合でもある。
仕事と人が働くと情報が生成される。
つまり、組織は、人の集合であると同時に、仕事の集合、情報の集合でもある。
全体の仕事をいくつかの作業に分解し、分担して遂行する事を分業という。
作業は、即物的な実体がある。有形な業務である。
それに対し他の業務は、基本的に無形な業務である。
会計のように、帳票への記帳なども作業と見なしていい。
また、販売や配送など実体の伴う仕事は即物的作業と見なしていい。
有形な業務である作業は評価しやすい。行為、動作が、仕事の結果に即物的、直接的に表れるからである。評価の、基準としては時間、成果、実績等がある。
それに対して無形な業務は評価がも難しい。
評価の基準を、実体的な結果に結び付けにくいいからである。
無形な業務は基本的に作業のベクトルを合わせ統合的な機能を発揮させるために全体を制御する事を目的とする。
分業の形には、水平的分業、垂直的分業、機能的分業がある。
水平的分業とは並列的分業。
垂直的分業とは階層的分業。
機能的分業とは働きの違いによる分業を意味する。
管理業務の対象には、人、物、金、情報がある。
スタッフの業務には、企画(政策立案、戦略立案、予算等)、情報(調査、情報収集、分析、予測)、後方処理・支援(在庫管理、物流等)、研究・開発がある。
経営の業務には、組織統制、規律、投資、金融、評価等がある。
組織に所属する者は、必ず、何らかの役割が振り分けられなければならない。
例え、待機であったとしても。
役割が与えられないと組織と繋がらないからである。
組織は、働きに応じて、いくつかの、部門や支店に分割し、中心となる役割を置かないと統制がとれなくなる。
部門、支店の責任者は、第一に、部門、支店の代表だと言う事。
第二に、指導者。
第三に、差配、支配人。
第四に、まとめ役、調停者。
第五に、中継者だと言う事。
部門、支店の責任者は部門、支店長の代表だと言う事。
部門、支店の考え、要望を取りまとめ、トップにつなぐ代表だと言う事。
他の部門との調停調整をとり、全社の統一を保つ。
部門、支店の責任者は、部下を指導し、育成する。
リーダーだと言う事。
部門、支店の責任者は、リーダーだと言う事を忘れてはならない。
リーダーに求められるのは、メンバシップではなく、リーダーシップ。
部門、支店の責任者の役割は、自分が任せられた部門、支店の意思統一を計り、配置、分担、担当を決め。各々の仕事の進捗状況、仕事配分を調整し。勤怠を管理し、実績を評価し、会社の方針、考え方に従って目標を達成し、成果を上げること
また、部門、支店の責任者の役割は、バランサーであり、中継者だと言う事。
つまり、部門、支店のバランスを保つ。仕事や役割に極端な不均衡が生じないように仕事や作業を組み立て、組み替える事。
部門、支店の責任者の役割は、トップの考えや会社の方針を自分のものにして、部下に浸透させる。
つまり、中継役だと言う事である。
間違わないでほしいのは、部門、支店の責任者は、担当者とは違う。
リーダーは、自分の考え、方針で部門、支店を統一しなければならない。
自分の考えと言っても、自分勝手では独善になる。トップンの考えや会社の方針を自分の血肉として、部下に伝える。部下に自分の言葉として説明し納得させることが求められている。
その上で、自分たちの仕事をする。
仕事の根本、組織の根本は共鳴共感あある。
ところが、戦後、学校では、正反対の教育をしてしまった、そのために、組織は求心力を失い。
組織本来の力を発揮できなくなっている。できなくされてしまった。
我々は、反体制。反権威、反権力思想を吹き込まれ、反逆の美学のような事を刷り込まれた。
確かに、不正や、変革を拒む者と戦う事を、非とはしないが、反対の為の反対は百害あって一利なし。
しかし、組織が最も力を発揮するのは、メンバーがリーダーに共鳴共感した時だと言う事を忘れてはならない。反体制、反権力を標榜した者も、抵抗の為の勢力を結成する為に、反権力、反体制に対する共鳴共感を求めたのである。
総ての作業は、抜け漏れなく、重複なく、総て洗い出し、メンバーに振り分けなければならない。
一つの作業は、一人の人間に委ねられる。
ワンマン・ワンワークの原則。
多重、重複を避ける。
故に、定義は要件定義となる。
メンバーは、役割を与えられる事で、組織のおける、位置と働きと関係が定まる。
位置が配置を意味し、働きが、作業、業務を意味し、関係が、指示・命令系統を意味する。
組織には、実際に働く現業部分と組織を管理する管理部分からなる。
それが、組織の実体的階層を形成する。
組織には、直接部門と間接部門がある。
何を直接部門とするか、間接部門とするかの解釈はいつ様ではない。
ただ一般に現業に直接かかわる部門を直接部門、それ以外を間接部門とする事が多い。
役割には、直接作業をする、直接的役割と、直接仕事をせずに作業を支援する後方を準備したり、また、組織を運用する、二つの役割がある。前者を現業部分と言い、後者を、管理部門とする。
