なぜ、神は、人が幸福になることを望んでいるとわかるのか。
人の幸不幸は、結果として現れ、見ればわかる。
そして、望んで行動しなければならない。
行いと結果と働きのよって示されている。
幸福になることを望まない人がいるだろうか。
不幸の多くは、人が自ら招いている。
不幸の種は、憎しみ、怨み、妬み、高慢、強欲、不倫、背信、嘘、欺き騙す、虐待、無信心、独善、エゴイスト、無慈悲、残忍、残虐、不道徳、非道、破廉恥、卑怯、卑劣、劣等感、礼儀知らず、裏切り、闘い、諍い、差別、私利私欲、犯罪、脅迫、盗み、暴力、欲情、猥褻、誘惑,貪欲、貧困、病気、事故、災害、戦争、飢餓。
核兵器、毒ガス、生物化学兵器は、神が作ったのではなく人が作ったのだ。
薬は使い方を間違うと毒にもなる。
働きと行いは、結果に現れている。
邪な行いは、自分だけでなく、他人も不幸にする。
他人は欺けても、自分は欺けない。
経済の目的は、人々を幸せにする事。
幸せは、自分が望まなければ手に入らない。
「お金」がなければ幸せには、なれないけれど。
「お金」があっても幸せになれるとは限らない。
大切なのは「お金」の使い無道であり、なぜ、何のために、誰のために「お金」を使うかだ。
そして、それを考えるのが、経済。
幸せとは、どんな事を言うのか。
第一に、家族が健やかなこと。
第二に、明日の心配がないこと、
第三に、物質的に困窮、不足がない事。
第四に、平和であること。
第五に、信じ合えること。信じられる事。
第六に、自由である事。言いたいことが言えること。
第七に、働ける事。
孟子は、三楽を、君子の三つの楽しみ。一家の者が無事であること、天にも人にも恥じるところのないこと、天下の英才を教育することと述べ。
貝原益軒は養生訓で三楽を、道を行い、善を積むことを楽しむ
病にかかることの無い健康な生活を快く楽しむ
長寿を楽しむとしている。
これは幸福につながる。
幸せとは、幸せな状態を意味する。
つまり、幸せになるとは、幸せな状態にし、それを維持することである。
だから、制度で指標が問題となるので。
制度や仕組みで状態を監視し、経済政策を決定する。その為の指標である。
日本人は、住むところにも、食べる物にも、着る物にも、困る事がなかった。
水だって蛇口をひねればいつでも出るし、栓をひねればガスも出る。
石油だって金を出せば買える。
電気もスイッチを入れればいつでも使える。
しかし、食べる物も、着る物も、住むところも不足する時代のほうが長かったのである。
国連の統計では、2023年には、7億1300万人から7億5700万人栄養不足になるとし。
栄養失調による死者は年間300万人以上としている。
どんな時に幸せなのか統計を取った特、美味しい物を食べた時が結構上位に来る。
食べるということは幸せにとって重要な要素である。
幸せに快楽が結びつくかと言うと必ずしも結びつかない。
むしろ、快楽は不幸の種になる。
現代の経済政策は、成長を前提に考えられている。
しかし、現実の市場は、一般に、拡大と収縮を繰り返したり、創生、成長、成熟、衰退、再生の循環をくりかいす。
成長期より、成熟期の方が長い事が多い。
市場が飽和状態になると、質の向上が求められる。
真の豊かさとは何かを問われるのである。
物のない時代に育った者は、まず、食べられる事を求める。味は二の次である。
その時代は、大量生産、安くて沢山が一番求められる。
量的に満たされ、所得も上がってくると、味が重要になる。
今や、グルメ番組が全盛なのに。
一方で、コンビニ弁当や外食チェーンのような工業製品が流行っているのはなぜか。
所得と生活、つまりは、消費、そして、生産のあり方、それが経済の構造、論理である。
住む家も同じで、住む所がなければ、バラックでも、それが安アパートになり、戸建て住宅に、それが、今は高層マンションだが。その反面で、空き家やホームレスが増えている。
