共産主義は平等主義ではない。
その証拠に、共産主義国だって差別はなくならなかったし。
階級だってある。貧富の格差も広がっている。
私は、事実を言っている。
共産主義は、きわめて、エリート主義。
一党独裁、前衛党を前提とした全体主義、独裁主義である。
キリスト教も、イスラム教も、全てが同じだと言っているわけではない。
母体となるユダヤ教の考えである選民思想を受け継いでいる。
母は、戦前、天皇陛下は、糞尿をしないと思ってたと語った。
これは事実である。
そう信じていったというのは、事実だからしょうがない。
後世、明らかに間違っているとされる事でも、今は、真実だと思い込んでいる事があったとしても、今は、確かめようがない。
人の力には、限りがある。
何を同等とするかによって平等の定義は違ってくる。
人は同じではない。
違いがある。平等というのは、人と人の違いの上に成り立っている。
違いを無視して同等に扱うことは、不平等である。
何を同等として扱うかが問題なのである。
何を同等に扱って、どこで差をつけるか、それよって、平等の意味は定義づけられる。
平等は観念的な事ではなく、実体的な事である。
人は違う。
太った人とやせた人に同じサイズの服を与えても平等とは言えない。
身長だって、体重だて、違う。年齢も違う。
容姿も違う。美人、不美人、主観によるけど差がある事は、間違いない。
性格も違うし、才能にも、能力にも差がある。
適正も違う。
長所、欠点も、千差万別。
生まれたところも違えば、育ったところも違う。
極寒の国と、南国では、同じ服ではいられないし、同じ家には住めない。
好みも違う。
差がある事、違いがあるのが悪いのではない。
問題なのは、何に差を、どうつけるのか。
何を根拠に差をつけるかである。
統計の世界では、平均値が重んじられるけど、全てが平均なんて人間は、何の特徴もないという人だからね。
平均を基準にされたら、優秀な人間とか、人より努力する人間は肩身の狭い思いをすることになる。
逆に、平均値を満たない者も肩身が狭い。
それに、平均値さえとればいいという事にもないかねない。
平均は、基準にすぐない。分散、分布、偏り等と一緒に見る必要がある。
だって、優秀なやつとか向上心のある奴なんてそれだけで差別されるからね。
平均と平等も同じではない。
統計で問題となるのは、誤差である。
どんな人の人生にもいい時と、悪い時の波があるの。
いい時ばかり夢見ていれば幻になるし。
悪い時ばかり、見ていたら絶望するしかない。
だから、いい時も、悪い時も変わる事のない人との絆が大切なの。
若い人は、何時でもやり直せると錯覚している人多いけど。
できる時にやる抜かなければ後がなくなることを知る必要がある。
その時大切なのは、変わらぬ人と人のつながりさ。
だから、親父は縁を大切にな。大切にしろよと。
平均ではなく、誤差さ。
分散、分布。
平均してみたら見えてくるのは、差なんだよ。
権利が同じだとする。しかし、子供と、大人に同じ権利を与えていいわけがない。
それは人の世の問題だ。
人は皆、違う。
万物は流転する。人の気持ちなんて目まぐるしく変わる。
昨日と今日は違う。
違う。違う。違う。
あれほど愛しあった仲なのに、なぜ、これほどいがみ合うのか。
人の気持ちほどあてにならないものはない。
平和な日々は淡く、脆く、繊細なのか。
昨日、正しいと信じていたことが、今日は間違いだったと気が付かされる。
移ろいやすい世の中や心の内に惑わされると自分を見失ってしまう。
自分を超えた何者か、絶対的存在に、おのれの存在の根源を、見ださなければ、安心立命は得られない。
心休まる時は得られない。
王侯貴族も、聖人君主も、俗人も、悪党だって、死から逃れられない。
死の前に平等なのである。
共産党の書記長だろうと、大統領だって、皇帝だろうと、教皇だろうと、神は、必要としていない。
神を必要としているのは、人なのだ。
憎み合い、奪い合い、騙し合い、争って死んでいくのも。
愛し合い、信じ合い、助け合って死んでいくのも、死には変わりない。
神にとっては同じこと、神は平等に機会を与えているだけ。
どちらを選ぶかは人の意志。
ならば、しっかりと、どういう生き方をするかは自分の意志で決めるしかない。
人間は、存在において同等である。
存在以外は、認識の問題だからである。
存在以外は相対的である。
なぜなら、存在以外は、認識の上に成り立ているからである。
生の前の平等、死の前の平等。
神の前の平等。
無神論者に平等はない。
神の存在がなければ、空しいからである。