ただ、それぞれの役割は、概念的に定義されるではなく、要件的に定義される。
役割が確定したら人を配置する必要がある。
将棋の布陣、金銀の配置の様な事である。ただ、将棋は、金、銀と言った働きや役割は、歴然としているが、現実の組織は、そのような役割が明確なわけではない。
例えば、ライン&スタッフといってもラインとスッタフが明確に区分されているわけではない。
組織を構成する機関には、組織を動かす役割の機関と、状況、環境を認識し、分析、判断、意思決定する役割の機関がる。
組織を動かす機関は、指示を一方向に伝達するのに対して状況、環境を認識する機関は、情報を中央に還流する仕組みである。
伝達する働きと環流する双方向の働きによって組織は維持されている。
役割と簡単に言いうが、組織は、最初から、役割が決まっているわけではない。
組織には、組織固有の役割があり、それを、理解しないと組織設計も組織編制もできない。
組織固有の役割の典型は、事務局である。
事務とは管理である。組織固有の役割の多くは、組織を管理、運用する部分であり、そこを担うのが事務局である。
組織を管理、運用は、組織の起動、組織の運用、情報を裏から担う部分で、基本的に手続きと文書管理という形として現れる。ただ、今日ではシステム化が進んでおり、システム管理も含まれると考えていい。
また、組織の基盤である、制度や規則、制度の改廃、指示命令系統の保修、メンテナンス、物品管理、設備管理などである。
情報管理から、文書、データの記録、保管なども事務の一部と考えていい。
この様に、組織の起動、運用、管理を担う部分であるから、組織を立ち上げる際、早い時期に起動させる必要がある。
準備、先行的、役割を担うから、組織が正式に起動する前に発足させる場合もある。
組織編制を甘く考える人は、あたかも、組織は最初から役割分担が決まっていると錯覚している人が多い。
組織設計は、ある意味で、アートの部類に属すると言っていい。創作的部分が多いのである。
人的システムの中心はリーダーである。
リーダーは、束ね。
サブ、スタッフが準備し、リーダーが決める。
例えば、朝礼とかは、ラインの束ね、番頭がしっかりしていれば、トップ、旦那は自由に振舞える。
それは、リーダーとスッタフの違いで、リーダーは決心し、スッタフは、決心できる状況を準備する役割、立場からくる。
決心する者は一瞬にかけ、準備する者は、堅実でなければならないかr。
リーダーは不確実な部分を、用意する者は、確実なところから。
それが役割の差となる。
リーダーシップは、人それぞれで、自分で勝ち取るしかない。
いろいろなリーダーの話を聞くとか。
だから、いい映画を見てほしい。
できればたくさん。
絶対というのはなくて。
人徳、人柄、考え方がね、決定的なんだ。
咄嗟の判断が求められるから。
立場によっても違ってくる。
教えられない。
過去のリーダーが、いろんな状況で、どんな決断をしたか、見て実地に、学ぶしかない。
役割の中で、最も、重要なのはリーダーだが、絶対的な形があるわけではない。
リーダーの役割は、一人ひとりの個性によるところが大きいからである。
また、リーダーは最初から決まっているわけでもない。
リーダーの形には、議長型、キャプテン型、マネージャー型がある。
議長というのは会議体をベースに組織を制御するタイプ。
キャプテン型というのは指示、命令によって組織を直接的に制御するタイプ。
マネジャー型は、管理機構を使って間接的に組織を制御するタイプを言う。
大学に入学したら、即、監督になれるか。
大学に入学できたからと言ってリーダーになれるとは限らない。
リーダーは、知識や技術だけが問題なのではない。
単に、マニュアルや、教科書でリーダーは育てられない。
リーダーになるためには、メンバーに認められなければなれない。
人は、皆に承認されて、リーダーになる。
リーダーには、なるのである。
リーダーに選ばれた、可及的速やかに指示を出す。
指示をする事でリーダーとして、組織にする込むのである。
リーダーは決断するのが仕事。
リーダーの仕事は、組織、人を統率する事であって、組織のメンバーの仕事全般に責任を負っている。
だから、リーダーは、権力者なのであって、決めるべき時に決める。
組織的な決定、指示、命令には、統一性、一貫性、整合性が求められる。
人は、相矛盾した複数の指示には従えない。
人は、相矛盾した複数の指示には従えない。やるのか、やらないのか、はっきり決めなければならない。
赤なのか、白なのか、黒なのか、ハッキリさせなければならない。
人は、一人では生きていけない。だから、組織を作るのである。
また、作業には時間がかかる。指示、命令は、作業に用する時間を考慮して出されなければならない。
作業は、単独で存在するのではなく。前後左右、都の作業と連携しいて成り立っている。