家電製品も、ラジオから、白黒テレビ、カラーテレビ、液晶テレビ、デジタルTV、SNSと、変遷してきて、それが新たな市場を生み出してきた。
その一方で家電メーカーの衰退が進んでいる。
量から質への転換がうまくいかず。
半面で生産の自動化、機械化、無人化が進み、雇用が失われている。
生産の効率ばかりが優先され、消費における質の向上が蔑ろにされている結果である。
生活の場、消費の場は、家族を中心によって成り立っている。
経済の原点は家計にあり。
幸せの源は家族にある。
家族は血縁関係によって形成される共同体、集団である。
家計とは、生計を共にする集団である。共同体。
今日、家族関係が希薄となり、家族の崩壊などが叫ばれて久しい。
しかし、かつては、家族が生活、即ち、経済の中心であった。
農耕社会では、家庭は、生産の拠点であり、出産育児、炊事、洗濯、掃除といった家事全般を取り仕切り。
病人の世話も年寄りの介護もした。
また、地域コミュニティーも拠点として冠婚葬祭の仕切っていた。
古くは自給自足していた。
社会的分業が進み、職場と生活の場が分離するに従って、家族関係は変質してきた。
大家族から、核家族へ、そして、個人に。
その変化に従って家族のありようも、経済のありようも変わった。
ただ、家族のありようを考えないで、経済を語る事ができないのは、今も昔も変わらない。
家族は、幸せの根源。最後に帰るところ、拠り所、悲しい時,寂しい時に戻る場所。
不幸は家族の崩壊に始まることが多くある。
だから、家族は、経済の原点なのである。
家族の核となるのは、一組の配偶者である。
一組の配偶者は、一組の夫婦を構成し、子供ができれば、一組の父親と母親を構成する。
かつては、異性を基本としていたが、今日は、同性によって構成される事もある。
つまり、家族制度は、婚姻制度を下地にしている。
時代と共に、家族制度や婚姻制度も変化しているが、その時その時の家族制度や婚姻制度を基礎として家計が成りたっていることに変わりはない。
幸せを望むなら、根本にあるのは愛である。
人には、誰にでも、母親と父親がいる。これは、動かしがたい事実である。
家族は、基本、夫婦、二人の両親、兄弟姉妹、子供といった血縁関係を基礎として形成される。
家族の役割は、第一に、家族の日常的な生活の世話。第二に、出産、育児、躾、子供世話、第三に、年寄りの世話、老人介護。第四に、生産活動、労働。第五に、病人の世話、第六に、冠婚葬祭。
これらの仕事を夫婦が役割分担をして、こなしてきた。
人手が不足する時は、子供や老人も重要な労働力となった。
この中で、生産活動が家計、生計から分離独立し、唯一の「お金」の収入源となる。
生活の場、消費の場と仕事の場、職場が分離した。
そして、現金収入を担う男の地位が相対的に優位になり。
家族の約悪は、家計の投資、長期資金のはたきとなる。
即ち、人生の三大資金として、第一に、教育資金。第二に住宅資金、第三に、老後資金。
そして、この三つの資金以外に結婚、出産、病気、失業などの出費が加わる。
家計に必要な資金を稼ぐために家外経済が発達してきたのである。
第二次大戦後、最も合理化された労働が家事労働だと言われる。家事は電化によって効率化が進んだ。
例えば、電気洗濯機、電気冷蔵庫、掃除機、ガス炊飯器などである。
家事の合理化が進むにつれて女性の社会進出も促進された。
それが核家族化を促進し、核家族化が家事の外注化を進めた。
家事の外注化は家内に外部経済である市場の論理の浸透させた。
このような変化は、家内労働、非賃金労働の蔑視をもたらしてもいる。
基本的に家内労働というのは消費労働である。
背景には消費より生産を優位に考える思想がある。
家内、消費は私的。家外、生産は、公的、社会的という捉え方が見え隠れする。
それは、「お金」に換算できるかどうかという発想が働いている。
貨幣価値に換算できない事は経済的価値を持たないという思想である。
女性の社会進出は女性の経済的自立を促す。それは女性の社会的地位を向上させている。
