神は聖なる存在で、俗っぽいお金とは無縁に思える。
また、「お金」を卑しむ、汚いとする風潮が高い。
神に仕える者は、修行者であり。禁欲者である。
神に仕える者にとって「お金」に執着する事は、もとっも忌むべき事と思われている。

反面、坊主丸儲けという言葉もある。

どの国に行っても、歴史的建造物は、権力の象徴である城や、宮殿、そして、権威の象徴である寺院、仏閣、教会である。寺院、仏閣、教会はどの建物も壮麗で、贅が尽くされている。
何故なら、宗教には、金が集まるのである。
金は集まるけれど、なぜか財政難な教団が多い。

神を金儲けの種にしてはならない。それは、大罪である。
しかし、宗教というのはその性格上、儲かるのである。
神に執着しないから、金を使わず、金が貯まる。
救いを求める信者は競って布施をする。
人は冠婚葬祭に金は惜しまない。
だから、何もしなければ、金は黙っていても貯まる。
相手の弱みに付け込めば、これほど、うまみのある商売はない。

神に仕える者は、修行者でもある。
粗衣粗食、禁欲に徹するべきで。
ところが、粗衣粗食、禁欲に徹すると金が貯まる。

宗教は本来超俗的、聖なることである。
ところが皮肉な事に、宗教ほど、堕落すると、俗ぽいものになる。
強欲で、金に汚くなるのである。

神を恐れないからこそ神をネタにして荒稼ぎができる。
彼等こそ一番の不信心者である。

本来が、宗教は、禁欲的で、献身的、敬虔なのだから。
カルトが好例であるが、狂信的になると、何もかも貢いでしまう。

しかし、宗教には社会や国家を裏から支える働きがある。
神を信じるから自制する。
自制心は倫理、道徳心の根源である。
そして、道徳心は、信用制度の基盤となる。
信用があるから、経済取引はなりたつ。
倫理は信用の根拠となる。
道徳、信用がなければ経済は成り立たない。
それ故に、宗教は、経済を考えるうえで避けて通れないのである。

神は汚れを知らない。
純粋な存在である。

迷い、悩み、苦しむ人々は、神に救いを求める。
人の弱さに付け込み、金を貢がせることは、不幸な人をさらに追い込むことになる。
故に大罪である。
神は、人が幸せになる事を望んでおられるのだから。
神は、不幸にするためにこの世に送り出すわけではない。
生きとし生きる者、皆、神の祝福をもってこの世に生まれるのだ。

新興宗教のみならず、既存の宗教も、金のために堕落する。

神は、救いであり。
神は、許し。
神は、恵み。
神は、愛。
神は、純真。

そして、献身、信仰、忠誠を求める。
それはその人の幸せの為で。
その人を犠牲にしたり。
欺いたり。
騙す為ではなく。
その人の真実を知らしめるため。

宗教者は、元来、清くあるべきなのだ。
ことさら貧しくある必要はない。
ただ、つつましくあるべきである。

疚(やま)しい事は持たない越した事はない。
やましいと思うなら、神に、懺悔し悔い改めればいい。

神は何も見返りを求めない。
何故なら、神は、常に満ち足りていて、全てを持っているから。
神はお金を必要としていないし。
住む家も。食べ物も必要としていない。
神に貢ぐのは人であり。
人が神に貢ぐのは、自分の証の為。

布施は志。
志だから、宗教は金が貯まる。

しかし、教団は貪欲になる。
何故なら、背後に神がおられるからである。

それは、神を恐れなくなるから。
神を恐れないのは、神を否定する事。
神を否定するものは、自らを神とする。

イエスもブッダも、一人、衆生を救済するために、粗末な服を纏い、荒野に向かったのである。
彼等は多くの誘惑を退けたがゆえに神の真を悟る事が出来た。

神に仕える者は、求道者である。
彼等は、神のみを恐れるべきで。
そして、真に恐れるべきは自分の驕慢である。

神は強欲を嫌い。
聖純、清浄を好む。

故に、神につかれる者は、質素、かつ清浄であれ。

考えてみれば、神の力は絶大で、神に背負う者は、それだけ豊かにもなれる。
もともと、経済は神の恵みによるのである。
それを忘れなければ、信仰者は豊かになれる。
物質的だけでなく、心も豊かになれる。
そう神は、指し示している。

神に仕える者が強欲となるのは罪深い。