当然、時間の制約がある。
また、自分の仕事がうまくいかなければ、前後左右の仕事に関わっている人にも影響が出る。
作業は、流れている。
予定した時間までに、出来なければ、できない事がわかった時速やかに、出来にと速く申告する事である。
担当と指名されたから、担当の仕事が出来るではない。
リーダーから指名されたら、速やかに指示を出す。
指示を出す事で、組織は起動するのである。
役割ではなくて、役を演じる。
守備位置は変わらなくても、配置される人のよって全然、違うチームになる。
役者が違えば、まったく違う部隊になる。
つまり、投手としての役割をはたすだけでは野暮だ。
ピチャーという役割でなく。大谷という役を演じる。
そうしないと試合は作れない。
ただ、ボールを投げて、打つというのではなく。
大谷が投げてトラウトが打つ。
だから、一服のドラマができる。
機械が投げて、機械が打ってもドラマにはならない。
よくいわれたよ。
役者がそろわないと仕事にならない。
社長は社長を演じるのだ。
主役だけでは、舞台は成り立たない。
名わき役も必要。
脇役は主役を食うな。
自分の役割ではなく、役は何かを考えろ。
役を得ろと。
人生、自分の役だよね。それを見つける事さ。
三国志は、組織の生成期から、発展と言った過程をよく表している。
三国志で組織の始源は、「桃園の誓い」「桃園結義」であろう。
一つ、組織のメンバー、一人ひとりに位置と働きと関係が定められる。
組織の総てのメンバーは、位置づけられる。位置とは配置である。
組織の総てのメンバーには、仕事、役割が与えられる。
組織の総てのメンバーは、誰の指示に従わなければならないかを決められる。
位置と働きによって権限と責任が決めら。
組織には機能があり。機能とは働きだから役割に基づく。
その機能によって配置は決まる。
配置によって組織の外枠、形が形成される。
組織も、会議も、仕事も、作業も形がある。
それは、組織も、会議も、仕事も、作業も、多次元的、構造的だからである。
組織も、仕事も、会議も、作業も、人、物、金、情報、時間の次元を持っている。
だから、一対一の命題では表現しきれない。
目的と方針は頭で決める。
目的や方針を頭で決めて、段取りをつける。
仕事の段取りは、基本的に「何をするか」が、一定に手順で表れてくる。
その手順に沿って、細目を詰めていく。
ただ、調べる時には調べる。
記録する特は記録する。
整理する時は、整理する事に集中する。
そうしないと組織を制御する事は難しい。
誰が、いつ、何を、調べる(情報を集める)のか。
誰が、いつ、何を、記録する。(記入)
誰が、いつ、何を、整理する。(並び替える)
誰が、いつ、何を、分類する。(仕訳)
誰が、いつ、何を、再編集。(集計)
誰が、いつ、何を、決めるのか。(決定)
先ず、何をするかの手順を覚える。
その手順に沿ってその他の要件、枝葉をつけていく。
何をは、並行的に出てくる。
場所を調べる。
メンバーを調べる。
日時を調べる。
等など。
誰がは、その局面きょくめんでリーダーが決めていく。
これらの予定を組み立てると計画が立ってくる。
組織は、横の水準、縦の水準を合わせるように調整をしつつ、粛々と進めていく。
これがマネージメントの極意。
図表、図形、グラフ、マトリクス(行列)、表のようなものを用いないと表現しきれない。
会社組織を機能によって分類すると、一般的には人事、総務、経理、購買、営業、発送(配達)、情報、在庫管理などに分類される。
このうち、人事、総務、経理、情報は、共通的な機能であるが、購買、営業、発送(配達)、在庫管理に相当する部分は、業種業態によって違ってくる。
人事は、更に、人事、労務、採用、教育と細分化され、経理は、財務、会計と細分化される。
かつて、総務とされた部分で文書管理は、情報に取って代わられてきた。
民間企業の組織の形、形態には、次のようなものがある。
一、機能別組織
一、事業別制組織
一、マトリクス組織
一、カンパニー制
一、チーム制組織
一、ネットワーク型組織等がある。
新しい形としてネットワーク型の組織が台頭してきた。
ネットワークというのは、一つの企業が単体で機能するのではなく、複数の企業と並行的に結びつ事によって一つの事業を遂行する形である。
指示命令系統の情報の流れは、不可逆的、一定方向に流れるために、他の部門との連携や相互牽制が働かなくなったり、また、作業の進捗管理、水準合わせが出来なくなり、組織全体の均衡が保てなくなる危険性がある。
全体の均衡が保てなくなると組織が制御不能になり、暴走を防げない。
制動装置が作動しなくなるのである。
その様な弊害を防ぐために、目的に応じて横断的な会議体、情報ネットワークでカバーするのである。
会議には、目的や機能によっていくつかの形があう。会議の目的には、次のような事がある。
一、意思決定。
一、連絡報告。
