近い将来、皆が、この会社を、この国を責任をもって守っていかなければならない。
皆は、もう小学生ではない。

その意味で、社員旅行で、大川小学校を見学したのは、有意義だったと思う。

私は、大川小学校の悲劇から、何を、考え、何を学んだか。
第一に、改めて、自分の責任の重さに身震いした。

2011年3月11日東日本大震災で小学生74名教職員10名の津波で101名が犠牲となった。
また、避難の為、待機していたスクールバスの運転手も亡くなられた。

地震が起きてから津波が来るまで51分の時間があった。
避難行動をとったのは、津波到達1分前だった。
生徒は、校庭に整列し、先生の指示に従っていた。
当日、校長は不在であり、最後に指揮を執ったのは、教頭だった?
警報は、鳴り響き。ラジオからは、津波情報が流されていた。
県の広報車は、高台に逃げるよう呼びかけていた。
学校の裏手に山があって津波の到達の高さまで駆け上がるの一分足らずしかかからない。
避難先にしたのは、川側の高台。結果的に、その場所も水没した。
山に逃げるよう、進言している、先生や生徒は、何人もいた。
家屋で、周囲の状況が見えなかった。
事前の訓練がされていなかった。

第一に、指揮官が不在。
当時、校長が不在で、現場指揮官もハッキリしなかった。
最終的に、教頭の判断に従った。
第二に、話し合うばかりで、中々、結論が出なかった。
第三に、全く予測していなかった。不測の事態だった。
第四に、警告を無視した。様子を見にいた教職員が山に逃げろと叫んでいた。
山に逃げようとした子供がいったが、引き戻され、犠牲になった。
泣いて山に逃げようと訴えた。
第五に、組織的な行動が取られていない。
第六に、頭の切り替えができない。

遅い。
話し合うばかりで、結論を出すのも、行動の移るのも、遅かった。
貴重な時間を無為に過ごし、避難する時間を失った。

指揮官が不在。
実質的に誰が指揮を執るのか、最後まで、ハッキリせず、グズグズしている間に貴重な時間を失い。
判断も間違った。すぐに山に逃げろではなく、川に向かった。
状況判断が甘い。組織的にされていない。

ただ、話をするばかりで、指揮官の指示に基づき役割を分担し、組織的な行動していない。
指揮官が無自覚なので、必然的結果。

気をつけてほしいのは、トップが現場指揮を執るとは限らない。
トランプ前大統領が狙撃された後、トランプ前大統領が指揮をしたわけではない。
指揮を執ったのは現場指揮官。トランプ前大統領は、ガードが盾になり身を挺して、安全なところに避難させる。
これ、世界の常識。
トランプ前大統領ほったらかして、逃げる幹部がいたらそれだけで責任以前に、人としての人間性が問われる。

校長が不在だから、指揮がとれないというのは言い訳に過ぎない。
誰が指揮を執るのかがハッキリしなかったというのが致命的なので。
常に、指揮官を明確にする。

だから、社員旅行など、全員が集合した時、責任者は、スピーチをして、自分が指揮官であることを皆がわかる様にし、いざと言う時は自分の指示に従うように注意する。
これも常識。最初のスピーチを他人に譲る事は、自分の責任を放棄するのに相当する。
最初に宣言し、最後にしまえる。
次に、旅行会社の担当を紹介し、ガイドを紹介する。
この一つひとつに意味がある。スピーチの内容より、誰が最初に、どこで、いつ、スピーチをするかに意味がある。

二班の責任者は誰と聞いた時、「たぶん私じゃないかな」「多分、私だと思う」と答えていたが、これでは、大川小学校状態。
もっと悪いかもしれない。

なぜなら、通常の指揮も下せない。
現実に今回の旅行中も、雨天の為、コースの変更という重大な変更があった。
この様な変更は旅行会社でも、担当でも、ガイドでも、僕でもない、現場指揮官がスタッフの意見を聞いて旅行会社の担当に指揮する。

自分が、全責任を負うという断固とした決意を持つ者が、現れるか否かで、成否は決する事がある。

リーダーは、リーダーになるのだ。

51分間、一度も間違えずに、決断し続ける自3信はあるかと聞かれたら。自信はないとしか答えようがない。51分どころか初動3分ともいわれる。
つまり、事が起こってから、最初の3分が勝負だと。

3分で、あらゆる事態を想定し、適切な決断、行動がとれるかと言われても。

「それでも指揮をとり続けるのか」と聞かれたら。
「やる。やるしかない」としか答えられない。
なぜなら、リーダーだから。
責任者だから。責任があるから。
自分の部下に責任をとらせたくないからである。

今日、幹部会議が開かれる。
その会議にどれくらいの時間を準備しているか。
災害や事故は、準備する時間さえ与えてはくれない。

たっぷり準備する時間が与えられ、検討する時間もあるというののに、なぜ決められないのか。
大川小学校の教諭を責めるのは簡単だけど、その前に、自分の覚悟を問え。
同じような状況に置かれた自分は子供たちを守り切れるかと。

