神は、人の為だけに存在するわけではない。
万物の為に存在する。生きとし生きるものすべての為に存在する。
この事を人が忘れると人は自分の罪によって自滅する。 いいですか、自滅するのです。

力に奢る者は、自分の力によって自滅する。
富を誇る者は、富によって身を亡ぼす。
知を過信する者は知によって自分を見失う。

神は鏡。
人は幸せな時、神を侮り。
不幸になると神を呪う。
しかし、神は神だ。
神が人を必要としているのではない。
神を必要としているのは人である。

一隅を照らす、これすなわち国宝なり。

脚下照顧。まず自分の足下を照らせ。自分を見よ。

これは禅の話。
二人の僧侶が歩いていると、一人の女性が水たまりが渡れず困っていた。
それを見たひとりの僧侶が、迷わずに、女性を背負って水たまりを渡った。それを見たひとりの僧侶が女犯を破るのかとたしなめた。
それに対しもう一人の僧侶は、お前はまだそんな事に囚われているのか。
それに対し、どっちが正しいとも言えないなと。応えは自分の心にあると。

罪を犯せば自滅する。

ある意味で、これが理趣経の本意だと思います。

一神教の欠点は戒律に縛られている事。
神は善悪は超越した存在。
では何をやってもいいと言っているのではなく。
その時、その時、自分の最善を尽くせ。
善悪は自分に問えと言っているだけ。

罪を犯せば自滅する。

仏教には曼荼羅という思想があります。
曼荼羅は大日如来を中心に多くの菩薩や仏がそれぞれの働き、役割わりに応じて規則的に位置づけられている。総ての仏は大日如如来の化身だとして描かれています。
その姿は、菩薩のように穏やかな姿もあれば四天王のように偉丈夫として、明王のように恐ろしい姿として描かれもするのですがその本性は大日如来として一体に。

そして、その経典として理趣経。

理趣経は、他の仏典と恐ろしく違う内容が書かれており、長い間、秘教とされてきました。
理趣経は、あらゆる人間の欲望を肯定し、およそ禁欲を戒律とする仏教からかけ離れているように見えます。
私は、理趣経を無限、つまりは、限りない世界。不滅の世界を前提とするなら成り立つ。

もう一つは、仏教は無神論であり、輪廻転生か脱することを根本の目的としているという事を忘れてはならいと思います。
命が不滅ならば、理趣経の言う境地な到達できるかもしれない。処が、人の世は有限であり、人の一生には限りがる。限りある人生で限りない世界を求めても虚しくなる。ただそれは至上の境地である。

唯一絶対なる存在を欠く世界では、理趣経的世界が現出する危険性はあります。
つまりあらゆる快楽を解放した世界です。中心を欠けば無秩序、混沌となる。
故に曼荼羅がある。

現実の人は、不滅の命があるわけでもなく肉体の制約から逃れられません。
かといって欲にも限りがある。

肉欲は、人間の肉体があるから生じるので、肉体に縛られない存在は、ピンときません。

ただ、参考になるのは、曼荼羅の世界観です。
大日如来を中心としていろいろな局面ですがと変えて出現する。
ある場面では、穏やかな菩薩の姿である時は明王となって憤怒の姿で、ある局面では天王として武将の姿で。

観音にも同じような事が言え、ある時は千手観音として、ある時は馬頭観音として、ある時は聖観音と姿を変えて衆生を救う。

理趣経の本意は肯定にあるのです。
仏教は、一般に否定から入る。
そして、あらゆることを捨て去った後に解脱に、悟りの境地に達するとされる。
行き着く先は、それまで否定しきったことすべてを肯定する。
それが、理趣経の本意するところで、そこに至る過程抜きには語れない。

空とは、虚しいこととは違う。
この世の総ては、儚く見えるが、そのような目に見える現象に囚われず、その背後にある、永遠不滅の世界、空間を丸ごと受け止めなさい。
そこにこそ安心立命の境地がある。

人は、不老不死を望むけれど、それは、かなわぬ事。
どんな権力者も、富者も、生病老死の四苦から逃れられない。
ならば、生を喜び、病を癒し、老を寿ぎ、死を受け入れなさい。
変化に囚われ、怯えるのではなく。

春には春の喜びが、夏には、夏の楽しみが、秋には秋の味わいが、冬には冬の過ごし方がある。
何を恐れ、何を悲しみ、何を迷う。それが空です。