一、確認。意思統一。
一、顔合わせ、宣言。自己紹介。説明。
一、予実績管理、進捗管理。
一、問題解決。企画。
一、検討、意見交換。
一、通知通告。発表。
一、教育。
一、面接、聞き取り調査。会見。
一、審問、査問、諮問。
会議はすべてルールに基づく。故に、議長は会議の冒頭、会議の目的とルールの確認から始めるのが、習わし。目的によって、会議の形式、構成、メンバーは、変わる。
会議には、定例会議度、随時開く会議がある。
定例会議とは、一定の周期、同じ目的で開かれる会議で、出席者も基本、同じとされる。
定例会議の重要性は、定例会議は、組織の全体像を俯瞰的、横断的、階層的に管理するための会議だからである。
指示・命令系統が組織を直接的、個別に動かすのに対し、定例会議は、組織を統括的、横断的に動かす。
相互牽制によって、組織の暴走や解体を防ぐ、箍をはめる役割をしている。
その為に、役員会議、幹部会議、部長会議、支店長会議、課長会議、担当者会議と横断的、階層的な会議となり、会議間の関係と連絡が重要となる。
また、指示命令が個別の意思決定に関わっているのに対して、定例会議は、統括的、統制的総合的な意思決定に関わっている。
定例会議は、その性格から、一定の期間、出席者の水準、議題の固定など、均質、定型性が求められ、階層的な会議になる。
つまり、一定の周期で、同じ職位のメンバーで、あらかじめ定められた議題を審議する。
ただ、定例会議は、部門間の調整という性格があるため、出席者は部門の代表、欠席する場合は代理を立てるのが原則である。
非定例会議には、委員会、審議会、査問会議、プロジェクト会議、面接、ヒアリング、キックオフミーティング、ガイダンス、オリエンテーション、問題解決会議などがある。
決定権の有無、内容、範囲によって会議の性格は決まる。
会議には決定権はあっても、指揮権はない。指揮権は権限に基づくから、権限が与えられた者が、改めて指示をし、会議の主催者に報告をする。
例えば、諮問委員会は、会議を主催する個人、或いは、機関に意見を具申するのが役割で、議決権はない。
ここでいう議決というのは、強制権で、諮問機関は自分たちの出した結論を矯正する権限を与えられていない。
無論、強制権を与えられている会議もある。それは、予め、権限の委譲をしてもらっておく必要がある。
また、強制権はあっても指揮権はない。
立法と行政の違いである。会議は法的な強制権は持てても行政的な指揮権は持てない。
また、審問、査問的な会議は司法型の会議である。
この様に会議には、その性格から立法、司法、行政の形がある。
話し合うことが目的なのか、決めるのが目的なのか、予めハッキリさせる。
ただ、話し合いは会議の目的にはならない。
なぜなら話し合うのは手段だから。
要は、何をするのかを決める。
何をするかを決めたら、後は、行動あるのみ。
決断と行動、あるのみ。
決めるべき時に、決めるべき人が、決めべき事を決めないと、組織は機能不全に陥る。
審判は、一球いっきゅう真剣に判定しているんだよ。
一球たりとも、いい加減に判定したりはしない。
一つ、組織には、階層構造がある。
組織は、システムであり、一般に、組織の持つ階層構造と同じ階層構造を組織も持っている。
組織は、情報系であるから、情報系としての階層がある。
組織は、法の階層。情報的階層。物的階層。人的階層。会計的階層の五層からなる。
それぞれの階層が独自の場を構成している。
場を結びつけいるのは、人的要素である。
組織は、多次元で立体的である場合が多い。
法的階層は、規則や制度を構成し、物的階層が製造や設備、物流を構成する。
会計的階層が、収支、損益、貸借を構成する。
情報的階層が指示命令、ネットワークを構成する。
組織の始まりは、契約である。誓いである。
契約から法や規則、掟が生じる。
盃を交わすというのは典型的、契約である。
契約から権利と義務が生じる。
人的階層には、公式、非公式の階層があり。
非公式な階層は人間関係によって形成される。
インターネットのOSIモデルは、組織の構造を考えるうえで、非情に示唆に富んでいる。
OSIモデルでは第一層を物理層、第二層をデータリンク層、第三層をネットワーク層、第四層をトランスポート層、第五層をセッション層、第六層をプレゼンテーション層、第七層をアプリケーション層と定義している。
一つ、組織は、時系列的の構造がある。
組織は、発展段階の応じて変態する。
また、環境や状況の変化に合わせても変態する。
組織は、状況、環境に適合する必要がある。
組織には、変わり続ける部分(変易)、変わらない部分(不易)、それらを結び付ける働き(簡易)がある。
事業には、生成、発展、成長、成熟、衰退、再生という段階があり。
一つの仕事にも、企画、準備、実施、後処理の段階がる。
また計画にも、概念計画、基本計画、実施計画の別がある。
これらの段階や局面によって、組織編制は変える必要がある。