よく、指揮官、担当、スタッフは客になるなと注意された。
最初から最後まで責任を持つ。特に、最後を見届けるまで、責任は解除されない。
だから、担当に対する慰労は別途考える。

指揮は、現場指揮官に任せる。
間違っても、現状がわからない者が指揮をしてはならない。

現場指揮官は、全員の安全確認と自分たちの置かれている状況を確認する。

そして、速やかに指示を出し行動に移る。
拙速は巧遅に勝る。
(孫子)

危急存亡の秋(とき)に際会するや、部下は仰いで、その将帥に注目す。

状況判断が組織的にされていない。
子供を中庭に集め、整列させたなら、速やかに、手分けして、おかれている状況を把握しなければならない。子供に、従えと命じたのだから。
手分けするのは、適切な回避行動、適切な逃げ道、避難先を確保するためである。
現場指揮官の判断にすべてが委ねられるから。
状況がわからないと適切な判断が下せない。

予測してないというのは、いいわけにはならない。
予期せぬ出来事に備えるのが、リーダーの使命だからである。
予期せぬと言いながら、百年に一度の災害を甘く見る。

不測な事態だというが、災害は、予測してないから、災害となるので、百年に一度というが、起きたらおしまいなので。
百年に一度だからと油断したら、百年積み重ねて築き上げてきた総てを一瞬で失う事になる。

何も起こらなければ、地震が起きなければ、津波が来なければ、いい先生でいられた。
時間が解決してくれた。
しかし、自身は起きたし、津波はきた。

自分が親だという自覚がなければ、子は守れない。
大人というのは、社会人としての責任を自覚しているから大人なので。
厭な事は、なるべくしたくない。
面倒な事には巻き込まれたくない。
面倒くさい事は他も人に押し付け。
できれば責任のある事はしたくない。

自分が、責任をもって解決するなんてやりたくない。
人の決めた事は批判して、自分はなにも決めない。
何も決めなければ、失敗もしない、自分は責任を問われ事もない。
事なかれ主義。

「僕のどこか悪いの。」
「僕は、最初、反対したんだ。」
「言ったじゃん。」
「僕は、何もしてない、決めてないよ。」
そう言い訳する。

「僕は、何もしていないし。」
「何も決めていない。」
そう、何もしていないし。何も決めていない。
ただ、それが悪い。
それが悪い事に気が付いていない。

51分何も決めず、何もしなければ、何も決めず、何もしないのが致命傷となる。

皆、指揮官が正しい判断ができるように集中する。
余計なことは言わない。
適切な情報をとり伝える。
迷わせない。責任をもって進言する。

自分の責任を自覚しているから大人なのだし。
任せられる。だから、報酬ももらえる。
リスクをとるから、評価される。

もうみんなは小学生ではない。
自分の身も。家族も、会社も、国も、自分の力で護る事が求められる。
パレスチナの現実を忘れない事だ。
自分で、自分が守れなくなったら奴隷になるしかない。

自分が責任をもってやり抜きますと手を上げろ。
親は、親であることを放棄できない。
だから、親は親であることを自覚する必要がある。

自覚なき責任者は悪だ。

単なる、観光旅行とするか、お遊びとするか、何かを学び取るか、それは、一人ひとりの意識の問題だ。
唯、唯楽しければいい、面白ければいいと、自分の責任を忘れたら。
近い将来、守られる側から、守る側に回るのだから。
ずっと影働きをしてる古参幹部がいた、みんなを見守っていてたよ。
感動したね。
でも、そういう陰働きのできる社員がいなくなりつつある。
若者は、意識して学ばないと。

先生が、馬鹿だ、間抜けだと言っても、犠牲になるの小学生なのだ。
況や、皆は、小学生ではない。

社員旅行は、何もなくても当たり前なんだ。
だから、責任重大なんだ。
責任者を任された者は、リスクを承知して引き受けた。
引き受けた以上最後までやり抜く。

面倒くさいとか、嫌だなんて避けていたら、いつまでも、責任を持って仕事をやり抜く事も出来ない。
一人前の仕事もできない。

いつか、自分が責任をもって、子供たちを守らなければならない時が来る。
その時、何を最優先に考えなければならないのか。
今が、その時だと思って、覚悟していなければ。

何もなくて当たり前なのは、いつもの仕事も同じ。
なにもないと考えているから、何かあった時に慌てるので。
何かあるのが当たり前で、リスクがあるから、利益が生じる。

スイッチが入らないと言うか、最初から、スイッチがない人がいる。
自分が決めないと、つまり、スイッチを入れないと始まらないというのに。
「え、自分が決めるんですか」とか。
自分がリードしているという自覚がない。
他人事なのだ。
それでは組織は不随状態に陥てしまう。
誰も守れない。

だから、いざという時、自分が責任者だと宣言する。
そして俺に従え、続けと。
そう宣言するから責任がとれる。
命がけで、俺がリーダーと宣言し覚悟を決める。

いい人、善人だから、責任の取りようがない。
善意でやったので、悪意でやったわけではない。
だからこそ、業が深く、闇は深い。
悪意ではないと。悪くはないと。自分のどこが悪い。