社会的分業が深化するに従って家族が分解され、解体されてきた。
家族制度の変化は、家族中心の倫理観にも影響を与えている。
即ち、家族主義的な倫理観から個人主義的な倫理観へと変質してきている。
家族主義的な支配関係から「お金」を中心にした支配関係に移行しつつある。
かつては嫁姑問題は、深刻な家族問題だったが今は別居が常態化している。
相続問題はいまだに深刻だが、長子相続は、今は変更された。
相続税の根本思想によって大きく違ってくる。
冠婚葬祭に対する考え方にも変化がある。
かつて、結婚は家と家の問題だったのが、今は、個人の問題に置き換わっている。
また、家族制度の変化は、生涯独身の増加や少子化の一因にもなっている。
家族の存在価値や必要性が失われつつあるからである。
厚生労働省では「世帯構造」を、次の分類する。
(1)単独世帯
世帯員が1人だけの世帯をいう。
(2)核家族世帯
ア 夫婦のみの世帯
世帯主とその配偶者のみで構成する世帯をいう。
イ 夫婦と未婚の子のみの世帯
夫婦と未婚の子のみで構成する世帯をいう。
ウ ひとり親と未婚の子のみの世帯
父親又は母親と未婚の子のみで構成する世帯をいう。
(3)三世代世帯
世帯主を中心とした直系三世代以上の世帯をいう。
(4)その他の世帯
上記(1)~(3)以外の世帯をいう。
このような分類は、家族の構造の変化を表している。
社会的分業によって外部経済は発展した。
仮に、一万人の社会があったとする。
この社会は外界から閉ざされているとしたら。
生活に必異なものは、一万人で生産・調達し、一万人で、分け合って、一万人で消費するという事なのである。
つまり、生産量と分配量、消費量は一体だという事である。それが三面等価。
ただ、分業が進化し、組織的になると、生産や分配、消費への関わり方が違ってくるというだけなのである。
仮に、この社会は、五人からなる家族が二千家族で構成されているとする。
そして四十の企業と一つの政府からなるとする。
個々の家族が生産的活動に、家族の中から一人ずつ労働者として提供したとする。
そうすると二千人が分担して生産活動をする。そこで生産されたものを市場で売ってそこで得た収益を分け合い。自分たちが生産したものを働いて得たお金で買って、それで得たもので家族を養う。
政府に働く者は、税金の課して、徴収した税金で生活をする。
何が言いたいのかというと基本的に生産者は、所得者であり、消費者でもあるという事なのである。
これを別々の主体だと考えると生産と分配、消費の文脈。そして、人と物(生産財)と「お金」の関係もつかめなくなる。
文脈や構造、関係がわからないと、均衡もできなくなる。
ただ、生産と分配に直接かかわる人口と消費に関わる人口が違う。それが、公正な分配を難しくしているのである。
一万人のうち生産活動に携わるのは、二千人で、どのうち、行政に、四百、金融に四百、企業に千二百です。
千二百人で生産した財を市場で売ってそのその収入で一万人の生活を賄う事になる。つまり生産に携わるの千二百人ですが、所得は、二千人に分配する、その所得で、一万人の生活費を賄う。
問題は軍事費で直接的な生産行為に結びついてない。例えば、二千人のうち四百人が軍人になると直接生産に従事できるのは八百人になる。軍事費は市場取引を介さないから収入に結びつかない。だから、その分、税金か借金になる。
メカニズムの問題である。
いかに、適切な分配をするかの問題で、目先の金銭的現象に目を奪われると実態がつかめなくなる。
お金は分配の手段なのである。
経済の実体は、人口構成に現れている。
何故、消費が経済の基礎と言えるのか。
それは、消費の対象が全人口だからである。
それに対して、生産は生産労働人口でであり、分配は、所得者の人口だからである。
総人口をどれくらいの生産労働人口で支えるか。
一所帯における所得者は、誰か、何人か、それが経済の基礎となる。