例えば、平時と緊急時では、組織が成立する前提条件も、性格も、目的も変わる。
また、企画段階、準備段階、実行段階、後処理段階でも、組織を成立させる前提条件も性格も変化する。
段階ごとに組織は変態する。
また、状況に合わせて組織を組み替える、変態させる機構を最初から組み込んでおく必要がある。
企画組織、準備組織、実行組織、後処理組織は基本的に違う。
それぞれの段階によって編成を変える必要があるが、条件や設計思想によって編成の仕方が変わってくる。
同じメンバーで一貫する場合。
都度つど、メンバーを変える場合。チームを変える。
外部のチームと連携して進める場合。別動隊を置く場合。
個々の段階を並行的に進める場合。
直列的に進める場合。
手法として有名なのは、ウォターフォール方式やアジャイル方式等。
組織は、一人では、仕事ができない仕組みになっている。
場所を決める事一つにしてもね。
誰に、提案し。誰が決めて、誰の指示で場所を手配したのか。
一人ではできないようにできている。
何故、一人では決められないような仕組みにするのかというと。
一つは、不正を防ぐ事。
一つは、他者との連携をとるため。
一つは、やる事の手順を整理するため、
一つ、相互牽制をきかせるために。
一つ、自分の考えを整理するため。
一つは、責任の所在を明らかにし。特定の人に負担が偏らないようにするため。
一つは、自分の仕事を公式に認めさせるため。
一つ、仕事の抜け漏れ、重複がないか確認するため。
一つ、忘れないため。
一つは、ミスがないかを点検する為。まあ安心するためだよな。
一つ、お金の問題。金銭的リスクを分散する為。
一つは、自分しかわからないといざと言う時困るから。
こんなわけで、一人では、何も決められないようにできている。
仕事を引引き継ぐ際、誰が決めて、誰の指示に従ったかを確認しる必要がある。
その上で、改めて段取りしないと、何も決められなくなる。
組織決定は、基本的に、提案、決定、承認を別々に担当する。
別々にすることで組織に決定を認知させる。
ある意味で、組織は煩わしく、面倒なものなのである。
うるさい組織、邪魔な組織、鬱陶しい組織、目立つ組織は、健全な組織とは言えない。
独裁的組織、全体主義的組織は健全とは言えない。
組織というのは、もともと、人によって作られていて、人の能力、特に、潜在能直を最大限に引き出す事を目的としている。
だから、組織は黒子、縁の下の力持ち的な存在なのであって、組織が目立つと言うのは、組織が正常に作動していないからである。
また、組織は、常に、環境、状況の変化に適合しなければならないから、基本的に双方向の力が働き、情報が還流していなければならない。
組織が、正常に機能していないから、組織が際立つのであり。
組織が正常に働かなくなると、個人の力、腕力で組織を強引に動かそうとする。
我から、かえって、組織が目立ち、障害になるのである。
組織というのは、もともと、人によって作られていて、人の能力、特に、潜在能直を最大限に引き出す事を目的としている。
だから、組織は黒子、縁の下の力持ち的な存在なのであって、組織が目立つと言うのは、組織が正常に作動していないからである。
では、どのような組織が、理想的、最終形なのかというとプロスポーツの仕組みに゙ヒントがあると、私は思う。
特に、NFLアメリカプロフットボールリーグは、一つの形を作っていると考えている。
一般に、スポーツのチームを一つの組織、或いは、組織の一単位として考える事があまりない。
しかし、スポーツのチームは、まぎれもなく組織である。ただ、スポーツのチームは、チーム単体で成り立っているのではなく、フロントや相手チーム、リーグ、審判チームなどが組み合わさって全体を構成している。
また、スポーツは、万国共通に成り立つ事を可能としている。それがオリンピックと国際試合や組織を成り立たせてる。
また、スポーツの選手は組織を意識せず自由に力を出し切っている。
まったく、意識をせずに、選手一人ひとりが力を発揮する時、組織が最大限の効用を破棄する。
それが、理想的な組織だと、私は、思う。
ただ、スポーツが成り立つためには、一人ひとり、全員が研鑽しなければならない。
試合に携わる者は、最低限のルールを、身につけておかなければならないし、技術もなければならない。
つまり、理想的とされる組織は、一人ひとりに自覚とモラル、ルール、信頼関係の上に成り立っている。
しかし、これらは、民主主義の根幹的理念でもある事を忘れてはならない。
理想的な組織は、契約に基づく権利と義務、一人ひとりに与えられた任務、責務に基づく権限と責任によって成り立つ信頼関係を基礎にしている。
正しい組織は、一人ひとりに自分の使命を自覚させる。
所詮、権力は、権力闘争なので。
権力は、与えられるものでなく、勝ち取るものだ。
権力は、闘争を勝ち抜いた者でしか担えないような重責であり、実力も、人徳も問われるのである。