しかし、悪意でなくても結果は悪。
いい人だからと言って許されるわけではない。
責任の取りようはないと言っても責任はある。
自分の責任からは誰も逃れられない。

人は、一人では生きられない以上、何らかの責任を負わなければならない。
防災訓練と言っても仮想でしかない。
災害は現実なんだよ。
仕事だって頭で考えているうちは仮想、空想に過ぎない。
実際の人や物、現場にぶつかってはじめて現実となる。
我々は現実に生きているんだ。
日本人は、平和である事があたりまえだと思い込んでいる。
戦争なんてありえないと。
でも、世界中で戦争は絶えない。

事故がないと、事故なんて起こらないと、妙に過信している。
災害は、仮想的な出来事でしかない。
だから、いざと言う時にスイッチが入らない。

大川小学校だって、福島第一原発だって、それこそ、東日本大震災だって、今のリスクは、仮想、空想なので。しかも、日本は、先進国だからと言った幻想まで加わると始末が悪い。

それこそ、戦前で日本は、神の国だといったような事。

そんな幻想は現実を前に吹き飛んでしまう。
事実は、非情だ。それが真実だ。

​最終的には、年功序列、年長者が指揮を執ったと聞く。

結果的にはだよ。
小学生の判断の方が正しかった。
山に向かって逃げようとした子供たちが何人もいて、また、若手の教職員も山に逃げようと叫んでいたと聞きます。
それをわざわざ、引き戻して整列させたという事実。

小学生が、自分たちの意志で組織的に動けるようになっていなかった。
生徒の意見を子供だからと無視した。

かつては、子供たちの世界を認め、子供たちの自治を重んじていた。
子供の喧嘩に親は口を出すなと。
十五で元服をし、物心がつく頃には家の仕事を手伝い。
大人としての自覚、判断が求められた。

見落としてはいけないのは、子供の判断、若者の判断のほうが正しかった。
とっさの判断は、気力体力がいる。年をとれば衰える。
だから、現実の判断は、若者に任せ、年寄は責任をとる覚悟をすればいいのだ。

何もなく、うまくいったんだからいいにしましょう。
堅苦しいことを言わないで。
でも、反省すべきことは多々あって。
反省しなければ、成長しない。

失敗から学ぶのである。
失敗から、学べなければ、失敗という結果しか残らない。

あれだけの事があった時でさえ。
嫌なことは、早く忘れましょう。
事を荒立てないで。
内密に。

それはないでしょ。

かつての日本人は切腹覚悟で職に臨んだ。
死ねとは言わないが、死んだ気になって真実を語り。
同じ過ちをしないよう、後世に伝えなければ、犠牲になった人たちも浮かばれまい。
死んでも死にきれない。
それが生き残った者の責務だ。
今の日本人の腹の切り方だ。

死んだ者にムチ打てと言っているのではない。
これからの事、残された者の事を考えるべきなのです。
それしか犠牲者への鎮魂はない。

隠すとか、誤魔化すとか、嘘つくというのは、私には理解できない。
なぜ、隠す必要があるのか、誤魔化す必要があるのか、嘘をつく必要があるのかわからないからだ。
大切なのは事実であって、隠したところで、誤魔化したところで、嘘をついたところで、自分の責任から逃れられないし。
大体、今回のケースで実害が生じるとは思えない。
あるとすれば、名誉とか、恥とか、信用と言ったことであろうが、それはすでに失っているのだから、隠したり、誤魔化したり、嘘をつく理由ないならない。かえって恥の上塗りである。
それより、犠牲者の魂を慰めるためには、事実を事実と認める以外にない。
それで罪に問われるのならば、それは甘んじて受けるべきだ。

下手に、隠したり、誤魔化したり、嘘をつけば、問題をこじらせるだけだ。
大体、自分は知っているわけだし、自分を誤化したり、自分に嘘はつけないのだから。

だから、私には、隠したり、誤魔化す理由がわからない。

何事もなくても、平素から、反省するから、成長できる。
治に居て乱を忘れずだ。
真面目とか、実直とか、地道とか、素直、誠とか、正直である事を間違っているが如き事を言うのが昨今の風潮だけれど、厭な事は、水に流そうというわけにはいかない。
なかったことにもできない。事実なのだから。
忘れる事もできない。
起こってしまったことなのだ。
真剣に考えようよ。

変わると思えば変わる。変える。
変わらないと思えば変わらない。
変わらなければならないと思うのなら、変える。

いくら自分が変わると言っても、簡単には変われない。
なぜなら、周囲のみんなが変わったと思はないからだ。
周囲のみんなが変わったと思はない限り変わらない。
だから、みんなの前で変わると宣言し、そして、行動を変える。
だから、昔の人は儀式をし、禊をして、決意を示し、皆の見る目を変えたのだ。
そうしなければ、何も変わらない。