社会的分業が進化するにつれて生産が生活から分離独立していく。
また、社会的分業の発達は市場の形成を促す。
生産の場は、公的な場と私的な場に分かれる。
公的な仕事というのは、共同体を維持するための仕事で。
根源的なのは、外敵から身を守る事と治安である。
それに、社会資本の整備、防災、教育、社会保障、所得の再分配等が後から付加したのである。
日本人は、防衛権を放棄すると宣言をしているから国防を禁忌としているが、国家成立の動機の第一は国防である。これは、人間に限らず、自然界の動物でも、外敵から身を守るのは第一義であり、疑る余地のない事である。
私的な仕事は、基本は生きていく為に必要な資源を生産、調達する事とそれを売って生活費を調達する事、稼ぐことである。
要は、働いて、売れる物や用役を生産し、生活するために必用な「お金」を手に調達する事である。
ところが、世の中には働いて生活するために必用なだけの「お金」を稼げる人ばかりではない。働けない人がいるという事で。
市場の量的、成長、拡大は、質的な変化をもたらす。
市場の変化は、消費者の要求の変化として現れる。
消費者の要求には個人差があり、質的変化は多様化を意味する。
それに伴って生産者は、製品や、生産体制を量から質へと転換する事が求められるようになる。
欲しい物なのか。必要な物なのか。
欲し物を、欲しい時に、欲しいだけ提供する事を目的とするのか。
必用な物を、必要としている時に、必要なだけ提供する事を重んじるのか。
一見、同じことを言っているようだが根本思想が違う。
糖尿病患者が、甘いものが欲しいからと言って、甘いものを無制限に与えるべきなのか。
糖尿病患者には、何が必要なのかを見極め、時には食事を制限する事も求められる。
欲望を解放し、無制限に求めに応じる事が相手のためになるとは限らない。
何が必要なのかを追求する事が重要なのである。
大量生産というのは、とりあえず、総ての人のおなかを満たしておけばいいという思想に基づいている。
ただ多くの人は、おなかが一杯になっただけでは満足しなくなり、味、即ち、質を求めるようになる。
消費者の要求に沿って、多品種少量生産へと生産体制も変化していく必要がある。
それに伴って高所得、高価格化が求められる。
いい物を、高くても、長く使うという価値観への転換である。それは高所得を維持できる体制の裏付けがなければ実現できない。それが経済の成熟を意味する。
現代の日本は量より質への転換に逆行している。
ひたすら、安ければいいと、市場が飽和状態にあるというのに、廉価を求めて生産効率を上げようとしている。それは、満腹している人の口をこじ開けて、食事を流し込もうとするような行為である。
意味のない生産の効率化、機械化、合理化は、高収益、高所得に結びつかない。
乱売合戦は収益の低下を招き、収益の悪化は、品質の劣化させ、人件費を抑圧する。
廉価を美徳とするのではなく、適正価格を追求すべきなのである。
その結果、現代社会は、あらゆることが過剰になっている。
過剰というのはそれだけ無駄を生み出すことを意味する。
過剰でありながら分配が機能していない。
その結果、大量に食料が余っている半面で、飢餓に苦しむ人が増え。
大量に住宅が売れ残っているのに多くのホームレスを生み出す、
費用を罪悪視する考えは間違いである。費用は突き詰めると人件費であり、分配の手段でもある。
適正な費用は、適正な分配に基づくべきなのである。その上での競争力である。
物価は所得や収益と相関関係にある。
無原則に規制を緩和すれば、物価と所得と収益の均衡が維持できなくなる。
規制緩和は万能薬ではない。
また、消費と生産が分離する事によって市場が成立する。
市場の拡大、発展に伴い貨幣経済が成立する。
貨幣は、分配の手段である。
貨幣経済が成立する過程で金融業が、発達する。
経済は、家計、企業、金融、財政、海外の五つの分野を形成する。