選挙はそれを公式化し、ルールに基づいた制度のよって公正さを担保しているだけ。
要は、闘争を競技化しただけで、勝負事であることに変わりがない。
勝ち負けをハッキリさせる。
権力闘争をしてまで権力を手に入れたいからには、権力に、それほどの魅力がある。
あるいは、なければ、誰も、権力なんて欲しがらない。
権力には絶大な力がある。それこそ、生殺与奪の件である。
また実力のある者が選ばれない。
問題は権力によってどのような利得が得られるかが見えない、闇だと言う事である。
だとしたら、その、魅力の元を公開する事で、闇を断つ。
つまり、制約・制限する。
権力者が、不正な手段、或いは、表に出せない裏の社会で、利益を得ようとするから、権力は腐敗する。
だから、白日の下で戦い、また、そのために得られる報酬も公開しておく。
それが、民主主義の根本的理念。言論の自由の哲学的根拠う。
日本人は清貧という思想があり。
力ある者は、清く、正しき、貧しくという間違った観念がある。
しかし、他国は、組織を代表する者はその組織を象徴、代表するのだから、それなりの報酬を得て、余りみすぼらしい、貧相な格好でいてほしくないと考える。それが、世界の常識。
主たる魅力の根源は報酬であり。
権力によって得られる報酬を否定したら、権力は、それを、担う者は出ない。
当然、権力から得られる、権限や責任に伴う報酬が担保されなければ、だれも責任者になりたがらない。
責任だけが問われるだけでであるから、個人的なメリットは何もない。
問題は、報酬に見合う働きのない者が、既得権として報酬だけを要求する事なのである。
責任の重さに応じた報酬を要求するのは、当然の権利。なぜなら、契約に基づくから。
同時に、報奨に見合いう働きをするのは義務である。
労働契約は、文字通り、労働契約であって私は○○の働きのよって✕✕の成果をあげるから、△△の報酬が欲しいと言う事からなる。
そしてそれに伴う権限が欲しい。
権限には当然責任が伴う。
民主主義も、資本主義も契約によってなりたつという意味は、この点ある。
自分は、社員だからとか、入社したからというのは実体的の根拠にはならないのである。
問題なのは、契約をした働きによって期待した成果が上げられなければ、当然、報酬を得る権利も失うと言う事である。
だから、欧米では、仕事や成果について事細かく、予め、取り決め文書化しておくのである。
ところが、日本人は、この点を曖昧にした上で曖昧な不文律による為に、トラブルが生じたたと力関係によって処理しようとする。極力、ルール化し、力の弱い者に負担がいかないようにしないと、組織は正常に機能しなくなる。
権力を手にした者は、闘争心を奪おうとする。
既得権を、与えて手なづけようとする。力ある者は、粛清される。
権力者は実力者を嫌うからである。
その時、権力は腐敗する。
なぜ、民主主義では首長を任期で制約するのか。
権力は、腐敗するからである。
権力者は心しなければならない。
権力を悪用する者は。権力に復讐される。
実力なき権力者は、悪になる。
だからこそ、権力の継承は難しい。
戦争に敗けてから、日本人は、敵と概念を持つ事が許されなくなった。
厳密に言うと、敵を特定することが許されない。
ただ、人民の敵といった、不特定で、曖昧な対象は例外とされる。
なぜなら、反体制派には、欠かせない概念だからである。
敗戦後、日本人は、物事をハッキリさせる事を避けてきたように思える。
最初から、曖昧にしてごまかしてきたから、何もかも欺瞞になっていしまうのである。
反逆、反抗、抵抗は美徳みたいな。
権力に立ち向かうには、それなりの覚悟が必要である。
叛逆、反抗、抵抗が悪いと言うのではない。
ただ、なんの覚悟もなく、信念もなく、展望もなく、反抗しても空しい。
それは反抗の為の反抗で、必ず、組織の締め付けに合う。
また、誰が味方で、誰が敵かを見極められなければ、利敵行為にもなる。
戦後は、何でもかんでも、反対していればかっこがつくみたいな。
戦争に敗けると、体制側につくと自分の身が危ういと言う意識も生じる。
個性とは、他人と違うこととか。個性はあくまでも自分の内にあるので、他人と比較すること自体無意味。
意見は、反対意見。意見は意見で自分の考えに基づかないと責任が持てない。賛成であろうと、反対であろうと、覚悟して、責任を持たなければならない。
自分の言葉とは、言い換えることみたいな。自分の言葉と、言い換える事とは、そもそも、違う。言い換えること自体、自分の考えに基づいていない。
他人の言いなりになるな。一見、それなりの意味があるように聞こえるが、自分の考えを主張とするためには、自分は、何を正しいとしているか、つまり、信じているかを明らかにする事が前提である。
自分が、何を正しいとするか、信じているか、(つまり、それが論拠となるのだから)を明らかにしないで疑ってばかりいたら、いつまでも、自分の考えは固まらない。
