神を解釈しようとしてはいけない。
唯一絶対なる存在は解釈なんてできないから、ただ、信じるしかない。

雄一絶対なる存在は、解釈できない。
解釈したら、唯一でも絶対でもなくなる。
解釈すれば唯一でなくなり、他が生じる。
解釈した事以外の事が派生するから。
解釈すれば絶対でなく相対的になる。

唯一絶対なる存在は無分別である。
解釈をすれば分別が生じる。
分別が生じれば相対的になり、絶対的ではなくなる。

絶対なる存在は、分別できない。
あの人が信じる神。この人が信じる神、私が信じる神と分別できない。
何故なら、唯一絶対なる存在だから。

神は、言葉では言い表せない。
なぜなら、言葉は分別だから。
言葉は相対的だから。
言葉では絶対的な事は言い表せない。
故に、神を言葉で解釈する事はできない。

神は超越者である。
神は、総てを超越している。
神は、善悪を超越した存在。
善悪は、人の世の問題。
善悪は人と人の関係によって成立する。
神は働き。
人の働きの根源に神はいる。

神は存在である。
存在を否定する事はできない。
否定すること自体、存在を前提としている。
存在はすべての根本原因である。
存在を否定する事は、自分を含めてすべてを否定する事になる。
だから、神を否定する事はできない。
肯定も、否定のできない存在。それが神である。
肯定しようが、否定しようが存在する者は存在する。

神を否定したら、自分の存在意義がなくなる。
だから、神を否定すべきではない。
ただ、神を否定するのは自分である。
神を否定しようとしまいと、神になんにも影響もない。
神を否定する事は、自分を否定する事を意味する。
愚かな事である。

神を代弁できるものも。代理できるものもいない。
故に、人は神と直に、一対一に対峙するしかない。
神と自分との間に何者かかを際はさむと神は相対的になる。
神と自分との間に何者かをさしはさむと、神以外の者に介入されることを意味する。
それは神を信じるのではなく介在者を神に見立てる事になる。
だから、神と自己との間に何者も介在してはならない。
人は神の前に平等なのである。

神の解釈をめぐる争いは、収拾つかない。
何故なら、解釈した結果を絶対化する事になるから。
しかし、解釈には実体はない、幻である。

人は神を越えられない。
人は神になれない。

光ある処に影が生じる。
影がある処に光がある。

太極は一。
太極から陰陽が生まれて二となる。

易に三義あり。
不易、変易、簡易。

人の世は、働きの集合。
働きから関係が生じ、関係から位置が定まる。
その関係から倫理は形成される。
働きの延長線上にある大本に神はおられる。

あなたがいて、私がいる。そして、あなたと私の存在を存在たらしめる存在。
在り、在るて、在る。

神は原点、始原である。

神は、属性を持たない。
神に属性を持たせない。
そうすれば、すべての一神教に対する鍵を手に入れられる。
なぜなら、残されるのは、神の存在を信じるか否かだけとなる。
問題なのは、多神教と無神論で自己を超越する、唯一絶対な存在を否定したら世界が割れるからだ。
ただ、多神教でも神々を拘束する働きがないと統一した世界が保てない。故に、神々を超越した何らかの働きの存在(天のような)を多神教でも前提としている。

無神論者は、自己を超越した、唯一絶対な存在を信じていない。それでは統一された世界を認識できない。
無神論者は、統一した世界を持てない分かえって厄介な存在である。
何を信じていいのか、信じているのかわからない。
モラルの拠り所がないからである

神に対する解釈は、神に属性をもたせる。故に神を解釈してはならない。

神に対する解釈は、神話の形をとることがある。

神の全ての属性を削ぎ落とせば、総てに通じる鍵を手に入れる。
総ての属性をそぎ落として残されるのは存在だけである。

唯一絶対なる存在、総てを超越した存在。
それが神である。