共産主義も自由主義もサラリーマン化という方向性では一致している。
即ち、賃金労働者、報酬の給与化に統一しようとする傾向である。
経済とは、生きていくために必用な資源を、総ての人に、必要とするだけ、必要な時に分配する事である。
先ず、各々の働きに応じて支払手段としての「お金」を配分する。
配分された「お金」を使って、人々の働きによって生産された財を、市場から購入す事によって分配を実現する。
生産された財と分配された所得、消費の為の支出を均衡させることで経済は成り立っている。
生産主体、企業は、産業を形成する。
自分の国の経済が何によって成り立っているかを明確にすることである。
「お金」は、分配の手段である。
現在、「お金」というと紙幣を指す場合が多い。
現代の「お金」の働きを理解するためには紙幣の性格を明らかにする必要がある。
紙幣は表象貨幣である。実物貨幣ではない。
紙幣のはらたきを知るためには、紙幣に成り立ちを知る必要がある。
紙幣の成り立ちに深くかかわっている要素を知るためのキーワードは、国債(借金)、戦争、税、中央銀行、議会、市民革命、憲法、民主主義、株式会社、資本などである。そしてこれらの言葉は、紙幣の働きを知る上で重要な意味を持っている。
イギリスにおける紙幣は、戦費によって増えた国債を、中央銀行が引き受ける代わりに、紙幣の発行権を与えられた事に端を発している。
その背景には国王が議会の承認なし勝手に増税ができないようにした、市民革命とマグナカルタの影響がある。
またアメリカの紙幣は、南北戦争の時に発行された国債が転じた。
このように、紙幣は、戦争と国債(借金)、税が深くかかわっている。
これは、現在の「お金」の働きを知るために重要な要素である。
戦争と国債は、深い関わりがある。
戦費の多くは借金によって賄われる。
なぜなら、戦争は、非生産的なことだからであり。
軍事に使われた支出は、生活のための支出には向けられない。
即ち、軍事で生産された財は、生活には役立たない支出だという事である。
ここでは生産と消費が直接的には結びついていない。
故に、借金に寄らざるを得なくなる。
この事は、「お金」、そして、財政を考える時、忘れてはならない点である。
借金が悪いというのではなく、現代社会は借金で成り立っているという事実を正しく認識する必要があると言いたいので。
そして、それは、経済には負の空間があり、それは、実物的空間と表裏の関係にあると言いたいのだ。
第一に、「お金」は、数値であり、認識上の所産。自然に成る物ではなく。
第二に、「お金」は、絶対的なものではなく、相対的な事。
第三に、「お金」は、交換価値、交換手段、支払い手段、決済手段である。
第四に、「お金」は、価値を保存し蓄積性がある。
第五に、「お金」は、流動性がある。
第六に、「お金」は、価値を一元化する。
第七に、「お金」は、借金、負債の性格を持つ。返済義務がある。
第八に、「お金」は、金利を派生する。時間価値を生む。
第九に、「お金」は、匿名性がある。
第十に、「お金」は、貨幣単位、経済価値の尺度を提供する。
第十一に、「お金」は、負の空間を形成する
このような「お金」の性格が短期的働きだけでなく、長期的な働きを生み出す。
流動性が高くて、価値が保存され蓄積されるこの性格が重要な働きを持つ。
さらに、基本的に負債性があり返済義務がある。
なおかつ金利を派生させ、時間価値を持つ。
これが土地などの資産と決定的に違う。
そして、「お金」は、現金預金としての資産と負債を構成する。
物と「お金」の違い。
物は実物価値、「お金」は、名目価値。
物は使用価値がある。
「お金」は、交換価値。分配の手段。
物は存在を根拠とし、「お金」は、認識を根拠としている。
あらゆる、夾雑物、雑念、不純物、無駄を全て剥ぎ取り、燃やし尽くし、残った純なる存在、魂。それを神とする。
つまりは、真実に対する、無垢で、無邪気な信仰しかない。それが科学の根本精神にも通じる。