何でもかんでも疑ってかかれと刷り込む。しかし、何を信じているのか、根拠としているのかを明らかにするのは、合理的な考えの大前提である。
科学は絶対不変というのはある種の信仰であって、大体、科学者自体が科学は相対的としているのである。
数字は真実と言った思い込みである。数字は使い方によっては、真実を歪めて伝える。数字は、常に客観的事実の基ずくと思い込むのは危険だ。統計の数字を自分の都合いいように加工するのはよくある。
言いなりになるな、言いなりになってはいけないと。耳元で囁くけれど。
何故、何に対して言いなりになってはいけないのかをハッキリさせない。
言いなりにならないことというのも、理由もわからないままに条件反射的に逆らえと言っているのに市議ない。
自分の考えに基づくというのは、他人の意見を聞かないというのとは違う。
むしろ、他人の意見を自分の考えとして実行することのほうがずっと難しい。
組織、本来の目的や役割を考えもせずに、ただ、上っ面だけとらえって、上意下達は、悪い。
だから、指示、命令は、悪いとか短絡的に決めつけ。
それを拡大解釈して、強制も悪い。
上下関係も悪いと結論付けるのはあまりに浅はかである。
挙句、差をつけるのも悪いと拡大解釈される。
上意下達が悪いと言っても、上意を絶対として、あらゆる、批判を許さないとするからで。
それは、上意を絶対とするからだ。
上意と言っても明らかに間違っていたり、モラルに反することまで従えとしているわけではない。
また、仮に、上意下達に問題があるとしても、それで、総ての指示が悪いというのは飛躍である。
組織は悪い。それが世界の常識みたいにして、小さい頃から刷り込んでおく。
要は、さりげなく、ひそやかに。しかし、一定の年齢に達すると破裂する、時限爆弾のようにして。日本人の心の仕掛けられ、埋め込まれた。埋め込まれたキーワードが作動し始めたら組織、社会が自壊するように。
裏切り、背信、叛逆は美徳だと、刷り込むのは、反体制主義者、革命主義者の常道。
そして、彼らが権力を握ると、権力を保つためにも使う。
しかも、自分たちが、日本人の一番の味方なのだ。体制側よりも自分たちの言う事に従え。
そして、敵は内にいると。刷り込むのである。
忘れてはならないのは、中国も、アメリカも、旧ソビエト現ロシアも、ヨーロッパも、インドも、思想体制は違っても、日本を弱体化するという点では一致しているという点である。
どこを、味方し、敵とするかは、自分で決めるのである。
これでは、日本人の強味である組織性なんて発揮できなくなる。
組織化できなくなれば、日本人は、団結できなくなり、日本人社会は、組織が溶け出し、やがて分裂し、解体し、消えていく。
組織は信用の上に築かれている。
表面的にどんなに対立、喧嘩しても、堅固な信頼関係があれば修復は可能である。
反対に信頼関係がなければ、いくら表面上、和やかに見えても、些細な事で簡単に崩壊してしまう。
ようするに、社会、組織が崩壊するにしても、自壊するように仕掛けるのである。
堅牢な建物も内から崩れるようにすると意外と脆い。
組織には、外的危機にたいしては結束して組織を守ろうとする力が働く。
しかし、内部を対立させ、誘惑によって私利私欲に走らせ、分断すると、結束が乱れ自滅する。
内憂外患であり、その反対に、獅子身中の虫は防ぎ難いである。
例えば、ハニートラップの様な事。また、金で仲間を売るなんてよくある話。
内側から崩れるように仕組む、組織を解体する常道である。
相撲取りの師匠に対する一番の恩返しは、土俵の上に転がす事と教えられた。
我々にできるのは、皆と戦てやることで、それでなければ、自分を超えていく人材は育てられない。
だから、そのために、日々切磋琢磨している。
真剣勝負さ、簡単には負けない。
乗り越えていけばいいよ。
それが、俺にとっての一番の喜び。
自分のやりたい事をしたければ権限をとれ、その代わり、責任をとる覚悟がなければ。
権限が欲しければ、責任をとれと躾けられた。
責任をとればとるほど権限が増えていく。
自分の夢を兼ねえたかったら、仲間を守りたいと思えば権力をとれ。
戦っているうちに真の仲間、同志が見えてくるよ。
ただ、汚い手、姑息な手は使うな。自分の品性を悪くするだけだ。
正々堂々、とりにいけばいい。競い合えばいい。
権力も自由も与えられるものではない。取りに行くものだ。
今、悔しい思いをするのは、屈服し、隷属する為ではない。
今に見ていろと見返すためだ。
誰も認めてくれないさ。
認めないなら、認めさせるだけ。
いいうちに、生まれたところで実力がなければ惨めさ。
後がなければ進むしかない。
どん底なら這い上がるだけ。
諦めたら終わり、ただそれだけさ。
どこへ行こう変わらない。
なぜなら、他の人になれないから。
ここで、戦えなければ、どこへいったて戦えはしない。
やると決めたら、どこまでもやるさ。
この世界には、自由人と奴隷しかいない。
それを決めるのは、自分の誇りだ。
仕事の根本、組織の根本は共鳴共感にある。
ところが、戦後、学校では、正反対の教育をしてしまった、そのために、組織は求心力を失い。
組織本来の力を発揮できなくなっている。できなくされてしまった。
我々は、反体制。反権威、反権力思想を吹き込まれ、反逆の美学のような事を刷り込まれた。
確かに、不正や、変革を拒む者と戦う事を、非とはしないが、反対の為の反対は百害あって一利なし。
しかし、組織が最も力を発揮するのは、メンバーがリーダーに共鳴共感した時だと言う事を忘れてはならない。反体制、反権力を標榜した者も、抵抗の為の勢力を結成する為に、反権力、反体制に対する共鳴共感を求めたのである。
人は、簡単には変われないし、限界を超える事も、限界に挑戦する事も容易にはできない。
それを、させるのは、共鳴共感できる事や人、思いに出会えた時。
この人の為にとか、志の為に、正義の為にと、愛する人のためにとかね。
自分が共鳴共感できる人や事業に出会えた時、自分の限界をこえてその人の為に、志の為に働きたくなる。
その時、人は自分の殻を打ち破り、大いなる存在と一体になれる。
問題は、その根本となる共鳴共感引き起こす存在や思い。
それが邪悪な事なら、身も心も堕落する。
だから、純なる魂で間違いのない考えに出会えたなら、人は至福な時を迎えられる事が約束される。
そう言う人や考え、志に出会えたなら、迷うことなく、共鳴共感しなさいよ。
人生なんて、儚くて短いのだから。
惚れなさい。
自動車の起動操作なんて、免許を持っている人間なら目を瞑ってもできる。
でも、車を運転できない人間には、至難な業。
例えエンジンをかけ、車を動かせたとして。運転おできない人は、車が動きだしたとたんパニックに陥る。
組織や仕事の起動も同じ。
馴れたものなら、目を瞑ってもできるし、別に、難しく考える必要はない。
ただ、車を運転するのと同じで多少の癖はある。
しかし、組織や仕事の起動の仕方がわからない人は、どうしていいかわからないし、組織や仕事が動き出したら、次にどうしたらいいかわからなくて、パニックになる。
仕事も組織も仕組みがあって動いている。
どんな仕組みも手順がある。
つまり、手順で動いている。
組織も、仕事も、動かすためには技術がある。
組織にも、仕事にも、起動の手順があるし、運転の手順がある。
手順に動かす事を覚える。それもなるべく若いうちに。
車の運転だって、一ヶ月もあれば大概の人は覚えられる。
組織も同じ、基本的な操作は三回くらい通しでやれば大体身につく。
個人差あるが、基本は車の運転と同じ。
ただ、基本を身につけている人が少なくなり、教えられる人が少ないし。
組織の動かせない人間に限って、講釈ばかり垂れ、或いは、なんだかんだ批判して、基本を知らない事をごまかそうとする。
組織の起動のわからない人。
例えば、車に乗ってもいつまでたってもエンジンを掛けない。エンジンのかけ方がわからない。
最悪自分が運転席すわっているのか、助手席に座っているのかもわからない。
その癖、自分が運転できない事をなかなか認めようとしない。
だから、いつまでたっても仕事も組織もスタートしない。
運転を教わる時は、素直に、教官の言う事聞けばいいのに。
(暴走族だって免許をとる時は教官意見を聞く)
ただ、組織も仕事もチームワークだから、みんなの息が合わないとうまく起動しない。
それだけは気を付けてほしい。
運転ができる人にとって車を起動させるなんて事は、難し事ではなく。当たり前な事。
一いち意識していたらやってられない。
それでも、プロは指差し呼称する。
ここがプロなんだけどね。当たり前な事を当たり前に済まさない。
組織の起動も難し事も抽象的な事もない。ただ事実つを淡々と手順にこなせばいい。
見れば、誰でもわかる。やれば、だれでもできる事。
組織や仕事の起動の仕方を学びたければ、スポーツを参考にすればいい。
スポーツの開始手順は、組織の起動の基本がすべて整ている。
だから、スポーツの試合ができるような、基本要件、基本動作をみれば、組織や仕事の起動の仕方がわかる。
早い話、スポーツは、審判のコール、宣言に始まり、宣言で終わる。
つまり、組織ではコールが重要な働きをする。
基本は、位置について、用意、ドンだよね。
単純明快、誰にでもわかる、誰にでもできる事だから。
馬鹿ばかしいほど簡単で、当たり前な事。一目瞭然。
そこに重大な原理がある事に気がつけば、後はだんだん見えてくるさ。
小難しい理屈なんてあまり意味はない。
なぜって、誰でも、できてわかる事だからさ。
誰でもわかる。
その点が真理なんだ。
確かに、海が割れ、死んだ人が生き返る事は奇蹟かもしれないが。
決まった時間に、決まったように日が昇る事も、奇蹟で。
人に重大な影響を及ぼす奇蹟は、決まった時間に、決まったように日が昇る事さ。